|
こわいよ
それは、ふとした事がきっかけだった。
淡い紅色の、上品に纏められた制服。都内にあるカトリック系私立女子高のもの。彼女が纏っていた服はそれ。
鞄をぶら下げたその両手、特に右の細い手首にはバンダナが結ばれているのが目立つか。
彩峰みどり、十七歳。
ごくごく普通の女子高生…とはちょっと言えないかもしれない。
今日はすぐの仕事は無いので学校から直接家に帰れる――なぁんて、それだけで嬉しく思うくらいには。
――彼女はこの年にして、国際的な女優として活躍もしている。
つまり日常、忙しい事の方が多い。
そんな中、稀と言えるのんびりとした学校帰り。
………………みどりはひどく、厭な光景を目の当たりにした。
キャン、と甲高い声が聞こえる。
とは言え、何かをねだるような声ではなく――苦鳴のような。
…子犬のものの、ような。
はっとして目をやると、そこに居たのは柄の悪そうなふたりの男。
笑う声まで聞こえてくる。
…なら、今のキャンと言う声は?
子犬の姿は見えない。
みどりは思わず探してしまう。
と。
声の源は、ひとりの男の手の中にあった。
無造作に後ろ足の一本を掴まれ、逆様の状態にぶら下げられて。
子犬はじたばたともがいている。噛み付こうと歯を剥き出しさえする。
が。
子犬の牙など恐れるに足らない。
…こいついっちょ前に歯ァ剥き出しやがんの。
…お仕置きしてやらねぇとだなぁ?
そんな、手前勝手な言い分で、子犬の足を持っていたひとりが、勢いを付けて――小さな身体を、固い路面に叩き付けた。
悲鳴と厭な音が同時に聞こえる。
何処か、重要な骨でも折れてしまったような。
「!」
みどりは子犬が受けただろう痛みと恐怖を思い、びくりと身体を震わせる。
叩き付けられた子犬の動きが鈍くなって行く。命の灯火が消えかかっているのがわかった。もう、取り返しは付かない。助けたくとも、駄目だと、みどりの位置からでもわかってしまう。
ふたりの男は、その時点で子犬に興味を失ったようだった。
壊れたおもちゃはもういらない。
死んでしまえばどうでもいい。
…右の手首が疼く。
お兄ちゃんの形見のバンダナ、それが直に触れている右の手首。
…昔。
この国ではない別の場所で。
戦場。
死にたくなくとも。
死の臭いは何処にでもあるあの場所。
望みなどしなくとも。
殺し合わなければならない場所。
誰かが高見の見物をしている、そこで。
誰か、自分の手を汚さぬ為に人を送り込む。
誰かの為にと建前を作り。騙す。
盲目的に従う事を奨励し。
戦う事を、強要される。
誰か、誰か、誰か。
――『自分』でさえなければ誰でも構わない。
上位に立つ者はそうとしか思わない。
兵隊の事など考えちゃいない。
ううん、彼らなりに考えているのかもしれない――兵隊とは、ただの『消耗品』だと。
私の――お兄ちゃんはそうして、殺された。
…なんて、くだらない事で『人間』は『殺す』のだろう?
獣たちの生存競争ならばわかる。殺さねば食えない、食えなければ死ぬ、だから戦い、殺す。
けれど。
人間は――戦う理由すら欺瞞に満ちている。
殺した相手、その相手にどんな切実な理由を見付けられる?
力無き子犬。
殺される必要なんかなかった子犬。
暇だったから、面白かったから、そんな理由で命を奪って良いの?
………………『人間』は、そうなの?
みどりの呼気に冷たいものが混じる。
蒸し暑い季節、その筈なのに大気の温度が薄らと下がって行くのを、その場から去ろうとしているふたりの男は気付いたか。
淡い茶色の髪が揺らめく。
瞳の色に霜が降りる。
なんだか寒くねーか、と動揺する男の声がする。
自分の事はそんな些細な事でも気になるのに。
何の罪も無い子犬を殺した事は少しも気にしない。
………………つまらない『人間』、死ねばいい。
気が付けば、ばちばちと雷まで起きる程の冷気がそこにある。
すべて、みどりの力。
その力を躊躇無く振り翳す。
意識などあったかなかったか。
――刹那、ふたりの男は凍り付いていた。
直後。
え?
我に帰るとみどりは目を瞬かせる。
…人間なんてくだらない生き物。
心の何処かで、いつもそうは思っている。
けれど。
…お兄ちゃんも人間で。
そう、優しい人だって居る。
…だから、私はそのぬくもりの中で、人間として、生きたい。
いつも、そう思っているのも本当。
…こんな奴らばかりじゃ、ない。
思い、みどりは無残に子犬を殺した男ふたりの姿を探し――見付けたところで。
慌てて冷気を――自分の『力』を引っ込めた。
凄まじい冷気が、ゆるりと溶け始める。
…が、遅い。
みどりは唇を噛み締める。
ころしてはいけない。
………………私が、殺してしまった。
ころしてはいけない。
…例えどれ程くだらない、価値を見出せない輩でも。
ころしてはいけない。
…私は今、明らかに殺すつもりで力を振るっていた。
ころしてはいけない…のに。
人間で在るなら。
お兄ちゃんと居た時の、私のままで居たいのなら。
あやかしじゃなく、人間の私のままで。
殺すなんてやだ。
理屈じゃない。やっちゃいけない事。
なのに。
私は、殺した。
殺してしまった。
…みどりはひとり、泣きじゃくる。
私は人間で居たいのに…っ!
心の底から慟哭する。
が。
同時に。
………………『お前は、元よりこっち側だろう?』
昏く、それでいて楽しげな――何故嫌悪する、後悔する? と、意外そうな響きも含め――問う声が頭の中で響く。
それはもうひとりの私。
みどりは自分の頭を抱えてその場にぺたりとしゃがみ込む。
知ってる、声。
…すごくこわい、こえ。
もうひとりの私。
否。
もうひとり、じゃない。
それも、私自身の声。
他の誰でもない。
………………ひどく冷たく響く頭の中の声、その主は――雪女としての自分。
こわいよ。
たすけてなんて頼っちゃいけない。頼れるところにはもうお兄ちゃんはいない。
でも。
こわいよ。
私…自分がこわいよ…お兄ちゃん…っ!
【了】
|
|
|