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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


花魂の禍唄 -陽-

  花を召しませ 召しませ花を
  貴方にひとつ 私にひとつ
  胸に咲かせよ 徒花の
  咲き狂い 舞い遊び 
  とこしえに
  花は散るらん……

  おぉぉぉ……
 低く、高く。
 呻くようなそれは歌声……否、慟哭の声か。
 男のものとも女のものともつかぬ哀しく、淋しく、そして……昏い、声。
 ずるり。
「何をそんなに嘆くことがあるんです?」
 夜の静寂に響く青年の声に応じて、さわりと花々が揺れた。
「ほら、貴女の望むものがすぐそこにあるというのに」
 重い、何かを引きずるような音。
「あぁ……」
 もはや逃げる術のない絶望にかられ、女は叫ぶ声も忘れ目前の巨樹を見上げた。
 足に絡みつく木の根は生命を持ち、不気味に蠢いては本体の櫻の樹へ引き寄せようと更に力を込めて餌たる女を引きずり込もうとしている。
 一面に広がるは淡い緋色の櫻の天。
 その中に。
 くすくす、と笑う女の声を聞いたような気がして、女は何かに誘われるように視線を上げた。

  花を咲かせよ 咲かせよ華を

 満開の桜の中で白い影がにやり、と笑った。
 ぼう、とした影が抱いていた女児の形を模したものへとそっと頬を寄せる。
 頭部には筆で描かれた桜花の簪、無駄のない直線的なラインの胴体にはやはり桜の模様が描かれてるそれを嬉しそうに抱きしめるとそのままその肩口へと唇を寄せるのを見た。
 昏い二つの眼が自分を冷たく、そして歓喜の色を宿して見下ろしている。
 本能的な恐怖に女は無意識に叫び声を上げる、いや上げたつもりだった。
 だが、声は外に漏れることもなく……自らの命がそのまま首筋から零れ落ちてゆくのを遠く感じ……女はそのまま意識を闇に手放した。
 
               †   
「へ、へ、へん……っ!」
 息も絶え絶えに転がり込むようにして月刊アトラス編集部に駆け付けた三下は文字通り、駆け込んできた勢いそのままに派手な音をたてて……転んだ。
「人を変態みたいに呼ばないで頂戴」
 企画原稿に目を通していた編集長、碇麗花は何事もなかったかのように早くも次の原稿へと手を伸している。
「編集長スクープです。さく……」
「……没」
 がーん!とまるで漫画のひとコマのように大袈裟なまでにショックを受けてその場に崩れる編集員へ向けて麗花はふ、と吐息を零す。
「知ってるわよ。季節はもう夏だっていうのにあちこちで桜が狂い咲きしてるって話ね。突然変異かただの遅咲の桜なのか……どちらにせよウチじゃネタにならないわよ。もっとこう…インパクトがあるなら話は別だけど」
「じゃあ……吸血桜、なんてのはどう?」
 そう言って室内に入ってきた青年は人なつこい笑顔を浮かべて手をひらひらと降っている。
「不知火、それどういう事?」
 ふらりと現れては色々と噂話やネタを落としていく……名を不知火秋夜という何処かつかみ所のない青年はいくつかのメモを麗華に手渡した。
「紅い月の夜、女の子が一人で桜並木の下を通ると桜に襲われる、って噂。被害者は皆気を失って倒れてる所を発見されてる。外傷もない。ただ……彼女達、どうやら貧血を起こして倒れてたらしいんだよね。それに……」
「女の人の啜り泣く声が聞こえるらしいんですよぉぉ〜絶対桜に血を抜かれてるんですよー」
 がたがたと震えていた三下だったがふと何か思い付いたのか、近くの原稿用紙にさらさらと書きつけると見て下さい!と嬉しそうに原稿を突き出して笑顔を浮かべた。
「次の特集のキャッチが閃きました編集長っ!『これがほんとの吸血樹(鬼)!』」
 瞬殺、とばかりに目にも止まらぬ早さで麗華が原稿を取り上げシュレッダーに投げ捨てたその後方で、秋夜は腹を抱えて笑い転げていた。
「面白くなりそうじゃない!不知火も手伝っていきなさいよ」
「いやー、親切なきーさんとしてはそうしてあげたいんだけど……ちょっと親戚の見舞いに行かないとまずいんで」
 困ったように苦笑を浮かべた黒衣の青年に麗華は仕方ないわね、と答えぱん、と手を打って編集員達の注目を促した。
「次の特集差し換えるわよ!誰か行って取材してきて!」

〜 壱 〜

--サクラ サク

「桜の花はキライ」
 ぽつりと呟いて少女は窓の外、淡い色彩を宿して今が盛りと咲き誇る花々から顔を背けるようにして頭を机上に乗せた。
 春の訪れを告げる暖かな陽光が人気のない教室内に柔らかに降り注ぎ、そっといたわるように少女を優しく包み込む。
 
--サクラ チル

「そうですか?僕は好きですけどね」 
 穏やかな声と共に添えられた紙コップには少女の好みに合わせたのか、淡いキャラメル色をした珈琲が湯気をたてていた。
 講義を終えた人気のない教室内に再び静寂が訪れる。
「匡ちゃんさ」
 講師の名を愛称で呼ぶ生徒の横、そのまま机の上に腰を降ろしたスーツ姿の長身の男は女生徒へと柔らかに返事を返し、自分の手にしたカップを口許へと運んだ。

 はらはらと。
 窓の外に舞う桜の白が青い空に映えてその眩しさに瞳を閉じる。

「傷心の生徒を前にしてそこで何か言わないか、フツー?」
 気まずさと、同情。哀れみと、失望。
 少女の脳裏に、ここ暫くの間自分につきまとって離れなかった過剰ともいえる気遣いをする人々の顔が浮んでは、消える。
 冗談めいた、どこか呆れたような口調の中に緊張が見えないように祈りながら少女は笑顔を浮かべてた。が、それはあまりうまくはいかず、苦笑を零すだけに至った。
 そうですね、と答えた講師の顔色からは何を考えているか伺うことは出来ない。
 未だ手をつけられていないカップに視線を落すと講師はにこやかに微笑して言った。
「冷めますよ?」
 予想に反した答えがあまりにも彼らしい言葉なような気がして。
 少女はたまらずぷは、と吹き出した。
「そうくるなんてっ。やっぱ匡ちゃんって可笑しいっ。可笑しくて死にそうっ」
 ひとしきり笑った後、屈託なく笑い疲れたと言う少女を見守るように、講師は穏やかな微笑を浮かべている。
「も、ダメ。マジで死んだぁ〜」
 ばたり、と芝居じみた、おどけたような仕種で少女は机に俯せた。
「……桜は嫌いだ」
 吐息のように零れた二度目の呟きが微かに震えていたのを知ってか、知らずか。
 ぽん、と講師は手にしていた参考書を少女の頭に開いて乗せた。
「だって……思い出す。みんなあの桜の下を潜って行っちゃったのに、今此処にいるのは私だけ。私だけとり残されて、前に進めない」
 少女の腕を掴む指先に力が込められ、その肩が震えた。
「あの、桜の先に進めない……の」
 穏やかな春の空の下、悪戯な風に攫われた一枚の桜の花片がふわりと少女の髪に触れて止まった
「桜なんて……この世からみんなくなっちゃえばいいのに……」
 呟きの声は参考書に阻まれて、消えた。
 
〜 弐 〜
「相変わらず忙しそうですね」
 締め切りを控えた活気溢れるアトラス編集部を訪れた男は目前に広がるいつもの光景に微笑を浮かべた。
 人目をひく中性的な整った貌立ちは彼の男性としての魅力を少しも損なうことなく、繊細で柔らかな印象を人に与える。一八〇を越す長身に仕立ての良いスーツを身に纏った青年……綾和泉匡乃は、来客に構う余裕もなく電話応答や原稿校正等に追われる編集員達の対応にも慣れた様子でそのまま編集室の奥へと向かう。
「あら、いい所に来てくれたわね」
 編集部が見渡せるいつもの席について書類に目を通していた碇麗華は人の気配に顔を上げると、傍らの椅子を匡乃へ勧めた。
「いらしていたんですね」
 麗華の前に用意された椅子に座るもう一人の来客……見覚えのあるその後ろ姿へと声をかけた。
「私も今着いたところなのですよ。もしかしたら私の他にもこちらを訪れる方がいるのではないかと思いましてね。こうしてお待ちしていたんです」
 窓から差し込む陽光を受けて輝く銀の長い髪。南国の海の青をそのまま映しこんだかのような澄んだ瞳。仕立ての良い淡いブルーグレイのスーツに白いシャツ、その袖口から覗く銀細工のカフスボタン。どれも彼の為に誂えられたものであろう。リンスター財閥総帥セレスティー・カーニンガムは知り合いである匡乃にふわりと微笑を浮かべて会釈した。
「実は今噂になっている女性から血を吸い取って花を咲かせるという桜の樹の情報があれば教えて頂きたいと思って」
「あの噂、ね。構わないわよ……と、言いたいところだけど残念ながら曖昧な情報ばかりで困ってるのよ」
 然て困っているようでもなく麗華はにこり、と笑顔を匡乃に向けた。
「担当は三下君ですか。念の為に彼のサポートがいた方がいいんじゃないですか?大事な部下を一人で危険にさらすのも心配でしょうし……」
 言外に協力を求めるそんな麗華の様子に気付きながらも匡乃もまた穏やかな笑顔で応える。
 ギブアンドテイク。
 麗華との間で交わされるいつもの『駆け引き』であることを互いに理解しているのだ。
 そんな二人の楽し気な様子にセレスティはくすりと笑い、麗華は商談成立とばかりにプリントアウトされた資料を二人に手渡した。
 近頃都内各所でみられる桜の異常開花。今迄碧く茂っていた葉が一夜にして枯れ果て、翌日には花を咲かせているという現象が起きている。異常気象によるものだと論じる者もいるようだが原因は今の所解明されていない。
 その裏ではある噂が広がっていた。

 赤い月の夜、桜並木の樹の下を女性が一人で歩くと血液を抜かれ、意識を失う。
 
「一番多い噂は『桜の祟り』説。血に飢えた吸血樹が女性を襲っているという噂があちこちで流れているらしいわ。若い女性の血を得る事によって美しい紅い花を咲かすんですって。あとは女の啜りなくような声が聞こえる『自殺した女の呪い』説とかもあるわね」
 人の血を得た桜はこの世のものと思えない程絢爛たる桜の花を咲かせる。
 そんな噂がまことしやかに流れるのは花咲く桜に昏い魔性の影を感じる所為なのだろうか。
「櫻の花の下には屍体が埋まっている」
 唄うように、そう声にしたセレスティに麗華が首を傾げた。
「そんなフレーズの話があったわね。誰だったかしら。阿部公房……いえ、坂口安吾だったかしら?」
「梶井基次郎ですね?」
 何処かで聞いたような会話にセレスティは思わず苦笑を零した。
「いえ、以前、知人がそう口にしていたのを思い出しましてね。桜が血を吸うと花びらが紅く染まる。だからこそあれ程に美しく咲くのだ……と。それで少し気になってこちらへ伺ったという訳なんですよ」
 ここに来れば事件に関連した情報に触れられる。そう期待したのはセレスティだけではない。
「実は気を失って倒れていた女の子の中に、僕が受け持っている生徒がいたんですよ」
 匡乃の脳裏に一人の少女の顔が浮ぶ。仲の良い友人と志望校を受験して自分一人だけ落ちてしまった現実と周囲の与えるプレッシャーに押し潰されそうになっていた少女。だがようやくその傷も癒えて前向きに頑張るんだと、本来の明るい笑顔を見せるようになった矢先、予備校から自宅へ帰る途中に貧血を起こして倒れたという連絡が匡乃のもとに入ったのは今朝のことだ。
「また頑張ろうと行動的になり始めた時に……ですからね。後々の影響を考えてもやはり真相は確かめたいでしょう?うちの予備校には他にも女生徒が多くいる訳ですし、放っておけないんですよ」
「それじゃあ彼女に直接話が聞けるのね?」
 匡乃の話を聞いた麗華のその瞳が眼鏡の奥で輝きを増した。
「ええ。先程意識も回復したと聞きましたからね。この後九段中央病院の方へ寄るつもりなんですが……」    
「もし宜しければご一緒して構わないでしょうか? 外に車を待たせてありますからお送りしましょう」
 席を立つ匡乃とセレスティの二人の背に向けて麗華が呼び止めた。
「後で三下君も向かわせるわ。彼一人じゃ心配だったし、独占インタ……いえ、た、体験者の話は貴重でしょう?参考になるかもしれないわ。……ちょっとお荷物かもしれないけどその分馬車馬のように働かせて構わないから、三下君の面倒頼むわね」
 貴女は本当に心配してるんですか。と問いたくなるような無情な言葉をさらりと笑顔で口にし、頼みついでに良いネタをお願いね。などと、どちらがついでなのかしっかりと念を押す麗華の仕事熱心さに苦笑しながらもせレスティと匡乃は了承の意を告げて編集部を後にした。

〜 参 〜
「とにかく無事で良かったですよ」
 ほっと安堵の息を零す匡乃へ向けて大袈裟だと病室のベッドの上の少女は笑ってみせた。
「暑い日が続いてたし、ここのとこあまり寝てなかったからなぁ。その分よく寝ちゃたみたい」
 検査の結果、少女の貧血は寝不足と疲れによるものと診断されたのだ。すぐにでも退院出来るとの事だったが、大事をとって明日退院という事にしたらしい。
「ほら、帰る途中あそこ、桜並木を通るでしょ?だからなんかやだなぁ……って、下見て歩いてたら急にくらっと来て……そうしたら歌が……」
「歌、ですか?」
 訝しむ匡乃に、少女ははっきりと思い出したのかそうそう、と声に出した。
「あ、その時からかな。夢、見てたんだよね。それが変なんだぁ。私、桜嫌いなのに……夢の中では好きになってるんだよね。目の前に桜の樹が何本も並んでて、一斉に花を咲かせてて。とても綺麗だな、なんて思ってるの。私もあんな風になりたいって」
 少女は思い出すようにそっと瞳を閉じた。
「誰か、歌ってた」
 それは穏やかな声で。
「近くで女の人が歌ってるの。とても綺麗な優しい声でね。花を咲かせましょうって感じの歌だったとは思うけど」
 懐かしいような歌だと少女は言った。昔の……子供の頃によく遊んだような、遊び唄みたいな歌だった、と。
 更に匡乃が訪ねようとしたところへ扉をノックする音が聞こえた。
 両手に抱え切れない程の花束を手にして現れたセレスティは匡乃の友人である事を告げて少女へと花束を手渡した。
 少女は人から花束を贈られることに慣れていないらしく照れ隠しなのか、ちらりと匡乃を見てから『美形は見慣れてる筈なんだけどなぁ』などと悪戯っぽく笑ってみせた。
「申し訳ありませんが、先生をお借りしても宜しいでしょうか?」
 セレスティに少女は花束の礼を述べて二人に手を振る。
 退室する間際、匡乃がにこりと少女へと笑顔を向ける。
「今日は無理せずにもうお休みなさい。でないとご希望通り、今度予備校に来た時には課題を3倍に増やしますからね?」
 匡ちゃんのおにーっ!!という少女の元気な声を背に、匡乃はくすりと微笑した。

               †   
「それがおかしいんです」
 病室を出てすぐ側のロビーのソファーへと座ると、セレスティは被害者の調査結果書類を匡乃に手渡して言った。
「ここ数日、付近の桜の樹の下で貧血を起こして運ばれた女性は数人。ですが、その症状も言動も様々なんですよ」
 匡乃は受け取った書類に目を通す。
 彼女達の倒れていた場所から現場を検証しようとすれば、それぞれ場所も違う。
 証言の方も気を失う寸前に女性の声を聞いたという人物が数人いるのだが、ある者は泣き声を、またある者は笑い声を、といったように人によって話が異なっている。
 セレスティが知合いの医師に事件性の有無を問うと、昨今ダイエット等の反動等で鉄分不足の女性が貧血を起こすことも珍しくないらしく、被害者の貧血も鉄分不足からくるもので現時点では事件性がないものと思われているらしい。
「最初に被害にあわれた方をあたってみましょうか。桜の異常開花の始まった時期に貧血を起こされてこちらに運ばれた方に的を絞って話を聞くことができれば何かみえてくるかもしれませんし……」
「あ!セレスティさん、綾和泉さん〜」
 大きく手を振りながら二人の名を呼ぶ声を耳にしてセレスティはその人物の名を声にした。
「おや、三下君。どうしたんです、その格好は?」
 ぱたぱたと廊下を走ってきた三下青年は嬉しそうに胸を張って二人の前で足を止めた。
 その後、三下と離れるように歩いて来る翼と霧葉の姿を見つけるとご苦労さまです、とセレスティは苦笑混じりに挨拶をした。
「急いで揃えたんですよ!これだけあればどんな相手でも寄せつけません!」
 確かに、とセレスティと匡乃は心中で呟いた。
 首に下げられた大きな十字架は分かるとしても。
 あきらかにそれとそぐわない、だが同じように首からさげられている純日本調の古風なお守りの束。肩から下げられた巨大な鞄にはぎゅうぎゅう詰めにされたにんにくが顔を覗かせている。
 怪しい外見に加えてかなり……にんにく臭い。
 そんな人物にあえて近付こうという人間はまずいないだろう。
 ふと、何か気付いたのか。
 匡乃が三下の首にぶらさがるお守り袋の一つを掬って手にとった。
「これ、縁結びのお守りですよ。それにこれは交通安全。こちらは安産祈願に合格祈願……」
「お約束ですね」
 などとにこりと微笑するセレスティに、よろよろと三下が壁にもたれるのを見た翼がため息をつく。
「それだけあって厄除けが一つもないところが凄いな」
 素直な感想を述べた霧葉の追い討ちに倒れそうになりながらもなんとか堪え、三下は最後の切り札とばかりに鞄から何故かペットボトルを取り出した。
「大丈夫!とってもご利益のある神社のご神水もあります!前に京都の知人に頼んで送って貰ってたんですよ」
「このマジックで書いてある八坂神社にて、というのは……もしかして境内の湧き水の……」
 匡乃の記憶が確かならばそこは確か女性に人気がある京都の観光場所の一つだった筈だ。そこの湧き水には確かにご利益があるとは予備校の生徒達からも聞かされた事があったのだが……
「ああ。それを飲んで境内の神社にお参りすると、美人になれるという『美容の』神様の御利益があるといわれているものですね?」
 朗らかに話すセレスティの言葉に三下は膝を抱えて床に『の』の字を書き始めた。
「そんなことより。今回の事件に何か関連していそうな患者が以前、そこの病室に入院していたらしい」
 霧葉がセレスティと匡乃の背にしている病室を差した。そこは今、匡乃とセレスティが出てきたばかりの病室、匡乃の予備校の生徒のいる病室だ。
「モデル志望だった子でね。本当は歌手になりたかったんだけど自分は歌が下手だから歌手にはなれないと言ってらしい。とても綺麗な声をしていたのに残念だと看護師が言っていた」
 先程翼が公園で逢った看護師の話が気にかかり、彼女と、話の中に出て来た桜が好きだったという女性の事を同僚らしい看護師に訪ねたところ快く色々と翼達に教えてくれたのだ。
「歌?」
 思わず匡乃とセレスティは顔を見合わせる。
 やはり少女の見た夢はただの夢というわけではなく、何か事件に関係していることなのだろうか。
「名前は柏木妙。二年前に亡くなっているが桜の花が好きだったみたいだな。彼女は藤咲夏女という看護師と仲が良かったらしい……でも声が綺麗でも歌は歌えないものなのか?」
 何処か不思議そうな霧葉に翼が頷く。
「歌手に必要なのは美声だけでなく音感やリズム感も必要だ。訓練次第では克服も出来るらしいが……」
 翼の言葉にまさか、という思いが浮かんだのだろう。
 その様子を察したように翼は苦笑して看護師から聞いたことをそのまま話した。
「いや、自殺ではなく発作が原因での病死だったらしい。生まれつきあまり体が丈夫ではなかったようだね。自分が死んだら自分の髪を桜の樹の下に埋めて欲しいと言っていたそうだ」
「髪を、ですか?」
 一瞬、セレスティの声が硬質な響きを含んで低くなる。
「ええ。そうすれば自分は大好きな桜に生まれ変わって、毎年花を咲かせて多くの人を楽しませるんだと、元気づけるんだと……そのようなことを」
 若くして自らの死期を悟りながらも人を想う彼女の優しさと健気さを思うと胸が痛くなる。
 彼女が事件を引き起こしているとは考えたくはないが、何かに巻き込まれているともなれば尚更放っておくわけにもいかない。
「気になりますね。もし柏木さんの髪が桜の木の下に埋められているのだとしたら……何か関係しているのかもしれません」
「何故そう思う?木の下に埋まっているのが屍体や、体の一部というならまだ分かるが……」
 桜の下には屍体が埋まっているというような話は霧葉も聞いたことはある。だが、髪というのは何か特別な意味があるのだろうかと考える。
「髪には魔力がある、とは昔から東洋、西洋共通して言われていますからね」
 生徒の質問に分かりやすく答える教師のように、優しく匡乃が言った。
「以前に関わったことがある事件でもありましたからね。髪を媒体に術をかけ、死者の霊を他の体に憑依させ、支配しようとした事件が。彼女の霊が桜にとり憑いて起こしたのか、それとも他に原因があるのか今はまだ分かりませんが……そんな気がしてならないのですよ」
「いずれにせよ早くその桜の樹を特定する必要があるな。さっき彼女に……藤咲さんに逢ったあの辺りにその樹がある筈だ」
「あら?」
 それぞれが思考に没頭して訪れた沈黙を破った声に振り返る。
「こんな所でどうされたんです?もう藤咲にお逢いになりました?」
 僅かに頬を紅潮させた看護師が胸に抱えたナースキャップ。そこに書かれたサインはおそらく翼のものだろう。先程の翼の情報源が彼女である事は聞くまでもない。
「いいえ。中にはいらっしゃらないようでしたが?」
「あの子まだ休憩から帰ってきてないのかしら。桜の季節になるといつもこうだから……」
 ぺこり、とお辞儀をして去ってゆく看護師を見送り、翼はぽつりと呟いた。 
「おかしいな。あの様子じゃ寄り道をしているような事はまずないだろうし、僕よりも先に出たならとっくに着いてる筈……」
 セレスティ、匡乃、霧葉、そして翼の全員が顔を見合わせた。
 それを合図としたように翼と霧葉が同時に外へと駆け出してゆく。
 同じように走りかけた匡乃だがふとその足を止めて振り向いた。セレスティを気遣ったのだろう。
 セレスティはふわりと微笑んだ。
「私もすぐに後を追いますよ。少し調べたい事もありますから気になさらず」
「では僕は二人を追いますね。後程お逢いしましょう」
 病院の外へと駆け出す三人を見送ると、セレスティは病室内に残っていた三下を呼んだ。
「三下君、すみませんが先程のあれをお借りしても宜しいですか?」
「え?こ、これ……ですか?」
 困惑しながらも鞄の中から目当てのものを探り当てるとセレスティに手渡した。
「それと私達が留守の間、ここをお願いしますね」
 こくこく、と緊張を隠せず何度も頷く三下の肩を軽く手を置いて、セレスティはそのままロビーにある公衆電話へと向かい、受話器をとってボタンを押した。
 馴染みの興信所に電話をかけたが所長は留守のようだ。かわりに興信所の実権を握ると噂される友人の携帯電話に連絡を入れてみる……と、こちらはすぐに繋がった。
「ええ。実は少しお願いがあって。聡明な貴女のことです。ここのところの異変について何かお気付きではないかと……」
 暫く話をした後、望んでいた情報を得られたセレスティは相手に感謝を述べて受話器を戻した。
「では私も後を追いましょうか」
 廊下の電気が落ち、非常灯のライトが淡く暗くなった院内の廊下を照らす。
「『彼女』を開放する為に」
 窓の外、星一つない濃紺の天空に浮かぶ紅の満月が静かに、地上を見下ろしていた。

〜 肆 〜
「私……分っていたわ」
 ふわりと笑んで手を伸すと女は艶やかに微笑を浮かべた。
「此所に来れば必ず逢えるって」

 ――花を召しませ

「憶えていてくれたのね」

 声なき声に嬉しそうに笑って女は自分の良く知る歌を口ずさむ

「召しませ 花を」

 ――貴方にひとつ

「私にひとつ」

 風もないのにさわさわと桜の花が揺れて花を散らせてゆくのを目にしながら、花影に友人の姿を見つけてその名を呼ぶ。
「妙」
 不思議な、既視感に似た感覚に襲われるのを感じながら、藤咲夏女は意識を手放した。
 
               †   
「風が」
 異変に気付いたのは翼だった。
 これ以上先へ進むなという警告の意志を含んで吹き荒れる風は公園に足を踏み入れた途端、瞬時にして消え去った。
「風が怯えている」
 いつもなら翼の周囲に居ることを望む筈の彼等は怯え、まるで何かの結界に阻まれているかのように公園の入口から先へ入ろうとしない。
 風の加護のない空間。
 それは居心地が悪く、狂気を含んだ鬱々とした空気を漂わせていた。
「先程とは何か違う、な」
 霧葉も、そして匡乃もまたこの異変を感じ取っているのだろう。

 おぉぉぉ……

 高く、低く。
 危険を告げる暗いサイレンのような声が響き渡る。
 風の気配を少しも感じないというのにざわざわと桜が騒ぎ出す。
「桜が……」
 霧葉が声の後を翼が継いで呟いた。
「櫻が哭いている」
 公園の脇に植えられた桜の木が並ぶ中。
 一本の桜の樹が活き活きと枝を伸し、紅き月の光を身に浴びて歓喜に震えるように絢爛たる見事な桜の花を咲かせては得も言われぬ甘い香を漂わせ闇の中に咲き誇っている。
 血のように紅い花の散り行く様は闇に映えて一層妖しく、そして何よりも美しかった。
「綺麗に咲かせるものだ。こんな事件でもなければゆっくり鑑賞したいくらいだ」
 その樹の根元。
 積もる桜の花片の褥に横たわる女性の姿を見つけて翼の声が微かに低くなる。
「……が、どちらかといえば僕は緋色の桜よりも淡い色の桜の方が好きでね。ねぇ、僕の声が聞こえているのだろう? 話をする気はあるかい?」
 
 ざあっ……

 翼の声に応えるようにして何処か虚ろな笑い声が響き渡った。
「……っ!」
 桜の吹雪が視界の全てを覆い隠す
 樹の上に現れた影がゆらりと揺れた。
 純白の着物に艶やかな黒髪、透き通るように白い肌。光を宿さぬ深い闇を思わせる漆黒の瞳の女性が枝に腰掛け、夢見るような眼差しを向けて微笑している。
「うちの生徒を襲ったのは貴女ですか?」
 穏やかな笑顔は常と変わらないが、匡乃のその黒の瞳には剣呑な光が宿っている。
「宜しければお話しを伺いたいものですが……」
 優しい、柔らかな声はけれど否定を許さない。
 だがそんな匡乃に応えようともせず、着物姿の女性は感情のこもらぬ瞳でただ虚ろに微笑んでいるだけだった。
「人……ではないな。噂の物の怪…か?」
「風よ」
 翼の起こした風が意識を失って倒れていた藤咲夏女を包みこみ、花びらと共に空へと舞い上げると柔らかに翼の許へと運び、傷をつけぬようにそっと夏女の身体を横たえる。
「綾和泉さん、彼女をお願いできますか?」
「血の気が失せていますね。体温が低い」
 匡乃が夏女に向けて手をかざし、己の治癒の力を高めて注ぎ込んでゆく。
 翼は匡乃と夏女を背に庇う形で立つとその手中に風の気配を捕まえた。

 ざわり。
 
 ふいに、桜のざわめきが止まったかと思うとその木の根元の土がぼこり、と盛り上がる。その中から出て来たのは……
「黒い、蛇?」
 霧葉は低く呟いて手にしていた刀袋の朱色の房紐を解き、己が手に馴染んだ愛刀の柄に手を伸した。
 地面を埋め尽くす程の黒い蛇が土の中から這い出し、体をくねらせ蠢きながら誰も近寄らせまいと黒い目を無気味に光らせている。
「真空の刃をもって切り裂け」
 翼の声に従い風が刃となって蛇を襲い、薙ぎ払う。
 身を斬られた蛇は暫くの間狂ったように身を踊らせた後、黒い糸の束のようなものと化して大地へと沈むと、また別の所から新たな蛇を生み出した。
「蛇の正体は女性の髪、か。おそらく例の遺言によって埋めたというものだろう。きりがないな。これでは容易に近付けない」
 舌打ちをする翼の耳にふと、どこからともなく悲しく響く女の声があった。
 
 どうか その刃で
 この身を斬って 
 呪縛から解き放って

 嘆き悲しむ女性の声は樹の上の彼女のものではない。
 直接脳裏に響く声なき、声。

「君は……」
「柏木妙さん、ですね。藤咲さんのご友人の」
 応えたのは翼達の後を追って現れたセレスティだった。
「その女性は藤咲さんの記憶から造られた柏木妙さんの影。そこの桜の根元に埋められた髪から造られた人形のようなものなのでしょう。妙さん本人は安らかに眠られていた筈なのにその髪を媒体に利用された為、彼女本人の魂は樹の内に縛りつけられている」
「どういうことだ?記憶からといってもどうやって……」
「彼女の血を使えばいい」
 霧葉の問いに、暫し考えに耽っていた翼がそれなら納得もいくと頷く。
「血液はその人物の情報を含むもの。藤咲さんの血液を媒体に柏木さんに関する記憶と情報を引き出した。髪を媒体に女性から奪った血を使って今の彼女の姿を造り出したということだろう」
 妙の髪が桜の木の下に埋められている事も。当然、夏女の記憶は知っている。妙の髪を入手し、それを媒体にして術をかけ、偽りの魂を器に吹き込む事は確かに可能だろう。
「だが、それだと時間の計算が合わない。以前に襲われていたならともかく……」
 霧葉はハッと息を飲んだ。
「そういうことでしたか。彼女……藤咲さんという方が最初の被害者なんですね?」
 匡乃にセレスティはゆっくりと頷いてみせた。
「先程の同僚の方にお聞きしたんです。藤咲さんは1週間前くらい前に空白の時間があるんですよ。彼女達はこの近くの寮に住んでいるらしいですね。予定より帰りが遅かったのでその理由を聞いてみたところ、曖昧に公園で居眠りをしていたらしい、と答えたそうです。おそらくその時に血を奪われていたのでしょう。そして……その全ての原因は彼女の手にしているものが引き起こしているのではないのでしょうか」
 セレスティがす、とそれを指差した。
「あれは…人形?いや、少し形が違うな」
 妙の腕の中に収まっている小さな影。
 頭部には筆で描かれた艶やかな黒髪に桜花の簪をつけて、つぶらな瞳に、小さく愛らしい紅をつけた唇が綻んでいるのが見える。無駄のない直線的なラインの胴体には色鮮やかな紅の着物に淡く愛らしい桜の模様が描かれてた。
 木の温もりをそのままに白木を削って女児の姿を模し、日本独特の繊細な技工によって創られたそれは郷土品としても広く知られるものだ。
「こけし?」
 妙の姿をした女がその紅い唇を木彫りの人形の肩に寄せて笑みを刻んだ。
 それまで微動だにしなかった夏女がぴくり、とその身体を震わせると共に匡乃の形の良い眉が寄せられた。こけしを媒体にして夏女の体内の血を得ているというのだろうか。
「大丈夫。こちらは任せて下さい」
 静かに言って呼吸を深く吐き出すとその瞳を閉じて更に意識を集中し、匡乃は己の治癒能力を更に高めてゆく。
「彼女だけでなく、こけしも生気を得たように生き生きと……そう、まるで女性の血を得ることで次第に血肉を得ていくかのように……。人が羨む程の美貌と美しい声を持った人の体。望んでも得られなかった自分の理想の姿を、妙さんに重ねたとでも言うのでしょうか」
 血の気を失って居た夏女の頬がほんのりと紅くなると妙は唇をこけしから離して顔を上げた。
「そうよ」
 妙と呼ばれた彼女は誇らし気に胸を張り、両手を広げると身を宙に踊らせ、音もなく地に降り立った。
「綺麗でしょう?黒い艶やかな髪、大きな瞳、長い睫、紅い唇。身長だってすらりと伸びて、お人形みたい。ずっと、思ってたわ。こんな風に綺麗な人になりたいって」
 軽やかにくるりと無邪気にその場で廻ってみせる。
「そこの人はね、この人と約束したのに約束を守らなかったの。最後の時は側にいるって言ったくせに、この子が最後を迎える時には自分だけ外に出かけて側にいてあげなかったの」
「巫山戯るな!だからその罰を与えたとでもいうのか?」
 怒気を含んだ厳しい口調の翼に、だが妙の姿をした女性はゆるりと首を振った。
「とても後悔してた。自分を許せずにいた。でも何よりも彼女はこの人に逢いたがっていたの。だからほら、ちゃんと逢わせてあげたでしょう?それに皆が願うのよ。もっと、もっと、って。私は『彼女達』の願いを叶えてあげただけ」
「願いを?」
 何かが霧葉の中でひっかかった。だがそれを形にする事を拒むかのように周囲の異変が霧葉の意識を現実へと引き戻す。
 ざわり、と周囲の桜が揺らいだ。
 
 キレイ……

 啜り泣く、女の声。
 だがそれは一人のものではない。
 
 ワタシノ、方ガキレイ……
 モット、綺麗ニ……

 哀しみに満ちた泣き声。
 嫉妬に支配され怒りを含む声。
 楽しそうな笑い声。
 幾人もの女の声が重なり合い、次第に周囲へと広がってゆく

「これは……被害にあった女性達の、声なのか?」
 そうよ、と妙の姿で微笑む女性は時と共にその表情が豊かになっていくかのようにも見える。
「なる程。証言にばらつきがあったのはそのせいだったのですね。女の啜り泣く声に、笑い声。声は……一つではなかった」
「そして吸血鬼に、口裂け女……か」
 くすり、と笑う翼に霧葉がああ、と頷いた。
「確か……口裂け女は「私キレイ?」と人に訪ねる話だったか」

 モット、モット……綺麗ニ、美シク……

「さっきの話、覚えてるかい?女吸血鬼が何故血を必要とし、昏い狂気の闇の中へ身を堕したか」
 翼の声に霧葉も頷いた。確かエリザベートという名の女吸血鬼の話だったか。
「彼女は自分の美貌に執着していた。若い女性達を捕らえては鉄の茨の篭に押し込め、鉄の処女と呼ばれる拷問道具で血を搾り取った。若い女性の血を飲むことで、直接体に直接浴びることで、肌が美しくなり、若返ると信じ込んでいた。美しくあることへの恐ろしい程の執念が彼女を吸血鬼へと変えたんだ」
 桜の樹に……否、こけしの意志によって襲われた女性達もまた同じように『美しさ』への憧れと羨望を抱いていたという事だろうか。
 その執着は負の気となり凝って生き霊と化し、新たな血を求めては同胞たちを魅了する。
「血液は古よりあちこちで神秘性を唱えられてきたものですからね。血液に宿る力を得て美容の源とするという考え方も中にはあったようですね」
「血液嗜好症(ヘマトディプシア)と呼ばれる精神病の一種に過ぎないと言う説もあるが……今回は明らかにそれとは違う。彼女が実体を手に入れる為の道具として必要なんだ」
 真の吸血鬼というものをよく知る翼は、人が同じように吸血鬼と呼ぶ血液嗜好症……人の血を見ることにより快楽を得るとよばれる精神病に侵され、吸血鬼と呼ばれる者がいる事を知っていた。だが今回はそれだけでなく……なにか秘術めいたものを感じる。
「数日前、霊力を持つと言われる桜の枝が二枝盗まれました。一枝は友人が見つけだしたようですが……もしもそのうちの一枝がこの事件に利用されていたとしたら?」
 セレスティが病院で連絡をとった友人、シュライン・エマからの情報では草間興信所に『盗まれた霊力を宿す桜の枝を取り戻してほしい』という依頼が入ったとの事だった。
「友人の話では桜の異常開花の始まったのはその枝が盗まれてから。一週間前くらいだというんです」
 そこに居た全員が顔を見合わせた。
 一週間前といえば夏女が遅く帰宅したという空白の時間帯とも重なる。
 全員の視線が妙の姿をした女性の腕の中に収まる、小さな木彫りの人形へと注がれる。
「媒体にしたのは髪と血だけでなく……その桜の枝も使用している可能性が高い、か」

  花を咲かせよ
  
 高らかに、澄んだ声で女は唄う。
 その声に応えるように。
 幾人もの女性の囁くような歌声が混じり合い、その度にさわさわと桜が揺れ動いた。
 
  咲かせよ 花を

「それは……」
 セレスティが取り出した見覚えのある容器に翼が思わず言葉にするのへ悪戯っぽく笑ってみせ、セレスティはその蓋を開けた。
 ゆらり、と容器の中の透明な液体が意志を持ってセレスティの手のひらに収束する。
 それを、そのまま無数の矢へと変じて……放つ。

『どうして……』

 桜の木々の輪唱が次第に弱まってゆく。
 
  咲き狂い 舞い遊び 
  
『ち、力が……抜けてゆく』
「美容の神の加護を得たご利益のある神水ですからね。美しさへの妄念にとりつかれた魂を癒してくれるはずですよ」
 お手柄でしたね、と今この場には居ない功労者へとセレスティはねぎらいの言葉と感謝を送る。
 放たれた水が桜の樹を中心に取り巻いていた淀んだ気配を浄化すると同時に、翼は己が眷属たる者達の気配を、声を感じとった。
 命を、と翼を呼ぶ声がする。

 −−命を与えよ。我等の愛する風の王よ 

(聖なる水に触れ、結界と化していた邪念の空間に綻びが出来たのか)
 静かに、翼の唇から紡がれた言葉に風が応じた

 −−王の望みは 我等が望み

 ゴウッ、と空中へと舞い上がると竜巻きのように荒れ狂った風が桜を包み、女の動きを封じた。

『止めて!嫌よ。だって私は……』

  とこしえに 

「花を伐るのは……好きじゃない」
 ぐ、と込めた力をそのままに霧葉がゆっくりと刀を引き抜いてゆく。
 じりじりと利き足を前に出して重心を爪先へと移動する。
「が……人に仇なすものを斬るのは、俺の仕事だ」
 鼓動が脈打つのを感じる。
 意識が研ぎすまされ、次第に訪れる心地よい緊張と高揚感に霧葉は身を委ね、一気に刀を引き抜いた。

  花は散るらん 

 風が止まった。
 すらりと鞘から音もなく抜かれた刀身が月光を浴びて白銀の光を放つと同時、風よりも早く動いた霧葉が一瞬にして数メートルの間合いを詰めて上段に構えた姿勢から刀を振り降ろし、妙の姿はそのままに腕に抱かれたその小さな標的のみを縦断した。
 
 おぉぉぉ……

 高く、低く。桜達の叫ぶ声が天地に轟く。

(まだ、もう少し、この姿のままで……そうすればきっと……)

「私はただ…………あの人に……」

 嵐のような風が巻き起こり、女の悲鳴と桜の花を攫った。

 哀しさを残す声は、でもきっとこれでよかったのだと、微かに笑って。
 妙という女性であった姿が輪郭を崩して大気の中に消えた。

「あの人に、逢いに行きたかった……の」

 告げて消えたその声は何処か幼さを少し残したような愛らしい、少女の声だった。
 
「性、というものなのでしょうね」
 匡乃は微苦笑を浮かべると夏女はもう心配ない、と告げた。
 顔色も戻って、先程にくらべるとだいぶ呼吸も楽になっているのが分かる。
 暫くすれば自然と目を覚ますことだろう。
 セレスティもまた匡乃の言葉に頷くと静かに言った。
「そうですね。花と生まれたからには美しく花を咲かせたいと願う。それは女性にもいえることなのかもしれません」
 女と生れたからには美しくありたいと願うのは多くの女性が日々感じている事だ。化粧に香水、衣服にアクセサリー……艶やかに、美しくあるようにと自分を磨き、そして美しく変わってゆく。
 自ら花を咲かせ、そして時には咲き競いながら。
「無理に競うことも、他と比べることなどないと思うがな。花は、花であることこそ美しいのに」
 率直な霧葉の感想に好感を覚えて翼はその通りだけれど、と頷いてみせた。
「だが、分かってはいても不思議とそうせずにいられないのが性というもの。だからこそ女性は美しく在り、神秘的なんだと僕は思うよ」
 翼の言葉にそうですね、と微笑を浮かべる匡乃と、複雑な表情をしている霧葉の上空、ばさりと闇夜に鳥の羽ばたく音を耳にしたセレスティはそっと微笑を浮かべた。
 
〜 伍 〜
「三下君。何かしら、これは」
 にっこり、と完璧なまでの笑顔を三下に向ける麗華の姿に、三下を除く編集員達は慌ただしく避難を始めた。
「え?独占インタビューに決まってるじゃないですか、編集長!」
 余程記事に自信があるのだろう。力作なんですよーなどと照れ笑いする三下は嵐の前の静けさに一人気付けずにいるのだが、敢えてそれを当人に知らせてやろうという命知らずな者はいない。その恐ろしさを骨の随まで知る編集員達のこと、迂闊に近寄ろうとはせずに我が身を隠し、嵐の中でいかに自分の仕事をこなすかという考えに専念している。
 どんな状況下でも仕事はする!というのが彼等のモットーであり、誇りとするところだ。
「そう、ね。確かに独占といえるわね。で……肝心な吸血樹の話はこの『一行』の他にどこに書かれているのかしら?」
「それが……彼女、唄を聞いたような気がした、って事しか覚えてないようで……」
 病院に残った三下は単独インタビューに成功した。……までは良かったのだが、期待していた被害者の証言は思ったよりも少なく、彼女と話をしているうちにすっかり意気投合した三下は彼女の健気で前向きな姿勢(三下談)に心を打たれ、ドキュメンタリータッチ(あくまでも三下談)での原稿を書き上げたということだった。
「実はあの後、気になって調べてみたんですが」
 そしてここにもまた。
 嵐の到来を避けるように人気のない接客用ブースに陣取り、話を続ける者がいた。
 セレスティと匡乃の二人だ。
 編集部に差し入れた紅茶をセレスティに差し出しながら、匡乃は客用のソファーに座った。
「以前、あの場所で女子高生が一人、首を吊って自殺したということがあったようですね」
 新聞に騒がれることもなくひっそりと消えた一人の少女の話を匡乃は予備校に通う生徒の一人から聞いた。
 失恋の末の自殺。幼い恋が生み出した苦い結果を受け止めきれずに、その一途な思いはこの世に留まり、幼さと弱さ故に負の気に呑込まれてしまったのだろう。
「それですね?例の桜の枝というのは」
 丁寧に布に包まれて机の上に置かれているのは霧葉が斬ったこけしの内側から出て来た桜の枝だった。
 樹皮が縦に裂ける特徴から見るとエドヒガンと呼ばれる種類だろう。樹勢が強く、今も各地に古木として樹齢数百年を越す木があちこちに残されているエドヒガン種だが、この桜は樹齢が千年とも二千年以上ともされているらしい。それだけ長い間に成長を続ける桜ともなれば何かの力が宿っていたとしても不思議ではないのかもしれない。使い方を誤れば今回のように恐ろしい力となって災いを起こすこの枝も今は本来の姿を取り戻したとでもいうように清浄たる気配を纏って布の中で静かな眠りについている。
「草間氏の方で引き取りたいという連絡をシュライン女史から頂きましてね。これから届けようと思ったのですが……」

「さんした君ッ!」
「す、すみません、編集長〜〜〜っ」

 この様子では当分嵐は過ぎ去りそうもない。
「約束の時間まではまだあることですし。このお茶を頂いてからでも遅くないですね」
「実は僕もこの後寄る所があるんですが、あまり早くおしかけてもなんですし……」
 もう暫く成りゆきを見届けようと男達が互いに笑顔を浮かべた後方で、三下の悲鳴がむなしく編集部内に響き渡るのもまた、いつもと変わらぬ月刊アトラス編集部の平穏たる日常風景だ。
『平和ですねぇ』
 カップを手にどちらともなく声に出された言葉をふわりと……桜の紅茶の甘い香りが包んだ。

               †   
「思ったんだけど」
 広げられた参考書とノートを前に、少女は頭を抱えながらも忙しなく手を動かし、匡乃の与えた問題集の空欄を埋めてゆく。
「桜の花って、儚いとか、か弱いとか……そんなイメージで語られる事が多いじゃない?でも、少し違うかなって」
 少女が退院してから一週間後。補習を申し出てきた少女に『無理をしないと約束するなら』という条件で匡乃は午前中の通常カリキュラムを終えた後で少女の補習につきあうことにした。
「桜ってこんな都会の街中でも咲いてるよね。ここの予備校の前の桜の樹なんてコンクリートの地面を押し上げて根を生やしてる。それでも……綺麗に花を咲かせるんだよね」
 静まりかえった教室の外、遠くから蝉の鳴声と楽しそうにはしゃぐ子供達の声が聞こえた。
「強いなぁ……って思った。雨に降られても、環境が悪くても精一杯花を咲かせて」
 少女は小さな、けれど迷いの無い声で言った。
「そう思ったら……桜の花も悪くないな、なんて」
 参考書のページを捲る匡乃の手が、止まる。
 彼女の精神がストレスという圧迫を逃れて楽になったという現れなのだろうか。それとも……
(彼女の見た夢……妙さんに同調したあの夢の影響?)
 少女が意識を失っている間に見た夢は、桜を愛し、夏女の唄を側で聞くことが好きだった妙の視点から見た、夢。それは妙の記憶が見せた夢だ。
 ここのところ張りつめて過敏になっていた少女の精神が、なにかのきっかけで妙の残留思念と同調でもしたのだろう。
 いずれにせよ彼女が元気になることは良い傾向だと受け止めた。
「そうですね。せっかくそんなに可愛い名前なんですから」
 極上の笑顔を浮かべて言う匡乃に、少女はかぁっ、と頬を紅く染めながらも最後の抵抗とばかりに上目遣いで匡乃を睨みつける……ものの、それは迫力とはほど遠く愛らしいものだ。
「今……名前のところだけやけに強調してなかった?」
「そう聞こえましたか?」
 匡乃の爽やかな笑顔の真意を読み取れる程、人生経験を積んでいない少女に勝ち目などある筈もなく。
「う〜。来年こそは合格通知つきつけて匡ちゃんにぎゃふんといわせてやるぅぅ〜」
「それは構いませんが……『ぎゃふん』なんて言葉は今時なかなか口にしないと思うんですが」
 声を押し殺すように笑う匡乃に頬を膨らませて少女は机と戯れる。
「さ、その問題が出来たら次の章に進みますよ、桜さん」
「この間は無理するなとか言ってたくせにィ!」
 少女、設楽桜は抗議の声をあげた。
「来年は受かりたい、遅れを取り戻したいから、と補習を申し出たのは桜さんでしょう?大丈夫ですよ。無理のない程度に頑張りましょう」
 にこにこと何処か楽しそうな笑顔を浮かべる匡乃に、ひくり、と桜の頬が笑みを浮かべたまま固まった。
「きょ、きょ、匡ちゃんのおにーーっ!」
 必死に参考書と格闘を続ける桜を微笑ましく見守る匡乃はふと、教室の窓の外に見える木々に視線を移した。
 季節外れに咲いた桜は一夜にしてその花を散らし、今は碧々とした葉を風に揺らしている。
 今はまだ碧の色彩を身に纏う桜も、季節が巡ればまた淡い色の花を咲かせる。
 そしてその度に桜のアーチの下を潜って受講生達が旅立ってゆく姿を匡乃は見送るのだろう。
「来年が楽しみですね」
 桜の咲く頃、大きく手を振りながら元気に桜の下を駆け抜けてゆく少女がいる。
 そんな光景を脳裏に思い描いてそっと匡乃は微笑んだ。
 
 〜 花魂の禍唄 -陽- 了 〜


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1537/綾和泉・匡乃(あやいずみ・きょうの)/男/27歳/予備校講師】
【1883/セレスティ・カーニンガム(せれすてぃ・かーにんがむ)/男/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2863/蒼王・翼(そうおう・つばさ)/男/16歳/F1レーサー兼闇の狩人】
【3448/流飛・霧葉(りゅうひ・きりは)/男/18歳/無職】

-NPC-
【藤咲・夏女(ふじさき・なつめ)/女/看護師】
【柏木・妙(かしわぎ・たえ)/女】
【設楽・桜(したら・さくら)/女/予備校生】
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■         ライター通信          ■
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綾和泉様、蒼王様、流飛様、はじめまして!
この度は受注頂き有難うございます!
ライターのひたきと申します。
そしてセレスティ様、有難うございます!再びお会い出来て嬉しいです!
納期が大幅に遅れてしまいまして御迷惑をおかけしました。
まことに申し訳なく、深く反省いたしております。
鍵となる情報がいくつかのパートに別れ個別文章となっておりますので、
他の人のパートを見るとまた話の全貌が違って見えてくるかもしれません。
また、草間興信所依頼の−陰−の方ともちょっぴりだけリンクして話が進行
していますのでもし宜しければそちらも見てやって頂けると嬉しいです。
ご意見・ご感想等ありましたら今後の参考にし、より精進するよう努力い
たしますので!よければテラコンから送ってやって下さい。
それでは、またお逢い出来ることを楽しみにしつつ。
ありがとうございました。

■綾和泉・匡乃様
 とても楽しく書かせて頂きました!生徒達からも人気があるんだろうなぁ、
 などと考えながら書かせて頂いたりしてましたが……イメージが崩れていな
 いよう祈るばかりです。生徒の内面に触れつつ、事件に関わって頂きました
 が如何でしたでしょうか?少しでも気に入って頂けると良いのですが……。
 この度は大変に遅れまして本当にすみませんでした。
 参加頂きましてありがとうございました!