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<東京怪談ノベル(シングル)>


□繋がる、これから□


がたん、と椅子が引かれる音と、そして何やらがさがさという人が動く時独特の物音が、僕を架空の世界から呼び戻す。
ノートや本を広げて勉強しやすいようにだろうか、とても広い図書室の机の一角に陣取っていた僕はゆっくりと活字から目をそらし、顔を上げる。
図書室にはもうほとんど人はいない。動いている存在といえば、カウンターの向こうで面倒そうに貸し出しカードの整理をしている図書委員と、資料を集めに来ていたらしい先生がひとりと、それと後は僕ぐらいなものだった。

そんな光景を見るともなしに見ながらくいっと頭を仰のかせれば、何か嫌な音が首筋に響いた。
ずっと下を向いていたからだろうか、そっと手のひらでなぜると心なしかいつもより固くなっているような気がする。
僕は改めて下を向き、残りのページがどれくらいあるかを厚さで確かめた。あと、三分の一ぐらいだろうか。
どうせなら読みきってしまいたい所だが、壁にかかっている時計を見ればもういい時間だった。僕は栞の紐を挟むと、厚みのあるそれをぱたんと閉じる。先走って斜め読みをするよりも、活字はゆっくりと追っていく方がいい。

本を元の場所へ戻し、借りる予定だったほかの数冊をカウンターに持って行くと、委員が面倒そうに貸し出しの手続きをしてくれる。
『神嗚 雅人』という僕の名前と学年、そしてクラスが書かれた緑色の貸し出しカードを渡し、手続きは完了。

足元に置いてあった鞄を手にとり、借りた本を入れて図書室のドアを開けると、途端に湿った空気と独特の熱気が押し寄せてきて僕は閉口する。
思わず涼しい図書室へと踵を返したくなったが、もう閉館時刻が迫っているのでそれもままならず、仕方なく熱気のこもる廊下へと足を踏み出した。

「あつ……」

教室ひとつ分を歩いただけで、もう額に汗の珠が浮かぶ。
それを手の甲で何度も拭うけれど、次から次へと汗は出てきて止まりはしない。初夏。そんな単語がふと脳裏に浮かんだ。
ああそうだ、紫陽花が綺麗な季節だ。そういえば、家の裏庭にはいつも沢山の紫陽花が毎年咲いていた。その時期が過ぎれば蝉が鳴き、東京はすぐに熱気の真っ只中へと放り込まれてゆく。

そんな事をぼんやりと考えながら階段を降り、昇降口への道を辿る。
通りがかった教室からブラスバンドの練習音が微かに漏れ聴こえてきたり、体育館へ続く廊下に差し掛かった時にはバスケ部かバレー部かはよくは分からないけれど、とにかく運動部の掛け声も聞こえてきた。
最後の階段を降り終えた時、ふと僕はある事に気付いて辺りを見回した。

「…………」

声や存在は扉の向こう側や廊下の果てに確かに『居る』と分かっているのに、その誰も姿が見えない。
いくつもの存在がこの学校という巨大な空間にまだまだ沢山残っている。それは事実だ。けれど、こうして誰の姿も見えないと、何か不思議な感覚を覚えてしまう。

何となく、『あれ』に似ている気がした。

「……………帰るかな」

呟きながら昇降口に足を踏み入れると、爪先から頭の天辺まで一息に茜色に染め上げられ、僕は少しばかり息を呑む。
日が、沈みかけていた。赤色と橙色と金色と眩い光が複雑に絡み合って生み出された色彩が、下駄箱へと歩く僕を、靴を、傘立てを、とにかく全てを同じ色に塗り替える。
何となく手のひらを見れば、輝く赤をしていた。いや、紅色と言ってもいいかもしれない。
その色彩のあまりの鮮やかさに僕は何度か瞬きをして首を振り、くらくらとしかけた頭をどうにかはっきりさせて靴を履き替え、表へ出た。

爽やかな風がワイシャツの隙間を吹き抜けていく感覚に、僕は目を細める。校内でのあの熱気が嘘のようだ。
けれど視界は相変わらず赤光に染められたままだ。今は僕の目に入るもの全てが、世界が赤い。
古ぼけた黒い石で作られた校門も、ポスターが十重二十重に無造作に巻き付けられている電柱も、打ち捨てられている缶ジュースのラベルも、みんなみんな赤い。

だけど、どこかおかしい。
どうしてこんなにも赤色ばかりなのだろう。
いくら夕陽が沈む時だからといって、ここまで目に入る全てのものが全て赤に染まっているなど、普通ではありえないのではないだろうか。

…………普通、では?


「……………っ!!!!!!」


例えるならば、きぃん、とガラスのコップを砕いた時のような無駄に澄んだ音のような感覚。
視神経の奥深く。医者でも、いや僕自身ですら知りえない何かが疼き始める。

「っあ、………!!」

声が出ない。痛みではない。ただ目が軋みをあげている。
まるでここではないどこかへ繋がりたがっているかのように、その軋みは止まらない。
僕はよろよろと民家のブロック塀へと背中をあずけ、発作まがいのそれがおさまるのを待った。いつもと同じならば、こうしていればじきに静まる筈だ。

と。

視界の端を何かがちょこちょこと蠢いているのが見える。赤い電柱を長い尻尾を持ったやつが昇っていった。
大きな蛇に似たものがうねうねと地面を這いつくばっていたかと思えば、次の瞬間には近所の家の屋根にいて僕を見ながら縦に裂けた口で形容し難い笑い声を上げている。
けれど僕は悲鳴もあげはしないし、逃げたりもしない。こんなものを視るのはこれが初めてではないからだ。

幼い頃から、僕は人に見えないものが見えていた。

いや、見えていたと言うのは少し語弊があるかもしれない。正確には『半分だけ』見えていたのだ。
今も疼きを訴えてやまないこの左の目。これだけが何故かいつも人ならざるものを映し出した。
どうして左だけなのか。とか、何で僕にこんな力があるのか。とか、いっそ誰かに聞きたかったけれど、でも僕は聞けなかった。
だって、『人には見えないものが見えるんです、どうして?』なんて一体誰に問いかけられるというのだろう。その力が現れ始めた時に一番近くにいたおじさんにも、この事は相談してはいない。余計な心配など、これ以上かけさせたくはなかった。

黄昏の空の下、大きく息を吸い、吐く。それを繰り返す。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせながら。
幼い頃はそれほどでもなかったというのに、この軋みは僕が成長すればするほどにより歪みを増しているように思える。そしてそれに比例するように、視界に入る異形の姿形もよりはっきり見えるようになっていた。

何故、一体、何のために、この瞳はあるのだろう。息を落ち着かせながら僕は思う。
けれど脳裏での問いかけになど誰が答えてくれるわけもなく、疑問は未だ瞳を支配する赤色に包まれて消えてゆく。

赤色。
その色に覚えがあるような気がするけれど、分からない。
でもその色から連想してしまうのは、何故か今はもうこの世の者ではない父さんと母さんだった。僕にも何故こんな色から連想してしまうのか分からない。僕はただふたりが亡くなった、これだけの事しか知らないというのに。

その二人ともが亡くなってからもうどれくらい経っただろうか。僕はもう両親の不在を嘆くほど子供ではないけれど、けれど今でも思ってしまうことがある。もしかしたら知らないかもしれないし、この力は僕特有のものなのかもしれない。
けれど、聞きたかった。血の繋がったふたりに、聞いてみたかった。


この力は、どうして僕の中に在るのですか、と。


きぃん、きぃんと弾むように僕の中で響き続けていた軋みがおさまりかけて、僕はそっと目を開く。
相変わらず住宅街は赤に染まっていたけれど、もう異形も輪郭を薄れさせている。ああ、もうきっと大丈夫――――

「――――え?」

伏せていた顔を上げ、すぐに視界に入ってきたのは真っ直ぐ伸びたブロック塀に囲まれた通学路。
その、先に。

……蝶が、みえる。

いや、蝶ではない。人だ。けれど小さい。女の子?
ふらふらと、どこか危なげに背に在る蝶の翅を動かしていたけれど、やがてその少女はとん、とコンクリートの上に降り立った。その拍子に長い黒髪が広がる。久しぶりに赤以外の色彩を目にしたようで、僕は思わず何度も瞬きをしてしまう。
女の子は遠目でも分かるほどに、白い肌をしている。そして背中に生えた、人には決して有り得ない一対の蝶の翅。
彼女は人ではない。むしろ、さっきまで僕の見ていた人ならざるものたちに近い。

だけど僕は何故か恐怖も嫌悪感も湧かなかった。
自分でも不思議に思うが、実際僕は瞳を覆い隠そうともせずにただその少女に見入っていた。
赤色の世界に唐突に現れた、鮮やかにすぎる赤色の翅をもった姿。

呆然と立ち竦む僕の視線に気付いたのか、少女が不意に僕を見た。
視線が絡まる。

「……………………」

彼女は何も言わずに、ただ僕の目をじっと見つめている。あの子には何かが視えるのだろうか。この瞳の奥深くにあるだろう人には視認すらできない力を、視る事が出来るのだろうか?
そう考えると、それまで動けなかったのが嘘のように、いつのまにか僕は口を開いていた。

「君は………………?」
「…………」

少女は何も言わずにただ僕の言葉を聞いていたが、不意に背中の翅をはためかせると、地面を蹴りふわりと舞い上がった。
きらきらと鱗粉にも似た赤い雫が宙を舞い、コンクリートに降り注ぐ直前で空気に溶けて消えていく。
僕はその様を何も言えずに見ていたが、やがてもう一度その翅が風をとらえようとはためいた時に、足が勝手に駆け出しているのに気付いた。

「待って!!」

親に追いすがる子供のように声を張り上げ駆ける僕を、道行く人たちは何事かというような顔つきで見送る。
けれど誰ひとりとして、僕の数メートル前を舞う少女へと目をやる者はいない。やはり彼女は人ではないのだ。確信を得ると同時に、前へと駆ける足が速度を増す。
僕の求めている答えをあの少女が知っているかもしれない。そんな希望だけを胸に、ただ走って、走って、走り続ける。

空を軽やかに舞う少女は、赤色の空に在ってもなお色鮮やかだった。
透き通るような翅は今まで僕が見たどの紅よりも赤いのに、けれどそのどれよりも澄んでいて美しい。
こうやって人の多い通りに出てもなおこうやって少女を見失わずに追い続けられているのは、ひとえにその翅のおかげだった。
だって、あんなに綺麗なものはきっとこの街にはふたつと在りはしない。

どれくらい走っただろうか。
途中でかなり通学路を外れた事に気付いて、慌てて走りながら腕時計を見るが、夜の稽古の時間までまだ少し余裕があるのを知り、僕はスパートをかけた。
前を飛ぶ彼女の速度が落ちてきている。もしかしたら、もう少しで。

ぐん、と身体を前に倒し、僕は赤色から群青に姿を変えつつある空を舞う彼女へ少しでも追いつけるよう、必死で足を前に出し続ける。





そこは名もない公園だった。
市民の憩いの場。というよりは、近所の子供たちの遊び場兼その母親の社交場といったところか。木々が多い為か暗がりが所々にあり、これからの時間は物騒になるだろう事を知っていてか、人の姿はどこにもない。
そんなどこにでもあるような公園のちょうど中央に少女はよろめきながら降り立ち、僕は肩で息をしながらその数メートル前で立ち止まった。
少女は背を向けて立っていたが、ゆっくりと黒髪を揺らして僕の方へと振り返る。

揺れる長い黒髪。
そして、今にも闇夜に沈みそうな中にあってもなお陰りを見せない、真白な肌。

視線がいま一度絡み合い、そして僕は問いかける。






「――――――――君は、誰―――――――?」






END.