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遠い駿風
直情径行なタイプだ、と言われる。
そう言われても、チョクジョウケイコウというのがどういう意味だか、新座クレイボーンは、今ひとつよく理解していない。なんとなく、褒められているのではないことを悟るのみだ。
そんなクレイボーンだったけれども。
たまにはぼんやりと、考え込んでしまうこともあるのである。
たとえばそれは、よく晴れた日曜日のこと。
競馬場ですれ違った親父たちが、声高に、
「あいつぁ、惜しいことをしたなぁ」
「おウ、『LIVE FOR ALL』だな。ありゃむごい話だな」
「ああー、昔は結構、儲けさせてもらえたもんだ」
「へへ、言いやがる」
「最近はああいう、骨のあるのも少なくなっちまったねぇ」
などと話しながら通り過ぎていった
そんなことを聞いてしまうと、当の『LIVE FOR ALL』こと、クレイボーンは、いやでも追憶にひたってしまう。今日は店仕舞いを決めこんで、ねぐらに取って返すと、床にひっくりかえって、いささかセンチに天井を見上げることになるのであった。
目を閉じると――といっても、右目は痛々しい傷痕に塞がれているから、それは左目、片方だけのことだが――まぶたの裏にはさまざまな光景が浮かんでは消えてゆく。
(…………)
炎――。
焦げ臭いにおいに気づいた時にはもう遅い。
木造の厩舎は真っ赤な悪魔の舌に舐め回されていた。
(……っ!)
同胞たちのあいだを、恐怖の空気と、声なき叫びが伝播してゆく。
またたく間に、厩舎内を充たすもうもうたる煙。目を刺し、喉を荒らす刺激に、いなないても、助けの手はこなかった。
そして、火が――
遠くで、誰かの声がする。
煙の中を、あてどなく、綱をひきちぎり、柵を壊して走り惑った。干し藁が、焼けていく音と匂い。天井を、床を、壁を、柱を、炎が這い、熱気が押し寄せてくる。
熱い。
怖い。
息苦しい。でも――
めきめき、と音を立てて、崩れてくる天井……
鈍い衝撃と、鋭い痛み。
溶暗……。
(――……)
次に意識が戻った時、冷たい床の上に寝かされていた。
吸い込んだ空気は清浄だったが、身体は動かなかった。
(右目はもう駄目です)
淡々と語る、誰かの声。それに聞き入る、人々の呼吸の気配がする。
(身体の火傷もひどいですが……なにより、骨折がありますから――)
人々が息を呑み、静かなどよめきが走った。
骨折。
その意味を、クレイボーン――いや、そのときはまだ『LIVE FOR ALL』であった彼は、理解していたかどうか。
……絶望、なのである。競走馬にとってそれは。
たとえ、火災を生き延びるという幸運を得たところで、走れない競走馬は死んだも同じ。いや、それどころか、現実に、人間たちはそれに死をもって決着をもたらすのである。
(殺される)
本能的に察知した。
言うことを聞かない身体を必死に動かす。
死にたくない。生きたい。生きなければ。ここから――逃げ延びて……ここではない何処かへ――。
身体の奥からわきあがってくる熱のようなものと、かすかに、脳裏に浮かんだ、見たことのないはずの風景の断片。
ここで死んではいけない。死ぬべきではない。
(おれは……)
応えたものは、脚ではなく、翼――、だった。
ありったけの力をこめてはばたく。
(そうだ)
なぜ、今まで気がつかなかったのだろう。なぜ忘れていたのだろう。
空を駆けるためのこの翼を。闇を裂いて輝くこの角を。人をもはるかに凌駕するこの力を。風、という意味のこの真の名を――。
そして、彼は飛びたった。
それは自由への、彼が彼自身になるための飛翔だった。
それから、どのくらいの時間が経ったのだろう。
かりそめの人の姿を借りて、人々に混じって暮らすようになったけれども……。
「どこに生きやがった」
「まだそう遠くへは逃げていないはずだ」
「畜生。化け物め」
悪態をついて、追っ手が通り過ぎていくのを、茂みの中でじっと息を殺してやり過ごす。
ふとしたことから正体を知られてしまったとき、待っていたのは、この理不尽な襲撃だった。かれらは獲物を狩るための武器をもって彼を追い立てる。
ただ静かに、穏やかに暮らせていればいいと思っていたのに……、ヒトではないものに対して、人間は冷徹だった。
「いたぞ!」
逃げるクレイボーンに向って浴びせられる猟銃の一斉射撃。
(――ッ!)
熱い衝撃に、もんどりうって倒れる。血が、大地を汚した。
「く、そ……」
どくどくと血が流れ出すほどに、確実に、彼自身の力も弱っていく。追っ手の足音が迫る。そのとき――
「!?」
身体の下で、びくびくと動くものが何なのか、とっさにはわからなかった。
だがそれは、しっかりと、四つ足で立って、その背に彼を乗せると、駆け出したのである。風のようなスピードで、背後に暴徒の怒号だけを残して。
「…………」
クレイボーンは、首にかけていた鎖の先の、ペンダントトップがないことに気づいた。いや、消えたのではなく、それはすがたを変えたのだ。ただの、馬の似姿から、現実に血肉をそなえた生命へと――。
血を与えることで、かりそめの生命を物に宿らせる、自身の力に気づいた、それが最初だった。
そしてまた、それから長い時間が過ぎて……。
とりあえず、競馬予想師ということで通っている青年は、顔の半分を覆った包帯という姿ゆえに、多少、奇異な目を向けられはするけれども、それなりに、競馬場の風景のひとつと化していた。
平穏な日々だと言ってよい。
馬たちが元気に駆けていて、空が晴れていて、飯が旨ければ、それだけで彼は機嫌が良いのだ。
そんなクレイボーンだったけれども。
たまにはぼんやりと、考え込んでしまうこともあるのである。
(もしも……)
そんな仮定に意味がないことくらい、クレイボーンにだってわかる。
どうしたって、彼は彼でしかないのだから。
「なあ……」
独り言めいた呟きに、首を傾げたのは、彼の血によって生を得た、かつては玩具に過ぎなかった恐竜だ。
「ぎゃお?」
「もし、おれがただ馬だったらさ」
そしてそのままでいられたとしたら――。
彼は思う。
いつだって四季の匂いに充ち充ちていた空気をいっぱいに吸い込みながら、仲間たちとともに走り回った牧場。気の済むまで遊んだあとは、あたたかな厩舎で餌をかきこむ。牧場の人間たちの、ブラッシングの手はやさしい。
そして背中に騎手の体重と体温を感じながら、一心に駆け抜けたコース。
高鳴る蹄の音をもかきけす、雷鳴のような歓声の轟き。季節はずれの雪のように、祝福のライスシャワーのように舞った馬券の雨――。
抜けるような青空と、やわらかな風。
ただの馬として生まれ、生きていたとしたら、今もまだ、あそこにいることができただろうか。パドックにたたずむかれらと同じ、純粋な目をしていられただろうか。
「ぎゃお、ぎゃお」
メカ恐竜は、そんな思いを、理解したのかしないのか。
「――なんてな」
クレイボーンは、頬をゆるめた。
もはやとうに、そんな選択肢はなくなったのだ。
本当の自分として覚醒しなければ、あの奇禍を生き延びることはできなかったのだし、ヒトの姿で暮らしてこなければ出会えなかった連中が、今の彼の周辺には、いる。
「ま、いいか」
「ぎゃお?」
はっきりとは、言い切れないけれども――。
(いいんだ。今のおれで。たぶん……)
ふいに、クレイボーンの腹が鳴った。
空腹だ。
さしあたっては、そのことのほうが、彼には大問題だった。
(了)
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