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<東京怪談ノベル(シングル)>


be deeply sinful

 彼は鬼童と呼ばれていた。
 六尺ほどもある長身で童、と呼ばれるも奇妙な話だが、髷を結うでなく襟足で切った髪を童形のそれに準えてそして人を食らう故に鬼、の名を冠する異形。
 子を好んで食らう鬼童を人間は恐れ、人を食らう以外に生きる術を知らぬ鬼童は餌の恐怖を当然のものとしていた。
 だが、今、鬼童は人から逃れる為に前へと進んでいた。
 闇夜の暗さに、足下が覚束ない。
 それ以前に鬼童の足は、自らの体重を支える事すら出来ないでいたのだが、それでも彼は止まらずに居た。
 足を踏み出す、それだけで足元から頭頂まで激痛が駆け上る。
 呼吸をする、それだけでも気管に万の針を打ち込まれたような痛みに震える。
 全ての痛みは両の眼、その眼底から生じている……眼球を納めた眼窩の奥に植え付けられたのは、呪い。
「忌々し……い……ッ!」
鬼童は呻くように怨嗟を吐き出して、眼を押さえた。
 だが、猛りを痛みに削られた弱々しい声は、鬼童の不満を払うに至らない。
 人のみを食らう鬼である、鬼童のただ一つの欲求に応じて呪いは裡に蠢く。
−喰いたい
飢えを自覚する度、動作の端々が激痛を生む。
 欲と呼ぶには生きるに近しすぎる行為を禁じる痛みに、鬼童は呻いた。
 息をする、それすらも罰に変えて諫める、というにはあまりに苛烈な痛みは思考の自由を残す癖に行動を制限し、飢えに重なる疲労となって鬼童の体力を奪う。
 苛む痛みはほんの数日前から……だが、鬼童を追い詰めるに十分な。
 視界に映る全てが曖昧にぼやけ、それが疲労に因るものか、飢餓に因るものかを判じる余裕は鬼童にはない。
 膝が落ちた、感覚で自分が倒れたのだと知る。
 それでも前に進もうと、草の根を掴んだ手にふと笑う。
 鬼童の飢えを満たせる血肉、人間は溢れるほど。
 しかしどれだけ呪いから逃れようと歩を進めても痛みは退かず、餓えはは増すばかり。
 一滴の血で喉を潤す事も、一かけの肉で飢えを紛らす事も出来ない苦痛…だのに、何故自分は闇雲に進もうとしているのか。
 自らの内への問いにも答えが見えず、かろうじて身体を支えていた腕からも力が抜ける。
 鬼童の眼前、輪郭すら捉えられない光がぽつりと灯っていた。
 誘う柔らかさを持つそれに、鬼童は一度瞬いた。
 灯りの在る場所には人が居る。
−腹が、減ったな。
ぼんやりと思って鬼童は、奥に蟲を宿した眼をそのまま閉じた。


 人々が手にした松明の、脂が焼ける臭いが鼻を突く。
 常なら恐れて入らぬ山に入り、鬼童を狩り立てたのは近隣の村人と……その依頼で訪れた陰陽師。
 陰陽の術で押さえ込まれた鬼童の力は人間と変わらず、擦れた肌から血が滲む程にきつく縄を打たれ、逃れる事も適わない。
『お前達』
呪に囚われた鬼童を広場に引き出し、村人にその姿を晒しながら陰陽師はその場の者達に呼び掛ける。
『この者を許せないか』
応、と声が上がる。
 鬼童は子を食べた。幾人も、幾人も。悲痛な嘆きが耳を打つ。
 子を返せぬならば殺せ、地獄へ落とせと、憎悪の眼差しが石礫となって鬼童を撲つ。
『地獄へか』
陰陽師は人々の怒りの言葉を反芻して喉の奥で笑った。
『食らうが最なる悪行ならば、餓鬼道へ墜ちるがよかろうな』
礫に破れた鬼童の額の血を衣で拭い、陰陽師は続ける。
『水が通らぬほどに咽は細り、口にした食物は全て口中で火になる』
目を覆った片手に視界が閉ざされ、鬼童の死を望んで声を上げる、村人の声が殊更大きくなった。
 煩わしい。
 子も親も関係なく、全て食らい尽くしてやろうか。
 最後の食事は一週間ほども前、山に迷い込んできた童を食べたきりで餓えが内から身を噛む、ぶつけられる感情よりそれの方が余程鬼童の気を引いた。
『六道を巡るも適わぬ罪を償え』
それを静かに遮って、陰陽師は鬼童の瞼から手を退けた。
 自然、開いた眼にぽつり、ぽたりと雨の一粒が落ちるような感触の直後、突如として瞳の奥に弾けた熱に鬼童は悲鳴を上げ……。

 べしゃり、と冷たい感触が顔に張り付き、鬼童は跳ね起きた。
「そないに大きぃ声上げんと」
ひそり、と響く声は耳元で囁くようで、鬼童を捉えた夢と現実とを区切る。
 顔にへばりつく、水気を含んだ布を取れば水桶を抱えた女が目の前に座っていた。
「静かにしぃさい」
抱えた桶は檜であるのか、顔を濡らした水に移った香が山のそれを思い起こさせる。
 が、それを抱えている様が滑稽な程に……きらびやかな衣装を纏った女は、桶を脇に置くとすいと膝を進めて鬼童に近付く。
「ぬし様のあまりのうなされように、わちきの禿が脅えて仕様のない」
首を傾げるように視線を流せば、僅かに開いた襖の隙から肩の位置で髪を揃えた童女の顔が二つ、ひょこひょこと続けて室内を覗くが、鬼童と目が合った途端にぴゃっと隠れた。
「此処は……」
「世にも名高い悪所吉原……と言いたい所でありんすが」
廓言葉、と呼ばれる独特の響きで女はくすりと笑う。
「生憎と、焼け出されての仮宅住まい。最も、大門を越えてあなたを拾える筈はないから、運が良かったわね」
ありんすと続けぬそれが女の元よりの語調であると知れ、絹を幾重も重ねた衣装が、吉原遊女の中でも最も高位とされる花魁であると想像が出来た…言葉からすると、女が鬼童を拾ったらしい。
 吉原は浅草に位置し、江戸で唯一幕府公認の遊里である。
 お歯黒溝に囲まれた吉原から遊女は一歩たりとて出る事は許されず、訪れる客も唯一の出入りである大門、町奉行配下の面番所の横を抜けねばならない。
 遊女である者は決して逃さない二万坪の鳥籠から女達が出る事が叶うのは、奉公が明けるか死した時か…だが、ただ一つの例外として、吉原が火災で全焼した場合にのみ、宛われた敷地外での営業を認める仮宅営業の時がある。
 市中の商家や農家を借り、吉原が復興するまでの間、其処で商いをするのだ。
 仮宅営業は飽くまでも急場を凌ぐ為の措置だが、廓のしきたりという虚礼にひたすら費用のかかる吉原内と違い、揚代は変わらずとも間の手順を欠くだけ安価なそれに、却って賑わいを増したという。
 運がいい、と言った女に鬼童は眉を顰めた。
 痛みから逃れようと闇雲に進むまま、江戸に入り込んでいたとは思わなかった。
「でも静かにして。皆疲れてるから」
 しっかと閉じられた雨戸の外の光は漏れないが、ざわついた往来の気配に昼間だと知る。
「……何故俺を拾った」
白粉の香か、僅かな含んだ甘さを動作の端々に香らせ、鬼童の最もな問いに女はふふ、と笑う。
「慣れない店でも、妓夫の数があったら不便がないかと思って。文使いくらいは出来るでしょ」
それだけで行き倒れを安易に拾っていい時勢ではない。
 華やかな文化に添って餓えや貧困は根深く強く、犯罪者を匿ったとあれば咎は身にまで及ぶ…ましてや、鬼童は人を食う鬼である。
「あんたがお尋ね者だったら内仕事だけして貰えばいいし……吉原に一緒に戻るまでは無理だけどね」
こちらの懸念を呼んだかのような女に、鬼童の方が疑いの目を向ける。
 何か裏でもあるのではないかと。
 そのじっとりと赤い眼差しに、女は笑みの質を変えた。
「そんな心配しなくても、取って食いやしないわよ。ひだる神に袖引かれて、腹減った〜、なんて呻きながら道ばたに寝てる子なんて」
人事不省に陥っていたとはいえ、自らの預かり知らぬ行動をケラケラと笑って言われて鬼童は顔から火を吹いた。


「おにぃ」
禿が座敷から来い来いと手招き、鬼童はそちらに足を向けた。
「おにぃ、一緒にお手玉遊びしぃせんか」
名を問われて鬼童、以外の呼び掛けを持たなかった故の名乗りを縮めて呼んだ禿に倣い、鬼童の呼び名はすっかり「おにぃ」で定着してしまっていた。
 拾われてかれこれ一月、
「困った時はお互い様」
と、花魁は鬼童に店の雑用を申しつけて居場所を与え、済し崩しに技楼に提供された商家に居続けている。
 言われるままに用事を黙々とこなしている内、最初は脅えていた禿もすっかり鬼童の存在に慣れ、時に今のように遊びを誘う。
「おじゃみ おふふ おみつ およつ トンキリ」
端切れを使って作ったお手玉を歌に合わせてポンと放る。
「おおひとよせ おおふたよせざくら トンキリ」
遊びと言っても、鬼童は傍らで見ているだけなのだが、禿は大人の目があるというだけで充分満足しているらしく、愛らしい声で歌を紡いでお手玉遊びに興じている。
 明け方近く、居続け以外は客も引け、花魁や新造、客を引く遊女達は眠りが深い頃か。
 そもそも、技楼の生活時間は普通のそれとは大きく隔たり、雑用をこなす妓夫、太夫に付く禿もそれに近くなる。
「新橋くぐろ 大きな橋くぐろ 小さな橋くぐろ」
鬼童は柱に背を預けて座り込み、灯明を頼りに遊ぶ禿をぼんやりと眺めた。
「いったいかあしの こんめの」
鬼童は人、しかも子供の肉の柔らかさと血の甘さを特に好んだが、目の前で無邪気に歌う子を食べようという気にはならなかった。
「ひとかい ふたかい みいかい ようかい」
餓えは変わらずに身の内に巣くい、与えられる食事は動けるだけ糧となってはいるが餓えを紛らす役には立たない。
「いつかい むうかい ななかい やあかい」
だが、不思議と用を言いつける女達や禿を、食いたいと思う事だけはなかった。
 却って、一人になった時の方が、植え付けられた呪いが動き出す……陰陽師は『蟲』だと言っていたか。
「ここのかい とおかい」
 激痛に暴れ、打たれた縄を千切って逃げ出した、場の事がぼんやりと思い出されるのに、ぞわりと呪いの動く気配がし、鬼童はきつく目を閉じた。
 だが、蟲の気配はすぐに薄れて安堵の息を吐く。
 歌う禿の声が心地よい。
 蟲が騒ぐ程に餓えないのは、普通の人間と違う匂いのせいかと思う。
 主に山菜や薪を取りに山に入り込んで来た子を食べる鬼童に、女童を食べる機会はごく稀だったが、それ以上に彼女等に人間臭さがない為かも知れない、と鬼童はぼんやりと思う。
 最後の食事は少女だったな、と思い返して鬼童はふと立ち上がった。
「おにぃ?」
鬼童に問い掛ける禿の声はそのまま、鬼童は玄関へと走り出す。
 階下へ降り、不寝番が控えている筈の部屋から…嗅ぎ慣れた香りが漂うのに、くらと眩暈がした。
 強く、濃い、血の香りに誘発された飢餓に蟲が蠢き、生じた激痛にたまらず鬼童は膝を折る。
「やはり此処に隠れていたか」
 悪意に満ちた声が注ぐにも顔を上げられず、声を発そうとした喉自体に痛みが走り、強く咳き込む。
「地獄に堕ちた者はもう忘れろだと? あの陰陽師め……儂の娘が食われたというのに、コイツがのうのうと生き伸びているなど……ッ」
それまで鬼童を恐れるだけであった村人が、突如として彼を狩り立てた時、先導していたのは庄屋を務めるこの男だったか。
 動こうにも、庄屋が手にした小刀から滴る血の香りがあまりに濃く強く、痛みも増すばかりで動けない。
 その間に庄屋は手にした樽の中身を上がり口から、階段へと播いた。
 独特の質感でトロリと、板目に沿って流れるのは油だ。
 痛みを堪えても、鬼童は庄屋の顔を見上げる以上に動けず、声を上げる事も出来ない。
 だが、その眼差しに込められた意味を読み取ったか、庄屋は口の端だけを上げ、嘲笑う表情を浮かべた。
「お前は儂の娘を食ったんだ」
狂気に濁った瞳が鬼童を見据える。
 油に濡れた足袋の足で、庄屋は行灯を蹴倒した。
「は……ハハハハァッ!」
灯火は拡がる油に移り、糧のままに瞬く間、燃え広がる。
 揺らぐ炎が生み出す影は庄屋の狂気を写したかの如く、徒に不規則に踊る。
 鬼童を追って来たのか、階段の上から禿達の悲鳴が響いた。
 二階建ての商家の階段は、庄屋が阻むように立つ其処だけだ。
「お前のせいだ」
ぎらと刃に炎を写し、庄屋はゆっくりと合っていなかった焦点を、鬼童に据えた。
 眠りから覚めたらしい、遊女達のざわめきと悲鳴が聞こえる。
 彼の行いと何ら関係は持たない者を巻き込んでしまった罪悪感、救おうと思う義務感より遠い場所で、鬼童はただ花魁の仕草や禿の笑い声が喪われるのが惜しく、何故、という庄屋への憤りが身体を動かそうとするが、床についた手の指先を一寸動かそうとするだけでも、縫い止められたかの如き痛みが鬼童の動きを阻む…動くなと、でも言うように。
 立ち上る炎が天井を舐める、炎の動きを目の動きだけで追い、鬼童は愕然と胸中に問う。
 人を食らうは鬼童が存在した時からの性…ならばこの男の非道を為す心は何処から生まれたのか。
 胸の内にのみ浮かんだ問いに、しかし応えは思わぬ場所から返った。
『お前の業だ』
鬼童を内側から食む蟲が、人の言葉でそう蠢いた。