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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


湯煙の乾杯

 ガラガラ、という音と共に引き戸が開かれ、びゅう、という少し肌寒い外の風が吹き込んできた。と同時に、ふわりとした湯煙も舞い込んでくる。
「わあ……結構広いのね」
 笹川・璃生(ささかわ りお)はそう言ってふわりと笑った。澄んだ青の目で、景色をぐるりと見渡す。日本庭園を思わせる風景の中にある、岩で出来た広い露天風呂。そこから白い湯気がふわりふわりと風に乗って立ち昇っている。
「混浴ってあったけど……誰もいないみたい」
 少しホッとしたように呟いてから、璃生は露天風呂に近付いた。他に人の影は無く、ただ璃生一人だけだ。璃生は家族で温泉旅行にやってきたのだが、この露天風呂には璃生だけがやってきていた。家族たちは、後で入ろうと思っているのかそもそもこの混浴の露天風呂が好きじゃないのか、どちらかは分からないが、露天風呂に行くと言った璃生に「行ってらっしゃい」と言うだけだった。
「折角あるんだから、入ればいいのに」
 苦笑しながら璃生は呟き、そっと露天風呂の中に張られている湯に手をつけた。少しだけ熱い湯だったが、外気が涼しいから丁度いいのかもしれない。璃生は思わず微笑み、そっと足から入っていく。最初はやはり熱さが気になって仕方が無かったが、結局全身をお湯に付けてみると、その熱さは心地よいものに変わっていた。
「ううーん……良いお湯」
 お湯の中で手を伸ばして伸びをし、璃生は大きく息を吐きだす。全身が心地よい。旅行に来たと言う高揚感から、今までは殆ど疲れを感じていなかったが、やはり体は疲れていたようだった。程よい温度の中で、疲れが体に押し寄せてきた。
「気持ちいい……」
 璃生はそう呟き、ふと何かに気付く。黒い物体が、浮き沈みをしている事に。
「え?」
 璃生は思わず目をごしごしと擦り、目を開ける。やはり、見間違いや勘違いなどではなく、黒い物体が浮き沈みを繰り返している。ばしゃばしゃと弱々しく水しぶきをあげながら。璃生はそっとその物体に近付いていく。
「……ええっ?!」
 璃生は思わず声を上げ、黒い物体を引き上げる。それは顔を真っ赤にし、嘴をぱかーっと開けた、黒くてずんぐりした体をしたペンギンであった。
「な、何でペンギンさんが……」
 璃生は不思議そうに呟きながらも、ふと気付く。短い足、小さな体。恐らくは、露天風呂に入ったのはいいものの、その背の小ささの所為で頭まですっぽりと湯に使ってしまったのであろう。また、そこから脱出しようと段差の所まで行ったはいいが、短い足の所為で、あがることすら許されなかったのであろう。結果として、このペンギンは段差のところで何度も陸に上がろうとチャレンジしていたのであり、そして時間が経つと共に温かな温泉の所為でのぼせてしまっていたのであろう。
「と、とにかく熱を冷まさないと」
 璃生はペンギンを抱えて温泉から出て、脱衣所まで連れて行った。女湯の方ではあったが。そして設置されている扇風機の前にペンギンを寝させ、自分は体を拭いて浴衣に着替えた。
「大丈夫かな……?」
 璃生はそう呟き、顔を真っ赤にしたペンギンを見つめる。扇風機の風のお陰か、だんだんペンギンの赤い顔が治まっていった。そっと、その黒の目が開かれる。
「……」
 ペンギンはゆっくりと起き上がり、きょろきょろと辺りを見回し、扇風機の風に眉毛を靡かせて目をそっと閉じる。心底、気持ち良さそうに。
「あ、目が覚めたのね」
 璃生はさらりとした黒髪を靡かせながらそっとペンギンを覗き込み、微笑んだ。ペンギンはそんな璃生を見て、ようやく自分が今どういう状況に置かれているのを悟ったようだった。すくっと立ち上がり、ぺこりと璃生に向かって頭を下げた。お礼のつもりらしい。
「どういたしまして。大丈夫そうで、本当に良かったわ」
 くすりと笑い、璃生はそう言ってペンギンの頭をなでた。ペンギンはなでられて嬉しそうに目を細め、それから何かに気付いたかのようにはっとし、きょろきょろと辺りを見渡した。
「どうしたの?」
 璃生の問いにじっとペンギンは目だけで答え、ぺたぺたという音をさせながら歩き出し、ガラガラと引き戸を開けて露天風呂の方に向かって行く。
「え?」
 再び露天風呂に入ろうとでもしているのだろうか。璃生は慌てて立ち上がる。再び溺れたりでもしたら、大変だ。だが、そんな璃生の心配を他所に、ペンギンはすぐにぺたぺたという足音と共に脱衣所帰ってきた。ほっと璃生は肩を撫で下ろす。良く見ると、ぺんぎんは手に桶を持っていた。
「ああ、それを取りに行ったのね」
 璃生がそう言うと、ぺんぎんはこっくりと頷き、手桶の中をごそごそとさぐり、何かを取り出して璃生に手渡す。それは、クリーム色をした液体の入った牛乳瓶、フルーツ牛乳であった。
「私に……?」
 璃生が受け取りながら尋ねると、ペンギンはこっくりと頷く。お礼だと言っているのであろう。璃生はにっこりと笑い、それを受け取る。
「有難う」
 璃生がそう言うと、ペンギンは照れたようにほんのりと顔を赤らめ、平らな掌でぱたぱたと振った。礼等いらない、と言っているようだ。
「そうだ、まだ名前を言ってなかったわ。私は、笹川・璃生」
 璃生がそう言うと、ぺんぎんはきょろきょろと辺りを見回し、引き戸の所へぺたぺたと音をさせながら向かって行く。硝子の部分にはあ、と息を吹きかけ、そこにきゅっきゅっと音をさせながら「文太(ぶんた)」と書いた。
「文太さん……文太さんと、言うの?」
 確認するかのように璃生が言うと、文太はこっくりと頷いた。璃生はにっこりと笑い、右手をそっと差し出す。
「よろしくね、文太さん」
 文太もすっと右手を差し出し、握手する。
「文太さんは温泉が好きなのね?」
 璃生が尋ねると、文太はこっくりと頷く。そして、先ほどの露天風呂があったほうの引き戸をじっと見つめた。
「入りたいのに、入ると危険だったなんて……寂しいわよね」
 先ほどの出来事を思い出したのか、璃生の言葉に文太はしょんぼりと俯く。名残惜しそうに、引き戸の向こうの露天風呂をちらりと見つめながら。
「……あ、そうだわ!」
 璃生はそう言うと、すっと立ち上がる。突然のことに、文太は引き戸から目を離し、璃生の方を振り向く。そんな文太の視線に、璃生はにっこりと微笑む。
「お礼に、いいところを教えてあげるね」
 璃生はそう言うと、フルーツ牛乳をつかんだまま、文太を促しながら脱衣所を出た。案内板をじっと見て場所を確認し、文太のぺたぺたとした歩調に合わせながらゆっくりと歩き、一つの引き戸の前に立った。
「ここよ」
 璃生にそう言われ、文太は上をじっと見上げる。何かの看板がかかっているのは分かるのだが、身長が低い為、何と言う看板があるのかまでは確認できない。それでも必死で頑張ろうと上を見上げると、ついには後ろにころんと転がってしまった。
「文太さん!」
 文太が転がったのに気付き、璃生は慌てて近寄って文太を抱き上げ、打ったであろう頭をそっと摩る。
「大丈夫?痛い?」
 璃生に摩られ、文太はふるふると頭を振った。何となくはじんじんとした痛みがあったが、璃生に摩られ、そんなに痛くないような気がしてきたからだ。
「良かった。じゃあ、行きましょうか」
 璃生はほっとしたようにそう言い、文太を抱いたまま引き戸をガラガラと言わせながら開く。すると、ふわりとした湯気が、二人を出迎えた。
「ほら、ここなら文太さんでも大丈夫でしょう?」
 そっと璃生によって地面に下ろされた文太は、目の前にある岩場をそっと覗き込む。先ほどまでいて、溺れかけていた露天風呂とは明らかに違う点が一つあった。浅いのだ。深さが露天風呂の三分の一程しかない。
 この温泉の魅力の一つでもある、足湯である。
「ほらほら、文太さん」
 璃生はそう言いながら岩場に腰掛け、浴衣の裾をたくし上げてそっと湯につけた。程よく熱い湯が、足に染み入るように浸透していく。そんな璃生を見て、文太もそっと足湯の中に体を入れる。
「あら」
 どぼん、と腰まで入ってしまった文太を見て、思わず璃生は笑う。本当ならば、隣同士で座り、ゆっくりとフルーツ牛乳を飲もうと思っていたのだが。
「気持ちいい?文太さん」
 足湯の中に腰掛けると、丁度首の方までお湯につかる事となった文太に、璃生は問い掛ける。すると、文太は満足そうに額に手ぬぐいをかけ、こっくりと頷いた。
「良かった」
 璃生がそう言うと、文太は嬉しそうに再びこっくりと頷いた。そして、手桶の中から猛一本フルーツ牛乳を取り出す。きゅぽっという音をさせ、蓋を取る。それを見て、璃生も貰ったフルーツ牛乳の蓋を取り、そっと文太のほうにかがみこむ。
「乾杯ね、文太さん」
 フルーツ牛乳の瓶を差し出すと、それに文太はカチンという音と共に軽くぶつけた。しんと静まり返った中、その涼やかな音が響く。
「……いい湯ですねぇ」
 璃生がフルーツ牛乳を一口飲んでからそう言うと、再び文太はこっくりと頷いた。ぐびぐびとフルーツ牛乳を飲み、ぷはーと息を吐き出す。心から気持ち良さそうに。
「文太さんは、温泉が好きなのね」
 甘いフルーツ牛乳を飲みながら言うと、文太はこっくりと頷く。それから、璃生に「璃生は?」と尋ねるかのようにじっと見つめ、小首を傾げた。璃生は可愛らしい格好に、くすりと笑う。
「私も、好き。こういう静かな場所で、ゆっくりとお湯につかって……こうして美味しいフルーツ牛乳を貰って」
 フルーツ牛乳の瓶をちらりと見て、それから文太の方を見てにっこりと笑う。
「文太さんと出会えて、一緒に足湯につかれて」
 璃生がそう言うと、文太は照れたように頭を掻き、それから再びこっくりと頷いた。
 ふわりふわりと立ち昇っていく湯煙の中で、穏やかな時間が流れていっていた。静かな空間の中、程よく熱い湯につかり、同じ甘いフルーツ牛乳を飲む。ただそれだけの事だったが、璃生も、文太も、妙に大事な事のように感じているのであった。

<湯煙の中乾杯の音は静かに響き・了>