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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


エール

 倫敦の夕暮れ、街の明かりはパブの明かり。その日一日の疲れを癒す為に人々が集い、お喋りやアルコールに身体を浸して憩う時刻。

 …の筈なのに、何故か、とある一軒のパブだけは、ひっそりと静まり返っているのであった。

 「こう言う雰囲気の事を、日本ではツヤのようって言うんですって」
 「ツヤ?なんじゃそりゃ」
 デリクが、ビールのグラスをカウンターの上に置く。日本のようにキンキンに冷えている訳ではないが、日本のビールと違って、aleを代表とするイギリスのビールは、常温ぐらいが丁度飲み頃なのである。
 「あたしが知る訳ないじゃない。本にそう書いてあったんだもの。あ、あと、シンキクサイとも言うらしいわよ?」
 デリクの隣で、ウラの細い指が銀製のポットを持ち上げ、ティーカップへと紅茶を注ぎ入れる。水色の濃いそれに、ミルクポットから温めた牛乳を注ぎ入れれば、琥珀色は瞬く間にアイボリーカラーへと変わっていく。デリクは、それを横目で見ている。

 「ウラ、ミルク、入れ過ぎじゃないか?」
 「いいのよ、これぐらいで。それよりも、油の摂り過ぎの方を気にした方がいいんじゃない?」
 そう言ってウラが、何か続けたそうにデリクの方をちらりと見た。うん?とその先を促すよう、デリクがウラの黒い瞳を覗き込む。
 「油ばっかり摂ってるとハゲるわよ」
 「ええ?なんだヨ、私の事だったのか?」
 「そうよ、だってさっき言ってたじゃない。フィッシュ&チップスが〜…とか何とかって」
 ウラの人差し指が、デリクの前に置かれた白い皿を指差す。食べ掛けのそれは、イギリス随一?のファーストフード、フィッシュ&チップスである。
 「ああ、そりゃそうだ。だって、東京にフィッシュ&チップスがあるかどうか分からないんだヨ?こんな美味いモンが食えなくなるのは寂しいよなァ…」
 しみじみとデリクがそうぼやくと、カウンターの内側でマスターがその言葉に応えて軽く片手を挙げる。デリクの知人だからと言う訳でなく、本当にデリクはここのフィッシュ&チップスが好きだったから、感慨も一入なのだろう。
 「それもそうだけど、それ以前の問題として…この季節の東京よ!」
 一応、デリクの嘆きに同意は示すものの、次の瞬間、ウラは大袈裟な程の溜息をついた。スプーンでカップの中身をぐるぐると掻き混ぜるが、今の彼女の心境を現わしているのか、勢い余ってミルクティがカップから溢れ、ソーサーの上に薄い膜を張った。

 「本で読んだのよ、今の日本はツユって言う季節なんですって」
 「ツユ?…おかしいなァ。日本の季節は四季じゃなかったのか。ハルとナツの間にツユがあるとすれば、日本のシーズンは五つになってしまうじゃないか。ねェ?」
 「ねェ?じゃないわよ」
 ウラの溜息が、更に深く深く吐き出される。が、その頃既にデリクの思考は、不意に一人でどこかに行ってしまっていた。
 『…しかし、未だに解せん…ウラの件では、内部の人間に嵌められたような気がするな…』
 「日本のツユって言えば、シーズン中の殆どが雨だって言うじゃない。雨の多さでは倫敦も余り他人の事は言えないけど」
 『…いいさ。東京で挽回してやるだけだ…見てろよ、全く…』
 「あんまり雨が多いものだから、ツユの日本では三十分で食べ物にカビが生えるって聞いたわ」
 『一体誰が…いや、こんなところで考えていても埒が開かない。取り敢えず今は、ウラの事を最優先させないと…』
 「そんなのだから、日本じゃ身体にカビが生えるって本当?」
 『……………うーん、…』
 「ゴルァ!聞いてんのか、ワレ!」
 「イタタタタタタ!」
 一人の世界にイッてしまっていたデリクを呼び戻したのは、ドスの効いたウラの声と、キリキリと頬を抓る細い指であった。
 「しかも東京は物価高いんじゃ、分かっとんのか、コラ!」
 「あひっ…う、ウラ…落ち着いて……」
 「これが落ち着いていられるかい、この何かとものいりの時期に……」
 ァあ?と語尾が跳ね上がるイントネーションで、立ち上がったウラがデリクを見下ろし、目を眇める。まぁまぁ、と宥めるような声でウラの肩を押し、またスツールに座らせてからデリクが誤魔化すように笑った。
 「そうだねェ、もう少し倫敦でゆっくりしても良かったかもネ」
 「…あたしに航空券と宿泊の手配をさせておいて、そんな事よく言うわね?」
 呆れたような声でそう言うウラが凄むと、整った容貌だけに、当社比七割増しでオソロシイ。
 「まだシーズンオフの域だから良かったものの、倫敦でゆっくりしてたら、確実に夏休みシーズンよ?そうしたら航空券も滞在費も良くて二割増し、悪くて倍よ?そんな勿体無い事、出来る訳ないでしょ」
 もう一度スツールに座り直して、乱れたスカートの裾を整えながら、ウラがギロリとデリクを睨み付ける。デリクは肩を竦め、長身の身体を出来るだけ小さくすると、ぶつぶつと口の中だけで呟いた。
 「…そんな事言っても、航空券はともかく、滞在が長くなれば宿泊費は同じ事だと思うケドな…航空券だって、行きの片道しか買ってない訳だシ……」
 「何か言った?」
 冷ややかに見詰めるウラの迫力に負け、デリクは素直に「…ごめんなサイ」と謝った。

 静かな店内にはデリクとウラの二人きり。多少寂れてはいるもの、別にこの店が特別流行っていない訳では無いが、何故か今夜に限って他の客は訪れる気配はない。完全にデリクとウラの貸し切り状態のまま、夜は更けていく。
 「…あー、このビールとも暫しお別れか…東京のビールは水みたいだって聞いたが、本当かナ」
 「ハッポウシュ」
 「え?」
 ウラがふいに聞き慣れない言葉を呟くので、デリクは目を見開いて、隣に座る少女を見詰めた。
 「ウラ、なんだって?」
 「ハッポウシュって言うらしいわ、東京のビールは。ちなみにハッポウシュってのはsparkling alcoholの事ね」
 「…そのままじゃないか……日本人は感性が繊細と聞いていたが、案外、適当な国民性なのか?」
 デリクとウラの日本人に対するイメージが、微妙にあり得ない方向へと変わっていく瞬間であった。

 デリクは、グラスに残った黒ビールの泡を舌先で舐め取る。スタウトと呼ばれる、所謂黒ビールだ。苦味が強く、カラメルの焦げたような、黒に近い濃い焦げ茶のビール。グラスに残った泡も薄焦げ茶色で、口端に残ったそれを親指の腹で拭ったが、スタウトの苦味はすでに殆ど感じなかった。
 「どうしたの?」
 なにやら物思いに耽るデリクに、ウラが声を掛ける。少女はカウンターに両肘を突き、両手の指を組み合わせる。小首を傾げてこちらを見詰めるその様子は、先程ドスの効いた声でデリクを怯えさせたのと同一人物だとは思えなかった。
 「ん、いや…なんでもないヨ」
 「なんでもないようには見えなかったけど」
 くすり、とウラが笑う。釣られてデリクも口元で笑った。
 「大した事じゃないヨ。次にこのギネスが飲めるのは、何時の事かなァって思っただけさ」
 デリクの返答を聞いて、ウラは軽く目を見開く。が、すぐにその黒い瞳を和ませ、またくすりと小さく笑った。
 「そんなの、飲みたいと思えばいつでも飲めるわ。別に任務で行く訳じゃないし、期限がある訳じゃないもの。帰ってこようと思えば、いつでも帰ってこれるのよ?」
 本当は分かっている。ウラもデリクも、すぐに帰ってくる訳にはいかないと言う事を。東京へはほとぼりを冷ましに行くのだけど、その熱がいつ収まるかなんてのは、如何な優秀な魔術師のデリクと言えども、分かりはしないのだ。
 だが。それでもあえてウラがそう言った理由なら、デリクは分かる。彼女に頷き、マスターに向けてグラスを掲げて見せた。
 それを見たマスターが、新しいグラスに黒ビールを注ぎ入れ始める。
 「そうダナ。いつでも帰ってこれる、か」
 ありがとう、とデリクが小声で付け足す。隣で目を細めて笑う少女のyellに応えるべく、お代わりしたスタウトのグラスをウラに向けて掲げ、デリクとウラは倫敦の夜を満喫するのであった。


おわり。


☆ライターより
 大変お待たせ致しました、この度はシチュノベのご依頼、誠にありがとうございました!はじめまして、ライターの碧川桜でございます。
 ついつい自分がビール好きなので、危うくビールの薀蓄交えて長々と書きそうになってしまい自粛する羽目になりましたが(笑)、個人的には大変楽しく書かさせて頂きました。ありがとうございました。
 ですから、少しでも楽しんで読んで頂ければ幸いです。
 ではでは、今回はこの辺で…またお会いできる事を心からお祈りしています。