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<東京怪談ノベル(シングル)>


日常に生きる少女


「ゆ〜なゆ〜なゆ〜な! ちょちょちょちょっとっ!」
 と、すごい勢いで神聖都学園の廊下を走ってきたクラスメイトが、すれ違いざまにあたしの名前を呼びながら、キキキと急ブレーキをかけて止まった。
 あたしは借りた本を返しに図書館まで行くところだった。昼休みのいつもの習慣だ。
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないわよっ! ゆ〜な、いったいどこへ行こうっての? ダメ! こっちは通行止めっ!」
 相変わらずおしゃべりなこの子は、ハイテンションにまくしたてている。
「なんかあったの?」
 簡潔な言葉で応えると、彼女は、
「聞きたい? ねえ、聞きたい?」
 なぜか嬉しそうに、あたしの顔をのぞきこんでくる。
「聞かせて」
 彼女は満足そうにほっと息をつくと、取り戻すかのようにまた大きく息を吸い込んだ。
「この先の廊下なんだけど、中等部3年の女の子が泣いてるのよ。ただ泣いてるんじゃないの。すごい涙の量なのよ。それが、ただの涙じゃないの。聞いて驚かないで。サンなの、酸の涙なのよ! 塩酸とか硫酸よりももっとタチが悪い酸よきっと。女の子の涙が、床や、その辺のものを溶かして、どこもかしこも穴だらけ、そりゃあもう大騒ぎよ!」
「そっかあ……」
 あたしはもっともらしくうなずいた。
「だからこのまま行くと危ないよ。教室に戻ってトランプでもしよ、ねっ」
「どうしてその子は泣いているのかしら」
「なんかね、高等部1年の子に振られたんだって! だからこのまま行くと危ないよ。教室に戻って雑誌でも読も、ねっ」
「そっかあ……。でもあたし、本を返さなきゃいけないから」
「……ゆ〜な、あんた人の話聞いてたの?」
「でも、今日返さないと、次の人に迷惑がかかるし……」
 あたしは手を振り、言った。
「ごめんね、トランプは明日しようよ。じゃっ」
「ゆ〜な〜! かむばーっく!」
 悲痛な叫びを背に、図書館へ前進する。
 慣れた感じで避難に走る生徒何人かとすれ違っているうちに、現場の惨状が見えてきた。
 図書室に通じる廊下を分断している巨大な穴は、さながら隕石が激突したばかりのクレーターのようだ。半径は……10メートルくらいだろうか。見ている間にも、側面のコンクリートがボロボロと崩れ落ち、穴が広がってゆく。左の壁はすでに傾き、右の壁にいたっては完全に溶け、教室の様子が丸見えだった。
 ゆっくりと近づき、下をのぞきこむと、クレーターの中心で膝をついて女の子がすすり泣いていた。
 大粒の涙が落ちるたびに、ジュッと音を立てながら、地面から湯気が上がる。確かに溶かしている。激情が女の子を支配しているのだろう、かわいそうに、よっぽどひどく振られたのね。
 ――だけど、あたしは図書館に行かなきゃいけないの。それを止めることは、誰にもできない。
 あたしは、10歩ほど後ろに下がって、そこから一気に助走をつけた。
 ホップ、ステップ――
「たあっ」

 図書室は静寂に包まれ、さっきの大騒ぎが嘘のよう。あたしはお気に入りの窓際の席に着き、新しく借りた刺繍の本をマイペースに読みふける。降り注ぐ日差しもやわらかく、今日は絶好の読書びよりだ。やっぱり来てよかった。
 ページをめくるたび、世界が広がっていく。身体という限定された空間から解放されたような気分になる。まさに至福の時。怪奇現象が日常茶飯事のここ神聖都学園において、図書室でだけは面倒な揉め事が起きてはならないという不文律が存在しているかのようだ。
 あたしにとって、ここが日常。幽霊が出たり、暴走機関車が出たり、校舎から温泉が湧いたり、恐竜が出たり、ジャングルになったり、水没したり、昼夜が1秒ごとに入れ替わったり、龍神が巫女を求めたり、悪魔が迷子になっていたり、天使がその悪魔に恋していたり、座敷童子が授業を見に来たり、トイレの花子さんがストライキして使用禁止にしたりして、それでみんなが大騒ぎしても、あたしはいつだって傍観者で、文字の羅列から新しい刺繍のアイディアをつらつらと生み出している。そのふたつは、決して相容れることはないみたい。
 きっと世の中には、日常と、非日常のふたつの世界が存在するのだ。
 でも……あの酸の涙を流すくらいに激しい、女の子の誰かを想う気持ちは、日常? それとも非日常?
 その答えはきっとこの本の中にある。
 みんながもっとこの本を読むようになれば、世界は少し、平和になるのにね。


おわり