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<東京怪談ノベル(シングル)>


心苛むは灰色なる毒

 これはまだ全てが灰色にしか見えていなかった、時間の流れに沈んでいた頃の事。


 露樹・故(つゆき ゆえ)は目の前に沈もうとする夕日を見て口元だけで笑った。
「俺の体を……赤く染めようとするかのようですね」
 故の持つ漆黒の髪も、緑の目も、全てを赤に染めようとするかのごとく、夕日は容赦なく故の体を包み込んだ。
「本当に、下らない」
 故は小さく呟き、くつくつと笑った。否、笑ってはいない。彼の口元は、確かに笑っている。彼の喉は、確かに笑みを生み出している。しかし、彼の目は一ミリたりとも笑ってはいなかった。温度を感じさせぬ冷たい目は、ただじっと夕日によって染め上げていく東京の町を見つめているだけだ。浮かんでいる笑みすら、感じさせないままに。
「この町に、一体どれほどの価値があるというんでしょうかねぇ?」
 立ち並ぶ高層ビル、忙しく行き交う人々、途切れる事の無い雑音。ネオンが煌びやかに光り、寝ることすらしない人々が徘徊しているこの町に、夜というものが訪れる事すら許されぬ。夜とは、ただ暗くなるだけの現象だとでも言うかのように。
「この町に……人間に……!」
 故は冷たい目で眼下の町を見つめながら、吐き捨てるように言った。
(恐るべき変化ばかり遂げた、東京)
 変わる事だらけで、同じ時を刻もうとはしない。故の知り得る限り東京の町は、変貌してばかりだった。ただの荒地になり下がった時もあった。少しずつ建物が建つようになってきた。
 それが今やどうだろう。空はいつも薄暗く、完全なる青空を見ることすらも叶わぬのだ。故の知る青空とは、全く異なる東京の空。いつも空にはうっすらとした雲がかかっているのだ。
 水はそのまま飲む事を許さぬ。飲み水は水道から出てくるのではなく、今や買わねばならぬのだ。水道の水を飲み水とするためには、手を加えなければならぬ。煮沸や、洗浄器具の取り付け。
「……一体如何ほどの価値が」
 故は吐き捨てるように呟く。嘲笑すら、含みながら。そうして、ふと思い返す。先ほど遭遇した、他愛も無い出来事に。


 それに気付いたのは、単なる偶然だった。
 友人と言おうか腐れ縁と言おうか、いずれか迷う部類の男に会いに行こうとしていた時であった。故は路地の暗がりからする声に気付いた。
『会いたいのに』
 声はそう呟いていた。故はさかさかと歩いていた足をぴたりと止め、声のする方に向かっていった。路地は暗く、狭い。人が一人やっと通れると言ったくらいであろうか。そこを突き進んでいくと、女がいた。否、女の霊がいた。長い髪の、普通の女である。
「……誰に会いたいんです?」
 ぽつりと、故は尋ねる。女ははっとしたように顔をあげ、故を見つめた。女は暫く故を見ていたが、やがて俯く。
『あなたには分からないわ』
「ええ、分からないでしょうね」
 女の言葉に即座に故は答えた。女は俯いたまま、ぐっと唇を噛み締めたようであった。
『何も知ろうとしないのね』
「いえ、教えてくださるのならばそれで俺は知ることにはなりますけど?」
『私に何の興味も無い人が、どうしてここまで来たのよ?』
「声がしたから、何事かと思っただけですよ」
 暇だったし、という言葉は黙っておくことにする。何気なく声の主を辿っただけなのだから、そこまで言ってやる必要は無いと判断したのだ。
『そう……。なら、教えてあげるわよ。私はね、会いたいのよ』
「誰に?」
『誰にって……大事な人に、よ』
「だから、それは誰なんです?」
 霊は、長い間現世に留まっていると細かい記憶はどんどん消えていき、感情や思念だけが残るのだと言う。この女も例外ではないようであった。感情だけがしっかりと残っているのに、肝心の具体的な名前が出てこない。だが、故は容赦なく女に尋ねる。
『だから、だから……私の大事な人に……!』
「残念ですねぇ。その人が誰か分からなければ、俺には全然分かりませんよ」
 故はくつくつと笑う。
(馬鹿な女だ)
 女は『あ、あ、あ……』とうめきながら頭を押さえ込んでいる。自らの思い出せぬ記憶を、必死に思い出そうとするかのように。
(名前すら思い出せもしないのに、会いたいと思うなど)
 故はくつくつと笑う。故が笑っている事にすら、女は気付かない。思い出せぬ記憶に夢中で、周りが全く見えないのだ。
『会いたい……誰に……?会いたい……あの人に……誰?誰に?私は……私が会いたいのは……私は……誰?』
「おやおや……あなた自身のことですら分からないのですか?」
 故はより一層くつくつと笑う。女は頭を更に押さえ込んだまま、必死になって記憶を辿る。自らの記憶、持っていたはずの記憶。それが今、引き出す事が適わぬ。
『私は……私は……!』
 必死な女に、故はそっと囁くように言う。ただ、一言だけ。
「あなたはあなたである意味が、何処にあるんです?」
 爆弾のようだった。鮮やかな一瞬のようだった。女は声にならぬ悲鳴をあげ、故に目線すら送る事なく消えてしまった。故はそれを見、満足そうに小さく笑う。
「……意味など、無いんでしょうね」
 故は小さく呟き、路地から抜け出す。暗かった路地とは違い、表通りは明るい陽射しが容赦なく照り付けていた。
(あんな女の声にすら気付かぬ、人の波。何も知らぬ高層ビル)
 故は再び歩き出す。友人の男に会いに行く事はすでに止めてしまっていた。
(何とも脆い、儚い存在)
 一瞬、10センチほどしかない妹に会いに行こうかと考え、止める。彼女はきっと、奔放しているだろうから。苦笑を漏らすほど、
(俺にとっての一瞬を、必死でもがく存在たち)
 故は歩く。ただただ歩く。幾人もの人間とすれ違い、たくさんの車が近くを走り抜けていき、数え切れぬほどの建物の横を通り過ぎていった。それらは皆、悠久とも思われる年月を生き抜いていく故にとっては、ただの一瞬に存在するとしか思えぬものたちである。
 街中にある大きなスクリーンでは、ニュースをしていた。人と人との争い、下らぬ日常の一こま、犯罪を犯した者たち、愛らしい動物達の出来事、季節による催し物の数々。
(なんと小さい……なんと悲しい存在!)
 長い目で見れば、同でもいい出来事たちにしか過ぎぬ事を、大々的に報じるニュース。それらを興味の目で、または深刻そうな目で、またはにこやかな眼差しで見つめる者達。そのどれもが故にとっては不愉快さしかもたらさず、そのどれもが故にとってはどうでもよい出来事でもあった。
(どうでもいい?……いいえ)
 厳密な言葉の違いに、故はぎゅっと唇を噛み締めた。では、どういったことなのかと聞かれると、それはそれで返答に困った。故には答えられぬし、またどういう事なのかを答えるものなど誰もいなかった。
(そう……誰もいない)
 故はぎゅっと手を握り締めた。長い年月を生きるという事は、長い年月を経てきたという事は、つまりはこういう事なのだと。誰に分からなくても、故には分かる。長い年月を過ごしてきた故だけには。
(誰も……誰も……!)
 故は笑った。くつくつと笑い、足を止めた。何が可笑しいのかも分からぬままに。


 夕日は完全に沈み、光は町の端にうっすらと浮かび上がっているだけに過ぎなくなった。光が無くなれば、あとは闇の世界が待ち受けているだけだ。
「闇ですね……もう、光など無い世界がくるのですね」
 故は小さく呟き、じっと空を見つめた。眉間に皺が寄せられている。
(闇の世界など来ないんですね)
 ネオン等の光により、完全な闇の世界はやってくることは無かった。だがしかし、かといって完全な光の世界でもない。
(なんと曖昧な)
 光の世界と言うには、先ほどまでの太陽のある状態の方が強烈であった。何といえばよいのだろう。曖昧な、どっちつかずの世界。
「どろどろ、ですね」
 故はぽつりと呟く。完全ではない、光でも闇でもない世界。気を抜くと、ずぶずぶと落ちていくかのようだ。
(名すらも明かせぬ長の思いまで……沈んでいくかのようですね)
 遭遇した出来事を思い返し、故は再び眉間に皺を寄せる。全てを忘れても、忘れる事の無かった感情。長い年月の間にも忘れなかったのだ、あの女は。逆に、故はどうだろう。具体的なことを全て覚えているからと言って、あの女以上の感情を持ちえているといえるであろうか。あの女の存在を言える立場にいるだろうか……?
「いいえ……いいえ!」
 故はきっぱりと言い放つ。誰に聞かれた訳でも、誰に言われた訳でもない。だが、言わずにはいられなかった。
(俺が、憧れなど……!)
 故はぎゅっと手を握り締める。空は暗くなっているのに、町の明りのせいで光に照らされているのだ。完全な闇など無い。完全な光など無い。ただの、一欠けらですら!
(蝕まれる、沈む……このどろどろに)
 月が出ていた。曖昧な空の中にぽっかりと浮かぶ、青白き月。
「俺は、俺のまま……」
 故はそっと呟き、東京を見下ろしたまま小さく口元だけで笑った。それは嘲笑にも似ており、また自嘲にも似ていた。


 青白き月下の光は、曖昧な世界を照らすこともしなかった。薄暗き世界は、心の中の穴をぎりぎりと締め付けるだけだった。静かに、だが確実に、苛めるかのように。

<それはまるで毒の如く・了>