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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


繰り返し辿りつく、其処に

 陽が落ちても緩む事のない暑気に沈む町、その一角にて繰り広げられる追跡劇。
 それは逃亡する者にとって追われる理由が全く判らない一方的な追跡――否、狩り、だった。
「何処へ――行った……? 出ておいで。まだ遊び足りないだろう……?」
 底知れぬ低音が逃亡者――池田屋兎月の背筋に凍える恐怖を生じさせ、遥か昔の記憶の扉を激しく叩く。
「お前は……お前達には明るい太陽の下は似合わない。私が相応しい場所へ連れて行ってあげよう……」
 兎月が身を潜ませたのは、男からは死角となっている家の外壁の影。逃げ続けて小一時間程は経っているが、そこは人と異なる存在である兎月である。息の乱れは無く、気配を殺し隠れるのに難くはない。
 だが、相手も只の人ではない……兎月の正体を見破ったからこその追跡。それだけの能力がある者を前に、今のこの状況がどれだけ維持出来るか。
「大人しく出ておいで……?」
 楽しげでありながら、陰鬱な声が徐々に近付いて来る。それとともに、記憶が更に鮮明に姿を表し始める。
 人を害したわけではない。ただ、普通の物言わぬ器物でなくなっただけ。その存在を顕わにしてしまっただけ……それだけで追われ、捕えられ、そして。
 封じられていた。
「驚かせてしまって悪かったね。もう、攻撃をしたりしない。酷い事はしないから」
 もし、この台詞が攻撃を受ける前に発せられていたならば、兎月は言葉に促されるまま出てしまったかも知れない。
 相応しい場所というものが何であるのかは判らないが九十九神である自分には確かに陽の下は似合わぬのかも知れず――今は既に主となる人間が在るにしろ――人ではない己に相応である場所を彼が知るのであれば話だけでも聞いてみようと、まんまと誘い出されていただろう。
 兎月は人を疑う事を得意としていないのだ。
 だが、幸いと言うべきか、追跡者は兎月を誘う言葉の前に攻撃を仕掛けて来たのだ。
 退魔の力を帯びた小刀が足下に突き立った。それを避ける事が出来たのは単なる偶然だ。
 夕食の支度を前にして、調味料の不足に気付き自ら買いに出、その帰り。道に咲く木菫の美しさに思わず立ち止まったその瞬間。右足のほんの僅か先に突き立った小刀。もし花に見蕩れ立ち止まらねば足の甲を貫いたであろう、白い刃の煌めきを思い出す。
「隠れていても、いずれ見付けるよ……?」
 更に重ねられる言葉にも、兎月は動かずじっと相手の気配を探っていた。下手に身動きは出来ない。それでなくとも声は近付いている。いずれはこの場から動かねばなるまいが、そのタイミングを誤ってはならない。
 兎月には、反撃の意志はなかった。逃れる事さえ出来ればいい。
 探る動きで、左手で背後の壁に触れた。無意識の動作で触れたそこに伝っていたものに、卯月は気付いていなかった。
 かさ、と乾いた音が立つ。
 咄嗟に手の先を確かめた。そこには壁を這う、枯れた蔦があった。
「……そこに、居るのかい……?」
 立てた音は幽かだった。だが、その音に乱した気配を悟られたか、発見を知らせる声は弾み、距離が急速に縮まるのが判った。
 ――仕方がありませぬ。
 タイミングを計っている暇は潰えた。今はとにかくも、この場から離れねばならない。
 卯月は壁から背を離し、駆け出した。

「遅く……なってしまいました……」
 歩く、と言うよりも軽く走るに近い速度で弓槻蒲公英は帰り道を急いでいた。
 蒲公英は私立校、初等部に在籍する小学生である。放課後、図書室で以前から読んでみたいと思っていた童話を見付け、あと少しあと少し、と読み進めている内に日が暮れてしまったのだ。
 本当は借り出して、持ち帰ってから読むつもりでいた。だが、最初の頁だけ、とつい読み始めてしまったのがいけなかった。気付けば時間の事などすっかり失念していたのだ。
「夕飯の……支度に間に合わなくなってしまいます……」
 蒲公英の父親の仕事は夜からである為、少しでもゆっくりと食事を味わって貰う為には早めに支度をしなければならない。それなのに。
「とーさま……ごめんなさい……」
 自分が時間を忘れて読書に熱中したせいで、食事の時間が遅れてしまうかも知れない。そう思うと蒲公英の胸は痛む。
 蒲公英は逸る心のままに帰路にある公園を抜けようと足を園内に踏み入れた。
「……え?」
 夕暮れの昏い光の下に佇む木々の枝葉がざわついている。
「……? 何か……あったのですか?」
 蒲公英は揺れる枝葉を見る。彼等が何を言っているのかは蒲公英には判らない。だが、その黙した思考に潜む意志を受け取る能力は有していた。
 木々の意志は一方を示している。
「あちらに……何かあるのですか」
 木々の様子から、恐いものではなさそうだと推測し、それでも正体の知れぬものへの僅かな恐怖は拭えず、そろそろと示された方へと歩む。
 本来の緑を、街頭の光に透かして暗黄色に染めた銀杏の下に、アベリアの茂みがあった。それが蒲公英に判る程度に、幽か、さわと葉と小さな白い花を揺らした。
 まるで大事に抱え込み、隠し守るかのような、優しささえ感じるそれに、蒲公英は警戒を解く。
 彼等は自分に何かを託そうとしている――そう、思えた。
 途端、急がねばならないような感覚に襲われ、蒲公英は茂みへと足を早めすぐ傍らに辿り着くと土で汚れる事も厭わず膝をついた。更に手をついて、茂みの下から中を覗き込む。
「………あ」
 そこには、枝の影下でも白く姿を浮かび上がらせる、一羽の兎が居た。

 目が覚めて、卯月がまず始めに見たのは籐らしき素材で編み目だった。
 辺りを見れば、身体の下には柔らかなクッション。周りは編み目にぐるりと囲まれている。そこまで確認して、自分がバスケットの中に居るであろうと予想がついた。更に自分の現在の居場所を確認すべく伸び上がろうと前脚と後ろ脚に力を入れようとし、激痛が走った。
「……ッ」
 痛みに身を竦め、卯月は思い出す。
 ――そうでした、脚を……
 追っ手に見付かり、逃げる途中、投げられた小刀で後脚を傷付けられた。直後、兎の姿へと変じ何とか逃げおおせた――と思ったが。
 結局捕われてしまったか、と思うがその割に拘束されている気配が無い。封じを受けてもおらぬし、結界が張られている様子も無い。
 痛む脚へと目をやれば、そこには丁寧に包帯が巻かれていた。手当てをされている。
 もし、あの男に捕われたのであれば、拘束もなく、手当てがされているなどと言う事は有り得ないだろう。
 ――いったい、何方が。
 痛みを我慢して暫く走り続けたものの、追っ手を巻いた事で気が抜けたのか、公園にさしかかった所で力尽き、ようよう辿り着いた茂みに身を隠した。そしてそのまま眠っていた、自分をここまで運んでくれたのは誰なのか。
 卯月は今度は後ろ脚に負担がかからぬように、身体に力を入れ、首を伸ばした。
「あ、兎さん、気が付かれたのですね……?」
 卯月がバスケットの外を見ようとしたと同時、美しく艶やかな黒髪が印象的な少女が顔をのぞかせた。
 突然の事に心の準備が無かった卯月は首を伸び上げた姿のまま硬直した。
「驚かせてしまいましたか?」
 少女は心配げな表情を見せる。
 卯月は慌てて首を振ろうとし――止まる。自分は今兎なのだ。言葉が判ろう筈のない、ただの兎。
 己に言い聞かせるように繰り返し、卯月はなるべく自然に見えるよう、首を引っ込めた。
 一拍置いて少女が中を覗き込んで来る。
「脚を怪我していらしたので、手当てをさせて頂きました。お腹が空いてますでしょう……? 今何か持って来ますから……」
 少女は兎である卯月に、まるで人間と話すかのように丁寧な口調でそう言い、姿を消した。
 卯月は詰めていた息を吐き出そうとし……
「あの」
 再びの声にびくりと背を震わせた。
「また驚かせてしまいました……ごめんなさい」
 少女が恐縮して頭を下げる。
 ――いえ、謝って頂くような事ではありませぬ。
 卯月は心中でのみ少女に言う。兎の姿では話す事は出来ない。話せたとしてもこの姿で話すわけには行かないだろう。伝えられない心の内がもどかしかった。
「本当にごめんなさい……。わたくし、弓槻蒲公英と言います……あの、何もしませんからどうか怖がらないで下さい。早くおうちに帰りたいでしょうけれど、その脚で無理はしない方が……いいと思うんです」
 少女……蒲公英は、必死な面持ちで言うと、微笑んだ。ゆるく傾けた顔とともに、髪がさらりと流れた。それとともに、長い前髪が揺れ、瞳が覗く。それには柔らかな、温かい光が点っている。
「怪我をされていて……血が出ているのを見たときはどうしようかと思いましたけれど……良かったです。目を覚ましてくれて……」
 ほう、と吐息を漏らすその表情は心の底からの安堵の色。
 それを見た自分の身体が緊張を解くのに、卯月は気付く。自分でも知らぬ内に身を固くしていたようだ。
「どうか、もう少し……安静にしていて下さいね……?」
 お願いします、と少女は再び頭を下げ、そして場を後にした。
 卯月は先の台詞から、自分の為の餌を取りに行ってくれたのだと理解する。
 余所様のお嬢様に御迷惑を――
 身も知らぬ兎を連れ帰り、手当てをし、今度は食事を与えようとしてくれている。
 優しい少女だ。
 卯月が本物の、愛すべき小動物ではないと知らず、親身になってくれている。それを思うと酷く申し訳なく思えた。

 蒲公英は卯月をそっと籠から出した。
 籠から出されたそこは、ベッドの上。ベッドの脇に置かれた可愛らしい縫いぐるみや、ピンクのカーテン等、可愛らしい色と小物で統一された雰囲気で蒲公英の部屋であろうと判る。
 目の前に皿が置かれる。上には食べ易いようにと気遣ってか、スティック状にカットされた人参がある。
「今はこれしかないのですが……食べられますか?」
 卯月は肯定の変わりに人参を齧った。
 人でもなく兎でもない身は、食事を摂らずともそれが即体力の消耗には繋がらない。だが、傷を負った今は、どのようなものでも、栄養の摂取に繋げる為には有り難かった。
 足に負った怪我は、退魔の力を帯びた武器によって付けられた傷である為、物理的な傷であるだけでなく霊的な「力」を放出する出口にもなってしまっている。体力回復の為にも、気の回復の為にも少しでも栄養を摂るのは今の卯月には必要な事だった。
 だが、獣形で食物を口にする事は滅多にない。一口齧って咀嚼したそれは、いつもより甘いように感じられた。
 少しずつ齧り、味わうように咀嚼する。
 人参の甘さが身に染みるようだった。食べている内に勢いがつく。夢中で人参に齧り付く。
「ただの人参ですけれど……お口に合ったようですね……」
 良かった、と蒲公英が微笑む。
 蒲公英は卯月が食べ終るまで傍らで座していた。傍らに在るものの視線を卯月に向ける事なく、人参の皿と共に持って来た絹莢の蔕と筋を取っている。緑鮮やかな房を一つずつ、手に取っては丁寧に筋を取り、籠に戻す。
 卯月には、蒲公英がそうして自分に気を向けないのも卯月の気を散らさぬようにとの気遣いである事が判っていた。
 食事に集中しながらも、少女の一つ一つの優しさが温かく、それだけで癒される思いがする。
 少女は気付いているだろうか。そうした無言の優しさが、与えられる心が卯月にとって一番の癒し手である事を。

 卯月は人参を綺麗に平らげ、蒲公英を見た。
 そして不思議に思う。
 自分が公園に辿りついたのは日も暮れようという頃、どれだけ意識を失っていたか知れないが、窓から見える景色は夜のものだ。
 先程から、少女は一人でこの家に在るように見える。実際、これまでに家人が顔を出す事はなかったし、気配を探ってみても現在のこの家に少女以外の存在は感じられなかった。
 ――この年で今時分、一人で……?
 それはとても寂しい事ではないのだろうか。
 夕飯はもう済ませたのだろうか。
 親が戻るのを待っているのだろうか。
 考える程に気になり、卯月は落ち着かなげに身じろいだ。
 気配に気付いたか、蒲公英が籠から顔を上げる。
「まだ、食べますか……?」
 咄嗟に卯月は首を振って――硬直する。
 ――しまった……!
 「ただの」兎が、言葉に反応してしまった。
 気分的には冷汗一筋――な卯月を見て蒲公英は笑む。
「お腹いっぱいになりましたか……? じゃあ、お皿は片付けますね」
 蒲公英は皿と、絹莢の入った籠を手に部屋を出て行く。
 未だ幼い故に気にならなかったのだろうか。
 卯月は暫く呆然と固まっていたが、ふと、頭をベッドの上に落した。
 力が入れば、失態を重ねる事になろう。気負わぬ事に決め、少女の好意にもう少しの間世話になろうと決めた。せめて動きがとれるようになるまでは。
 再び戻って来た蒲公英は、机の横に置いてあった手提げ袋から細長い袋を取り出した。中から出て来たのはソプラノリコーダー。
 買い物の時など、小学生が数人で思い思いに吹き乍ら歩いているのを見た事があった。
「……あの、明日……リコーダーのテストがあって……。あまり上手じゃないのですけど……練習させて下さいね」
 ベッドの端に腰掛けて、蒲公英は頬を染める。恥じらう姿が可愛らしく。
 卯月は了承を示すように、上げた顔を揃えた前脚の上に預けた。
 意が伝わったのか、蒲公英はおずおずと吹きはじめる。
 その曲を、卯月は知らない。だが、柔らかな旋律が心地良かった。
 昼間の暑気が薄れた、夜。薄く開けられた窓から夜風が入り込んで来る。
 それが笛の音と共に、卯月を眠りへと誘う。
 いつしか卯月は、紡がれる音に揺られるように、眠りに落ちていた。

 朝を迎えて、蒲公英は忙しくと動き回る。学校に行く支度をしているようだ。
 鏡の前で髪を梳かす。それは梳かす必要が無い程に、ブラシを通す。朝日を受けて艶やかに美しい。
 卯月が脚に負担をかけぬよう、身を伸ばすと、蒲公英はブラシを持つ手を止め、卯月を見てぱっと表情を明るくした。。
「兎さん、お早うございます。お加減はどうですか?」
 卯月は脚を少し動かしてみる。痛みは大分引いていた。
「少し……良くなったのでしょうか。でも急に動いてはだめですよ?」
 言って、蒲公英は机の上に置いてあった皿を卯月の傍に移した。
「朝ごはんです……私は少し出掛けますけれど、ゆっくりしてて下さいね?」
 そして、支度に戻ろうと動きかけ、迷うように踏み出しかけた足を返し、卯月の側に寄り膝をついた。
 視線が少し近付く。
「……あの、兎さん」
 卯月は蒲公英を見る。
「わたくし……この家でとーさまと二人で住んでいるんです。とーさまは夜お仕事をしていて……いつも夜は一人なんです……」
 だからか、と卯月は思う。だから昨夜家人の姿を見なかったか。
「でも……昨日は兎さんがいらして下さって……怪我をしていらっしゃるのに、こう言うのはとても不謹慎かも知れないですけど……」
 蒲公英は胸の前で手を握り合わせる。
「……でも、兎さんのおかげで昨日は寂しくなかった、です……」
 ありがとう、と言う声は小さく、だが卯月の耳には届いた。
 卯月は合わせられた手に、頭をすり寄せた。それから見上げた少女の笑顔を、卯月は一生忘れないだろうと思った。

 蒲公英は学校の帰り道を急いでいた。
 家に置いて来た兎の事が気掛かりでならなかった。
 傷跡は刃物による傷。しかもそれは普通の傷ではないように見えた。異能の力――退魔の影響を感じた。
 傷付けた者に見付からないだろうかと、手の中に隠すように連れ帰り、手当てをした。
 朝の様子では、大分状態が良くなっていたようだった。だからこそ学校へ行ったのだが。
 ――お休みすれば良かったです……
 大事は無いだろうが、そう判っていても落ち着かなかった。一日くらい休んで側に居てやった方が良かったろうか。
 そればかりが頭を巡り、勉強どころではなかった。
 昨日以上に、半ば駆けるようにして家に着き――それに気付く。
「……これは……?」
 扉の前にはバスケットが置かれていた。中には沢山の菓子。
 マドレーヌ、フィナンシェ、クッキー。ありとある西洋菓子が、リボンや、包装や花に飾られて籠に収まっていた。
「きれい……」
 でも、誰が、と首を傾げたところで、菓子に挟まる形で紙片があるのに気付いた。
 見ればそこには文字がある。

『私の兎が御面倒をお掛けしました。
 とても大切にして下さったようで、怪我も大した事はなくて済みました。
 感謝の気持ちと共に、お菓子をお贈り致します。
 有難うございました』

 兎の飼い主からのようだ。
 兎は無事に家に帰る事が出来たのだ。
「……良かった」
 蒲公英は呟いて、籠を抱き締めた。
 籠の中の薫りが甘く鼻を擽った。
 
 卯月は離れた場所で、少女が扉の前のバスケットに気付き、カードを読むのを見ていた。
 やがて少女の口許に微笑みが浮かぶ。
 卯月に見せたのと同じ、優しい笑顔。
 卯月は今迄様々な人の姿を見て来た。人でない存在と言うだけで、卯月を意味も無く傷つけようとする人間も決して少なくはなかった。
 だが、少女のような人に会う度に、主人や、彼を取り巻く人々を見る度に思うのだ。
 それでも自分は、人の傍らにありたい、と。
 傷付く事を知っても。痛みを知っても。
 やがて辿りつく思いはいつも同じ。
 卯月はゆっくりと踵を返した。
 そして邸に向かって歩き出す。敬愛する優しい人々に、心を込めて食事を作る為に。