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掌の上の秩序
競って天を目指す様に立ち並ぶ高層ビル、広い道路を埋め尽くす車、歩道もまた、沢山の人で占められそこにゆるやかな空気の入り込む隙はない……大都市ゆえの喧噪。
エリス・シュナイダーは道の脇でそれらを眺めていた。
その姿は傍から見れば人待ちをしているように見えるかも知れない。目の前を過ぎて行く人々を茫洋とした表情で見送り続ける。時折、額にかかる茶の髪に無意識に指を絡ませて、無意識に指を遊ばせ、それでも視線は人の群れに据えたまま。
人々は時折、エリスに視線を寄越すが立ち止まるには到らない。
スタイルの良い長身に紺のスーツの上下、膝上のスカートからは黒いストッキングに包まれたすらりと長い足が伸び、姿勢良く佇むその姿は、人目を引かずにはおれぬものの、何処か声を掛けるには躊躇わせる空気があった。その瞳が青く異国の色彩である事を差し引いたとしても、だ。
エリスは雑踏の傍らに在りながらもまるで人々との間に境界でもあるかのように決して彼等に混じる事なく、観察者の如く瞳を道を行く人々に向けていた。
無秩序な、それぞれに歩み行く人の波が変化したのはエリスがそこに立ってからどれ程経った頃だろうか。
人の流れが徐々に変化して行く。
何かに惹かれるように、操られているかのように、流れが一方へ収束して行く。
――あちらに、何が。
エリスは群れが目指し始めた方向へ疑問と視線を向ける。
答はすぐに与えられた。
最初それは積載量の大きいトラックが齎すものかと思われた。
足下が幽かに揺れる。地響きが身体に伝わって来る。エリスは足下を見た。
――違う。
揺れは次第に大きくなる。それと共に地響きも高くなる。地震とも違う。
「あれは」
揺れる足下を見ていた顔を上げた、その視界に入ったもの。
高層の建築物、その中のどれよりも高い位置に在る、それは人の顔、肩、胸。
ビルの間を縫うように、ゆったりとした動きでそれは次第に姿を現して来る。
紺のエプロンドレス、黒いストッキング……メイドの衣装を纏った女性だ。
都市を貫く一番広い道路を歩むその下にあるそれまで道路を占拠していた車は何時の間にか彼女を迎えるように端に寄り、停まっている。
人々は、その彼女へと向かっているのだった。忙しく、足早だったその動きは緩み、緩慢に、顔には幸福そうな表情さえ浮かべて。
映画や小説が描く物語の中でしか有り得ない光景。巨大な女性が都市に現れる等と言う度が外れた異常。それに恐怖することなく、逃げもせず――それどころか自ら女性に向かって人々は集まって行く。
ビルの中から、車から、地下鉄の出入り口から、人は現れ群れの波となって女性へと打ち寄せる。
エリスの中にも彼女への恐怖は無かった。女性は周囲の建物や車、人に対して危害を加えてはいない。何者にも傷を付けぬよう、壊さぬよう気を遣って歩んでいるのが判ったからだ。
車も人も彼女の進行を邪魔をせぬように道をあけてはいたが、それでも稀に道に残された車があった。だが彼女は意図的にそれを避け、決して踏んでしまう事はなかった。
エリスはずっと立ち尽くしていたその場から、ふらりと離れた。周囲に影響されたのか、それとも興味が引かれたのか判らぬままに、人の流れに混ざり共に女性を目指す。
歩み乍らエリスは気付く。
「靴を……履いていないのですね」
誰に言うでもない呟きを、隣を並んで歩いていたOLらしき女性が拾ったか、答えた。
「この街に入る前に脱いだんですって」
エリスは女性に注いでいた視線を、隣に移す。女性は高揚したような口調でうっとりと言う。
「靴についた岩や土砂を街に持ち込まないようにとの配慮なんですって……」
優しい方、と言ってOLはもう、エリスを見ず待ち切れないとでも言うように、足を早めてエリスを追い越して行った。
OLに感じた高揚感は、彼女に限った事ではなかった。周囲の人々、その全てが何処か浮ついた、奇妙な高揚感を共有しているように見える。
早く、行こう、彼女の許へ。
さあ、行こう。
彼女が、待っているよ。
ざわめきの中に聞こえる声は、異口同音に。
エリスはこの高揚感に覚えがあった。
「お祭のようですね……」
熱に浮かされたような高揚、共有する感情。
都市を包む熱気が、夏の日射しを上回って膨れ上がって行く。
膨れて、混じりあって、空へと昇華するような。
エリスは歩みを止めぬまま、瞳を閉じた。抑え難く胸の裡から沸き上がって来るものに身を任せた。それは不思議と心地よかった。
女性の足下まで近付くと、そこは更に熱気が渦を巻いていた。集った人々は佇んでいる巨大な女性の足に触れ興奮したように喜声を上げる。かと思えば、携帯電話に付属したカメラで女性を撮り、記念撮影をし、女性の爪先に昇り楽しげに談笑する。
だが、これだけの人が集いながらも、争いはなかった。それぞれに目的を達成すると後続に譲り、少し離れた場所から、やはり女性を見上げて見蕩れたように立ち尽くす。そこには静けさが漂う。
興奮と高揚に包まれてありながら、場にあるのは秩序。相反する現象が、同居している。
おおいなる喧噪と、静穏が居合わせる事など有り得ようか。だが、確かにそれはエリスの前に展開している。
「おお……!」
突如、多くの声が上がった。女性が大きな両の掌を地に置いた。どうやら乗れと言う事らしい。周囲に在った人々が、順に昇りはじめる。スペースが埋ると、女性はそのまま立ち上がる。
歓声が上がった。女性を中心に、歓喜の声がさざ波のように広がって行く。
そのまま、彼女は近くのビルに腰を下ろした。だが、ビルは少しも揺らぐ事はなかった。そして掌の上の人々は、女性と語らう。
その様は、天から遣わされた救世主が惑う人々を教え諭すそれを思わせて、聖なる書物に記された一話のように。
下からは、手の上にある人々の顔を窺う事は出来ないが、きっとその表情は穏やかに、歓びに満ちたものだろう。エリスはそう確信している自分に気付く。
人々は自然と女性の前に列をなしていた。掌の上の幸福を得る為に。そしてそこにもやはり争いはない。誰に指図されるでなく、従順に、粛々と人の道が連なって行く。
エリスも列に加わった。
早く早くと逸る思いがあると言うのに、心は静かだった。それは列をなす人々全ての思いだった。
人々は同じ思いで集った、共同体だった。
その思いを齎したのは、人々の中心にある女性。表情は穏やかに、青い瞳が優しい。語る声は低く耳に染み。エリスはその全てに懐かしいものを感じて、胸に手を当てた。
――この人々はわたくしと同じ。わたくしは彼等と同じ。
自分は彼等の一部。彼等は自分の一部。
そして。
――彼女は、わたくし。
水底から気泡が浮かび上がるように、浮かび上がった思考が胸を占める。
――わたくしは、彼女。
胸を占めるものが、身体中に広がって行く。柔らかな波紋を幾つも作る。
エリスは顔を上げた。大きな掌が、エリスを迎えるように置かれている。
ゆっくりと、掌の上に上がる。後ろに沢山の人が続く。
掌が上がって行く。徐々に景色が変わって行く。建物の窓が次々と視界の下へ降りて行く。
天へと近付いて、行く。
「ああ」
眼前に広がった景色に、エリスは声を上げた。
高層ビルと呼ばれる建物が眼下に広がる。陽の光を受けて、建物が自ら発光するように白さを増している。ビルの連立を超えて更に彼方に玩具のように配された家々。血脈のように家やビルの合間に伸びる道、道。
何もかもが小さく、遠く、けれどまるで自分の掌の上にあるかのよう。
見上げれば空が近い。東京の空は青が薄いと誰かが言っていた。言った者は知らないだけだ、と空に瞳を奪われて思う。
今見る空は濃く、深く、ただ青い。
空から瞳を落し、振り向けば、女性がこちらを見ていた。
エリスは手を上げた。躊躇いがちに、振る。
彼女は微笑んだ。
――彼女の微笑みはわたくしの、微笑み。
エリスもまた、微笑みを浮かべた。
目覚めれば、エリスはいつものベッドの上に居た。
カーテンの向こうの光はまだ弱い。夜は開けたばかりのようだ。
「また夢、ですか」
呟いて、エリスは開いた瞳を再び閉じた。
未だ時間は早い。もうしばらく、あの充足感に身を任せていてもいいだろう。
エリスは微睡みながら、掌を胸の前に広げる。
人々を載せた、自分が掌の上に載った、その感触が蘇る。
――彼女はわたくし。わたくしは、彼女。
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