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<東京怪談ノベル(シングル)>


海水浴とたこ焼屋

 うだるような暑さが日々を支配していた。ニュースでは連日のようにこの夏一番の暑さを更新し続けていることを報道している。視界は暑さに揺らぎ、肌は常に汗でべっとりとして不快だった。
 そんな日々なかで毎日毎日、それしかないのかとでもいうほどにおでんの仕込みに明け暮れていた本郷源は額から滑り落ちてくる汗の雫が日々成長していくのを感じていた。目の前には夏の暑さとは全く無縁のおでん。湯気を立ちのぼらせるそれは冬の炬燵に似合いはすれど、夏の抜けるような青空と透明なほどに鋭い陽光とは全く相容れないものだった。視界が白いその理由が湯気ばかりではないような気さえしてくるほどに、源の目の前に広がる世界は灼熱だった。
 このままずっとおでんと向き合っていていいのだろうか。いつまでもいつまでも、この夏一番の暑さが更新し続けられている夏のなかでただじっとおでんの仕込みに耽っていては何か危険なような気がした。立っているだけだというにもかかわらず、おでんから立ち昇る湯気のせいなのか、それが発散する熱のせいなのか、大粒の汗が流れるのだ。おでんが出汁を吸い込み、ほどよく煮込まれた頃には自分はすっかり干乾びてしまっているのではないだろうかと思うや否や、源は不意に自分の命に危険が及ぶのではないだろうかと思った。
 外は灼熱、目の前も灼熱では命の保障がないのも同然なのではないかとふと思ったのだ。
 このままではいけない。
 思うと行動は早かった。
 近所に佇むあやかし荘の嬉璃にすぐさま連絡をとり、連れ立って海へ出かけることになった。
 鋭い夏の日差しの下で干乾びるくらいなら、これでもかというくらいに水をたたえた海へ行こういう短絡的な思考であったが源にしてみればこれ以上にないすぐれた発想だった。それは暑さにすっかり疲れきっていた嬉璃も同じだったようで、二人はまるで流れ作業のような滑らかさで海水浴場へと出発した。
 突発的に飛び出してきましたとでもいったような軽装で二人が、海水浴場に辿り着くとそこはすっかり混み合い、夏の暑さを逃れようと一致団結してきた人々が集まってきたかのように目に暑苦しい光景が広がっていた。
「どうしてこんなに人が集まってくるのじゃ。」
「夏だからじゃろう。―――あっちのほうが空いておるぞ」
 自分たちも夏の暑さに辟易して海水浴へ来たことなどすっかり忘れてしまっているかのようにして云う嬉璃が指し示す方向へと視線を移すとほどよく空いた空間がぽっかりと口を開けている。波は少し高めで、波打ち際には忘れ去られたようにしてぽつんと看板が立っているのが遠目にわかった。
 けれど二人はそんなことにはお構いなしでそそくさと人込みを避けるようにしてそちらへとつま先を向ける。
 そしていざと覚悟を決めたようにして海に背を向けて荷物を広げると、不意に視界が翳った。はたと振り返ると大きなオクトパス。蛸と思った時には既に遅く、標準よりもはるかに大きなそれはわき目も振らず長い足を駆使して源たちに襲いかかってきた。
「なんのじゃっ!」
 叫ぶ源に、
「わかるわけがないじゃろっ!」
と同じように叫んで嬉璃が答える。
 そんな二人のやり取りになどかまっていられるかといった体の蛸は、長い足で二人の小柄な躰を絡めとろうと必死になって焼けた砂の上に上がってくる。
「なぜ蛸ごときに邪魔されなければならんのじゃ!わしは夏のバカンスに来たんじゃぞ!蛸に襲われに来たわけではないわ!」
 云って源が荷物に突っ込んでいた手を引き抜くとそこにはなぜか薙刀。応戦体勢に入る源の姿を眺める嬉璃は、銃刀法違反なのではないだろうかと思いながら少し距離を置いた。蛸の襲撃によほど頭にきたのか、源は躊躇うことなく薙刀を駆使して切り込んでいく。海水浴場で楽しげに波と戯れている多くの人々がそれに気付く様子はない。源がはらった薙刀が遊泳禁止区域を示す看板を倒す。そしてそれと同様にして不意に襲いかかって来た蛸もまた砂の上にくずおれた。
「ふぅ……」
 額に浮かんだ汗を手の甲で拭って源は足元に転がる蛸を爪先で蹴る。こんな莫迦でかい図体をして、何をしようとしていたものか。無様なほど呆気なく返り討ちにあった蛸は鋭い陽光の下でジリジリと焼かれていく。
 その光景に源はふとひらめいた。
 そして不適な笑みを浮かべて背後に立っていた嬉璃を振り返ると、何かを誘いかけるようにして云った。
「たこ焼屋というのはどうじゃ?」
 その言葉に嬉璃はあからさまに溜息をつく。
 しかし源はそんなことなどどうでも良いのか、すっかり商売のほうへと意識をシフトチェンジしてしまっているようだった。視線は砂浜に犇く多くの人々に向けられ、賑わっている海の家を見つめている。
「海といえば海の家。海の家といえばたこ焼きじゃ」
 満面の笑みを浮かべて源は嬉璃に云う。その確信に満ちた笑みと強い口調に嬉璃は再度深く溜息をついた。転んでもただでは起きないとはこのことだと思う。だてにおでん屋をいとなんでいるだけはない。なんでも商売につなげてしまうこの思考力は果たしてどこからくるのだろうか。思って、意気揚揚とたこ焼屋のこれからを夢見る源を眺めて嬉璃は勝手にすればいいと思い再び深く、どこまでも沈んでいくような溜息をついた。