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起承転結
居酒屋の調理場にある以上、大家族の歴史よりも遥か使い込まれたフライパンに、油を塗る。
薄く煙が出るほどに熱したら、赤の分量を多くした味噌を落とす。出汁と、砂糖で味付けをして、くつくつという音が耳に触って、広がる香ばしさが笑みをもたらしたなら、陶製の小皿にそれを盛り、カウンターに坐ってる女へと、
「ほれつまみや。うちの心がたっぷりこもってるんやから有り難く食うねんで」
「……随分と貧しい物だな、焼き鳥とかは無いのか?」
「のれん下げた扉をくぐってくる非常識な女にそんなもん出す訳ないっちゅうねん。だいたい、こんな時間に電話の一つも入れんと……」
機関車が煙を吐く勢いで喋る彼女――この居酒屋を切り盛りする看板娘、友峨谷涼香はくいっと辛口の日本酒を仰ぐ。その動作を鏡に写すよう、同じくコップから喉へと酒の居場所を変えるのは、美貌、数藤恵那である。箸の先で味噌をすくい舌で舐める。甘い味噌は注がれた酒に良く合っていた。
この美貌であるが、まだ二十七という年齢でありながら病院を運営する医者。居酒屋の看板娘とは、普通なら商売人と客とでしか繋がらない事であろう。
だが、閉店した店で供に杯を交わす事は、商売の範疇ではない。親交があるのだ、それも出会いの場はこの店じゃない。
旧友。彼女と彼女は高校の同級生であって。
だがそれにしてはある事実によって矛盾が転がった。けどその疑問は、本人達はとうに捨てていて、「お前は、」だからこのセリフは、「あの頃と変わらないな」
疑問符では無く句読点が感情の語尾につく。恵那の発言に涼香はうまく笑えない。
同級生なれば涼香の年数は二十七という事になる。しかし、それにしては居酒屋の彼女は、大人の美貌を持つ《女》である医者に対して、まだ看板の《娘》と呼ぶがふさわしい容姿。いくら成長してもそれが見た目に重ならない人間だって世界には存在するのだけど、彼女の場合は事情が違う。
それは生き方の所為であって。
「あの頃、なぁ。……もう十年か?」
思い出すのは過去、一人が一人が接触して、
今こうして、二人で酒を飲むようになった、経過。
◇◆◇
十年前、ある高校の教室でセリフは響いたのだ。
「証拠が無いだろ」
さも弁護士が不十分な証人に対して行使するような言葉が向けられたのは、その場居た男女十人近く、このクラスに所属する生徒達の一部。
時刻は朝、まだHRには遠い七時半の時刻であって、清浄な朝の空気は流れずに、息苦しい緊張がその場を支配している。
唯一人、それを意に介さずに女は二度目のセリフを言う。「全く証拠が無いじゃないか、この転校生を」
そう言って女は目を隣にやる、転校生と称された女は黙っていた。天真爛漫の欠片も無く、銃を乱射するような口調も無く、まるで、静止こそが我だと示さんばかり、岩のように動じない。
この状況下で――
「夜、校舎を歩いてるのをみかけた。ただそれだけの理由でこいつが犯人か? だとしたら目撃したお前も怪しいじゃないか」
蕾の花すら目覚めそうな凛とした口調、十人の口を閉じるたった一人の論。だが、暫くしてから彼らの一人が声を投げる。
なんでこいつをかばうんだよ、と聞こえた。
こんな時期に転校してきて、こっちから話かけてんのに無視して、作業にも協力しねぇ女を、そう続けられた。
答えは明快である。
「理屈が通ってないからだ」
確かに、転校してきた彼女は人とは相容れなく。それが気に障らないと言えば否。だからといって人柄と実際の行いの因果は、そうそうシステム的にはなっていない。
個人的な感情で物事を全て判断するのは、彼女の生き方には沿っていなかった。十七年で培ってきた強い心が、相手の心達を怯ませて。
そして、その狭間を、
「……ん、」その時は、若干なれど戸惑いがあり、「おい」
何処へ、と呼びかける間も無く、
転校生はすっと通り過ぎ去っていって、まだ予鈴の鳴らない教室を後にして。帰宅?
生徒達がざわめく、やっぱりあいつが犯人だと。……彼女は、返した。「私もあいつの態度は気に入らない。だが、好きか嫌いかで決め付けるのは愚かしい事だろう」
それとこれとは別の話と、感情と物事は切り離されている物だと。
己の立場が立場である事も踏まえて、そう反芻する。「犯人の調査は私がする」
そうして彼女は、教室にあるそれを見た。
作り物。
学園祭でお化け屋敷をやる事になったクラスが、日曜日も学校に来て製作したセット。
今は半壊している。部屋中に無残に転がる、荒れ。心もそれに準じそうになるの、跳ね返して、
「ともかく今からでも修復しよう。これでやめる事になったら、壊した輩に本当の意味で屈した事になる」
そう言って彼女は行動した。欠けた部分を集めてゴミ袋に入れていく。わだかまりを持ちつつも、一人、二人とそれに続く。
文化祭のセットが壊された事件、
生徒会長の数藤恵那と、転校生の友峨谷涼香の二人、展開における起承の部。
◇◆◇
転の部、時刻は夜であった。
――ざわりざわりとひびくのです、あのゆめなどは、おえつにまみれ
言ったとおり数藤恵那は、犯人探しに乗り出す。
――なきごとざれごとひきちぎり、しぬことですら、しあわせにして
夜の校舎をライト一つを持って、被害にあった我がクラスで。
――さけぶしじまにてをあわせても、ゆるしはせぬと、ゆるしはせぬと
それは、繰り広げられている。
許しは、せぬと、
ああ笑えぬ冗談だ、お化け屋敷に本物がおり。
一兵の女が、それを駆逐している。
その人影の勢いと言ったら、相手は、視覚するだけで心が黒へ陥りそうになり、物理の法則を可笑しく笑って、無茶苦茶であって滅茶苦茶なる攻撃であるのに、人外の所業、妖であるのに、
女はそれを狩っているのである。弱肉強食を崩してるのか、否、それを証明してるのか。ただの人が妖の類を。
手順は、単純である。刀を、持つのである。それで、斬るのである。
なんらかの術が込められているのか、その切れ味は境界ですらこじ開けようとせんばかり、それが向けられた物は――泣き叫んでいた。
甚振られる子供のように泣き叫んでいた、容赦の無い嵐に彷徨っていた、痛みが痛みで無くなる恐怖だった、まるで人間のように、妖は。そして、人間は、
――、
人間は、
笑っている。
転校生は笑みを浮かべている。
「……許すか」涼香は抑揚無くそう言った。刀を切りつける、何かが千切れ飛ぶ、妖が音を出す。
「許すか……」
剣術を、符術を、法術を、空の無い部屋に雷を落とし、空気すら崩壊させる圧倒的な力と、その感情をもって。おそらくその感情の呼び名は、
憎しみ――
「許すかあぁぁっぁっ! ……あぁああぁっぁっっあぁぁっ!!」
絶叫と供に最大なる一撃が、妖を葬り去る。そして、そこには無が訪れようとする。ただ一人きりの空間で、涼香は笑う事になるであろう未来。
数藤恵那には、違った物が視えた。
まだ後ろに居る、と。
声量は普通、だが涼香には届き、そちらをしたほうへ向く、
数藤恵那は教室の入り口で、息を乱しながら腰を付いていた。だが涼香にはそれが見えない、視界が塞がれている。
泣き叫ばぬ妖がそこにあって、
一瞬の隙を死へと直結させようとする攻撃――
、
「右だ」
涼香、心でなく、身体が了解して、反応する。砕け散ったのは己でなく、セット。
「そいつは幻だ、例えるなら、強力な催眠術師だ」
言葉を聞きながら、跳び舞いながら、相手の攻撃をかわし、こちらからも反撃しようと、
「やめろッ!」
制、される。
他人の命令に素直になる自分、涼香は声を出す恵那をやっと視覚する。数藤恵那、
瞳、宝石よりも美しい蒼。
輝きは目前の全てを、つまり自分すら見透かしてる事を、涼香は知って、そして、
「あ、あんた」
「余所見、するな、《視る》のは私の役目だ」
激しい頭痛と嘔吐感が、彼女の身体中を龍のように巡ってるのは見て取れた。そんなにもして、涼香は協力されている。
自分から衝動的な物が、剥がされていく感覚。「弱点は奥の奥にある目、それを突けばいい、だが、」
、
「憎しむな」
。
「……それをそいつは膨らす、何も考えるな、何も」
――三秒間
「……友峨谷涼香ぁッ!」
戦闘においては長すぎる時間を、妖が無造作に過ぎさせる訳が無く、奥の奥にある目の玉が、涼香の心を、
人間が、持つ、感情を、憎しみを、
――母を殺された憎しみを
だけど彼女は、
(うちの名前)
そんなくだらない事しか、心に浮かべなくて。
退魔刀紅蓮が始動して、
完了する。
奥の奥にある目の玉を貫くと、呆気なく、妖は消えた。
◇◆◇
数藤恵那は好きでは無い、理屈付けが出来ないクレアボイアンス――魔眼と呼ばれる己の能力を。それは頭痛がするからとか、疲労感に襲われるとか、そういう訳では無く、二度繰り返せば理屈付けが出来ないから。
だが、それでも使わねばならない時が、十年前の、あの日。
涼香がその頃から、年齢を重ねられない呪いをかけられたかは、また別の話。
◇◆◇
「手伝ってやったんだから、お前も修理を手伝え」
それがボロ雑巾のようになった教室で、頭を抑えながら言った恵那のセリフ。それからは、突貫である。
冬を越す蟻でも無いのに、更に二人とも、心身とも激闘の滝に打ちのめされてるというのに、大工道具を使い、テープを貼り、色を塗って、
交わされる言葉は全て事務的な物であった。何があったとか、自分達の素性とかは、語られる事が無く。
だが、一人と一人が、二人になっていく。
石を置き続けるような延々とした作業は、静かに何かを積もらせていく。続かせていく。形になっていく。
、朝。
ズタボロになった物を、無理矢理継ぎ接ぎした如きセット。だが、お化け屋敷という出し物には逆に効果となって。流石に本物の妖は要らないけれど、結果オーライは涼香のおかげで。
そして、愛想の無い転校生が、急に生徒達に迎えられる理由、
激しい疲れに日が昇ると同時に眠らされたその顔が、情けない涎と、満足そうな笑みで溢れていたのを目撃されたゆえの事を、展開の結末として結んでおこう。
――それは十年前の物語
居酒屋の看板娘が、女院長と酒を飲むようになった、経過についての話である。
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