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<東京怪談・PCゲームノベル>


螺旋にて 〜WILD WORLD〜

 街の夜は長い。
 橙や青や白のネオンは、夜明けの光がその手を叩くまでさざめくように人々を誘う。都会の深夜を、「眠らない街」と称したのは誰だったろうか――喧騒は遅くまで止まず、目を閉じれば瞼の裏に滲み込んで来るように遠くの怒鳴り声が耳に届くのだ。
 珍しく、東京に長く留まっている。
 海原みたまは慣れた繁華街の喧騒から身を引くように細い路地に足を踏み入れ、ちらりと細身の腕時計を盗み見た。愛すべき『ダンナさま』がここに到着するまでには、もう少し時間がかかるだろう――星の、明るい夜である。ぶらぶらと歩いて時間をつぶすと云ったら、どこか店に入って彼を待つようにととがめられた。
「今どき東京のど真ん中で、危ないも危険もないでしょうに」
 ぼやきながらも、知らず口許をほころばせたみたまがいた。女はどこまで行っても、女という生き物である。いかに雌獅子と恐れられようと、頬にかかる返り血に顔色ひとつ変えまいとそれは是である。連れ添う男に心を配られて悪い気はしないものだ。
 愛されている。そんな想いがみたまの、背筋をすっと伸ばさせる。

 人は、生きるも死ぬもただ一人である。
 母の闇を抜け、脳裏の闇に辿り着くその瞬間まで、人はただ一人で孤独を暮らす。
 ただ、それに耐えられなくなる瞬間がある。
 深い海の底に沈み、いくら足掻くも己の力のみで息を継げなくなる瞬間がある。
 そんな時、人は遠い夜空に向け、ただ一心に両手を伸ばす。

 しんと静まりかえった店内の空気が、火照った頬を冷たく撫でる。
 冷やしすぎ、と云ったほどの室温ではないはずである。夜の熱気とはうらはらに凛と冴える冷たい空気は、僅かに食酢の匂いを孕んでいた。
「――休み……?」
 さほど広くはない店内を見回すが、店員の姿がない。カウンターの中を含め、みたまの立つ出入り口のあたりからは人の姿が見当たらない。
 既に店じまいか、貸しきりであったか。いささか残念な気持ちで、それでも離れがたくみたまは後ろ手に店の扉を閉めた。
 特に、理由があって足を踏み入れた店ではない。
 車を着けやすそうで、かつ静かそうな店をと暗がりを歩いて見つけた割烹料理屋である。やたらと安酒を飲ませたがる居酒屋の類いも苦手であったので、ごく消去法的な結論が導き出した選択だ。
 しばし佇む間、ひどく殺風景な店内を見るとはなしに見回していた。
 するとカウンターの奥、濃紺の暖簾の奥から、
「……ったく――いつまで子供のつもりだろうね、あの子は――」
 小さなつぶやきが、聞こえた。
「……」
 見ればカウンターの中では、今まさにかくはんしたばかりと云う様子の溶き卵がまな板の上に置き去りになっている。声の主は電話かなにかで、暖簾の奥に篭ったのだろう。みたまは僅かに眉根を引き上げ、細い指ですっかりと伸びた前の髪を掻き上げる。
 あまり、善くないところに立ちあったようである。女の直感がそれだけを、みたまに告げていた。
 だから声の主が――おそらくは、この店の女将かなにかだろう――暖簾をくぐり、カウンターの手前に俯きながら現れたとき、
「はー、涼し……まだ営業中?」
 まるで知らぬ様子で、首筋に手扇の風を送った――今ようやくこの店に足を踏み入れ、湿気た髪を乾かしているのだとでも云うように。
「お客が来てから帰るまでが営業中さ。座っとくれ、そこならエアコンの空気も緩いだろう」
 藤色の留め袖に身を包んだ女は笑って、カウンターの端の席をみたまに勧める。
 先ほどのつぶやきに滲んだ愁いの声音は、すでに豪毅な女主人のものだった。

 それほど酒を嗜む習慣があるわけではない。
 悩んだ末に冷たい牛乳をと注文したら、女将に笑われた。
「呆れた、お酒が飲めないのに飲屋に入るなんて」
 それでもカウンターの白木の上には、グラスになみなみと注いだ冷たい牛乳がそっと差し出される。通しのつもりだろうか、小皿に載せられたキスチョコが次いだ。
「本当に、他にはなにもいらないのかい?」
「迎えが何時に着くかわからないし、ね」
 女将は首の後ろの後れ毛を指先で直しながら、みたまがグラスを口に運ぶと同時にカウンターの向こうに腰を下ろした。
「自分を待つ男よりも、自分が待てる男を大切におしよ」
「女は海〜……ってね♪」
 戦場では獅子よ鬼神よと恐れられる若き女戦士も、破顔すれば年相応の笑顔である。その幼さは女将に伝わったのだろうか、つられたように女将も笑んだ。
「ずいぶんと古い歌を知ってる。こわいこわい、最近の若い子は」
 若い子。
 そう形容されることに、本人は曖昧な苦笑を禁じえない。
 いくつに見えるかと問うたところ、即座に
「二十二、三」
 答えられ、苦笑は濃くなってしまう。
「これでもね、子供がいるのよ。三人も」
「あらまあ。三つ子ちゃん?」
「自分の子が一人と、養女が二人」
 そんな告白には、さすがに驚きを隠せなかったらしい。女将は目を丸くして、カウンターに両ひじをついた。
「これでもけっこう、波乱万丈な半生を送っちゃったりしてるんだから」
 指先で、不ぞろいなキスチョコの粒をつまみあげる。戦地で配給される味のない煮込み野菜のような、褪せたオレンジと緑が交じり合っている。その1粒を舌の上にのせてゆっくりと溶かしながら、みたまは女将の顔を見上げて笑んだ。
「あたしの手は真っ赤――それに、あたしの過去は、真っ黒。それが今じゃ、愛するダンナさまがいて、三人の子持ち……こんなに幸せで良いのかしらって、たまに怖くなっちゃう」
 カウンターの奥で、薬缶が鳴る。言葉を切ったみたまは両手の指でグラスを玩び、女将の後ろ姿を見送る。
 そうだ。
 まるで実感が湧かないというほどに、幸せなのだ。
「幸せ……か」
 あの日、息の根を止めた砂漠の男には、何人の子供がいたのだろう。
 あの日引金を引いた背中に縋る女は、今ごろどこで何をしているのだろう。
 踏みにじったしかばねを汲む者はいただろうか。かの地で息絶えたと、伝える者はあっただろうか。
 誰かの幸せの炎をそっと吹き消し、自分のろうそくにつぎ足しているかのような感覚。自身の幸せは、そんな死神の所作のもとになりたっているのではないかと。
「そんな若いうちから、幸せ貧乏になるんじゃないよ」
 暖簾をくぐりながら、女将がみたまに云う。「あんたの幸せは、あんたが勝ち取ったものだろう。胸を張って幸せだって云って良いのさ」

 日付が変わったころ、ようやくやってきた車に店を出た。
 むっと蒸した生ぬるい空気を肺一杯に吸いこむと、雨に似た匂いがした。
「ごめん、なんか愚痴っぽかった」
「そうでもないよ。またおいで、今度はもっと牛乳に合う料理を用意しておくからね」
 見送りの女将にそう云ってみたまが苦笑すると、女将はみたまの背中をぱしりと叩いて豪快に笑う。
 てのひらに掴める幸せが、黒いクーペの中からみたまを穏やかな眼差しで見守っていた。

(了)