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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


暗黒のファラオ【ヌゥトの書】

昭和20年に戦災で焼失、閉館し、今年6月になって再建された大帝都劇場の、新生こけら落とし公演の予定が発表された。上演作は歴史ロマンミュージカル『エジプトの王妃』。同作は、古代エジプトで、異端の神を信仰したために追放されたという伝説上の王ネフレン=カー(生没年不詳)と、その妃に題を採った壮大な歴史ロマン。主演の、王妃メルの役に、“オカルトアイドル”として人気のSHIZUKUが抜擢され、話題を呼んでいる。

 そんな雑誌記事のコピーを眺める八島真は、どこか、浮かない顔だった。
 それは奇妙なことだと言える。八島がひそかにパソコンのモニタの壁紙をSHIZUKUの画像にしていたり、こっそりとコンサートに足を運んだりしていることは、『二係』の職員とその関係者には公然の秘密であったからだ。
 ましてや――
 今、八島のデスクの上には、当のSHIZUKUから届いたチケットがあるのである。
「当然、行かれるんでしょう?」
 職員のひとりに声をかけられて、
「むろんです」
 と、怒ったように応えた八島だったが。
 チケットに添えられた手紙に目を落とす。ピンク色のサインペンで書かれた、くせのある丸みをおびた文字。

 やっほー、八島サンこんにちわ☆ SHIZUKUです♪
 今度、主演することになった舞台のチケット送ります。
 ミュージカルなんてはじめてでドキドキ!
 でもスポンサーのおじさんに褒められちゃった☆
 車椅子の、顔にキズのあるおじさんなんだけど、
 演劇界の裏のドンって感じ。これでブレイクして
 ブロードウェイデビューとかになったらどうしよう!!
 とっても面白いお話だからみんなで来てね。じゃ!

「きみ、知ってるかい。芝居で怪談ものをやるときは必ず、お祓いをするって」
「はあ? これ、怪談なんですか」
「それは知らないが……、いや、何だって、わざわざこの題材なのかな、と、思ってね」
「ネフレン=カーというと……」
「古代エジプトで邪神を信仰し、冒涜的な悪の限りを尽くしたと言われている。別名を――『暗黒のファラオ』」
 八島は表情を曇らせた。
「単なる杞憂であればいいのだけれど……」

■開演15分前

 ざわめきが、波音のように空間を充たしている。
 幕開き前の劇場特有の、浮ついた空気と、華やかなさざめきなのだ。
 ずらりと並んだ花――出演者それぞれにあてた花は、その贈り主もまた人々によく知られた名であったりして、それもまた場の華やぎに色を添えている。
 その中のひとつに、ひときわ目をひく派手派手しい花があった。

  SHIZUKU様江 贔屓与利

 などと書かれた札のついた花の前で、満足げに微笑んでいるのが、黒ずくめの八島である。
「お待たせ。行きましょう」
 声をかけたのはシュライン・エマだった。
「D列26番だから……こっちですね。すみませんね、お忙しいところ無理にお誘いして」
「そんなことないわよ。……興味深いお芝居だし」
「……」
 値踏みするようなシュラインの視線を、八島の黒眼鏡が反射する。
「ネフレン=カー。古代エジプトに、邪神の信仰を広めようとしたファラオだったわね」
「さすがによくご存じで」
「あきれた。よく言うわ。……“お望み通り”公演のスポンサーの関係に、劇場の構造まで、ひととおり調べてあるわよ」
「感謝します。……ですが、その手間が無駄になってくれればいいのですけどね」
「本当よ。なにせ、ネフレン=カーが信仰していたのって――」
 傍目にはただの観劇客としか見えないふたりが、客席へと消えていく。
 さて、そんなふたりを見るともなく見送っていたのが、ロビーの片隅の喫茶室で、優雅に紅茶を楽しむデリク・オーロフである。
(舞台なんて久しぶりですネ。トーキョーに来てからははじめてかも、ですネー)
 鼻にひっかけた眼鏡の奥で、深い青の瞳が輝く。長身を黒いスーツに包むその姿は、いかにも観劇に慣れた紳士然としている。
(でもまさか、トーキョーでこんな面白い題材のミュージカルをやっているとは)
 うっすらと浮かべた微笑には、しかし、含みがあった。
 ぱらぱらとプログラムをめくりながら、誰にともなく呟く。
「ココもなかなか素敵な劇場ですし。楽しいひとときになりそうデス」
 そのプログラムには――主演のSHIZUKUをはじめ、キャストの紹介が写真付で掲載されている。後のページにゆくほど端役になるので、扱いは小さくなってゆく。ほとんど最後のほうで、一枚だけ、あとから別の紙を貼付けて訂正されている箇所があった。まれに起こることであるが、急に役者が変更になったのであろう。新しく付け加えられている箇所は――「衛兵C ユーリ・コルニコフ」という記載とともに、白人の青年の顔写真があった。
 そのユーリであるが、当然、開演直前のこの時間は楽屋で準備している。
 どちらかといえば映画の仕事が多く、それも本来はアクション・スタントがメインのユーリだったが、それでもたまにはこうした舞台の仕事もあるのだった。それにしても……何の因果でこんなあやしげな作品が自分のところに回ってくるんだ――と、内心で思いながら、ユーリは楽屋の鏡の前に坐っていた。
 今さら開幕前だからといって緊張することもないユーリは、なにげなく、楽屋を出て廊下に出てみた。衣裳もメイクも準備は終っていたので、本当はあまりうろうろすべきではなかったのだが。
「…………」
 ユーリは、廊下の向こうを、車椅子の人影が角を曲がって消えてゆくのをみとめた。
 今回の後援者と紹介された人物だったと思う。ユーリの直感が、件の人物にある種の警戒を抱かせていた。この劇場の新生こけら落しという名目で企画が立ち上がったとき、スポンサードとひきかえに、この作品を強硬に推したのが、あの人物だったことを、ユーリは聞き及んでいる。
 ――と、廊下の向こうへ消えた車椅子の後を追うように、小さな人影がとことこと歩いていく。
 紅い着物に、黒髪をおかっぱに揃えた、女の子だった。
 はっとするほど……そのたたずまいは日本人形を思わせる。まるで――人形が命を得て動きだしたとでもいうような、どこかあやしい雰囲気さえただよわせているのだ。
「ねえ、きみ」
 ユーリの呼び掛けに、少女は立ち止まった。
「はい?」
「ここは関係者以外立ち入り禁止ですよ」
 しばし、きょとんとした表情で、ユーリを見ていたが、
「そうでございましたか。失礼いたしました」
 と、深々と頭を下げる。そして、もと来た道をひきかえしてゆくのだった。
 血が通っていないのかと思えるほど白い肌に、紅をひいたような朱い唇、そして不思議な青い瞳。ユーリは、しばし、少女の後ろ姿を目で追っていた。
「わっ」
 少女は、ユーリの視界から消えて角を曲がったところで、出合い頭にその男とぶつかっていた。
「ス、スミマセン」
「いえ……わたくしこそ……」
 ぶつかった相手は、少女とは対照的な、大男と言ってよい。
「大丈夫――かな」
 視線を落してのぞきこんでくる男の顔は、気遣ってくれているのだと言葉からは察せられるが、しかしありていにいって怖かった。顔の造作が、相当なこわもてであり、凶悪なのである。
 だが、人形めいた少女は動じないふうで、
「平気です。……ところで、この先は関係者以外立ち入り禁止だそうですよ?」
「え。ああ、そうなの。迷っちゃったのかな……」
 並んで歩き出すと、身長差はもとより、かなり異様な連れに見えた。
 この男、CASLL・TO(キャスル・テイオウ)は、何を隠そう悪役専門の俳優なのである。正確には専門というつもりは自分ではなかったが、結果として悪役しか回ってこない役者なのである。そのわけは一目瞭然。悪人にしか見えない面構えと威圧的な体格のせいだった。そして、たまたまここでいきあたったCASLLと、その少女――四宮灯火の座席が、偶然にも隣であったのは、いったいいかなる運命の悪戯だったろうか。
 ちょうどその頃、ロビーでは、興業の関係者と思しき紳士と、立ち話をしている光月羽澄の姿が見られた。
「すみません。せっかくご招待いただいたのに、本人が来れないなんて」
「いえいえ、構いませんよ。まだ公演は一月ありますから、いつでもいらしてくださいとお伝え下さい」
「ええ、そうさせていただきます」
「ああ、もう1ベルだ」
 館内に響いたその音は、開演5分前を報せる合図だった。
「では、どうぞごゆっくり」
「はい。ありがとうございます」
 それなりに格式ある劇場に招待を受けたとあって(正確には、招待された当人の都合がつかず、代理で来たわけだが)、羽澄は銀の髪をシニヨンに結い、服装も大人びたシックなワンピースを選んでいた。ホールへと消えるその後ろ姿を見送った紳士は、まだ十代のはずの羽澄の、不思議と堂に入った、場慣れしたようなたたずまいに少々驚いたようだった。
 それからふいに、時計に気づいて、あわててその場を去る。
 幕が開く時間だった。

■幕開き

 開演直前の劇場のざわめきほど、胸を躍らせるものはない。
 新帝都劇場は、1000人規模のキャパシティを誇る大劇場だった。初日の今日はほぼ満員御礼といった様子で、この公演の人気度がうかがえたが、それだけの観客が、今や遅しと幕が上がるのを待っている様は、それだけで興奮を誘う。
「シュラインさん?」
「あら」
 羽澄は、席につくやいなや、ひとつ飛ばして向こうの席に、知人をみとめて声をかける。
「来てたのね」
「ええ……代打なんだけど」
「お知り合いで?」
 ふたりの女性のあいだに挟まれる格好になっていた八島が問う。
「こちら、光月羽澄さんよ。――宮内庁の八島さん」
(宮内庁?)
 羽澄は、黒ずくめの男を眺めた。
「……光月羽澄です、はじめまして」
 羽澄は、にっこりと微笑んで、礼儀正しく挨拶をしてみせた。内心では、宮内庁の役人とシュラインがなぜに連れ立って観劇に来ているのか、興味津々だったわけだが。

 一方、悪役俳優CASLLは、急に思い出したように、右目を覆っていた眼帯をはずした。そんなものをしているから、山賊じみていっそう怖く見えるのだが、これにはやむにやまれぬ理由があった。だが、さすがに片目では観劇にさしつかえもあろう。
「あれ……」
 こわもての男は、不審な表情で、劇場を見渡す。まだ降りたままの緞帳の前や、アーチを描く天井周辺に……なにか靄のようなものがかかっているような気がしたのである。
(スモーク……ですよね、きっと)
 自分を納得させるように内心でそう思い込もうとした。
「あの……CASLL……さま」
「あ、はい、何です、灯火サン?」
「申し訳ないのですけれど……わたくしにはこの椅子がすこし……大きすぎて」
 なるほど、椅子が大きいというより、灯火が並外れて小さいのである。そのままでは舞台が見づらそうだった。
「あー。よかったら、私の膝の上にでも?」
「はい、そうしていただけると助かります」
 ちょこん、と、灯火はCASLLの膝にのった。いつも、子どもに好かれることなど滅多にないCASLLだったから、どこか嬉しそうだった。
 そんなCASLLのもう一方の隣に坐っていたのが、デリク・オーロフである。
(なんでしょうね、このヒト)
 ちらり、と、デリクは興味深げな一瞥を、隣の客にくれる。
(あんな……『人形』なんか抱いて――)

 舞台そでから、ユーリはそっと客席を眺める。――いい入りだ。
 劇場の係が席のあいだの通路を走り、遠くオペ席にスタッフがスタンバイするのが見えた。いよいよか。

 そして、客席の灯りが落ちた。

 波が引くように、ざわめきが遠のく。
 暗闇の中に、ふっ、と灯りがともった。それはゆらめく……ろうそくの炎のようであった。ひとつ、またひとつと、ともってゆくそれは、しかし、前方の舞台ではなく、客席のあいだにあるのだった。
 しだいに闇に目が慣れてきた人々は、手に手に燭をかかげた人の列が、客席のあいだの通路を抜けて、舞台へと上がってゆくのに気づいた。それと同時に、前方の舞台上方、ホリゾントにもちらちらと小さな光の群れがまたたきはじめる。どうやらそれは星空を表現しているようだった。
 それは――あやしくも神秘的な光景であった。この演出によって、観客は一瞬で物語の世界に引き込まれる。
「それは遠い遠い昔」
 朗々たる声が言った。
 風の音が鳴っている。砂漠の星空の下、黒い長衣に身を包んだ一団が、手燭をかかげてゆらゆらとたたずむ。
「砂漠の果てにさかえし王朝の物語」
「まだ、地上のすべてが若く」
「神々が、人ともにいた時代」
「ナイルの賜物、エジプトの地に」
「ひとりのうら若い王妃がおりました」
 すうっ、と、星の光が消えてゆき、ホリゾントの照明は朝焼けの色へ。そしてそのままなめらかに青空へと変じてゆく。
 人々の笑いさざめく声とともに、エキゾチックな弦楽器の音色が、劇場中に響いた。
 舞台には――いつのまにか、活気あふれる異国のバザールが広がっていた。
 布を張った天幕の下で、果実や干した肉を売る商人たち。その前を通り過ぎるのは、流しの物売りであったり、壷を頭の上に乗せて運ぶ女たちであったり、元気よく跳ね回る子どもたちであったりした。
 ふいに、その人々のあいだを縫って、宙返りや側転をしながらアクロバティックにあらわれた人物がある。舞台中央まで来ると、彼は大きな声で、
「王妃さまのおなりであるぞーーーーッ」
 と告げた。
 それが先触れであったのだ。
 人々がさあっと、左右にわかれ、そのあいだから、王妃の行列が姿をあらわした。

「ほう……」
 小さく、八島が声を出すのを、シュラインは聞いた。
 かれらの席は、前から3列目のほぼ中央というかなり良い席であったから、その光景をとても仔細に目にすることができた。

 ひときわ高く鳴り響く楽の音にみちびかれるように、6人もの屈強な体格の奴隷にかつがれた輿が道を往く。うすものをまとった身体の線もあらわな女官が、官能的に身をよじりながら、その周囲を舞い踊った。鍛えられた半裸をさらした護衛の戦士たちが、彼女たちにからみつくように、ステップを踏み、剣を抜いてかざすなどした。かれら彼女らが、すなわちアンサンブルのダンサーなのである。
 そして――
 その輿の上に悠然と坐っているのが、王妃メル……ことSHIZUKUであった。
 普段はあどけない顔立ちの彼女だったが、舞台の上では、メイクと衣裳が、顔立ちをぐっと大人っぽく、艶めいてさえ見せた。つややかな黒髪を流した頭にはまった輪飾りも、耳に揺れるイヤリングも、ほっそりした身体をすっかり覆い隠して威圧的にさえ見せる衣も、みな、ありったけのスパンコールにいろどられ、照明を反射してキラキラと輝いていた。
 それが、実際に古代エジプトの風俗にあったものかどうかは、このさい、あまり考証されていないようだった。そこはそれミュージカルなので、派手できらびやかであれば、あとはそれらしければよしとされているようだ。
 舞台中央につき、輿がゆっくりと、降ろされる。SHIZUKUは――いや、王妃メルはおもむろに、最初の歌を唱いはじめた。

■『エジプトの王妃』〜冥界のコロス

 ミュージカル『エジプトの王妃』のストーリーはこうだ。
 名家の令嬢で王族の遠縁だったメル(SHIZUKU)は、政略結婚により時のファラオ・ネフレン=カーの妃となる。これによりメルの生家は絶大な権力をもつようになるが、当のメルは夫であるファラオの無口で陰気な雰囲気が気に入らない。そのため、ほとんど夫婦らしいふるまいはせず、連日、王宮ではなやかな宴や遊びにあけくれるメル。
 一方で、カーは異国からやってきた神官たちに取り入られ、あやしい闇の信仰にのめりこんでゆく。そしてメルは、夫よりも若くて快活な武官・セティ将軍にひかれていくが、セティは権力を手にするためにメルに近付いたにすぎなかった。
 やがて、カーは従来のエジプトの神々の信仰を廃して、闇の神々に帰依することを発表し、そのために巨費を投じて壮大な神殿を建設すること、王都も遷都することを計画する。国中に混乱が広がり、王への不信がつのる。それを機に、ついにセティ将軍の一派がクーデターを起こした。神官たちは惨殺され、メルもまた、王とともに異端の邪教徒として幽閉されてしまうのだった。裏切られたと知るメルだったがもう遅い。
 処刑が明日と決まった夜、囚われの王宮の奥で、カーはメルに告白をする。
 自分はメルの生家の後ろ楯が欲しくて彼女を妃に選んだのではない。そのはるか昔、ナイルのほとりの離宮で垣間見たメルの姿がずっと忘れられずにいたからなのだ――と。不器用な自分はうまく思いを伝えることができず、王宮ではメルに寂しい思いをさせてしまった。あまつさえ、メルの気持ちを得るために異端に神々に頼ったばかりにこんなことに巻き込んでしまった、自分を許してほしい……。
 はじめて、ファラオのほんとうの心に気づくメル。
 カーはファラオだけが知る秘密の通路からメルを逃がすことにした。しかしふたりともが逃げては追手がかかる、と、自分はそこに残り、甘んじて処刑されようとするのだった――。

 風の音だ。
 砂漠の夜を吹きすさぶ風の音……そしてそれにまじる哀しげなストリングス。
 舞台はクライマックスであった。
 ピンスポットが、舞台の上手に立つSHIZUKUを照らし出す。風が(むろんそれは送風機によるものだったが――)彼女の髪とドレスの裾をゆらした。うすい羽衣のようなショールが、ふわり、と照明を透かせて幻想的に舞うなか、彼女は歌い出す。

  いつだって 見つけだした美しいものは
  かげろうの向こう側
  悔やんでももう遅いの 過ぎた風は帰らない
  ああ、ナイルの神々よ ご照覧あれ
  もっとも愚かな王妃と、歴史書に記される名を
  それでもわたしはエジプトの王妃
  哀しみを胸に砂漠をわたり
  せめて誇り高く 顔をあげましょう

 歌声に呼応するように、舞台下手のほうにも、ぼんやりと照明があたりはじめる。王妃の逃避行と同時進行で、ネフレン=カーが生きながら葬られる、むごたらしい処刑のシーンが演じられるのだ。衛兵たちにわきをつかまれ、墳墓の奥へと連れてゆかれるファラオ(若手の、そこそこ名の知れた舞台俳優が浅黒いメイクをして演じていた)。
 ずらりと並んだ、ミイラづくりの職人に扮した群唱隊(コロス)が、陰鬱な低い声で、呪文めいたコーラスを歌いはじめた。

  おお神よ オシリスの家に入る事を許される魂を
  あなたが聴くように 彼にも聴かせたまえ
  あなたが見えるように 彼にも見させたまえ
  あなたが立つように 彼にも立たせたまえ
  あなたが座すように 彼にも座らせたまえ

「……」
 シュラインは、最初は気のせいかと思った。
 役者たちの巧みな演技や、見事な舞台装置が生んだ錯覚かと思ったのだ。……だがそうではない。
(この匂い)
 甘いような、カビくさいような、嗅ぎなれぬ、異国風の香りが劇場の空間にただよっている。彼女は、スポットライトがつくる光の路の中にたゆたう煙をみとめた。――香がたかれているのだ。
 そして同時に、彼女の卓抜した聴覚がとなえた、低いコーラス。日本語の歌詞ではない、それはあやしい呪文のような――。
「八島さん。様子がヘンだわ」
 鋭く囁く。舞台に没頭していたらしい八島が、へ?と間の抜けた声で返事をした。
 羽澄もまた……舞台に集中していたけれど、シュラインのただごとでない様子にわれに返った。ちらり、と舞台上のSHIZUKUに目を遣れば……、彼女はまったく役に成り切っているような――いや、それ以上に、放心しているようにさえ見える。彼女も歌に集中するときは、あのようなトランス状態になることもある。けれども、密室のスタジオならいざしらず、動く演技も要求される舞台上ではいささかおかしい。
(なに? 何か起こっているの――?)
 ひざに乗せていた鞄の中に手を入れて、しのばせていた鈴を握り込んだ。かすかに、ちりりと鳴ったその音に、羽澄の意識がひきしまる。

「おや?」
 デリク・オーロフは、青い瞳をいっそう輝かせた。
 彼もまた、コーラスに忍び込む呪文と、香の匂いに気がついたひとりである。しかも、彼はその呪文の意味まで、汲み取っていたのだ。
(なーるほど、そういう仕掛けでしたか)
 ひとり、納得したように頷く。
 そのとなりでは、CASLLがごしごしと目をこすっている。彼にだけ見えているもやのようなものはいっそうその濃さを増し、舞台上に渦を巻いていた。ほとんど役者の姿が見えないほどに。
(なにもあんなにスモーク焚かなくったって……)
 しかし、そうやって思い込むことができたのも、もやの中に、透き通った、苦悶する人間の顔としか思われないものを発見するまでだった。しかもそれはひとつではなかった。そこにも、ここにも、無数の顔が舞台上をうめつくし、声なき怨嗟の叫びを、かれらもまたコロスの一員であるかのように歌っていたのだ!
「ひッ」
 思わず喉が鳴る。彼の膝の上から、灯火がひょい、と飛び下りると、とてとてと舞台へと向かって歩いていった。
「あ、灯火サン――?」
 立ち上がりかけて、慌ててまた坐る。上演中に彼のような長身の者が席を立つなどもってのほか……と、思ったが、あたりを見回してCASLLは絶句した。
 周囲の観客たちの様子があきらかにおかしい。
 みな、一様にとろんとした目つきで、憑かれたように舞台だけを見つめているのだ。

(……?)
 舞台の上でも、異変に気づいた者がいた。
 ネフレン=カーを左側から抑え込んだ「衛兵C」ことユーリ・コルニコフである。
 おかしい。ミイラ職人のコーラスのあとは、その群舞をバックにカーのソロ歌になるはずだった。だが――キャストは誰ひとり、動こうとしない。
 もちろん、舞台本番にはハプニングはつきもの。だが、ひとりが台詞を飛ばしたとか、出をまちがえたとか、そういう話ではない。全員が全員、次の段取りを失念するはずなどないし……。ユーリは、いちおう、演技をつづけながら(すなわち、衛兵としてしかつめらしい顔をしながら)、横目で共演者たちをうかがう。
 カー役の俳優をはじめ、みな、ぼおっとした、催眠術にでもかかったような目つきで、その場に立ったまま動かないのだ。
 そして、彼も聞く。
 どこかからきこえてくる歌声を。
 呪文が頭の中にこだまに、ふしぎな香りが嗅覚を刺激する。
(何……だ――?)
 そして、しだいに意識が遠のき――
「駄目!」
 その声と、鈴の音が聞こえなければ、とりこまれていたところだった。

■劇場の怪人

 リ……ン――。
 鈴を鳴らし、叫んだのは羽澄である。
「大丈夫? シュラインさん?」
「え、ええ……」
 シュラインはくらくらする頭を振った。羽澄の鈴がもたらす見えない波動を浴びていると、しだいに頭がはっきりしてくる。
「注意していたつもりだったのだけど……ネフレン=カーは香を焚いて、邪神と交信する儀式をしたっていうから」
「じゃあ、これは?」
「舞台の上で儀式を再現しようとした不届きな輩がいたようですね」
 八島がいった。その黒眼鏡は、しかし、舞台とは反対の客席側をにらんでいた。
「演劇というものはもともと宗教儀式だったわけですが……この劇場の観客はストーリーにひきこまれて完全に古代エジプトの世界を念頭に描いている。その念をパワーを利用して……知らずに観客も儀式に参加させられたというわけですよ。見てください」
 客たちが皆、催眠状態でいるのを、羽澄は見た。
「ひどい……」
 そして鈴を握りかけたのを、八島は制して、
「今はまだ覚醒させないほうがいい。パニックになります」
「でも……」
「とにかくここを出ましょう」
 かれらは頷き合った。

「な、なんだ……」
 ユーリは、もはや、これは演劇上の問題でないことを理解していた。
 やはりこの題材がいけなかった。邪神に生贄をささげたという暗黒のファラオ……生贄――?
 そして彼は見た。舞台上手にたたずむSHIZUKUの背後に、ばさり、とマントを広げた奇怪な人影を。それは背の高い、黒ずくめの人間のように見えたが……ゆっくりとそれが照明の輪の中にあらわれるや、ユーリは息を呑んだ。
 怪人の頭部は、ヒトのそれではない。鋭いくちばしをそなえた、鳥類の頭だったのだ。
「お、おい!」
 それがSHIZUKUに手をかけようとするのを見て、ユーリは持ち場を離れて駆け出す。だが、SHIZUKUの立ち位置までは距離がある。そのとき。
「ま、まちなさーーーい!!」
 上ずった声で叫んだ者がいる。
「シズクさんに危害を加えるのは許しません!」
 ユーリとSHIZUKUのあいだに、客席から飛び上がってきた見知らぬ大男が、舞台上に仁王立ちして、叫んでいた。
「だ、誰……?」
 思わず問いかけたユーリに、
「わ、わたしはえっと……通りすがりのものデス!」
 胸をはって答える。
「いや、そんなことより、SHIZUKUが!」
「だからシズクさんに危害を――」
「バカ、あれを見ろ!」
 要するに客席からは照明の加減で舞台のすべてが見通せないのだ。だから、彼には――もちろんそれはCASLL・TOである――駆け出すユーリしか見えていなかった。
 指されてふりむいたCASLLが見たのは、いや、見てしまったのは正体のないSHIZUKUを抱きかかえた鳥の頭部を持つ異形のものの姿だった。
「相手はあいつだ、はやく――」
「ぎゃぁああああーーーーーーーーっ!!!」
 勇ましく飛び込んできたわりに、このCASLLという男、気が弱いらしかった。その絶叫がユーリの耳を聾する。
「な、な、な、な、なんディスカー、アレはーーー!?」
「わっ、おい、離せってば、くそ、SHIZUKUが!」
 パニック状態のCASLLに抱き着かれたユーリは、この巨漢の悪役俳優の無駄な怪力に抑え込まれて動くことができなかった。彼の伸ばした手の向こうで、悠然と、SHIZUKUを連れた怪人が闇へと消えてゆく。

 そこは、大道具などをしまいこむための場所だったらしい。
 しかしうす暗い空間には、四方にかがり火が焚かれ、床にはあやしく光を発する塗料で複雑な紋様が描かれ……さながら異教の神の神殿と化していた。
 その前に車椅子に腰掛け、顔に傷を持つ初老の男がいる。彼は満足げな表情を浮かべていた。床の紋様が、脈打つように光を明滅させている。
「どうぞ、お受け取り下さい。わが王(きみ)よ――」
 男の嗄れた声が呟く。
「何故……」
 ふいにかけられた声に、男ははじかれたようにふりむいた。何の前触れも気配もなかったからである。いつのまにかそこに立っていた(虚空から出現したとしか思えなかった)のは日本人形が生きて動き出したかのような少女――灯火だった。
「何故、このようなことをなさるのですか」
「なんだ貴様は。どうしてここが」
「舞台の方にうかがったのです」
「何?」
「大道具のみなさまです。人に造られた物にはすべて思いが宿り、それが見聞きしたことを記憶するのです」
「貴様……ヒトではないな」
「あなた様も……普通の人とは違うのですね……」
「いかにも。我こそはネフレン=カー様にお仕えする四神官のひとりオシリス。カー様とともに、死を越えて甦ることを約束されしもの」
 闇の気配が、ざわり、と男をとりまいたようだった。

■大詰

「離せって。……くそ、見失った」
 ユーリがやっとCASLLを引き離したときには、舞台からSHIZUKUの姿は消え失せていた。鳥頭の怪人とともに。
「あ、あれ……」
 惚けたように、あたりを見回すCASLL。
「どこだ。どこへ逃げた」
 ユーリは上手のそでへ駆け込む。楽屋に抜けたか、それとも――。
「し、下……」
「――えっ?」
 CASLLが震えた声で呟くようにいった言葉に、ユーリは振り返った。
 劇場中を充たしていた霊気が、舞台の下へと吸い込まれていっているのを、CASLLの視覚はとらえていたのだ。
「下……地下倉庫か!」
 エジプトの兵士の衣裳のまま、ユーリは走り出した。
「あ……っ、ちょ、ちょっと待っ――」
 その先に何が待つやら見当はつかなかったが、ここへ置き去りにされるのも恐ろしい。しかたなく、CASLLも彼に続いた。

「あの車椅子のスポンサーだわ」
 客席のあいだを駆け抜けながら、シュラインが言った。
「エジプト考古学の学者の発掘にも資金を出しているの。そうだわ、W大が発掘したあのミイラ――ネフレン=カーのものかもしれないって……」
「なんですって? ミイラって……」
「帝都博物館に持ち込まれたらしいの」
「帝都博物館って」
「この劇場のすぐ近くじゃない」
 羽澄が叫んだ。
 ヒールの足では走りづらそうだった。こんなことならもっと活動的な格好で来るんだった。――もっとも、そんな観劇だったら最初からごめんだけれども。
「なんとなくカラクリが読めてきました。博物館のほうへ向かったほうがよさそうだ――うわ」
 ドアを抜けてロビーへ出たかれらは、しかし、そこで足をすくませた。
「うう、これは……すごい障気だ」
 もはや霊的な視覚のないものにも見えるほど、淀んだ靄が、ロビーにはただよっている。特に出入り口付近はそれが濃い。
「何なの」
 シュラインはぞくりと身をふるわせた。
 靄の中にゆらめく影が無数の人の顔となり、それぞれに怨みの声をつぶやくのを聞いたからである。
「怨霊結界。外に出ようなンて思わないほうがいいですヨ」
 生きているものなどいないと思われたロビーのソファーに、ひとりの男が腰掛けていた。
「あなたは――」
「おっと、申し遅れましタが」
 すっ、と立ち上がると、仕立てのいいスーツに包んだ長身を優雅に折って、芝居がかった一礼をしてみせる。
「デリク・オーロフと申します」
 きろり、と青い瞳が八島たちを面白そうに眺めた。
「上手い場所を選んだものです。ここでは昔、大勢の人が死んだそうですネ?」
「そうだわ、この劇場の前身は戦災で焼け落ちた……」
「だから祭事には最適なのですヨ。劇場自体が巨大な魔術的装置と化している」
「魔術にお詳しいようですけど」
 羽澄が、勝ち気な瞳でデリクと名乗った男の前に立った。カッ、と、ピンヒールが床を叩く。こういうときはヒールでよかったと思う。
「講釈だけじゃなくて、もっと実践的なことも教えていただけないかしら。たとえばここから出る方法とか。……あなたが黒幕の一員でないのなら、だけど」
 デリクは声を立てて笑った。
「いいですよ、元気なお嬢サン。……もうすこしこの成り行きを観察したい気もしますが(ここで、羽澄にきっとにらまれて、デリクは苦笑を見せた)、ま、私だってむざむざミイラの供物にされるつもりはありませんしネ」
「ミイラの供物ってどういうこと?」
 とシュライン。これに応えたのは八島だった。
「舞台を通じて催眠状態になった観客からは、この劇場自体の魔術作用で生体エネルギーを奪われだしているんです。かれらはおそらくそれをどこかへ転送しているはずだ」
「帝都博物館!」
「でしょうね。……考えられることはひとつ、ミイラを復活させるためだ」
「八島さん……たしかネフレン=カーが帰依していた邪神というのは……」
「ええ。暗黒のファラオはともすればこの東京にかの神を降臨させてしまうかもしれない。核戦争級の災害になります」
「こういう大がかりな術式はネ。逆にちょっとしたバランスのくずれで全部が台無しになるもんデス」
 デリクは劇場の入口に向かって立ち、両手を広げた。彼がしようとしていることを悟ってか、靄のようにわだかまる怨霊たちが騒がしくなった。
「煩いな。ちょっと集中させてもらえませんカ」
 それまで、絶えることになかった微笑がはじめて、デリクの顔から消え、かわって鋭い眼光が正面を見据えた。彼が静かに呪文が囁くのに呼応して、そのてのひらに、青白く輝く魔法陣が浮かび上がる――。

「イア! ナィアルラトホテップ! 這い寄る混沌――神々の魂にして使者なるものよ!」
 狂気じみた祈りの声。
 奇怪な紋様が不気味な光を発する床のうえに、エジプトの王妃の衣裳をまとったSHIUKUが寝かされている。
「おい、貴様!」
 車椅子をきしませながら、男はふりかえり――駆け込んできたユーリと、その後ろ隠れるようにしているCASLLをねめつけた。
「やれやれ。こうもたびたび邪魔が入るとは。……カダスの香も古くなり過ぎると効き目が落ちるとみえる」
「SHIZUKUをどうするつもりだ」
「知れたこと。この時におけるカー様の妃とするのだ。メル様のかたしろとしてな」
「そんなこと――」
「ホルス」
 男の声にこたえて、ものかげからその影がユーリに躍りかかる。鋭いくちばしが、彼の喉笛を狙った。
「くっ!」
 なんとか、受け止めた。しかし怪人の力は強かった。しだいにおされてゆくユーリ。怪人の顔は猛禽の顔だ。感情のない黒くて丸い目がユーリを獲物のように見つめて――……。
(丸い、目?)
 そうだ、丸、だった。
 CASLLは、ユーリについてきたものの、度を失って何の役にも立たなかった。そんな彼のなけなしの正気と理性を吹き飛ばすようなことが起こった。彼は目の前で見てしまったのだ。ユーリのすがたが、それまで、スマートでハンサムな青年と見えたすがたが、黒い獣に姿を変えてゆくのを。そして、それが獰猛な吠え声をあげるや、猛禽の頭の怪人の身体から炎が吹き出し、そいつを火だるまにしてしまうのを。
 そうなっては、CASLLはほとんど泣きべそをかきながら腰を抜かすよりなかった。だが――
「CASLLさま」
「え――、あ、ああっ、灯火さん!」
 まさしく捨てられた人形のように、倉庫のかたすみのがらくたの山の上に、紅い振り袖の灯火が倒れているのが目に入った。
「だ、大丈夫デスカ!?」
「わたくしは……平気……です」
 表情を変えずに、灯火は言った。怪我などはないようだった。
「これを……」
 灯火がしめしたのは。なにかの小道具だろう。ひとふりの剣、だった。CASLLは暗示にでもかけられたように、その剣をとった。小道具のはずなのに、それはずしりと重かった。かつて――それをふるっていた役者がこめた思いが、灯火の力によってあらわれた結果なのだということをCASLLは知らない。ただ、少女の青い瞳を見ていると、無性に力を貸したくなって――本当はすぐにでもここを逃げ出したいのに――でも……。
 ユーリが、いや、ユーリだった獣がなかば黒焦げになった鳥頭の怪人を組み伏せているわきを駆け抜け、泣きながら雄叫びをあげたCASLLが剣をふるった。
 小道具のはずの剣が車椅子の男の首を刎ねる。
 床にころがった生首は、
「なぜだ――、怨霊結界が、破られた……?」
 と言ってから、ぎょろり、と白目を剥いたのだった。

 常人には発音することもできぬ最後の音節を合図に、ばん、と、劇場の入口が開いた。
 ごう、と、風が吹き込む。
 声なき叫びを後に引きながら、不浄な障気が取り払われてゆく。
 リ――ン……。
 羽澄が鈴を鳴らして、自分とシュラインたちを、流れる障気の直撃から守った。
「開きましたヨ」
 一丁上がり、とでもいいたげに、デリクが得意げな笑顔を向ける。
 羽澄とシュラインは駆け出した。それに続きかけた八島はふと立ち止まると、あわてて懐を探って――
「お世話をおかけしました。わたくし、こういう者ですが」
 と、名刺を渡すのだった。
「宮内庁…………へえ」
 子細ありげに、受取った名刺を眺めるデリク。
「地下鉄『二重橋』駅スグです、お近くにお寄りのさいは是非!」
 と言い残して去ってゆく。

 劇場の外は夜かと思うような暗い曇天だった。雲が嵐のように流れ、そして――
「わーっ!」
 八島は大声をあげて、先行くふたりの女性たちにタックルするようにぶつかっていった。
「きゃっ」
「な、なに」
「目を閉じて!」
 八島は叫んだ。
「見てはいけないッ!」
 ごう――、と、風が唸り、雲がふきはらわれ、空にはふたたび太陽が戻りつつあった。
 ただ、そのまえの刹那――
 決して、人間が見てはいけないものが、はるかな混沌に棲むものがそのすがたの片鱗を、暗い空一面にちらりとうかがわせたのである。さいわい、異変に気づいた八島のいささか乱暴な機転で、羽澄とシュラインがそれを見てしまうことはなかった。



 闇の世界で、それは狂ったように高笑いをしていた。
 かれにとっては、かれの使徒であるはずのネフレン=カーとその一派も、暗黒のファラオの復活を阻止せんと奔走したものたちも、等しく価値のない虫けらのようなものだった。
 ただ、かれらが必死になって走り回るすがたが、異形の神にとっては可笑しかっただけである。
 それは永劫を生きる神にとって、ほんの須臾の間に起こった、退屈をまぎらわしてくれる座興に過ぎない。まさしく、一幕の即興芝居――。
 ブラヴォ、ブラヴォ。
 神は、手を叩いて、そう言っていたかもしれない。

 *

 CASLLは気がつくと、元通りに席に坐っていた。
 まわりは万来の喝采。舞台上ではキャストが一列に並んで礼をしているところだった。むろん、その真ん中にはSHIZUKUがいる。
 夢でも見ていたのだろうか。
 ふととなりを見れば、しかし、灯火の姿はなかった。彼女の存在も、また、白昼夢ででもあったかのようだった。
 一方でデリクはひときわ満足そうに、手を叩いていた。もくろみ通りに、面白い見せ物だった。
 すこし離れた別の席では、八島、シュライン、羽澄が、疲労の影を表情に残しながらも、今日の公演の終了を、安堵とともに眺めている。
 舞台の上に、かれらと似た表情のものがいた。――ユーリ・コルニコフだった。彼の目の前を、大団円をしめす幕がゆっくり降りていく。
 ほとんどのひとの意識の中では、『エジプトの王妃』の初日公演はなにごともなく、無事に終幕を迎えた。――もっとも、あとになって、この日を最後に後援者の男が失踪して行方が知れないのはちょっとした事件になったのだが。
 無責任なマスコミは「古代エジプトの呪い?」などと書き立てたが、皮肉にもそのせいで、興業成績はますますよくなったようである。
 いくつかの演劇雑誌には、王妃の衣裳を身につけた神秘的なメイクのSHIZUKUの写真が好意的な評価とともに掲載された。
 そして八島は……、今度は中断されずに舞台を楽しむために、すでに千秋楽のチケットを買っているようだった――。

(了)

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086/シュライン・エマ/女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1282/光月・羽澄/女/18歳/高校生・歌手・調達屋胡弓堂バイト店員】
【1955/ユーリ・コルニコフ/男/24歳/スタントマン】
【3041/四宮・灯火/女/1歳/人形】
【3432/デリク・オーロフ/男/31歳/魔術師】
【3453/CASLL・TO/男/36歳/悪役俳優】

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■         ライター通信          ■
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リッキー2号です。大変お待たせいたしました。『暗黒のファラオ【ヌゥトの書】』をおとどけします。

今回は前から一度やりたかったことに挑戦してみました。
それは作中における舞台の上演。ちょっと字数割き過ぎた気もするんですけど(なので、【ゲブの書】よりもそのぶんだけ長い……)、とても楽しく書けました。
コンセプトはあの有名な演劇マンガのノリです。SHIZUKU、なんて娘なの……!(白目で)

なお、今回のシナリオはアトラス調査依頼『暗黒のファラオ【ゲブの書】』とリンクしております。合わせてお読みいただくと事件の全貌が見渡せる格好になります。

それでは、また機会がありましたら、お会いいたしましょう。
ご参加ありがとうございました!