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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


銀の魚は水の上で溺れ

 蝉の声は何時でも、物悲しく耳に響く。けれども同時に夏の容赦の無い暑さを助長する。
 セレスティ・カーニンガムはうっすらと身体に滲む汗に不快感を感じながら身を起こした。汗の湿りと大気の湿気を吸ったかと思う程に身が重い。
 室の空調は確りとなされている。だがそれはセレスティにとって慰め程度にしかならない。人としての形を持つものの、セレスティは純然たる人ではない。元々は水に住まう者。人魚であったもの。
 たとい邸内が機械によって冷やされていても、気温が高くなれば身は敏感にそれに反応する。
 水から離れて生きるようになって久しいが、何年経とうとも日本の夏には馴染めなかった。
 ただでさえ低血圧で朝には弱い。それでいながら未だ夏も本番を迎えてはおらぬと言うのに日々例年の最高気温を更新し続けている暑さで止めを刺された気分である。
 零れ落ちる月の光のような髪をかきあげて、ベッドサイドに置いた愛用の懐中時計を見れば既に昼を迎えようとしている時刻だった。
 頭は覚醒しているが、如何しても身体が目覚め切らない。促すように首を振ったが、貧血を起こしているようでもないのに軽い目眩がした。
 再び寝台に身を任せたくなるのを額に指を寄せる事で何とか抑えた。
「今日は……」
 一日のスケジュールを脳裏に引き出して、特別な用事が無い事を確認した。
 ――今日は何をして過ごしましょうか。
 流石にこのような日は外へ出歩く気持ちも起こらない。それとも、何か事件に巻き込まれでもした方が気が紛れるだろうか。
 暑さのせいでいつもより僅かに過激な物思いに沈もうとしていたセレスティを扉をノックする音が呼ぶ。
 扉を開いて姿を現したのは、セレスティのお抱えの料理人の一人、池田屋兎月だった。夏用の薄手の白いコック服に、青い髪が見た目に涼しい。
 手には銀のプレート。上に並ぶのはサラダと、小魚のマリネに添えられた赤いパプリカが鮮やかだ。薄く切られたパンにはチーズとハムが載せられている。シンプルなメニューはセレスティの夏場の食欲の減退を熟知しているからだろう。
 だが今日のセレスティはそれにすら食欲を促される事はなかった。
「今日は気分を変えてベッドの上でお召し上がりになると言うのは如何でございますか?」
 いつもの、穏やかな笑顔が重い身と頭にも優しい。それゆえにセレスティは対する言葉を口に乗せるのを躊躇った。
「兎月君……」
 はい、と兎月は返す。
 彼はいつもセレスティの身の事を一番に考えて、丁寧に食事を作ってくれる。
 ただ美味しく、と言うだけでない。栄養のバランスや、目を楽しませる事も忘れず、食事を喜ばしく迎えられるように最大限の気配りをしてくれる。
 だからこそ、安心して任せられる、任せている。
「済みませんが……食欲が無いんです」
 だが申し訳ないという思い以上に身体の倦怠が勝る。食事を摂る気分にはならなかった。
「では、他の物をお持ちしましょう。主様の本日のお口に合うものを御用意致します。少しでも召し上がりたいとお思いになりますものはございませんか?」
 変わらぬ笑みのままそう問う兎月には折角用意した料理を下げねばならない不満は勿論の事、心配の陰りも無い。だが、この主思いの料理人は自分を心配しているだろう。それを見せないのもまた、彼の気遣いだと判っている。
 ここで何も食べたくないとは流石のセレスティにも言えなかった。
「……では、マチュドニアとジェラート。……それとアイスティーを」
「冷たいものばかりでございますね。これではお身体に障りましょう」
 言われずとも判っていたが、他に思い浮かばなかった。
「では、要りません」
 素っ気無いがゆえに、拗ねたような言葉に兎月はひっそりと吐息を零す。苦笑するようなそれは、言葉がないまでも「仕方がない」と語っている。兎月のその表情にセレスティは気付いていたが、不快には思わなかった。それが辟易を示すものではなかったからだ。
「今日だけの特別とさせて頂けますか?」
 懇願の響きをこめられてセレスティは首を横に振る事は出来ず、瞳を閉じて肯定を伝えれば兎月は深々と頭を下げた。
「それでは只今御用意致します」
 手の付けられなかった銀のプレートと共に、兎月は部屋を辞す。
 セレスティは兎月が姿を消した扉を見ていたが、ややあって身体の半分を覆ったシーツに視線を落とすと、息を吐き出した。

 兎月はキッチンに立ち、腕を組んで考えていた。
 主の望みとは言え、こうも冷たいものばかり、ただでさえ暑さに圧されて万全でない身体を思うと、言われたままの内容を供するのには躊躇いがあった。かと言って、何も口にしないのではもっと状況は悪い。
「さて、如何致しましょうか」
 マチュドニアはイタリアのデザートである。季節の果物をワインやリキュール等で漬け込んだフルーツパンチのようなものだ。ジェラートも同じくイタリアのアイスクリームで、低脂肪、低カロリーのあっさりとした味わいが日本でも受けて現在でも人気を博している。
 フルーツはいつも新鮮なものを仕入れているので問題はない。ジェラートも、夏場の暑さに弱いセレスティの為にちょうど購入したばかりだ。
 紅茶はアイスに向いた薫りの良いフレーバーティの葉がある。
 兎月は手近な瓶を手に取る。リモンチェッロ、とラベルに記されたそれはイタリアのリキュール。栓を抜くと、レモンの芳香が立ち上った。
 鼻を近付けて、匂いを嗅ぎ、再び栓をした。
「ワインよりこちらの方が」
 合うやも、と呟いて兎月は一つ頷いた。

 身体が目覚めて来ると、熱気が少し遠く感じられてセレスティはいくらか落ち着いた。
 だがやはり高い外気は厭わしい。そしてこんな時は何時に増して水が懐かしく、愛おしく感じられた。肌を浸す冷たい感触、過去地上よりも自由を得られていたそれは、今でもセレスティの故郷であり、何にも代え難い聖域でもあり――そして眷属である。
 常に身を水の中に置かず地上に在る事を選択したともそれは変わらず。自身であり、隣人だ。
 それでも、夏になると少しばかり距離があるを思わずにはおれない。
 人でいると言う事はそういう事なのだと、僅かな感慨を得てセレスティは水の彩の瞳を細めた。
「だからこそ、余計に冷たいものが欲しいのかも知れないですね」
 離れて感じた隣人を、傍らに喚びたくて。
 無意識に求めたのは体内を潤す冷ややかな感触。
 小さな納得に満足を覚えたセレスティは微笑みを浮かべて、手にしたものの読む気になれず開いて頁を捲るだけだった書籍を身の横に置いた。
 時を計ったように、扉が再びノックされる。
「お待たせ致しました」
 現れたのはやはり兎月だった。先と同じく銀のプレートを手にしている。が、上に乗るのはセレスティが望んだものだ。
 兎月はベッドサイドのナイトテーブルにプレートを置いた。
 セレスティの望み通りの品が、青い花の描かれた器との色合いの調和も美しく並ぶ。
 パイナップルと葡萄、そしてグレープフルーツのマチュドニアから薫るのは、レモンと甘いシロップの薫りだろう。
 銀のスプーンも陶器の器も冷やされており、触れるとひんやりと気持ちが良かった。
「美味しそうですね」
 正直な感想を述べると、兎月は有難うございます、と頭を下げた。
「それではごゆっくりお召し上がり下さいませ」
 無言で頷くセレスティにもう一度頭を下げると、兎月は部屋を後にした。
 セレスティはカットされたパイナップルを一口含むと、リキュールの甘さとパイナップルの甘さがふわりと口中に広がった。水分と共に糖分が身体に染み込む様だ。
 共に薫る酒の匂いが食欲を誘って、セレスティは続けてフルーツを含む。
 量もちょうど良かったマチュドニアを食べ終り、アイスティーを飲む。ミントが添えられており、濃い目に入れられているが、マチュドニアの甘さに慣れたせいか爽やかな飲み口を覚えた。氷がグラスを鳴らす高い音が、一層涼しげだ。
 続けて、ジェラートにスプーンを伸ばした、その時。
 扉が開いた。
 顔を上げると兎月である。
「兎月君、どうしました」
 まさか、プレートを下げに来たわけではあるまい。首を傾げるセレスティの傍らまで来ると、「少しお待ち下さい」とセレスティを制する。
 セレスティは兎月の右手のカップを見る。カップからは湯気が立っている。薫りから判断するに、コーヒーであるように思えた。
 訳が判らず兎月を見守っていると、兎月はそのカップの中身をジェラートに注いだ。
「兎月君……?」
 冷たいジェラートにコーヒーを注いだせいで、器いっぱいのジェラートが少し溶け、液体の中で浮く。
「……アッフォガード、ですか」
 セレスティは、一瞬驚いたもののすぐに目の前のデザートの記憶を引き出した。
 アッフォガードとは、ジェラートにエスプレッソをかける、イタリアのデザートである。
「ただ冷たいだけ甘いだけでは飽きが来ますでしょう?」
 言って、兎月は微笑みを深める。
 セレスティは兎月を見、アッフォガードを見る。そしてまた兎月へと視線を上げた。
「冷たいものばかりでは障りがありますからね」
 先の兎月の台詞を繰り返してみせて、セレスティも微笑む。
「そういう訳では……」
 少し困ったような顔をする兎月に、セレスティは首を振った。
「責めているのではありません。コーヒーに含まれるカフェインには疲労や倦怠感の減少にも効果がありますし、今の私にはちょうど良いと思ったんですよ」
 きっと、考えた末の選択だったのだろう。セレスティの意向を汲みつつ、少しでも身体に良いものを、と。その心遣いが嬉しかった。
「私に仕えてくれる貴方の愛情に『溺れる』のも、主人たる私の努めでしょうね」
 セレスティは、数多の人々を魅了する優雅なる微笑みを浮かべると銀に光るスプーンをアッフォガードの湯気立つコーヒーに沈めた。


*アッフォガード:イタリア語で「溺れる」の意