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<東京怪談ウェブゲーム ゴーストネットOFF>


白無垢の紫陽花屋敷

「便利な世の中になったもんだねっと」
 高台寺孔志はぽん、と音をたててキーの1つを叩いた。パソコンのモニタが「送信中」の画面を映し出す。
 インターネットカフェのおかげで、メーラーの設定さえ持ち歩いていれば、外からでも仕入れの手配や在庫のチェックが簡単にできる。花屋にとって、花は鮮度が命。当然、情報だって鮮度が命。なるべくこまめにチェックするにこしたことはない。
「さて、と」
 モニタの画面を初期のものに戻すと、孔志は軽くのびをした。これで用事はおしまい。孔志が運営している数寄屋造りが自慢の花屋、「花工房Nouvelle Vague」も今日は休業日だ。さてこれからどうしようか、と思案をめぐらせていると。
「だって、紫陽花が真っ白になるんだよ? 見なくてどうするの?」
 不意に、甲高い少女の声が耳に飛び込んで来た。声の方を見遣ると、肩までのきれいな銀髪を揺らした小学生くらいの女の子と、元気のよさそうな中学生くらいの少女がきゃあきゃあとはしゃいでいる。
 年嵩の方の少女はこのネットカフェの常連中の常連、瀬名雫だった。もう1人の方も、雫の友人なのだろう、割とこのネットカフェで見る顔だ。
 彼女たちの様子からすると、雫の運営する怪奇現象サイト、ゴーストネットOFFの掲示板に、何か面白い書き込みがあったのだろう。それが花のことがらみとなると、これは聞き流すわけにはいくまい。どうせ時間も空いている。さっさと首をつっこむことに決めて、孔志は席を立った。
「何、紫陽花が真っ白になるって?」
 先程よりは声を落として談笑する2人に声をかけると、振り向いた雫は満面の笑みを浮かべた。
「あ、高台寺さん」
 銀髪の少女の方は、きょとんとした顔をして軽く首を傾げた。
「ああ、俺、高台寺孔志。こう見えても、花屋の店長だから。花のことなら花屋にお任せってな」
 そんな少女に笑顔で簡単に自己紹介をすると、少女の方もにこりと無邪気に笑う。
「海原みあおだよ。よろしくね」
 ああ、よろしく、とみあおに返して、孔志は雫の前のモニタを覗き込んだ。


◆紫陽花屋敷の噂

 こんにちは、初めてカキコします。
 私の住んでいる○×町には、紫陽花屋敷と呼ばれる家があるんです。とても古い家で、今では誰も住んでいないような廃屋なのですが、庭いっぱいにいろんな種類の紫陽花が植えられているんです。この季節になると、いっぺんに花が咲いてそれは綺麗なんです。隠れた地元の観光スポットなのですよw
 それで、その紫陽花屋敷なんですけど、夜中に前を通ると、全部の紫陽花の花が真っ白になっている時があるという噂があるんです。ただの噂だと思っていたら、友達の1人が去年見たと言い出したんです。友達の間で、本当だとか嘘だとか決着がつかないので、本当はどうなのか確かめて下さい。
 ちなみに、その友達は、絶対に見間違いじゃないと言っています。月明かりの下、満開の紫陽花の花が全部真っ白で、ゆらゆらと動く白い影みたいなものも見たと言っていました。
 どうかよろしくお願いします。

「大概の紫陽花は色がつく前は真っ白なんだが……、途中から白くなるのはまずありえんな……」
 書き込みを注意深く読んで、孔志は独りごちた。もともと、紫陽花は咲いている間によく色の変わる花だ。けれど、この文面だけから考えると、自然現象とするには無理がある。
「へー、そうなんだ……。それに、この書き込み見るといつでも白いってわけじゃないみたい。白くなる時期とか条件とかあるのかなぁ」
 孔志の言葉を受けて、雫もまた、考え込むような口調になる。
「この白い影って幽霊か何かかな。だとしたら、やっぱり何か遂げたい思いがあるんだよ。となると、誰か関係ある人が通るとそうなるんじゃないかな。時期だったら、霊気が強くなるお盆とか、満月の夜とか」
 みあおも、元気に言葉を足した。
「書き込みに『満開の紫陽花が』とあるから、季節的にお盆はないな。けど、満月の方は匂うな……。『月明かり』と書いてあるし、この友達が見たという日時が正確にわかれば調べられるんだがな」
 その言葉に返事を返し、孔志は再びモニタへと視線を移した。
「この書き込み、メルアド入力されてないねぇ……。とりあえず返信してみよっか」
 孔志の呟きを受けて、雫がマウスに手を伸ばした時。
「あーっ」
 隣のパソコンで調べものをしていた少女がすっとんきょうな声をあげた。すぐに、自分が大声をあげてしまったことに気付いたのか、ひょこりと首を竦める。
「みあおちゃん、どうしたの?」
 雫が軽く首をかしげると、銀髪の少女、みあおは自分の見ていたモニタを指差した。
「みあおね、月暦調べてたんだけど、今夜が満月なの。それも、月齢15.0」
「何ぃっ」
 孔志は、忘れてた、とばかりに軽く舌打ちをした。そもそも今日が満月だということは前からわかっていたはずだ。だからこそ今日は店を閉めているのだから。
「猶予はなしってか。じゃ、さっそく行くか」
 どうやら書き込み主に確認をとっているヒマはなさそうだった。けれど、孔志の能力から言えば、満月の日に調査できるなら、その方が話が早い。
「待ってっ。みあおも行くよぉ。でもその前にデジカメ、懐中電灯、お菓子、ジュースっ!」
 そうとなれば早速行動、とばかりに立ち上がった孔志の背を、切実なみあおの叫びが引き止めた。後2つはどうでもいいものが混じっているようにも思えるが、本人は至って真面目な様子だ。
「もちろん、俺にも準備があるから、一時間後にここで集合でいいか? この時期、日は長いからまだまだ時間はあるしな。ああ、ちゃんと親御さんに許可もらってきてくれよ。幼児誘拐犯になるのはごめんだからな」
 振り向いてにこりと笑うと、みあおはこくこくと慌ただしく頷いた。そのまま、脱兎の勢いで走り出してしまう。元気の良いことだと、その後ろ姿を見送って孔志は軽く頭をかいた。

「本当にお花屋さんだったんだ。きれい……」
 一時間後、孔志の車を見るなり発された、みあおの無遠慮な言葉と素直な感想に、孔志はにやりと笑みを浮かべた。
 孔志の愛車、Zロードスターの車内は、座席を除いて小さな紫陽花の鉢で埋め尽されており、さながら小さな花畑といった様相を呈していた。
 何といっても、今回は花がらみだ。聞き込みのついでに店の売り込みもできるかもしれない。そのための特売品だ。鉢植えなら車に乗せても傷みにくいし、紫陽花は、時期的に旬、手入れも簡単、花も華やかだし長もちもする、と三拍子揃っている。紫陽花屋敷つながりまで考えに入れれば、店のアピールにこれ以上の選択はないはずだ。
「最初からそう言ったろ? ま、これも営業努力ってやつだな。顧客拡大の機会は逃すわけにはいかないからな」
 解説を加えながら、孔志はみあおを助手席に乗るように促し、その荷物を預かった。その大きなリュックは見た目を裏切らずに、ずっしりと重い。
「……重たいな。何が入ってるんだ、これ?」
「デジカメと懐中電灯と、お菓子とジュース、2人分」
 思わず問いを口にした孔志に、みあおはけろりと返事を返す。遭難が危ぶまれる場所にいくわけでもあるまいし、どこをどう計算したらこれが2人分なのか。少なく見積もっても4、5人分はあるぞ、と喉まで出かけた言葉を呑み込んで、孔志は助手席に乗り込んで車内を物珍しげに眺めているみあおに荷物を返した。

 例の書き込みに、紫陽花屋敷の場所がわかりやすく書かれていたおかげで、2人はさほど苦労もせずに目的地に到着した。車で2時間弱。意外と都心から離れていない。
「わ、きれーい」
 車が止まるのも待ち遠しいとばかりに飛び出たみあおが歓声をあげた。都会にしては広い区画に、生け垣のようにはり巡らされた紫陽花は、まさに今が見頃だった。
 青紫から淡い空色、ほんのりと色付いたピンクから目のさめるような深紅まで、さまざまな色の花が思い思いに咲き誇っている。花の形を見ても、ヤマアジサイからガクアジサイ、西洋種とさまざまな形の花がバランスよく入り混じり、競い合うように咲いている。
「ほう……。こりゃすごいな。紫陽花ってーのは土壌が酸性だと青い花、アルカリ性だと赤紫の花が咲くもんなんだよな。ま、中には土壌と関係なく色の決まってる種類もあるが。にしても、こんだけ鮮やかにいろんな種類の紫陽花をいっぺんに咲かせられるっつーのはやっぱりすごいな。後で土壌も調べてみたいな」
 遅れて車を降りた孔志も、紫陽花の生け垣を前にして感心の声をあげる。が、その視線を道路の方へと移すと、自然とその表情が曇った。
「まあ、あんだけわかりやすく場所を書いてあったら、たどり着けるのは俺たちだけじゃなくてもおかしくないんだが……」
 路上には、たくさんの車やバイクが止められ、カップルやら子ども連れやらが紫陽花を指差してははしゃいでいる。あれだけ人の見る掲示板に書き込まれたのだ、ちょっと見に行こうと思う人間が出ても不思議ではない。
「どうしよう、夜まで人がいてたら……」
 みあおもこの事態に気付いたのだろう、小さく呟いて心配そうに眉を寄せた。
「大丈夫、ああいう連中は夜になったらどっかにシケこ……っと、まあ、夜になればいなくなると思って間違いない。」
 健全な青少年に聞かせるべきでない言葉が口から出かかって、慌てて孔志はせき払いをしてごまかした。案の定、みあおはきょとんとした顔をしている。
「ま、まあ、まだ夜中までには時間がある。ここは1つ、聞き込みでもするかね」
「うん、そうだね」
 孔志の提案に、みあおはすぐに頷いた。その屈託のないその様子から見ると、どうやらごまかしおおせたようだった。
「よっしゃ、こういう時のための特売品」
 孔志は調子よく車から紫陽花の鉢植えを下ろし始めた。手みやげがあれば、話を聞きやすくなるし、店のアピールにもなる。これぞ、まさしく一石二鳥、と孔志がにんまりとした笑みを浮かべた時だった。
「きゃー、きれい〜。可愛い〜。お花屋さんですかぁ〜」
 にわかに、甘ったるい女性の声が振ってきた。何とも目ざとく見つけたことか、ミニスカートにハイヒール、ばっちりとマスカラでまつげを固めた彼女は、きれいに塗られた爪で器用に小鉢を持ち上げた。すでにその視線は彼氏の方へと向いており、買ってぇ〜と蜂蜜に砂糖を溶かしたような声を出す。こうなると、断れる男はまずいない。
 孔志にとっても予定外のできごとだったが、こんな場面であろうと客は客。にっこり笑って応対すると、簡単に手入れの方法を教え、鉢に名刺も添えて女に手渡す。そうこうしているうちに、女の声を聞き付けて、別のカップルがやってくる。間もなく、孔志は数組のカップルに取り囲まれてしまった。
 こうなってしまっては仕方がない。花を売るついでに、孔志はそれとなく紫陽花屋敷のことを聞いてみたが、見るからにこの土地の人間ではない彼らから聞きだせるようなことはほとんどなかった。
 せいぜいが、「そう言えば廃屋らしいし、出るんじゃないの〜」と男が意味深げに言えば、女の方は「きゃ〜」と怖がってるんだか、喜んでいるのだかわからない悲鳴をあげて男の腕にしがみつく、といった食傷気味のお約束を披露してくれるのが関の山だ。
 むしろ、カップルたちというのは、商品を手にとってからもお互いに話に花を咲かせるもので、孔志は無駄話に足留めを食ってしまった形になった。
 中には、みあおを指してか、「若いパパさんねぇ」などと言う者もいて、孔志は内心青筋を立てつつも「可愛いでしょう? 母親似でねぇ」などと返したりもした。
 それでも人間、ものを買えば不思議と用を済ませた気になるのだろう、紫陽花の鉢がほとんどはけた頃には、残ったカップルたちも帰り支度を始めているようだった。
「さて、と……」
 やっと身体の空いた孔志は、周囲を見回した。いつの間にか、一緒に来たはずのみあおの姿が見当たらない。客に取り囲まれて身動きのとれない孔志を置いて、さっさと聞き込みに行ってしまったらしい。まだ幼いのに、なかなかしっかりしている。
 溜息1つついて、孔志は歩き始めた。この街なかでも銀髪は目立つ。さほどの苦労もせずに見つけたみあおは、老婆と話しているところだった。が、どうもその雰囲気が剣呑で、普通に話をしているという感じではない。
「どこの子か知らないが、あんたもさっさと家に帰りな。遊びでいろいろとかぎまわるんじゃないよ。ここは子どもの遊ぶところじゃないよ」
 険しい声色で告げた老婆は、さらに口元を歪めると、屋敷を見に来ているカップルたちをあごでしゃくり、吐き捨てるように続けた。
「急にああいう連中が増えてただでさえ迷惑してるっていうのに。あんたたちには面白い遊びかもしれんがね」
「そんな、違うよ。みあおは……」
 取りつく島もない、といった感じの老婆に、よっぽど戸惑っているのだろう。みあおは言い返そうとして黙ってしまう。
「スミマセンっすね。お騒がせして」
 みかねて孔志が割って入ると、振り向いた老婆は、さらに表情を険しいものにした。茶色く染めた長髪に、チョーカー等のアクセサリーをした孔志を、「礼儀知らずで不真面目な今どきの若者」ととらえたのだろう。けれど、ここでひるむわけにもいかないし、余計な言い訳も逆効果だ。
「けど、あそこの紫陽花、すごいでしょ。俺、花屋の店長してるんで、あんだけ紫陽花が好きだったって人のこと、聞きたいと思って」
 笑みを崩さずに、孔志はさりげなく紫陽花の小鉢を差し出した。うさんくさそうに孔志を見詰めていた老婆は、その紫陽花に目を留めて、ふ、と表情を緩めた。
「紫陽花……。確かに、あの人は紫陽花が好きだったねぇ。あんなことさえなければ……」
 そっと紫陽花の鉢を受け取って、老婆はぽつりと呟き、無念そうに首を振った。

 日は西へと沈んだらしく、切れ始めた雲の合間から昼の名残りを残した藍色の空が覗いていた。日も暮れてしまうと紫陽花屋敷にいたカップルたちはすっかり姿を消してしまい、昼間の喧噪はとっくに去ってしまっていた。ただでさえ静かな、廃屋となった屋敷の敷地内は、紫陽花の生け垣が外の光を遮って、一層暗く静かに沈んでいるかのようだった。
「この調子だと、月が出るな」
 空を見上げて孔志は独り言のように呟いた。額の傷がじくり、と疼く。満月の夜にのみ解き放たれる紅眼が、その気配を察してうごめき始めたかのように。
「そうだね……。やっぱり、ここの幽霊ってあの娘さんなのかな」
 薄闇にほんのりと浮ぶ紫陽花の花を見ながらみあおがぽつりと呟いた。先程聞いた老婆の話を指していると悟って、孔志は小さく溜息をついた。
 老婆と女学校で同級だったというこの屋敷の娘さんには、将来を誓いあった許婚がいたらしい。けれど、時は戦争の真っ最中。兵隊にとられた許婚は、白木の箱になって帰ってきたという。許婚の死に耐えられなかった彼女は、正気を失ってしまい、あたかも亡くなった恋人がそこにいて、夫婦になったかのように振る舞い始めた。頼るべき親戚もいなくなる中、次第に生活も荒れ、身だしなみも乱れていく。
 その鬼気溢れる姿が、妖怪の噂を呼んだのだと語った老婆はとても小さく見えた。静かに小鉢の紫陽花を見つめていた目は、涙の枯れ果てた瞳だった。
「まあ、月が昇ればわかるさ」
 空を睨んだままで、孔志は話半分に返事をする。
「そうなの?」
「……ま、いろいろあってな」
 無邪気なみあおの問い返しに、孔志は曖昧に答えた。いくら孔志が脳天気とはいっても、満月の夜に額の傷が開いて紅眼が現れる、などべらべらしゃべることではない。
「……そうなんだ。みあおもね、いろいろあるんだよ。……とりあえず月が昇るまでは、せっかく持って来たからお菓子とジュースっ」
 みあおもまた、意味ありげにぼそりと呟いたが、すぐにいつもの元気な表情に戻り、いそいそと荷物を広げ始めた。思わず苦笑を浮かべた孔志に構うことなく、これはお薦めだの何だの言って、スナック菓子やらチョコレートやらを次々に押し付ける。
 不意に、額の傷が強く疼いた。思わず押さえた手の下で、傷がゆっくりと開いていく。折から、金色の月の光がさっと差し込んできた。その冴え冴えとした月光を浴びて、生け垣の紫陽花の花がさらさらと清冽な音を立てて、次々に真っ白に染まっていく。
 それを追う暇もなく、孔志の額に開いた紅眼は、1つの人影をとらえていた。白無垢の花嫁衣装に身を包んだ、明らかにこの世の者ではない若い女。至福の時を表すはずの、一点の汚れもない白をまとったその顔に笑みはない。
「なぁ、あんた」
 話しかけた孔志の言葉に耳を貸す風もなく、花嫁は静かに紫陽花の方へと歩み寄った。その行動に違和感を覚えて、孔志は眉を寄せた。紅眼がとらえた「念」に孔志の言葉が届かないということはないはずなのに。
「やはり、私にはあの方以外の人に嫁ぐ気にはなれません。私にとって、夫になるべき人はあの方だけ……」
 孔志が見守る前で、花嫁は紫陽花の元にかがみこむと、物言わぬ花に語りかけるかのように、静かに口を開いた。
「だから……、今宵、私の誓いを……、せめてお前たちが見届けてちょうだい」
 真っ白に染まった紫陽花に言いおくと、花嫁は月に向って静かに歩き始める。亡き人の元に嫁ぐ決意を固めたその顔には一点の迷いもなく、凛とした面差しには氷のように厳しい美しさがあった。
――忘れないで。
 不意に、そよいだ風に乗るように、どこからか声が聞こえてくる。しずしずと歩みゆく花嫁からではなく、屋敷のあちらこちらから。
「……幽霊じゃない。紫陽花だ」
 その声の、「念」の根源を悟って、孔志は思わず声を漏らした。その声に呼応したかのように、月の光に照らされて、幾枚もの美しい羽根が宙を舞い、紫陽花の上に静かに降り落ちる。それが同行した少女の能力なのだろう、霊力のこもったその羽を受けて、紫陽花は清らかな白をさらに輝かせた。
――忘れないで。忘れないで。美しかったあの人を忘れないで。
――忘れないで。忘れないで。優しかったあの人を忘れないで。
――忘れないで。忘れないで。あの人の哀しみを忘れないで。
 さらさらと澄んだ音を立て、紫陽花は切なく訴える。これは、報われなかった花嫁の無念の霊ではなく、花嫁と同じ、刃のように清冽な、清らかな白へと身を染めた紫陽花の記憶が見せる幻。なぜなら、大地のくびきから魂を解き放ち、亡き人に嫁いだ花嫁は、この世に未練など残さなかったのだから。
「……大事な主人が妖怪呼ばわりされて、悔しかったんだな……」
 独り静かに歩む花嫁を見て、孔志は小さく呟いた。だから、紫陽花は年に一度、おそらくは屋敷の主人が独りで式を挙げた満月の夜、その身を白く染めるのだ。主人の最も美しく、そして哀しみに満ちた姿を消してしまわないように。
「忘れないよ。みあおたちが忘れない。でも……。せめて、今夜だけでも……」
 みあおの小さな叫びと共に、再び美しい羽が舞う。それは、ゆっくりと渦巻くように地に降りて、そこに1人の青年の姿を形作った。
 花嫁がふと歩みを止め、顔をあげる。呆然とその目が見開かれ、ついで氷のようだった顔が、花のようにほころんだ。青年が穏やかな笑みを浮かべ、静かに腕を広げる。花嫁は、衣装が乱れるにも構わずに、想い人の元へと駆け寄った。
 ああ、俺こういうのダメなんだよね……などと思う間もなく、孔志の視界はみるみるぼやけて滲んでいった。

 約一月後、店に届けられた郵便物の中に、一枚のはがきを見つけて、孔志は神妙にそれを手にとった。差出人は、紫陽花屋敷の近所に住む、あの老婆だった。絵手紙をたしなむらしく、裏を返せば、黄色がかった鮮やかな緑で彩られた紫陽花の絵が描かれていた。花の終わった後の紫陽花だ。
 紫陽花の見頃も去って、あの屋敷の周りにも静けさが訪れたのだろう。穏やかでのびのびとした筆遣いが伺える。
 それにしても、と孔志は独り笑みを浮かべた。花が散った後の紫陽花は、木としては目立たなくなるものの、艶やかで美しい葉を伸ばす。けれど、花しか目のいかない人間は、途端に見向きをしなくなるものだ。あの屋敷の主人だけでなく、その友人であった老婆もまた、よっぽど紫陽花が好きなのだろう。
 手紙の隅には、「今度店にも伺いたいと思います。とっておきの品を用意していて下さい」となかなか茶目っ気のある言葉も添えられていた。
「どーぞ、どーぞ、いつでもどうぞ。いっつもうちの品揃えは最高ですよん」
 これからの時期なら朝顔か、ひまわりか、それともやはり、来年に備えてたくましく葉を伸ばす紫陽花か。
 にま、と目を細めて孔志は空を見上げた。雲ひとつない、青い空から強い陽射しが容赦なく降り注ぐ。もう、季節はすっかり夏だった。

<了>

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1415/海原・みあお/女性/13歳/小学生】
【2936/高台寺・孔志/男性/27歳/花屋】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、初めまして。ライターの沙月亜衣と申します。
この度は、「白無垢の紫陽花屋敷」へのご参加、まことにありがとうございます。
大変お待たせ致しました、そして長々とお疲れさまでした。

 今回のお二方はどちらも人の好い印象を受けまして、きっと実際に顔を合わせたらすぐに仲良くなりそうだ……、ああ、でも親子に見えちゃったりして……などと、書き手の妄想がやや加速気味になってしまいましたが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。
 今回は、一応お二人用に書き分けております。おまけ程度の違いですが、お気が向かれましたら、他の方にお納めしたものも目を通してみて下さいませ。

 今回、高台寺さんのプレイングの中で、「紫陽花が好きだった人の事を聞いてみたい」とあったのが、非常に印象的でした。こういう発想がさらりと出てくるのが高台寺さんのお人柄なんだろうなぁ、と感じました。そのせいか、本文では少し感傷的な面が表に出てしまったようにも思います。またのご縁があれば、脳天気でからりとした高台寺さんの一面も書いてみたいと思いました。

 ご意見等ありましたら、遠慮なくお申し付け下さい。できるだけ真摯に受け止め、次回からの参考にさせて頂きたいと思います。
 それでは、またどこかでお会いできることを祈りつつ、失礼致します。本当にありがとうございました。