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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


血の聖域  後編




「奇麗な顔」
女が感嘆したように呟いた。
翼は二日ぶりに直接視界に入る光に目を眇め、自分の目の前に立つ女に視線を据える。
次第にはっきりとしてくる女の輪郭は、細く尖っており、切れ長の知的な目と、キチンと纏めてUPされている髪、それから白い肌から浮き立って見える程の真っ赤な唇が笑みの形を作っている事等を何とか確認できた。
暫くして、目が光に慣れ始める。
「レィディも美しいですよ? こうやって縛られてさえいなければ、その肌の美しさを触れて確かめる事が出来るのに」
皮肉気に芝居掛かった調子で嘆いてみせる翼。
瞳には冷たい光を宿したまま、勤めて何気ないそぶりで問う。
「所長さんとお呼びして宜しいんですよね? ね、所長さん。 あのリトル・レディはどうしたんです? 大切に扱ってくれてますか?」
すると女は嫣然と頷き、「ええ。 大事に、大事にしているわ」と答えて、翼の絹のように手触りの良い髪へと手を伸ばした。
「お噂通りの、優しい子ね? 他人の心配より、自分の心配の方が今は、大事じゃなくて?」そして笑顔のまま、翼の髪を引き掴む。
「ムカツクわぁ…。 余裕ね? AMARA。 不老不死の美貌を持ってるからって、調子に乗ってんじゃないわよ? 化け物風情が」
そう吐き捨て、女が背後に立つ男性達に声を掛けた。
「例の場所に運んで? 手荒に扱っちゃあ駄目よ?」
そして、パンパンと膝を払って立ち上がる。
「さ? AMARAぁ? お注射の時間ですよ」
女が一層笑みを深めた。  


真っ白なリノウム張りの床と、どう使うのかすら見当のつかない器具が並ぶ広い部屋。
薬液臭い匂いが鼻を突き、翼はまるで病院のようだと、ぼんやりと考える。
男達に抱えられるようにしてこの部屋に運ばれてきた翼は、「ゴホッ……コホ…コホコホ……」と誰かの咳き込む声に反応し、声のする方へと視線を向けた。
そこには、医療器具とも、拷問器具ともつかない椅子に全身を拘束された、誘拐されてきた少女がいた。
思わず身じろぎし、叫ぶ翼。
「っ! か、彼女に何をするつもりなんだ!」
翼の声をうるさそうに聞き、女は冷たい視線で見つめてくる。
「馬鹿ね。 決まってるでしょ? 可愛いAMARAが、一層可愛く、大人しく言う事を聞いてくれる為の保険よ。 吸血鬼なんていう化け物の貴女に暴れられたら、私達ひとたまりもないじゃなーい?」
そう告げ、それから翼も少女が座っているのと同じ様な椅子に下ろさせる。
冷たい鉄のベルトが、即座に翼の四肢を拘束した。
体の自由を奪われる事への本能的な抵抗心にみじろぐが、拘束された手足はビクともしない。
その上、一人の男性が翼の腕に素早くアンプルの中から薬液を吸い上げた注射器を刺した。
「っ! 何を!」
そう疑問の叫び声をあげ、何か得たいの知れないものが体内に注入される恐怖に、流石に翼も青ざめる。
冷たい何かが、翼の血管内へと侵入していった。
「体の力が入んなくなるお薬。 眠たくならない、麻酔薬みたいなものよ。 少し、頭もまわんなくなるけど……構わないわよね?」
そう言いながら、女は翼に顔を近づける。
「ねぇ…AMARA。 不老不死って、どんな気分? 気持ち良い? 人生バラ色?」
翼は、体が急速に怠く、鉛のように重くなっていくのを感じながら、低い声で答える。
「馬鹿な。 不老不死だろうが、何だろうが、生きていくという事は、それなりの苦痛も享受せねばならない。 誰もが、平等にね」
女は、コロコロと笑った。
「平等? アハハ。おっかしぃ。 貴女の体の上に流れる時間は、私達とは全く違う。 持ってる力も、何もかも。 それなのに、平等をその口で語るの?」
女は、コキリと首を傾け、うっとりとした口調でいった。
「AMARA。 私は、ずっと、ずっと不老不死についての研究を続けていた。 人類の夢。 進化の果ての、大いなる到達点。 美貌を保ったまま、若く永遠に生きていける。 私が、吸血鬼の存在を知ったのは、ほんの少し前。 偶然、ほんの偶然、研究室からの帰り道に、吸血鬼をお見かけしたの。 その吸血鬼を追う、貴女もね」
女の言葉に翼は、舌打ちしたいような気分に陥いる。

いつだ?
くそっ!
なんて、迂闊な!
もっと、狩りを行う際には、周辺に気を遣うべきだった。

「びっくりしたわ。 裸の女と、高名なF1レーサーの貴女が、東京の夜の空で追っかけっこをしているのだもの。 貴方達は、ある廃ビルの上へと降り立った。 私は、暫く、怖くて様子を眺めていたのだけれども、好奇心には敵わなくて後を追わせて貰った。 屋上の扉に耳を当てて、貴女と吸血鬼の会話聞いていた。 闇の皇女。 闇の後継者。 それが貴女。 あの女が自分の事をバンパイアだと言った時、頭がおかしいのだと思った。 貴女含めてね。 でも、扉の隙間からのぞき見た光景は、この世の物とは思えないもので、満月の下に立つ貴女は、あの吸血鬼を灰に還していた。 それからよ。 私は、吸血鬼がこの世に存在する事を確信したのは」
女は一旦息をつき、じっと翼の顔を見下ろす。
冷たい指先が、何度も何度も、翼の頬を撫でた。
「吸血鬼といえば、胸に杭を刺さねば滅ばないという伝説の不老不死の生き物。 血を吸われれば、同胞になれるとも言うわ。 どう? AMARA、私の血を吸う気はなぁい?」
翼は嫌悪に顔を歪め、「誰が! 僕は、吸血行為を行いやしないがね、それでも君みたいな人間の血はごめんこうむる」と、言い捨てる。
女は、ニタニタと笑って翼の頬を一度打つと「生意気な子」と呟き「ま、いいわ」と言った。
「別に吸って貰わなくったって、構わない。 私も、化け物になる気は更々ないわ」
「真名…」
翼は、呻くように言葉を吐きだした。
「え?」
「僕の、真名は何処で……知った…?」
女は、ああ、呟き事も無げに答える。
「吸血鬼について調べる内に、あの吸血鬼の女が言ってた血の始祖の娘、『闇の皇女』についての情報も手に入るようになったの。 貴女、向こうでは有名人ね。 AMARA。 素敵な名前じゃない」
そう言って、奥の男に声を掛け、輸血センターなどに置いてある、血液を抜く機械を持って来させる。
「さ、血を頂戴? 貴女の血を、まず、調べさせて貰うわ。 どのような成分で、どれが不老不死という奇跡をもたらす細胞なのか。 その成分を抽出し、まずは、動物実験、っそれから人体実験、そして奇跡の薬剤として、高く、高ーーく売り出してあげる。 うふふ。 私はね、貴女の血で、巨額の富と名声、そして不老不死の体を手に入れる」
翼の押さえつけれたままの腕の血管に、太めの針が差し込まれ、機械にスイッチが入れられた。
翼が、掠れ声で言う。
「止めておくんだね…。 僕の血の成分なんかを、体の中に入れれば、人は即座に身を爆ぜさせ、酷い死に様を晒す事になるよ。 僕自体が、奇跡的な偶然によって、出来上がった産物なんだ。 その血液に人の身で耐えられる筈がない」
女は忌々しげな顔で翼を見下ろし、「黙ってなさい。 貴女は、大事な血液牧場。 死なせはしないけど……、でも、あんまり生意気が過ぎると、お仕置きしちゃうんだから」と告げ、「血液を抜く速度あげて!」と、白衣の男達に告げる。
「少々多めに抜いても構わないわ。 研究の為には、大量の血液がいるもの。 大丈夫、不老不死のヴァンパイア、ちょっとやそっとじゃ死なない……わよねぇ?」
そう言いながら翼を見下ろす女を、冷たい視線で睨み据え「僕をどう扱おうと良いけどね、あの子に手酷い事をしたら……ここを滅ぼし尽くしてやる」と吐き捨てる。
少女は、小さな咳を繰り返しながら、弱々しい声で泣き続けている。

痛い。

翼はギュッと目を閉じる。
こんなに近くにいるのに助けてもやれないなんて……。
女は、フンと笑い「ホントに、貴女って子は、何処までお人好しなのかしら? 化け物の分際で、人を気遣うなんて笑っちゃう」と嘲笑い、それから「うふふ。 やっと、やっと、不老不死の体が手に入るのね。 ずっと追い求めて来たの。 ずっと、ずっとよ? 貴女には、分かんないわよね。 生まれながらにして、人の追い求める全ての理想を手にしている貴女には」と、言った。
「ここの研究室をパパから受け継いだ後、不老不死研究の費用を稼ぐために色々非合法な薬剤や、実験だって、請け負ったわ。 汚い仕事だってやってきた。 でも、今日で全ておさらば。 私は、医学会でも、この世界においても神に等しい存在になる。 不老不死薬の特許をとって権利を全て占有し、その成分も極秘とすれば、世界中の人間が私の足下に縋り付くわ」
翼は、女の言葉に首を振り、疲れ切った声で、その思惑を否定した。
「もう一度言う。 僕の血液は、体内なんかに摂取できるようなものじゃない。 いわんや、薬剤化なんて、どだい無理だ。 諦めなよ。 それにね、不老不死なんて、呪いみたいなものだ。 大事な人にも、時の流れにも、置き去りにされる呪い。 僕はね、本当は不老不死なんていらない。 心からいらないんだ。 今は、日々に取り紛れ、何とか忘れて生きているけど、時々怖くなる。 ずっと、何年、何百年、何千年、何億年、生きていかねばならないなんて耐えられない。 だからね、全ての使命を全うした時、僕は自分で自分の命を断つつもりなんだ。 そうやって、大事な人の元へ逝くって決めているんだ」
女は、冷めた目で翼を見つめる。
「恵まれた人間の戯言ね。 どれ程、自分が幸福か分かっていない傲慢さが、余計むかつくわ。 分かったわ。 貴女は、薬が出来るまでは、大事な血液製造器だけど、出来上がってからは、もう用無し。 その先は、不老不死化した人間の血液から、また薬を作れば良い。 胸に杭を……だったっけ? お望み通り、天の国へと送ってあげる。 ……化け物の逝く先は地獄の方が、お似合いかしらね」
女はそこまで言うと、ホホ…と手を口に当てて笑った。
その姿に、翼は諦めに似た気持ちを掻き立てられる。

駄目だ。 この人には、僕の言葉は通じない。

翼は、口を噤んで、項垂れた。
能力を使って魅了しようにも、二日間殆ど水しか与えられずに監禁され続けた事と、抜かれ続けている血液、そして打たれた薬のせいで、そんな力は振るえそうにない。
車の中でも、目隠しのせいで使えなかったし、そう考えると、確かにこの女性は、吸血鬼の能力、とりわけ翼の事をよく調べ上げていると、思われた。


どうしてそんなに不老不死に憧れるのか?


不変のものなどつまらない。
いつか、金蝉が言っていた。
その通りだ。
不老不死なんて、退屈極まりないじゃないか。  




目を閉じた。
頭が重い。
血がどんどん抜かれていく感覚に、胸の辺りから吐き気が込み上げてくる。
気持ちが悪い。
手足の温度が、無くなり始めている。
(金蝉)
そっと胸の中で呟く。
(金蝉…)
その名を呼びながら、続ける言葉が見つからずに翼はぐっと唇を噛みしめた。


血を抜かれ初めて、30分程立った時だった。


ドクン。


翼の心臓が、今までとは明らかに違う振動の仕方を始めた。



(血が……足りない……)



ドクン。


翼は身じろぎ、大きく息を吸う。



(血が……欲しい……)




ドクン。


……何だ? これは。



ゾッとするような恐怖にかられ、翼は「ヒィッ」っと引きつったような声を小さくあげる。


(血が……血……血……血!)



ドクン!





翼の体が、びくんと跳ねる。
「あ! あぁぁ! あぁっ! うぁぁぁ!」
力一杯叫び声をあげ、押さえつけられている手足を、それでもバタバタとばたつかせる翼。
「や! 止めろ! 違うっ! 嫌だ! 嫌だ!」
(血が吸いたい! 吸いたい! 吸いたい!)
目眩がする。
世界が、ぐらぐらと揺れていた。
今まで感じたことの無いような、食欲とはまた別の、しかし抑えようのない衝動。



吸いたい!



血が欲しくて、欲しくて堪らなくなっていた。


「っ! 何なの! 何なのよ、この子いきなり!」
戸惑ったように叫ぶ女の声が耳に入る。
翼は、吠えるように叫んだ。




「あっああああぁぁああああああああああああ!!」




涙が目に滲む。
自分が自分でない生き物になるような感覚。
凶暴な感情が、翼の中で暴れ回る。


パリン!


硬質な音を立てて、翼を拘束していた鉄のベルトが砕け散る。
翼の周りを強風が吹き荒れていた。
翼は、自分の血管から針を抜き、ゆっくりと立ち上がる。


誰かの叫び声が耳を貫いた。
「化け物!」




そうだ。 僕は、化け物だ。
異形の生き物。


分かっていたのだろう?


分かっていて、連れてきたんじゃないか。
なのに、今更、何を怖がる。
翼は、再び吠えた。




「あああああああああああ!!!」



研究所内の機械が火花を散らして壊れる。
パリン、パリンと音を立てて、窓硝子が四散した。


「止めて! あの化け物を止めて!」
女の喚く声が聞こえる。


血。
あの女の血。
吸う。
吸いたい!
吸いたいよぉ!


翼が、女に視線を向ける。
その瞬間、女の体がぐにゃりと有り得ない形に歪んだ。
首が、おかしな方向を向き、手や足が、奇妙な形にねじ曲がる。


「うわぁぁぁ!」
「ひぅぃぃぃ!」
「っわあああああ!」
部屋の中にいた男達の叫び声が響き渡り、女は一瞬自分の身になにが起こったのか理解出来ない表情を晒していたが、すぐに激痛が襲ってきたのだろう。
「ああがぎゃあああああ!」
泡を吹き、倒れのたうち回った。


残酷な仕打ち。
こんな能力が、自分の身に宿っていたなんて……。


自分で自分に恐怖心を抱き、翼は心の中で悲鳴をあげた。


嫌だ。 止めて欲しい。 嫌だ、嫌だ、こんなのは自分じゃない。
自分じゃない!


違う。 理解しろ。 これが、僕だ。 AMARA。 これが、本当のお前。 さぁ、吸え。 血を、吸え。 処女の、少女なんてご馳走も側にあるじゃないか。 吸え! 血を、吸うんだ!




理性と欲望の間に板挟みになり、翼は自分で自分の身体を抱き締める。



怖い。
涙が、ボロボロと零れ落ちた。


人間でいたい。
人間の中でいたい。
大事なものがたくさんあるんだ。
友人も、仕事も、暮らしも、大事なものがたくさん出来たんだ。


血を吸えば、もう、戻れまい。


行きたくないよ。


翼は、泣きじゃくる。


行きたくないよ。 向こう側になんて。


側にいたいんだ。
君の側に……。


金蝉!


金蝉の名を胸の内で叫んだ刹那、ガクリと体が崩れ落ちた。
体力が限界の所へ来て、血液の抜かれすぎで体が動かなくなったのだろう。


部屋の中を吹き荒れていた風もピタリと収まり、瞬間、先程までの狂乱とは打って変わった静けさが部屋の中に満ちる。
ただ、女の、痛みに悶える苦悶の声だけが響き渡っていた。
泡を飛ばし、白目を剥きながら、それでも女は叫ぶ。
「殺せぇぇぇ! AMARAを殺せ! 胸に杭を! 血は、死体から抜けば良い! もう、私達の手には負えない! 殺すのよ! 殺せぇぇ!」
女の言葉に周りの研究所員達が、怖々と翼の近寄り始める。
皆恐怖に満ちた目の奥に、異形の者に対する、嫌悪と憎しみが満ちている。
翼は、体に全く力が入らないのを感じながら、ハァハァと息荒く倒れ伏していた。


これで、良いのかも知れない…。




翼の中で渦巻く吸血衝動は、まだ収まってはいなかった。



このまま、ここで殺されれば、誰の血も吸わずに済む。
最低の場所へ堕ちなくても良い。
すぅっと、吸い込まれるように目を閉じる。



そして、翼はふと前に、金蝉にした頼み事を思い出した。


ある事件で自分の行く末に恐怖心を抱いた翼は、完全に自分がが吸血鬼化してしまった時、君が殺してくれと金蝉に頼んだ。
あの時は、馬鹿な事を言われてはぐらかされてしまったが…。



ああ、どうせ死ぬなら、君の手で死にたかったな…。


ぼんやりと、そう思う。


翼は、つるりと涙が零れるのを感じた。


金蝉の金色の髪、不機嫌そうな表情、冷たい声、でも、力強く抱き留めてくれる胸の感触を思い出す。



金蝉、会いたい。
最期に、君に会いたいよ。
金蝉……。




そうして翼は、胸の中にある切実な願いに気付く。



死んでも良いなんて嘘だ。
そんなに、諦めの良い人間なんかでいられるものか。



本当は金蝉と一緒に生きたい。
ずっと、一緒に生きたい。


吸血鬼の分際でなんて、誰に言われても構わない。


(金蝉…)


翼は、漸く後に続く言葉を見付けた。








(金蝉……助けて……)









近寄ってきた研究員達の内の誰かが、翼の腕を掴んだ瞬間、部屋の中に耳をつんざく銃声が響き渡った。



怒りという言葉では表現しようのない、燃え上がるような空気を纏い、部屋の入り口に金蝉が立っている。
翼は、震えるような喜びと、安堵と共に、その姿を目にした瞬間金蝉の血を猛烈に吸いたいという欲望を覚え、恐怖の余り、目の前が真っ暗になる。


白い肌。
驚異的な能力。
高貴な空気。
冷たい美貌。


さぞかし、金蝉の血は美味いだろう。
そこら辺の人間では味わえない、甘美な味がするだろう。


そんな風に考える自分がいて、翼は、自分に堪えようのない嫌悪と吐き気を覚える。


僕は……何処まで腐ってしまったんだ!


自己嫌悪の最中にいる翼の耳に、「生きて……返さねぇ!!」そう吠える、銃を構える金蝉の声が聞こえ、思わず翼は掠れた声で制止の声をあげた。
「っ! 駄目だ! 金蝉、殺すな!」
金蝉は、翼に目を向け、「お前は、どこまでっ……!」と呻くように喚くと、一瞬躊躇う様子を見せ、その後チィッと舌打ちすると拳銃をしまい、一転印を素早く結ぶ。
金蝉は短く詠唱を済ませると一言「縛!」と言い放ち、ビッと指を部屋内の人間達に向けた。
その瞬間バタバタと、皆が倒れ伏す。
皆、体中を何かに縛り上げられたかのように直立不動の姿勢をとり、意識を失っていた。
倒れた人の間を縫い、翼に走り寄る金蝉。
その体を抱き上げ、「おい! しっかりしろ!」と、耳元で叫ぶ。
しかし、翼は弱々しく金蝉を押し返し「は……離れてくれ…」と言う。
その間も、吸いたい!
血を!
金蝉の血が欲しい!
と暴れる欲求は留まる事を知らず、気を抜けば金蝉の首に噛み付きそうな自分に絶望する。


もう、駄目なのだろうか。


もう、僕は戻れないのだろうか…。


金蝉の血が吸いたいだなんて……。


「どうした? 翼?!」
焦ったように、訝しげに問うてくる金蝉に、翼は弱々しく首を振り囁く。

「金蝉……僕の…側に来ないで……。 血が……」
「血?」
「血が……欲しいんだ…」


浅ましい。


自分の言葉にボロボロと涙が零れ落ちた。


「君の……血が…欲しい……。 嫌だ! ああ、嫌だっ! くそっ! 僕は……どうしてっ!」



金蝉は、目を見開き、翼を凝視する。



その視線が痛くて、目を逸らすと、弱々しい声で翼は言葉を続けた。



「お願いだから…離れてくれ…。 もう、我慢出来そうに…ないんだ。 軽蔑してくれていい」
「翼……」
「離れて…、もし、そのまま僕が完全に吸血鬼化してしまったら……前にも頼んだだろう? 僕を……殺して……」


金蝉は、黙り込んで翼を見つめ続ける。
翼は、藻掻くように、金蝉の腕から抜け出そうとした。




「馬鹿が……」



呆れたような、柔らかい声で金蝉は呟き、それからぎゅっと、強く翼を抱くと、金蝉は首を少し横向け、大分長く伸びてきた髪をかき上げる。
露わになった、奇麗な白いうなじに、翼の目は釘付けになった。
「苦しいんだろ? 吸えよ…」
翼は、その首筋から目を逸らす事の敵わないまま、それでも首を振る。
「構わねぇ。 吸え」
「……こ……んぜん。 そんなコトしたら君は……」
「べっつに、てめぇと同じ生き物になるんだったら、構わねぇよ」
「でも……」
でも、そうなる確率よりも、ずっと、ずっと、金蝉の事を殺してしまう確率が高い。
翼の力は、人間の体では耐えきれない。
金蝉が、翼の懸念を察して、笑う。
「ばぁーか。 俺は、お前より先にはくたばらん。 約束してやる。 お前が、例え不老不死の、どんな凄い生き物だろうと、俺も死なん。 お前が生きてる限りは……生きてやる」


それは、絶対に不可能な約束。
守れるはずのない誓い。
不老不死の生き物と、限られた命を生きる人間の間では交わしようのない約束。
なのに、金蝉は、まるで、当然のように、出来て当たり前のように誓う。
翼は、それが嬉しくて、悲しくて、切なくて、堪らなくて……、金蝉の首筋に縋り付いた。


「吸え…」
翼は首を振る。
例え、金蝉が命を失う事は無くても、こんな悲しい生き物に変えてしまう事なんて絶対に出来なかった。




吸血衝動が、急速に収まっていくのを感じる。





「金蝉……」
「ん?」
「ありがとう……」


そう呟いたのを最後に、すぅっと翼の意識が闇に落ちた。















目を覚ますと、翼の大好きな金蝉の家の木の匂いがした。


ゆっくりと息を吸い込む。


あの薬液臭い空気がいっぺんに体の中から消え去るように感じ、半身を起こすと翼は大きく伸びをした。
そんな翼の額をペシと金蝉が叩く。
「あぅ…」
そう呻き、睨むように見上げれば、呆れたような表情の金蝉がいた。
「ちゃんと大人しくしてろ」
そう告げて、冷たく冷やしたペットボトルの水を差し出す。
「血が足りねぇ時はまず水分補給。 それから、肉だ」
そう言う金蝉に顔をしかめ、「起きて速効肉なんて食べれないよ」と口を尖らす。
いつも、我が儘を言うのは金蝉の方だから、立場が逆転したみたいで楽しい。
そのまま翼は、「エイ」と掛け声をかけて、金蝉の胸に頭を凭れさせると、金蝉は何も言わずにポンポンと翼の肩に手を回して叩いた。
「君がここまで運んでくれたのかい?」
「ああ」
「どうしてあそこが分かったんだ?」
「ああ。 それに関しては、俺も聞きたい事があった」
金蝉が、フイと翼の顔に視線をすえる。
「お前の両親って……人間だっけ…?」
意味の分からない質問に首を傾げる翼。
そして、ポンと手を打つ。
「もしかして……、パパとママが、興信所を訪ねたのかい?」
翼の言葉に、「パパ? ママ?」と、疑問の声をあげる金蝉。
コクンと翼は頷いて口を開く。
「パパはF1レースの大ファンでね、レースに観戦しに来た時に、僕のマシンにトラブルが起きて、その場のメカニック達でさえも手こずった修理を、パパが行ってくれたんだ。 聞いてるかな? 彼が元整備士だって。 凄い腕前でね、スカウトしたいって考えたんだけど、もう引退したからって断られちゃって。 ま、そこからの付き合い。 子供がいない二人は、本当に僕の事を娘みたいに思ってくれてて、日本でのレースには必ず来てくれるし、僕も何度か海外のレースにだって招待してるんだ。 僕にとっての、日本での両親って感じかな? ママはね、料理が巧くて、幾つかレシピを教わってるから、また作ってあげるよ」そうニコニコと答え、それからサッと表情を曇らせる。
「ああ、折角会いに行く予定だったのに、全部台無しになっちゃった。 しかも、興信所を訪ねてくる位、心配させてしまうだなんて……」
そう落ち込んだよう言う翼の肩をポンと叩き、「大丈夫だ。 ぶっ倒れてるお前に会わせる訳にはいかないから、武彦には報告を遅らせたが、とにかく無事である事だけは伝えた。 飛行機に乗り遅れた事にしといてある。 また、元気な顔を見せてやれ」と金蝉が言えば、驚いたように翼が金蝉の顔を眺め、そっと額に手を当てる。
「そのリアクションは…、どういう意味だ?」
半眼になって問う金蝉。
「や、そんな素直に慰めるなんて、熱があるのかなと思って…」
そう言う翼に、金蝉はガクリと肩を落とす。
「で? 僕の質問には、まだ答えてくれてないよね? どうやって、僕の事探し当てたの?」
翼に問いに、金蝉が答える。
「二人から依頼があってからな、とにかく調査を開始してはみたんだが、お前の足取りがどうやっても掴めなかったからな、とにかく現場に向かってみる事にした。 お前が、あの夫婦の元へ向かうならば、空港から最寄り駅へ向かったと考えるのが自然だ。 そこまでの通り道周辺の住人に、台風の最中、一人一人話を聞いて、近くのパン屋の娘から、お前が白衣の男に促されて、黒い車に乗り込むところを見たという情報を入手した。 その車の向かった方向と、白衣の男という証言から、あの研究所を割り出したって訳だ」 
翼は、金蝉の台風という言葉に眉を顰める。
「風が…騒いでいたのか……。 僕は彼らにまで心配させてしまったらしい」
「全くだ。 お前を助け出した途端、ころっと天気は晴れ、台風は去っていった。 研究所の奴らは、全部しょっぴかれたぜ? 武彦が、俺達が病院を去った後、警察に匿名で連絡を入れたらしい。 随分、悪どい事をやってたらしいからな、所長の女含めて、厳罰を喰らうだろうな」
金蝉の言葉に、ハッと身を震わせ、翼は不安に揺れる声で問う。
「あの子……、一緒の部屋にいた女の子は、どうなった?」
その問い掛けに金蝉は、ぎゅっと眉根を寄せ、言いにくそうに口を開いた。
「……満足に、薬を与えられていなかったらしく、喘息の発作が連続して起こっていてな……危篤状態だそうだ」
その瞬間、翼は、ベッドから転がるようにして起きようとする。
「っ! 翼!」
「い……行かなきゃ!」
力の入らない足で、立ち上がろうとする翼を金蝉が、強引に抱き締めるようにしてベッドに押し倒す。
「てめぇは寝てろ! 向こうには、武彦が行ってるから…」
「でも!」
「でもじゃねぇ!」
そう怒鳴りつける金蝉の迫力にビクリと身を竦ませる翼。
覆い被さるようにして、金蝉が怒りと不安のごちゃ混ぜになった目で見下ろしてくる。
「お前、自分がどんだけ危ねぇ状態だったか分かってんのか! 脱水症状まで見られる失血多量の重体で、血は足りねぇ状況だが、お前に普通の人間の血は輸血できねぇし、とにかく武彦の知り合いの医者や治癒能力を持つ能力者を呼んで、点滴打って……。 一回、呼吸だって止まったんだ! どんだけ……、俺が…どんだけ、怖かったか……」
強く、強く、翼の体を金蝉が抱き締める。
「……ご…めん、なさい」
翼は、そっと呟いた。
全身の力を抜き、金蝉にされるがままになる。
「た…すかるよね?」
「ん?」
「あの子……助かるよね……」
金蝉は頷く。
「大丈夫だ。 俺が保証してやる。 助かる」
あの研究所で、根拠無くそれでも、確信を込めて翼に誓った声音と同じ調子で金蝉は言う。
「助かる。 だから、翼も自分の身体を気遣え。 今は、全快する事だけ念頭においてろ。 俺は……、俺は……、また何もできないまま、お前まで失うかと思った」


金蝉は、武彦の心配を杞憂と取り合わず、最初全く翼の身を案じなかった己に、殴り飛ばしたい程の怒りを感じていた。
翼が研究所にて、酷く衰弱した姿で倒れている瞬間、全身を貫いたのは、もっと早く動き出さなかった自分への怒りと、嫌悪、後悔。
翼が酷い目にあっているのに、全く守れなかった自分を悔やみ、悔やんで、翼が金蝉の自宅で命の瀬戸際にいる間、もし、翼の命が失われるような事があれば、自分は一生自分を許せはしないだろう。
翼のいない世で生きる位なら、詫びる気持ちも込めて、己で、己の命を断とうとまで決心していたのだ。


翼は微かに震えながら、もう離すまいと言うように固く抱いてくる金蝉の体に包まれて、一粒の涙を零した。


生き延びて良かった。
この人を、一人にしてしまう所だった。


金蝉は幼い頃に、両親を目の前で殺されているという。
何も出来なかった自分を、悔やみ、悔やみ、憎んでいる。
金蝉にまとわりつく位、影のようなものは、屹度その出来事への悔恨の気持ちによって出来たものだと翼は感じていた。



生き延びて良かった。


再び、翼は胸の中で呟く。


そんな想いを金蝉に再びさせる訳にはいかない。



優しく金蝉の背に手を回し。翼は呟く。


「ただいま」


ここが、この胸の中が僕の帰る場所。


金蝉が、答えた。


「おかえり」


その言葉は、柔らかく翼の胸に染みた。




  終