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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


平安激情 前編



「魔王! わぁ、君にぴったりの銘柄じゃないか!」
そう言いながら、今や幻とすら言われる芋焼酎を、トクトクと惜しげもなく金蝉のグラスに注ぐ。
翼の家の瀟洒で、今時っぽい作りの室内には全くそぐわない酒ではあるが、この頃金蝉は芋焼酎がお気に入りだから仕方がない。
他にも、森以蔵、百年の孤独という魔王加えて幻の三大銘酒も揃えてあり、他にも日本酒、ビールが冷蔵庫の中で出番を待っている。
目の前には、翼が腕を奮った料理達が並べられていた。
食べたい、食べたいと、強請った刺身等も用意してあり、まさに至れり尽くせりの状況に、常時刻まれている眉間の皺も消え、金蝉にしては穏やかな表情で、グラスを傾ける。


美味い。


喉を滑り落ちる味わいに目を細め、厳しく躾られた事を窺わせる奇麗な箸使いで、料理に舌鼓を打つ。
「美味しいかい?」
翼の問いに、黙って頷けば、途端に満足そうな笑みを浮かべ「どうせ、僕のいない間、ロクなもん食べてなかったんだろ?」と言いつつ、皿に食べ物をよそってくれた。


この歓待は、ここ最近、どうも金蝉の機嫌を悪くするような事しかしてないような気がする翼の、せめてものご機嫌とりだったりする。
草間絡みも多いとはいえ、下降する機嫌の影響をもろに受けるのは翼ばかりで、ここらで一つ、機嫌を直しておこうと考えたのであった。
翼に頼まれると、どうしても腰を上げてしまう金蝉への、感謝の気持ちもあるのだろう。
金蝉好みの薄味でまとめられた料理達は、箸が止まらなくなるような出来映えで、食べ物と酒で、機嫌が直る己も悲しいが、美味いものは仕方がない。
「もう一杯どうぞ」
なんて言いながら、憎からず思う翼に酌をされれば、気分は久しぶりに上昇の一途を辿り、金蝉は「あの…、煮付けが旨い」なんて素直な誉め言葉だって、すんなり口に出来る。
翼も、そうやって料理を平らげる金蝉を、嬉しげな、何とも言えない目で眺めると、ウーロン茶を飲みつつ、自分も料理に箸を付けた。
「うん。 よく出来てる」
そう笑う翼に「自画自賛だな」とからかいの言葉を投げて、金蝉は、渾身の出来映えだという湯葉巻きに箸を伸ばした。



幾分夜も更け、いつもの金蝉ならば、翼の年齢も考慮し、では、そろそろ……と、暇を告げる時間帯なのだが、どうも酒を過ごしてしまったらしい。
ほんのり首筋を朱に染めて、金蝉が「ん」と言いながら翼を手招きする。
「何だい?」
首を傾げながら無防備に近寄ってくる翼をぐいと引き寄せて、胡座をかいた自分の足の間へ、その身体をへ抱え込むと「眠ぅ」と、呻いた。
ぬいぐるみのように抱きかかえられて、翼が「うあ、酒臭いっ!」と叫んで暴れると、何だかからかいたいような気分になって、ますますぎゅうっと抱き込む。
「酔ってる? 金蝉」
翼が、首を仰け反らせてそう問えば、「…酔ってねぇよ」と、据わった目で、明らかにいつもより浮ついた返答を返す。
「や、酔ってるだろ?」
そう問えど、金蝉は翼の身体を解放せず、「大体、お前は……いつも、うるさい」と、翼への唐突に文句を口にした。
「それに…、色々…、無茶が過ぎる……。 あと、お人好しすぎだ…。 それから、頭がよく見えるが、時々、途方もなく馬鹿だ…。 気障で…。 女たらし……」と、眠たげな声で今まで翼に対して感じていた不満をぶちまける。
流石に不機嫌になる翼。
「なんだよ、それ。 たらふく呑むだけのんで、食べるだけ食べといて、いきなり僕への文句かい?」
そう言いながら、金蝉の頬をエイと引っ張る。
そして、「変な顔」と笑う翼の頬を、お返しのように両手で挟み、「あんま、そんなだと襲うぞ?」と、金蝉は低い声で告げた。
少しだけ目を見開き、それから余裕の笑みを浮かべて「出来るもんなら、どうぞ?」と翼が言う。
その生意気な表情が、金蝉の欲求を刺激し、最初戯れのつもりで告げた言葉を、少しだけ実行してみようかとも考えた。
金蝉が、顔を近づける。
翼は、ぎゅっと金蝉の服の袖を掴み、そんな彼の目を見つめていた。
少し震えている。
金蝉は、愛おしいという感情が胸一杯に広がり、翼を抱く腕の力も強くなる。
唇と唇が近くなり、翼が眉を顰めた。
「酒臭い」
金蝉は、呆れたような声で「我慢しろ」と囁くと、翼の柔らかそうな唇に、自分の唇を重ねようとした。


ドンドンドンドン!!


唇が触れ合う寸前、突如、窓硝子が、まるで力一杯殴られているかのように激しい音を立てて震えた。
ビクリと身を竦ませる翼。
そのまま、金蝉の腕の中から抜け出し、窓際へと走り寄る。
どうも、風が翼に何か伝えに来たらしい。
金蝉は腕の中からすり抜けていった、心地良い感触を思いガクリと項垂れる。
こう、もう少しというトコで、巧くいかない場合が多いのは、詰めが甘いせいなのか?
思わず、男としての在り方まで悩み出す金蝉を、翼が大声で呼んだ。
「っ! 金蝉!」
金蝉は、視線を翼に向ける。
翼が、切羽詰まった声で叫んだ。
「武彦が、消えたらしい!」



また、あいつか。



視線が、氷点下を越えて、絶対零度の温度にまで下がるのを感じる。



なんだ、あいつは?
いつも、いつも、いつも、邪魔ばかりしやがって。
大体、失踪って、てめぇ、ヒロインか?
ピーチ姫か?
っつうか、例えそうであったとしても、助けにいく気はさらさらねぇのに、その上、武彦程度の分際で、気に喰わねぇ事ばっかりしでかしやがって…。



一気に機嫌が悪くなる金蝉に走り寄り、翼が「行こう!」と言うのに耳を塞ぐ。
「何で、俺が、あいつを、助けに、行かなきゃ、ならねぇんだ」
軋むような声で、一語一語区切って言えば、翼は、眉根を下げ「ほら! 金蝉! しょうがないだろ?」と揺さぶってきた。
「ね? ほら、色々世話になったし…」
「その五倍は世話してる」
「アレで、結構、いい奴だし……」
「いい奴? あいつが? いつの間に『いい奴』って言葉の意味が変わったんだ? 調子いい奴である事は確かだがな」
「知ってしまった以上は、放っておけないだろ?」
「おける。 何処までも放っておける。 むしろ、積極的に放っておかせて頂きたい。 いっそこのまま、永遠に放っておきたいものだ」
「金蝉!」
翼は叱るように名を呼ぶと腰に手を当てて、聞き分けのない子供に言い聞かせるような口調で言った。
「いいかい? 君がね、ここで、どんだけゴネようとも、僕は一人でも、興信所に行くんだからね? そうしたら、僕も、武彦と同じ様な目にあって、何処かへ失踪してしまうかもしれない」
翼の言葉に溜息を吐き、「お前、だから俺も着いてこいってぇのか?」と問う。
翼は、コクリと頷くと「来るだろ?」と自信満々に問うてきた。



で、二人揃って興信所前。



結局、興信所に来ることになった自分に、もう、ここへ来る前に、無駄な抵抗とかするのやめようか、疲れるから…と、後ろ向きな思考をしている金蝉は、先を行く翼が走るようにして階段を登る後に続く。
扉をノックもなしに空けた翼が、興信所内に広がる光景に息を呑む。
その後ろから覗き込むように、部屋の中を見た金蝉も驚愕に目を見開いた。


部屋の真ん中に、大きな黒い穴が存在している。
穴の向こうに何があるかは全く窺えないが、たしかにポッカリ、空洞な穴だ。
「っ! 何だ……あれは?」
思わず、悲鳴のような声で疑問を口にする翼に、金蝉も喚き返す。
「知るか! っつうか、武彦の野郎、もしかすると……」
「うん、多分、あの穴に……」
そこまで会話した瞬間、何かの歪みのように、空間に存在する穴は、唐突にその存在を肥大させると、立ち尽くす金蝉と翼の二人を呑み込んだ。



真っ暗闇の中、落下しているような、浮遊しているような、奇妙な感覚が身体を包む。
咄嗟に、庇うように抱き締めていた翼が、じっと金蝉にしがみついたまま、「アリスになった気分だ」なんて呟くのを「余裕じゃねぇか」と、その豪気さに呆れるような気持ちになりながら、ジタバタしても仕方ないと覚悟を決め、金蝉は状況に身を任せた。



スポン!と、空気の抜けるような音を立てて、唐突に金蝉と翼は地面に放り出された。
何とかバランスをとって、降り立った金蝉は同じように膝を付いている翼に視線を向け「怪我は?」と短く問う。
翼は、「大丈夫」と答えると、「さぁて、ここは何処なんだろうね?」と周囲を見回した。
土埃たつ、舗装されていない道路。
現代では見掛けない、漆喰壁の木造建築達。
そして、少し歩き、街道と思われる大きな道へ出た瞬間、兎に角翼は天を仰ぎ、金蝉は地に崩れ落ちた。
直衣姿の男性達が、闊歩している。
皆、烏帽子を被っている。
翼が、掠れた声で囁いた。
「金蝉、こういう風景を映画で見た事がある」
金蝉も、脱力しきった声で答えた。
「偶然だな。 俺も、何だか記憶にあるのだが……」
「あの…さ。 馬鹿な事言っても良い」
「いいぞ」
「ここってさ、平安時代じゃない?」
致命的な一言。
グラリと、目眩が金蝉を遅う。
乾いた声で、笑い声をあげた。
「本当に馬鹿な台詞だな」
「だよねぇ…。 あは…はは…は…」
力ない笑い声を漏らし、そして翼が小さな声で呟いた。


「夢なら覚めろ」


金蝉もその台詞に大いに賛同する。
これは、何か、奇妙な夢に違いない、
きっと、自分は今頃、翼の部屋で眠りこけてしまっているのだ。



だが、同時に金蝉は、今までの経験から痛い程悟っていた。



悪い夢だと思える状況ほど、非情な迄に現実なのだと。




現代でだって、街を歩けば目立って仕方のない二人が、こんな時代を金髪、現代の格好で歩けばそりゃあ注目を浴びる。
金蝉は、まだ和装だからマシではあるが、翼に至っては、休日用の白いシャツに細身のジーパンなんていうラフ極まりない服装で、まるでちんどん屋を眺めるような目つきで見られ、顔が赤くなるのを感じた。
「とにかく、武彦を捜そう。 興信所に、あの黒い穴が出現していた事と良い、先に吸い込まれている事と良い、もしかしたら何か知ってるかも知れない」
翼の提案に金蝉は賛同の意を示すと、あの穴から同じ地点に放り出されたと仮定して、自分達が放り出された場所周辺を歩き回る。
人々は遠巻きに二人の姿を眺めては来たが、別に危害を加えられるような事もなく、さしたる障害もなく、周辺を調べる事が出来た。
「ただ、聞き込みが出来ないのが辛いね」
そう翼が言う通り、声を掛けようとしても、二人の姿を見ると目を剥き、皆、逃げ出す。
確かに、自分達の姿は別の生き物にしか見えないだろうと納得しつつ、このままではいつになったら現代に帰れるのか、そもそも、本当に武彦は同じ場所に来ているのかさえ、不安になり始めた時だった。
「あの、もし……」
微かな声が、二人を呼び止める。
驚き、声の方向へ視線を向ければ、そこには路地に直接座り込み、土埃まみれになっている僧侶がいた。
托鉢僧なのだろう。
地面には茶碗を置き、中に幾ばくかの小銭が放り込んである。
どうも、盲目であるらしい。
焦点の合わぬ白濁した目を虚空に向けて、もう一度2人に声を掛けた。
「あの……もし……、そこ行く御仁等は、どちらへ向かわれようとしております?」
「え? あ、いや、何処へともいうアテはないのですが、人を捜しております」
翼がそう答えれば、コクリと僧は頷いた。
「察するに、旅のお方とお見受けいたします。 盲いた目では御座いますが、鼻はその分人一倍利く。 あなた方からは外ツ国の匂いがする」
僧侶の言葉に、この時代では確かに旅人のような存在といえるだろうと思い、翼は「お察しの通り旅の者です」と答えておいた。
すると僧侶は「では、今、この都に住む者達が口々に噂しておる、不吉な災いについてご存知ないに違いない。 誤って、呪われた、かの地に踏み込まぬよう、お節介ながらも、ご忠告さしあげまする」と述べて、じゃらりと数珠を鳴らした。
「…宜しいですかな? この道を真っ直ぐ行きますると、大きな辻道が有りまする。 その辻道を東に曲がりまして、暫く進みますると、大きなお屋敷に行き当たりまする。 良いですか? そのお屋敷には、お近寄りにならぬ方が宜しい」
唐突な僧侶の言葉に好奇心に駆られたらしく「何故です?」と翼が問い掛けた。
金蝉は、こんな所で道草を喰ってる暇はないのにと苛々しつつも、翼の背後に立って、二人の会話に耳を澄ます
「呪われておりまする。 屋敷の主が、悪行祟って呪われておりまする。 感じる所、御仁方かなりのお力をお持ちだ。 そのような方々が、あのような呪われた場に赴きますと、良からぬ争いが起こりましょう」
僧侶の言葉に顔を見合わせ、金蝉が止せという風に眉を寄せるのを無視して翼が重ねて問うた。
「悪行とはどのような? 呪いとは、どんな災いが起こっているのです?」
僧侶は、ケケケと不気味に笑った。
「その屋敷の主は、かなり高位の官位に就かれているに御方に御座いまして、また見目も大層麗しく、和歌の才能に秀で、女御達の間でも評判の高い御方で御座いました。 しかし、御性質の方はかなりの悪癖をお持ちで、御身分の高い女人の方々を次々と籠絡し、自らの虜にしては、つれなくお捨てになられていた。 その悪評は、都中に響き渡ろうとも、主に謀られる女人は後を絶たず、幾人もの御方々が主のせいで物思いに耽る余りに病を患い、中には儚くなられた方もいらっしゃいました」
翼は、僧侶の話に「なんて許せない奴だ!」と憤りを口にし「そう思うだろ? 金蝉」と、同意を求めてくる。
金蝉は、正直、心からどうでも良いというか、切実にとっとと、現代に戻る方法を見つけ出したかったので、「あー、…うん、ま、そうだな」と生返事を返す。
しかし、そんな金蝉の態度に全く頓着せず、翼は「それで?」と、僧の言葉を促した。
「主は、そのような悪行をとうとう天に見咎められたのか、それとも女人の怨念に祟られたのか。 ある日、主の元へ一人の女御が輿入れなされた。 大層美しいお方で、身分も申し分なく、正室としてこれ以上望むべくもないお方でした。 しかし、輿入れしてから一週間もせぬ内に、その方は儚くなられてしまった。 女御のお家の方々のお嘆きようは尋常ではなく、都中の人間が、悲しみに沈みました。 だが、それは、悲劇の始まりに過ぎませんでした。 それから先、主の元へ輿入れなされた娘御達が、全て儚くなってしまわれたので御座います。 今や、若い娘御は誰もあの御屋敷に近付きません。 側女達も皆お逃げになられた。 女人のおらぬ家は、荒れまする。 主も、物狂いのようになられてしもうた。 貴女様もお気を付け下さいませ。 呪われた地に、足を踏み入れてはなりませぬ。 お気を付け下さいませ」
僧侶は、枯れ枝のように細い指で翼を指し示して、そう告げる。
その異様な迫力に、呑まれるかと思いきや、翼は、「放っておけないな…」と呟くと、金蝉を見上げた。
「いいだろ? 金蝉」
そう問われて、深く、深く溜息を吐く。
「言っとくけどな、俺達は……」
そう文句を言いかける金蝉の言葉を遮り、両手を合わせ「頼む!」と翼は言う。
「主に同情の余地はないが、亡くなられた女性達が可哀想だ。 何の罪もないのに、輿入れ先の夫の悪行のせいで命を落とすなんて惨すぎる。 この話を聞いたのも、何かの縁だ。 そのような祟り、沈めなければならない」
翼の言葉に深々と溜息を吐き、それから僧侶に向けて金蝉は「残念だったな」と、冷たい声で言い放った。
「……そのように御座いますなぁ」
俯き、無念そうな声で呟く僧侶。
「しかし、潮時というものに御座いますのでしょう…。 姫様も、そろそろ仏の身元に召され、お安らぎになられる方がよいのやもしれぬ」
何の事か分からず、二人を交互に眺めた翼は、金蝉が「ご苦労であった。 お役ご免である。 安らかに眠れ」と囁いて僧侶に手をかざすのを、戸惑ったように眺め、その後、砂のように僧侶が崩れ落ちるのを、息を呑んで眺めた。
「っ! ど、どういう……」
驚きの余り、どもりながらそう問うてくる翼に金蝉は事も無げに伝える。
「人の気配が余りにもしなかったのでな…。 最初から、死人でないかと見当はつけていた。 その御屋敷の祟りとやらに縁深い者なのだろう。 姫と言っていたし、屋敷に取り憑く何者かに仕えていた者かもしれない。 とにかく、俺達のように『払う』能力を持っている者達に片っ端から、先程の話を聞かせ、ビビらせて、屋敷に寄せ付けないようにしてたんだ。 生憎、お前はビビルどころか、屋敷に向かって祟りを沈めようってんだから、やぶ蛇もいいとこだ。 声なんざ掛けなきゃ良かったのによ」
そのせいで、面倒事に巻き込まれてしまったと云わんばかりの口調の金蝉に「何にしたって、向かわねばならない。 行こう、金蝉」と、翼は告げ、颯爽と歩き始めた。


僧侶の言葉通り、屋敷は荒れ放題に荒れていた。
庭に茫々と生い茂る草むらを掻き分け、二人は屋敷の前に立つ。
異様な気配を感じる。
金蝉は無造作に足を踏み入れ、翼も、慌てたように後をついてきた。
「いるな。 それも、随分性質の悪ぃのが」
吐き捨てるようにそう言い、土足のまま上がり込む。
ずんずんと躊躇う事なく進む金蝉に「良いのか? 勝手に…」と問う翼ではあったが、異様な気配はすれど、人の気配が全くしない事を奇妙に感じる。
「こんな屋敷に、常人は住めや仕舞い。 大方、女だけでなく、屋敷の人間皆が逃げ出したのだろう」
翼の疑問を察し、金蝉はそう告げると、屋敷の一番奥。 穴の空いた、こうなる前はさぞかし美しかったのだろうと思える装飾を施された襖の前に立つと、「さ、とっとと済ませるぞ」と、つまらなげに宣言した。



襖の奥には、痩せ細り、酷い様相を晒す男が座していた。
物狂いになったというが、これは……。
金蝉は、目を細め、拳銃を取り出すと、低い声で問い掛けた。
「お前、その男に憑いているな?」
男が、ぐるりと裏返った目で金蝉を見つめた。
「何をしに参った」
男の唇から、紛れもない女の声が漏れてくる。
「今は、逢瀬の時じゃ。 邪魔だてするでない」
そう言うと目を閉じ、自分の身体を抱き、「ふふふ…」と淫靡な声で笑う男。
「おぉ、おぉ、おぉ、恋の病を患うて、熱に頭を蝕まれ、顔を痘痕に覆われし、我を冷たく罵った、その身がこうも愛おしい。 この病は、重い病にございますのぅ」
そして、ギラリと光る目で、翼をじっと睨み据える。
「そなた、この御方を妾から奪いに参ったのか? もしや、新しい嫁御かえ?」
その問い掛けに翼は、慌てて首を触ったが、男は眉を吊り上げ痩せ細った腕を上げ、翼を指し示した。
「構わぬ。 構わぬわ。 誰が来ようとも皆、殺す。 皆、とり殺してやる。 そなたもだ。 殺す」
それから金蝉も見据える。
「お主も、殺すぞ?」
金蝉は、肩を竦めて、「やれるもんなら、やってみろ」と言うと、銃の照準を男に据える。
「その前に、お前をここまで、丁寧に道を案内してくれた野郎と一緒の場所に送ってやる」
その言葉に、ハッと息を呑む男。
「お主…まさか……まさか、じぃを……」
わなわなと震えながら呟く男に「ちゃんと、責任を持って送ってやった。 忠義者の臣下を持って、お前は幸せ者だ。 てめぇも、後を追え」と告げて、引き金を引きかける。
しかし、そんな金蝉を「待て、金蝉!」と押しとどめると、「お前はまた!」と舌打ち混じりに怒鳴りつける金蝉に、「でも、何か事情があるようだし……話…聞かなきゃ…」と、翼は困ったように告げて、男の目の前に立った。
金蝉は呆れ果てて物も言えないという風情で、銃は男に照準をあてたまま、それでも翼が何をしようとしているのか、お手並み拝見といった気分で、壁に凭れて眺める。
「その男を恨んでいるのかい?」
優しい翼の問いに、目を見開き、「詮無い事を尋ねたもうな」と、男は首を振る。
「そなた、嫁御に来たのでないのならば、早々に立ち去れい。 聞き及んでおろう。 この屋敷の呪いの噂を…」
そう男は告げ、翼を冷たい目で睨み据える。
翼は怯む事なく、「そうはいかないんだよね。 僕は、苦しんでる女性を放っておけない性質なんだ」と告げると、埃だらけの床に腰を下ろし、「君は、その男に騙された人なのかい?」と問うた。
男は、コロコロと笑い「騙される等と……そなた、余程幼かろう…。 男と女の交わりは、通り一遍の言葉では語り切れぬ事ばかり。 惚れさせた男が悪いのか、惚れた女が悪いのか……。 確かに、妾はこの男に懸想した。 しかし、世の噂通り、他の女御達と同じく、妾が身も心も捧げるようになると、この男は妾を捨てた。 妾は、嘆き、悲しみ、気の病に取り憑かれ、高熱を発し、いかなる加持祈祷を持ってしても、その病は去らず、そして、やっと熱が冷める頃には、顔中に醜い痘痕が出来ていた」
翼は、その症状から疱瘡という病名に思い当たり、心を痛める。
別名天然痘。
医学の、殆ど発達してないこの時代では伝染病故に何度も大流行し、疱瘡神とまで呼ばれ恐れられた病である。
高熱を発し、完治しても、後遺症に醜い痘痕が残る。
かの有名な伊達政宗が、これにかかって右目を失う事になったのも知られた話だが、とにかく特に女性にとっては、辛い事この上ない病といえた。
「顔に醜い痘痕が出来、高位の官位につく方々に輿入れするという望みが費えた途端、父上も親族も妾を捨てた。 じぃだけは、妾を守ってくれたが、それだけでは暮らしは成り立たず、この男…」
と言いながら、男は、自分の身体をぎゅうと抱く。
「…この男に助けを求めど、当然、冷たい仕打ちを受け、妾は耐えかね野垂れ死んだ。 だがな、娘御。 恨んでいるのではない。 憎んでいるのとも違う。 ただ、ただ愛おしい。 そして、この男の側にいる女が憎らしい。 女とは、浅ましい生き物じゃ。 死した後も、成仏敵わず、妾はこの男の嫁御を皆、とり殺した。 なのに、この男は恨めぬ。 どうしても、恨めぬ。 真実があったと、共に過ごした時の中に、一片でも真実があったと思う限り、謀られた等という下賤な言葉で、あの幸福な時を貶める事は出来ぬ。 ただ、側にいたい一心で、とうとうこの身体に取り憑いた。 今は、良い気分だ。 幸福だ。 全て一つになりぬれば、それ以上相手に望む事もあるまい」
そして、再び男は……否、女は言う。
立ち去れと。
二人だけにして欲しいと。



翼は、女の情念の濃さに、圧倒されるような気持ちになりながらそれでも、翼は、この女を認めてはならない、その言葉を受け入れてはならないと自分に言い聞かせ、口を開く。


「寂しいよ。 僕にはよく、分からないけど、寂しいよ君。 一つになってしまうだなんて…。 どれ程好きな人でもさ、寂しいよ。 だって、一つになってしまったら、もう、笑いかけても貰えない。 冗談を言い合う事もできない。 手を繋ぐことだって無理だ。 寂しいよ。 こんなトコで、ずっと、ずっと、一人で…」
「一人ではない…。 私は、この男と共に…」
「それは、一人と同じ事だよ。 取り憑いて、同化して、その体の中に、君の意識だけが残って……。 それは独りぼっちと同じ事だよ。 笑顔も、幸せも、何もかも届かない場所に、連れていってしまうなんて、寂しい事だ。 そんな事のために、君は、何人もの女性を……」
唇を噛み、項垂れる翼。
それでも、翼は女を責め立てる事が出来なかった。
金蝉のように、悪を断定し、この女を消し去る事が出来れば、どれ程楽なのだろうと、考えた。


女だった。


恐ろしい程に女だった。


理屈も、御為ごかしも、綺麗事も、届かない場所に、この女はいた。




だから、翼は呟く。
「寂しいよ。 君は、寂しい」




一つになりたい程に、人を想うてしまったのならば、人を呪い殺してしまう事など、屹度禁忌の内にも数えられなかったに違いない。
女は、別の世界に生きている。
翼の、正しいと信じる世界が通じない。 



それでも、認めてはならない。




「君は、許されない事をしたんだ」



翼は女の手を握る。



「罪のない女性を、殺めるなんて、どれ程言葉を尽くしても、許されてはならない事なんだ」
ツイと、翼は手を引いた。



ずるずるずると、引きずり出されるように、男の身体の中から顔に醜い痘痕のある女が出て来た。
その女は身体が透けていて、身体の向こうの景色まで見える。

「! や、やめい! やめい! 嫌じゃ! 見られとうない! このような顔見られとうない!」
頭をふり、何とか翼の手から逃れようとするが、翼は女の手を強く握って離さない。
翼が囁く。
「奇麗だよ」
女の身体が固まった。
「奇麗だよ」
女が、引きつったような笑みを浮かべた。
「嘘吐き」
翼は、即座に言葉を重ねる。
「奇麗だ。 君は奇麗だ。 君が恥じているのは、醜くなった己ではない。 人を想う余り怨霊へと変じ、たくさんの人を殺めてしまった自分だ。 愛しい男の殻を被り、どれ程自分を誤魔化そうと、その罪からは逃れえない」
そして、女を己の元へ引き寄せると、そっと頭を掻き抱いた。
「逝こう。 ね? 逝こう。 もう、いいよ。 安らいでいいよ。 君の悲しみも、孤独も、絶望も、全部ここに置いていけば良い。 逝こう」
女が顔をあげる。
そして、微笑んだ。
「優しい女御よ。 泣いておる。 妾の為に泣いてくれとる」
翼は、頬を暖かな雫が伝っている事に初めて気付く。



違う。 女の為ではなかった。
ただ、涙が出た。 



女を哀れとは思えない。
ここまで一心に女である、この者をどうしても哀れと思えない。



むしろ、この女を、それでもどうしても認められない己が哀れだった。






例えば……例えば…、どれ程、否定しようとも、愛しい者と一つになりたい自分がいないと言い切れるだろうか?
それが、怨霊として、浅ましく現世に自らを留める事になろうとも、愛しい者に取り憑くという行為であろうとも……それでも、永久に共にいれるのならば…。





女は、そっと目を閉じる。



「暖かな、雫じゃ。 妾が、儚くなりぬる時に、誰も泣いてはくれなんだ。 良い。 分かった。 逝くよ。 逝こう。 妾は……満たされた」






女の身体が、柔らかな光に包まれる。
そして一条の光となって、天へ上った。


翼は光を見上げ、呟く。



「奇麗だ」





げに浅ましは、女の情念。
されど、ならばこそに、美しい。








翼は、自らを省みて震える。




自分も、あのようにならぬとは保証できぬ自分に怯えて。



  



  終