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フタアイの花
人目を射る色は秋の紅と言うけれど、この何もかもが焼きついてゆく季節に最も清廉な印象を落とすのはやはり青紫だと思う。慎ましくひっそり咲き綻ぶからこそ、すうと魂が惹かれて忘れられなくなるのがその色だ。
故に風祭真は、訪れた街で”二藍”の花を買い求めた。
人通りの多い駅前である。賑々しい喧騒を草履の細やかな足取りで横切る真は、とある郊外への切符を手にしていた。行先はこの古都の西の果て。空し徒しと儚名を刻み付けられた奥山野が此度の旅の目的地だ。
「……暑いわね」
和装に髪を結い上げ花を抱えた今日の艶姿。晒された項に汗が滲む。清かなるべき仲夏の風はそよろとしか肌を撫でていかない。日傘を畳んでしまった今、駅舎から臨む午後の陽射しは殊更眩しくて、掌を翳し庇を作った。
やがて、目当ての電車が陽炎と共に滑り込み、真は人波に押される様にして冷気激しい車内へと乗り込んだ。足先を揃え席に腰を落ちつけると、きゃらきゃらと若い娘達の笑い声が耳に飛び込んでくる。向かいには新聞に顔を埋めた男性や白河夜船を漕ぐ老女の姿。窓にしがみつき流れる景色を見つめているあれは幼子と、その母姉妹か。
「…………」
────ふ、と。
人の営みのその様に、真は緩く口許を綻ばせた。
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東を向いて神は立っていた。──そう、昼と夜とを破壊して上り来る星星の方角だ。
神は本来の真名を疾うに忘れてしまっている。なので仮初、今語りの為に「しん」と呼ぼう。
しんは東を向き、満天の星夜月の下夜空を見上げていた。何をするでもない、ただ唇を一文字に結び、意志の強さを表す水色の瞳をぐっと細めて、まるで睨みつけるかの様にその夜の漆黒を見つめていた。
しんの周りには風が激しく吹き荒でいる。遙か地平の見えぬ果てまで夜を渡る、猛きしんの風。だがその風は怒りではない。命名を恐らく彼は拒むだろうけれど、仮初に名付けることが許されるならばそれは「アイ」の風だ。愛愛て恋うた人の元へと、深き夜の底を永らえ続ける我が命から彼方で芽生える短くも常しえの命へともう一度届けと願うそれは────きっと「愛」の風だった。
一度、風はある姫君の指先に巡り逢った。雪化粧を施し、風に抱かれて笑んで逝った姫君。永久を生きるしんにとっては刹那に過ぎなかったが、その、人の子である姫君にとっては永遠よりも長しと感じたに違いない。
風は、雪と消えた一切をまだ明確に憶えている。髪を撫でた指先の、その名残のあはれさを、生きているから憶えたままでいる。
────死なないからな、俺は。
しんの風は行く宛てもなく吹き続ける。人が生き死んで、時が花のように移ろっていく中を変わらぬ身で行くのだろう。
────だって、生きているから。
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独り行く道竹林。途中擦れ違った初老の婦人と会釈を交わした。お墓参りにでも行かれはるん? 花束を指してのまろやかな問いに、ええそんなものです、と真はやや淑やかに答える。この虚ろな野で”墓参り”とは、それこそ実の無い徒し言葉だと彼の老女は心得ていただろうに。
独り行く道獣道。真は丁寧に裾を裁きながら野を奥へ奥へと入り込んでいく。日は既に傾き始めており、夕刻の風が吹くまで今暫しというところだろう。擦れ違う人影も最早いない。この野に吹く風はただ真のみを包み、笹の葉が身を捩る音だけをその耳朶に寂々と注いでいく。
「…………」
────ふ、と。
真の胸に抱かれた”二藍”の花弁が、風に揺られてさわりと鳴った。
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もう一人の神は西を向いて立っていた。──そう、昼と夜とを眠らせ鎮める慈悲の方角だ。
この神もまた古名を何処かで取り零してきてしまったので、やはり仮初、今語りは「さな」と名付けよう。
さなは西を向き、満天の星空に囲まれ慎ましやかに立っていた。胸の前で両手を祈りの形に握り締め、優しさを表す蒼紫の瞳を涙ぐむ様に煙らせて、夜闇を彩る砂金みたいな星星の光を見つめていた。
さなの周りには癒しの風が穏やかに吹いている。仄灯りの闇の中を凪いだ様子で夜にたゆたうさなの風。だがその風は平安ではない。命名を恐らく彼女は悲しむだろうけれど、仮初に呼ぶことが許されるならばそれは「アイ」の風だ。哀哀て恋うた人の元へと、彼方で芽生えては幾度も散る命を探し求めて彷徨うそれは────きっと「哀」の風だった。
一度、風はある男の指先に巡り逢った。変革と戦の時代に生まれ、恋しい人よとさなの名を呼んでくれた武士。久遠よりも永い時を既に生き、またこれからも辿って行くさなにとっては刹那く短い逢瀬だったけれども、二人が紡いだ日々は確かにあの時そこに在った。
風は、別たれてしまった一切をまだ明確に憶えている。髪を撫でられた指先の、その名残のあはれさを、生きているから憶えたままでいる。
────死ぬことがありませんから、私は。
さなの風は行く宛てもなく吹き続ける。人が生き死んで、時が花のように移ろっていく中を不変の身で歩むのだろう。
────だって、生きているから。
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一足毎に賑わいは遠のき、一足毎に寂しさが募っていくかの様。この野は古代風葬の地であった。
都に程近く死体を積み上げる広さがあるだけと、言ってしまえばそれまでのこと。しかし幾多の骸を受け止めてきた大地の鳴らす風の音は、やはりどこか違うようだと少なくとも真は、いや真だからこそ、そう感じて歩みを止める。丁度、竹林が途切れた所だった。
見渡す限りの石仏は名を刻まれぬ無縁仏。暮れなずむ朱に照らされても、陰影が濃さを増せない程削り取られた仏達の目鼻立ち。雨風によるその朽ちを、風に化すのだと人は言う。水無き乾いた大地にも、土無き蕩蕩たる青海原にも、風は、風だけは等しく生けとし生けるもの総てを渡り、その営みを見守っている。────つまり、屍体も死骸も魂さえも、愛しみ悲しむのは風なのだ。
「だって……私達はそういう存在だから」
ふわり、と真の身から風が立ち昇る。腕の戒めを緩めると、抱いていた花束が中空に舞い上がった。赤い空へと扇形に広がる青紫の花。五裂の花弁が上を向き下を向き、それらは風の導くままに仏の足元へと眠る様に降り臥す。幾つもの花々が、既に魂すら朽ちた墓標の前に供えられたその様。両腕を放った形のままにして、真はただ、言葉の通りに目守るのみ。
「……そう、かなしいのね」
風が袂を揺らし花を撫でる。呟きは、果たして誰に向けられたものか。
伏した睫に笑みを刷いた唇。かなしいのね、ともう一度言葉を零して、真は細めた眼差しを石仏達に向けた。
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同じ時間を生きられない者と、同じ景色を見て同じ美しさを感じてはいけない。
同じ時間を生きられない人と、同じ景色を見て同じ切なさを感じてはいけない。
『ではどうして、私にはそう想う心があるのでしょう?』
『元から要らないんだったら、無くてもよかっただろ?』
三人目の神は南を臨み髪を風に棚引かせている。顔にかかる黒髪の一筋二筋を後ろへ払い、東と西の神の声に耳を傾ける。南は、ただ日も月も過ぎ去るのみの方角だ。始まりでも終わりでもなく、破壊でも慈悲でもない。ただ一時の享楽を示す南を向く神は、だから「まこと」と今語りに名を名乗る。
同じ命で死ねない者と、同じ想いで同じ愛しさを交わしてはいけない。
同じ命で添えない人と、同じ想いで同じ哀しさを交わしてはいけない。
『だからね、私達は見守るだけ。指の間から零れていく砂を留めることは、神と云えども成せない業なのよ』
『……でも、私、忘れませんわ。もう一度、姿が変わっていたとしても、あの人に逢いたいと思います』
『忘れようたって忘れらないもんがあんだろ。……俺達の記憶は、それこそ風に消えたりしないんだから』
『ええそうね。────けれど、二度と同じ人には巡り逢えない』
姿を変えられないからこそ輪廻を繰り返して”生き”続ける人の魂。
姿を変えられるからこそ不変のままで”生き”続ける神の魂。
風が留まらないのはかなしさ故。先に逝くかなしさと、置いていかれるかなしさ。
触れ合い灯った愛しさはいづれ、胸を刺す哀しさへと凍りつく。別れのためにしか出逢えないのならば、いっそそれなら手を伸ばさなければと、詠うように囁く南の神の背中合せでくすくすくすと嘲笑を洩らすのは昏き北の神か。諦めたふりをしているのが一番未練がましいわね、なんて唇を歪めるその声は誰にも気付かれないのだけれど。
『私達はそういう存在なのだから、目を背けた方がいいじゃない? そういう、宿命ならば』
────傷つかないように。”あなた”達を、傷つけないように。
『……まこと』
ふと、伏せていた面を上げると、両脇にさなとしんが居た。瞬くまことの手を、さなの華奢な手としんの少し節くれ立った手が包み込む。気付けばその手と手と手には、あの”二藍”の花が握られていて。
『……そう言うんだったら、なんでおまえは』
『この花を……あそこに捧げたんですの?』
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二藍は藍と紅とを掛け合わせて染めた色で、それぞれの濃度によって様々な色相を表す不定の紫だ。そしてその二藍を表に、緑味の青を裏に重ねた襲の名を”桔梗”という。
二人の成す愛。二人の紡ぐ哀。
フタアイのアイに相逢いアイを生む。アイとアイの交わったその花の秘める言葉は────。
「……変わらぬ愛、そして悲哀」
アイの花を、今しがた魂の跡に捧げた花を、桔梗を見遣る。暑き日の暮れ方、その青紫は殊更に心に染み渡る。乾いた大地に齎された一滴の冷涼な雫のように花は、その荒れ果てた、寂然たる風景の中で揺れていた。
静かだった。真の指の間を風が抜けていった。
────静かだった。とても、とても。
「同じ人には逢えないし、私達が覚えていても人は私達を忘れてしまう。長さの違う命が交わってもそれは哀しいだけ。抱いた愛しさがみんな哀しさに変わって私達を抉っていくのなら、初めから愛しいなんて想わなければ」
それは”二藍”の花。愛は哀に通ずる藍の花。
変わらないと誓っても、愛はやがて悲しい哀に褪せていくだけだから。
「……そう私は思うけど、それでもいいの?」
(いいえまこと。あなたが花に託したのはそんなことではないでしょう?)
(とっくに気付いてるくせに、俺達にかこつけてんじゃねえよ)
────静かだった。とても、とても。
真は石仏の間を巡った。
今はもう亡きものを、けれどもそこに生きていたのだと、確かに教えてくれる仏達。疾うの昔に消え去ってしまったものを、それでもそこに在ったのだと示してくれる魂の残り香。
忘れて忘れられたって、在ったという夢のような事実だけは夢じゃない。それだけでも、心は充分に満たされるのかしら?
「……やあね。湿っぽいのってニガテ」
と、唇の端を優雅に吊り上げた真が踵を返す。巡り戻って先の竹林の入り口に、差しかかった所でまた、振り返る。
────あああれは、フタアイの花。
「…………」
────ふ、と。
表情を緩めた真の傍らを風が通り抜けていく。ゆったりとした軌跡で首を前へと戻し、真は来し方を辿り始めた。
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三神の手にしていた花が夜空に舞う。
最後に花を飛ばしたまことはやれやれという風に肩を竦め、そうねフタアイだものね、と誰に言うでもなく呟いた。
『フタたび、アイましょう……ってね』
再び逢いますこと、叶うなら。哀は愛のままでいますこと、叶うなら。
────いいえ、叶いますように。
そうしてまことの風が夜を渡る。それは恐らくきっと────「逢い」のための風だった。
了
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