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夏の夜の夢
……風鈴の音がする。
高台寺孔志は縁側に寝転がりながら、夢うつつといった状態で涼やかなその音色を聞いた。
閉じていた瞼を開けると、ぼんやりとした視界に夕闇に包まれた庭が映る。
寝しなに降っていた雨はいつのまにか止んでしまったようだ。
雨が熱を奪ったのか、それとも陽が落ちたためなのか、外気が幾分和らいだように感じる。それとも、自分の中で燻る熱が上がったのだろうか。
肌を撫でる風がやけに心地よい。
りー……ん。
硝子よりも幾分音に深みのある南部鉄風鈴が、孔志の額を包む微熱を鎮めるように静かに響く。
今宵は満月。
月の出にはまだ早い時間だが、孔志の額の傷は夜に近づくにつれ徐々に熱を持ち疼き始めていた。
りー……ん。
風鈴の音が心に染み込むように、鳴る。
(そろそろ……起きたほうが……いいんだろうなぁ……)
そうは思うが涼風が現実と夢の狭間にいる孔志の意識を再び眠りへと誘う。
(眠…………)
思考が形を得ることなく、眠気に溶けて消える。
「……長。店長、どこにいるんですか。ちょっと聴きたいことが……」
沈みゆく意識の片隅で、従妹の声を聞いたような、気がした。
闇の中で幼い少女が笑っていた。
ああ、これは夢だと孔志は思う。
その少女には見覚えがあった。見覚えがあるというよりも毎日のように顔を合わせているせいで忘れることなどできない従妹の……幼い頃の姿だった。
随分と懐かしい姿だなと、孔志は笑う。
彼女は紺地に花火の散る柄の、少し大人びた浴衣に身を包み、にこにこと嬉しそうに笑っている。
『どう?』
言いながら、黄色い帯と結いあげた髪を揺らしながら、その場でくるんと1回転してみせた。
『おにいちゃ、かわいい?』
彼女は舌足らずな口調で孔志に尋ねてきた。
ああ、こんな出来事が昔あったな、と孔志は夢の中で首を捻る。
これは従妹がいくつの頃の出来事だったろう。
確か彼女が小学校にあがる前だったから、4歳か5歳、それくらいの年齢だったろうか。
両親と共に七夕祭に行くのだと、自分もどうかと誘いに来てくれた時のことだ。
(ああ、懐かしいな)
そう思った瞬間、暗闇だった周囲の景色が、かつて暮らしていた家のものへと変わり、孔志自身も10歳当時の少年へと変わった。
『うん、かわいい、かわいい』
孔志がかけた言葉に少女は少し照れて見せ、いつの間にか自分の傍らにいた両親にも同じように尋ねて回っては頬を染める。
『でも、ごめんな。今回はいっしょにいけないや』
具合が悪いのだと告げると、大きな瞳を潤ませて自分を見上げてくる。
いや、どうして、なんで、と駄々をこねられると思いきや、熱を測るように額に小さな手が伸ばされた。
『おにいちゃ、いたいの? くるしいの?』
『すこし熱っぽいだけだよ。いたくないよ、苦しくもないよ。……大丈夫だよ』
優しい口調でそう告げると安心したように少女は微笑んだ。
『おみやげかってくるからね。つめたいのもってくるからね。まっててね』
手を振ってそう告げる少女に、自分も楽しみにしていると孔志は手を振り返したのだった。
昔から彼女は思いやりのある少女だった。
(ここで終わればな……)
いい話で終わったのにな、と孔志は未だに思う。だが従妹はこの話にオチをつけるのを忘れなかった。
事件はその後に起きた。
孔志は後に両親や叔母夫婦に詳細を聞いたのだが、七夕祭から帰った少女は一目散に孔志の部屋へと歩いて行ったのだという。問題のお土産を持って。
とことこと駆けて行く少女の後ろ姿を見つめながら、なんて心優しい子なのだろうと、そんな話を大人たちはしていたらしい。けれどしばらくすると少女が半ベソをかきながら、親たちが歓談する部屋へと戻ってきたのだという。
『どうしたの?』
『あのね、孔志にいちゃ、おネツが上がったみたいなの。とってもくるしそうなの』
そう言って泣き出したらしい。
『そう? さっき見た時は気持ちよさそうに昼寝をしていたけれど』
『おにいちゃ、たいへんなの。たいへんなの』
泣きながら手を引く少女に連れられて、大人たちが見たものは──。
土産物の金魚入りビニール袋に顔全体をふさがれ、苦しそうに悶えている自分の姿だったという。
熱にうなされていた孔志を慮って金魚袋を額にのせようとしたものの、上手くいかず口と鼻をふさぐ形になってしまったらしい。
『あの子は優しくてちょっと天然だな』
両親はその時の話をする際、笑いながらよくそう評したものだった。
(俺自身には全く笑い話じゃねぇんだけどな)
従妹を責める気持ちはないが、あの時は本当に苦しかった。
朦朧とした意識の中で、死ぬかもしれないとさえ思ったのだ。
(ああ、そういやぁ)
そんな状態の孔志の目の前を、金魚が優美に泳いでいた。
無感動な、黒く丸い瞳が、苦しむ自分を冷徹に見下ろしていたのを覚えている。
そして嘲笑うかのように優美に動いていた赤い尾ひれ。
ふわりふわりと水の中を舞うように動くそれが、自分の呼吸を苦しくさせているのだと孔志は思った。思って……恐怖した。
その事件以来、孔志は魚を直視することが出来ない。もちろん口にすることも。
魚が棲むというだけで、海も嫌いなのだ。
(夏のデートっていや海だっていうのに)
孔志の魚嫌い、海嫌いはひとえに彼女に原因がある。
ひやりとした感触がして、孔志はそっと目を開けた。
「……つめてぇ」
額に手を遣ると濡れタオルが置かれている。廊下の奥の方へ消えていく乾いた足音が孔志の耳に届いた。
どうやら件の従妹が置いてくれたらしい。
日頃何かと喧しく言うようになったが、こういう心遣いは昔も今も変わらない。
いや、金魚でないぶん……。
「成長したじゃん……なぁ」
寝転んだまま孔志は、口元をほころばせた。
りー…ん。
り…ん。
風鈴の音に混じって虫の音が聞こえ始める。
満月の夜が、もうそこまで来ていた。
END
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