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<東京怪談ノベル(シングル)>


雫の夜
 
 大粒の雨が、横殴りに体を打った。
 もっと早く切り上げれば良かった。家路を急ぎながら、海原みなもは後悔していた。
 夏休みに開かれるコンクールに向けて、演劇部は連日練習に熱を入れている。ほとんど幽霊部員だというのに、役をもらえたことが嬉しくもあり申し訳なくもあり、みなもはこのところ特に熱心に部活に参加していた。
 今日も、部長に無理を言って一人で残らせてもらった。納得いくまで練習して、気が付いたらとっぷりと日が暮れていたのでみなもは慌てた。家では、家族が夕食を待ってくれているだろう。おまけに、星が見えないと思っていたら雨が降り始めたのだ。
 頭の上に掲げていた鞄は、とっくに降ろしている。バケツをひっくり返したようなこの雨では無駄だ。セーラーの夏服はみるみるうちに水を吸って、肌に張り付いた。水に濡れること自体は嫌いではなく、むしろみなもの持つ人魚の性が好むところではあるのだけれど、濡れた服の感触は嫌だ。
 早く家に帰って、着替えたい。みなもは足を早めた。睫毛についた水滴で、視界がぼやけている。道を照らしている水銀灯の光が、滲んで見えた。
 気が付けば、水溜りを跳ね上げて走る自分の足音と、雨粒の弾ける音だけが、みなもの耳を占めていた。
 ふと、いつも通っている道なのに、全く知らない暗い場所に一人で放り出されたような、不思議な気分に囚われる。この道はこんなに長かっただろうか。そんな疑問を覚えた時だった。
「…………はい?」
 後ろから呼ばれたような気がして、みなもは立ち止まった。
 振り向いても、人はいない。あったのは、闇夜の中でも暗く見える、巨大な影だった。
 日本家屋にはありえない三角の屋根とタイル張りの壁。槍を空に向けて並べて立てたような塀の向こうで雨に打たれているのは、洋館、と呼ばれるに相応しい建物だった。
 このあたりに、こんな家があっただろうか?
 ぎい、と音がして、首を傾げるみなもの目の前で門扉がひとりでに開いた。洋館の入り口にはポーチ灯が灯っている。そこに人の気配は、やはりない。しかしそこに立ち寄らなくてはいけない気がして、みなもは門をくぐった。
 みなもがノッカーに手をかけようとするよりも先に、玄関も勝手に開いた。中に入ると、途端に雨音が遠ざかる。ばたん、と扉が閉まると、外からの音は全く聞こえなくなった。しんとしている。
「あの、どなたかいらっしゃいますか?」
 心細くなって、みなもは奥へ向かって声をかけた。返事はない。
 館の中は薄暗かった。灯りらしい灯りはなく、ものの形だけが黒い影に見えた。玄関から数歩奥に入って、みなもはぎくりとする。人影がある。しかしそれは自分自身の姿だと、すぐに気付いた。凝った細工の枠のついた、大きな鏡が壁に掛かっていた。
 ほっと息を吐いた。足元には、自分の影が不思議とくっきり、床に落ちている。スカートの裾から、ぽたぽたと、水滴が落ちていた。床を濡らしてしまってはいけなかったかもしれない。思って、みなもは玄関に引き返そうとしたが、その前に異変に気付いた。ぽたぽた、裾から落ちる水が、量を増してゆく。
「きゃ!?」
 鏡を見ると、水滴と共に服が溶け落ちている。みなもは驚いて体を腕で覆った。滴は指の間から零れ落ちてゆく。肌に空気が触れ、みなもは思わず身を竦ませた。
 肩や腰の滑らかな曲線が、影の中に顕になったのは一瞬のこと。みなもの足元で、その影がざわりと震えた。震え、溶けるように形を変えながら、爪先から這い登ってくる。
 得体の知れない、冷えた感触にみなもは背筋を粟立たせた。振り払おうとしても、影に触れることは叶わない。気が付けば、全身を包み込まれていた。
「……あ?」
 みなもは目を瞬いた。肌の上を這われるような不快感は、しっとりとした布地の感触に変わっていた。
 鏡の中で、みなもは黒い服を着ている。全身を覆うぴったりとした黒いスーツの上に、ふんわりと裾の広がった、黒いスカート。頭には、黒いフリルがぴんと立ち上がったヘッドドレスがついている。小さなエプロンと、手首のカフスだけが白だった。
 ああ、なんてお可哀相な旦那さま。部室で何回も練習した科白が、頭を過った。そう、今度のお芝居でみなもが演じる役の衣装は、ちょうどこんな感じになる予定だ――。 
 小さな、爆ぜるような音がして、鏡の隣に蝋燭の火が灯った。燭台だ。奥へと続く廊下があった。
 みなもを導くように、廊下の向こうにも蝋燭が灯る。炎を追い、みなもがやがてたどり着いたのは、一つの扉の前だった。
 きい。扉が開いた。真っ暗な部屋の中に、廊下の光が差し込む。色褪せた赤い絨毯。蝋燭の炎にあわせて、みなもの影も揺れていた。一歩踏み入ると、部屋の奥にランプの灯りが点いた。スズランのような形のシェードの周囲が、スポットを浴びたように丸く照らし出される。
 ランプが置かれたテーブルの上には、指で摘めるような小さな、おままごと道具のティーセットが並べられていた。テーブルの隣には、小花模様のベッドカバー。
 女の子の部屋だ。みなもにそう思わせた最たるものは、テーブルの前、ビロード張りの椅子の上に座っている。
 リボンとフリルのついた、白いドレス。茶色い巻き毛に、丸い頬。睫毛のびっちり植わった、硝子の青い目が、みなもを見上げていた。お人形さんだ。洋館にふさわしい、西洋のビスクドール。
「……ああ、なんてお可哀相な旦那さま」
 お芝居の科白が、今度こそ唇を突いて出た。台本は、娘を亡くして気のふれた金持ちの男が、人形を死んだ娘だと思い込むという悲喜劇だった。みなもは、その男に雇われたメイドの役だ。人形の為に部屋を整え、お茶をいれ、お出かけのお供をする。
「お世話するお嬢様がお人形さんだなんて、私も可哀相」
 するすると、唇から言葉が零れた。男に雇われたメイドは、最初は人形を人間扱いする滑稽さで観客を笑わせるが、終盤では男と彼に関わる者たちの悲しさを浮き彫りにさせ、泣かせる役目も持つ。脇だが、大切な役どころだった。
「でも、あなただって、とっても可哀相」 
 最後まで科白を続けた時、みなもは役の心に完全に同化していた。涙が溢れた。人形は娘の身代わりとして扱われ、けして、人形として愛されることはない。
 みなもの眼下で、小さな唇がにっこりと微笑んだ。思わず、みなもは人形を抱き上げた。丁度、赤ちゃんを抱いたほどの重みだった。ありがとう。確かに、みなもは胸に抱いた彼女の声を聞いた。
 気が付くと、みなもは満天の星空の下に立っていた。ぽかんとした空き地。もともと空き地だったと、みなもは思い出した。洋館は影も形も無い。残されたのは、奇妙な格好のみなもと、奇妙なお人形さんだけ。
 雨は嘘のように止んでいる。草の影から、虫の声がした。空き地から出ると、街灯の足元に、いつの間にかなくなっていた鞄が転がっていた。
 ……何だったのだろう。水銀灯の白い光で、みなもはまじまじと、腕の中の人形を見た。ビスクの頬は、埃で薄汚れている。みなもの涙が落ちたのだろうか、睫毛に光る一粒の滴を、みなもはそっと指先で払った。人形はもう、瞬き一つしない。
 わからないことだらけのまま、みなもは再び家路についた。遅くなって、母や姉たちは心配しているだろう。こんな立派なお人形、急に持って帰ったら驚くだろうか?
 早足で歩きながら、明日、あの劇には元になった実話があったのか、部長に訊ねてみなければならないと、みなもは思っていた。