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<東京怪談・PCゲームノベル>


「氷はじめました」-ともに酌み交わす夜-


▽化け猫銀座からの暑中見舞い▲

 物事の段取りがすべてぴったり上手くはまる、ということがたまにある。
 そういう時はなんてことはないのに得したような気分になったりもするものだ。
 こんな日もある。
 昼前までの授業を終えて自分の机の上を見た綾和泉・匡乃(あやいずみ・きょうの)は、そう思って小さく微笑んだ。
 机の上には採点済みのテストの山や、講師内での回覧などから少し離れて置かれた一枚の葉書。
 一体、どんな風にしてこの葉書がこの机の上に届いたのか、それは想像するしかない。だが、葉書が匡乃にとって嬉しい内容であることに変わりはなかった。

 ――変わった材質の紙だった。
 素人がすいて、造り上げたばかりのような和紙。横書きの葉書の右下には墨で描かれた蚊遣り猫(恐らくイメージは蚊遣り豚なのだろう)の姿がある。どうにも手描きらしい。
 文章は何も小難しいことは書いておらず、ただ数行。

【氷、はじめました。どうぞおいでくだせぇやし。お待ちしております】

 裏を見れば、貼られている切手は見たこともない種類のもので、消印も普通にみられる郵政省のものとは違ったものだった。なんとか読み取った文字に化け猫銀座と銘打たれているところを見ると、どうやらあの猫餡中心界隈にあるポストに投函したらしい。
 匡乃が暮らしているマンションに届くわけでもなく、こちらに届いたということがあの辺のポストの不思議なところだ。
 住所は特に書いておらず、ただ宛名に綾和泉匡乃さま、と書かれているだけだった。
 どのような原理で届くのかが少し興を惹かれるところ。機会があったら聞いてみよう、と思いながらも匡乃は机の引き出しから今日の授業時間割表を取り出し、手早く自分の持ち授業を確認した。
 今朝確認したとおり、今日はもう先ほどの午前最終の授業で空欄になっている。
 そして、自分の家の冷蔵庫には先日ひょんなところから手に入った良い日本酒が一瓶。
 ちょうど、あの黒い化け猫にお礼をしたいな、と考えていたところだった。
 ああ、タイミングがすべて上手くいく時というのは、やはり気分のいいものですね。
 手早く荷物を片付け、匡乃はタイムカードを機械に吸い込ませる。軽いがしょん、という音がした。
 事務所を出て、硝子の扉を押し開けた途端、驚くほどの熱気と新鮮な風が匡乃の顔に吹き付ける。

▽▲▽

 蝉が、大声でわめき散らしていた。
 その小さな姿は見えないのに、行きかう車の音にも負けない勢いで排気音にまみれて鳴いている。 コンクリートの合間を縫ってたくましく伸び、生きる木々のどこかにその身体を隠して、それでも必死で自己主張をする。こんなビルの谷間にも夏は平等に訪れるものらしい。
 まずは一旦マンションに引き返さなければ、と歩き始めた匡乃は、ほとんど一瞬にして身体に浮き出し始めた汗を感じて、背広を脱いだ。
 夏用にしつらえた生地とはいえ、長袖なんて着ていられるものではない。
 ほら、もうじっとりとしてきてしまった。
 太陽の光を集約してしまう黒い短めの髪をひとかきして、背広は小脇に抱える。また歩き出した。
 朝に比べて日差しはとても強い。むしろ、少々乱暴すぎる感もある。
 恵みの雨がふんだんに降るはずの梅雨という時期でさえ、今年はほんの一、二日だったような。こんな高い建物の多い街中では、熱気でビルが歪んでいるような気さえした。
 氷。
 早く氷が食べられればいいんだが。あの日本酒は黒吉さんの口には合うだろうか。
 そこまで考えてふと、匡乃は足を止める。
「…………。そういえば、あの店にはどうやって行けばいいのでしょう」
 我ながら大して困ってもいないような声音で呟いた言葉は、雑音とも雑踏ともいえる音の中に素早く飲み込まれていく。
 この間は、確かこの辺に見慣れない路地があったのではなかっただろうか。
 そう思って、注意深く狭いビルの谷間を覗き込むようにしながらまた少しずつ歩いたが、生憎どの隙間も青いポリバケツなどでふさがれているばかりで、それらしき道は見当たらなかった。
 首を傾げて数瞬。
「……まぁ。なんとかなるでしょう」
 楽観的に呟き、とにもかくにもマンションに日本酒を取りに行こう、と決めた。
 暑さにだれるわけでもなく、軽快に進む足取りが軽い。
 結論から言えば、匡乃の考えは正にその通りということになった。

▽▲▽

 日本酒を脇に抱え、白い七分のシャツに楽なスタイルの綿パンに着替えた匡乃は戸締りを確認してから閑散とした通路をエレベーターへと向かった。
 通路の脇には水を流す為の小さな溝のようなスペースがあり、そこには蝉の抜け殻やまだ若々しい緑の葉などが落ちて隅にたまっていたりする。
 小学校の頃はあんな蝉の抜け殻なんかも集めたりしたっけ、と思うと、なんだか懐かしい。
 なんでもないものがとてつもない宝物のような気がしていた。ほんの少ししかたっていないようで、もう随分昔の自分。
 その頃には、この日本酒も飲めなかったものだが。いつから、自分はこうして酒を飲むようになったのだろう。
 初めて酒を口にした時から、こんなおいしいものがあったのか、という感想を抱いた気がする。以来ずっとざるなわけだから、自分の日本酒好きもなかなか根強い。
 そんなことを考えながら下向きのボタンを押し、エレベーターの到着を待っていると意外と早く、無機質な扉は両側に開いてぽっかり口をあけた。
 ――思わず驚いて少しだけ目を見開く。だがすぐに微笑んだ。
「黒吉さん。来て下さったんですか」
 狭い空気が閉じ込められているはずの小さな箱の中に、あの化け猫が立っていた。
 相変わらずずんぐりとした身体をつやつやとした柔らかそうな毛が全身を多い、赤いちゃんちゃんこを着ている。目はいつも笑っているような糸目で、よほど驚いた時くらいにしか匡乃が綺麗だな、と思う金目は見えなかった。
 手にはどうしてか灯りのついていない提灯を持っている。提灯の柄は自分で描いたのか黒い猫の顔だ。
 黒吉は丁寧に腰を折って、それから「お久しぶりでございやす」と告げた。
「鼠便に聞きやしたらどうもご自宅へ戻られた、とのことでしたんで。待ちきれなくてお迎えにあがりやした。どうにもせっかちでいけねぇやぁ」
 そういって開いている方の手でがしがし、と頭をかく。長い尻尾がぴたん、ぴたん、と地面を叩いた。
 ――――そう、地面。
 その時、匡乃は初めて黒吉が立っているのがいつものエレベーターの中身と違うことに気が付く。
 覗きこんでみると、黒吉の後ろにベージュの壁はなく、黒く、広大な空間がどこまでも続いているように見えた。
 奥からとても涼しい風が吹いてきて匡乃の前髪をくすぐり、自分が立っている場所の熱気と混ざる。草や、深い木の匂いがした。そして、夜に鳴くような静かな虫の声も。
「驚いたな。ここはどこに続いているんですか?」
 鼠便という言葉にも反応しながら、匡乃は一歩足を踏み入れる。黒吉がそれに合わせて身を翻したので、もう一歩。
 やがてエレベーターにすっぽり入り込むと、後ろでがこん、と音がして扉が閉まり、辺りは闇に包まれた。
 と、黒吉がどうやったのか提灯にぽっ、と灯を燈(とも)す。
「こいつぁ、獣道、とあっしらは呼んでおりやす。なぁに、モノノケどもはよく使うんですが、人どもにはいまいちなじみがないかもしれやせんね。どこにでも通じておりますし、使い方によってはどこにもいけず、元のところに戻ってきちまうこともありやす。まぁ、ひねくれた道でございますよ。だから、ほれ、こうして」
 道案内の提灯が必要になる。
 そういって黒吉が振った提灯の中に灯る光は、とても暖かげな黄色い光だったけれども、不思議な色合いのような気もした。
 匡乃の興味深げな視線を受けて黒吉が笑う。
「この火はあっしの火で。まぁ役にもたたねぇ化け猫術の一つでね。それでもなかなか重宝しまさ」
 さぁ、いざゆかん。
 少し芝居がかった口調でそう言って、黒吉は手に持った提灯をぶらり、と手前に差し出した。
 細い木の棒につながった金具がきしきし、と鳴いて提灯が左右に揺れる。
 すると不思議なことにまったくの暗闇だったあたりが薄ぼんやりと明るくなり、匡乃の足元には土の一本道がすうっと現れる。
 道の両側にはよく茂った木々が現れ、その枝のそこかしこに緑色の光がついたりきえたりを繰り返した。
 先ほどエレベーターの入り口で感じた匂いも、虫の声もここに潜んでいたのだ。
 獣道といったか。まるで、夏の夜道を歩いているような、そんな気になる。
 ずんぐりした黒い化け猫の後ろに続きながら、匡乃は存分に辺りを眺めながら、時に足を止め、時に黒吉に他愛もないことをたずねたりしながら道を歩き進んだ。
 鈴を転がしたような声で鳴く虫の声が心地よい。
 こんな道があるのなら、是非モノノケだけといわず、自分もいつも使いたいと思うほどだった。


▽突然の夜、化け猫銀座▲

 極彩色の化け猫どおりは今日も賑々しい活気と掛け声で溢れていた。
 路地裏から出てきた匡乃たちをたちまち威勢の良いモノノケの声が包み込む。
 面白半分に店の軒を覗くと、またたくまに怪しい商品を勧められた。
 今日の目玉は「イボガエルの黒焼き」だという。商品自体は皆目必要ないが、モノノケの講釈を聞くのが面白くてつい耳を傾けていると先を歩いていた黒吉に迎えにこられた。
「あの連中はしつこいんですから、匡乃さん」
 軽々しく話を聞いちゃいけません、と諌められる。その言い方がいかにも年長者、という感じなので、匡乃は悪いと思いながらも笑ってしまった。
「……何を笑ってらっしゃるんですかい」
 前を向いたままでもそういった雰囲気は伝わるのか、黒吉は拗ねたような口調で言う。
 それには答えず、匡乃は聞いた。
「ところで黒吉さん。どうしてここも夜なんですか?」
 首をめぐらせて、薄暗闇にに無数に浮かび上がる赤い赤い提灯の光を見渡す。
 あの獣道に入り込むまでは確かに真昼間であったのに、こちら側の世界ではもう夜を迎えているようだ。
 白色の灯りとは異なる暖かい色の灯火。不思議なもので、それらに浮かび上がる店先は昼日中に見るよりももっと幻想的で、現実とは切り離された場所のように見えた。
「さぁ、この辺は気まぐれでしてねぇ。そうそう人どもの世のように規則正しく昼と夜が分かれているわけでもねぇんで。まぁ、でも今日は都合がいいでしょう」
 黒吉は匡乃が持つ日本酒の一升瓶をちらり、と見やる。口元はだらしなく緩み、髭は垂れていた。
 どうやらよほどのすき物らしい。
 喜んでもらえれば持って参じた甲斐がある、と匡乃は笑い、いそいそと猫餡中心に入っていく黒吉の後を追った。

▽▲▽

「では、これはうちの井戸水で冷やしておきやすんで」
 店に入るなり早々と日本酒の瓶を匡乃から抱えさせてもらい、黒吉はご機嫌で厨房の裏の方に消えていった。
「そのお酒は凍らせてもおいしいそうですよー」
 その背中に叫んでおいて、匡乃は手近な木作りの椅子に腰をおろし、店の中をゆったりと味わう。
 以前来た時とあまり内装は変わっていないようだ。ただ、そこかしこに夏用のこしらえがされていることがわかり、なんだかわけもなくいいな、と思う。
 座敷にかけられた緑色の蚊帳。あがりかまちにのせられている蚊取り猫(イメージは豚なのか、随分ぷっくりした猫だ)。冬には確か厚めの曇り硝子がはまっていた格子戸からは、どうやったのかすべて綺麗に硝子が取り払われ、今は吹き抜ける風を店の中に運んでいる。
 その風がとても涼しい。
 お天道様が出ている時間帯にはありとあらゆる猛威をふるい、息がつまるような熱を運んでくる風も夜ともなれば随分丸くなるらしい。やわからな夜風に揺らされて澄んだ音をたてる風鈴が涼しさを強調しているように思えた。
 穏やかな気持ちで眺めている匡乃の前で、その硝子の表面が、いっそ白いともいえる外からの光を反射してきらきらと光った。
「さぁさぁ、お待たせしやした。ご注文は宇治でやしたね?」
 思わず見ほれていると、元気な声ともに黒吉が広い盆に山盛りの氷を載せて厨房から戻ってくる。
 肉球のついた手で器用に小さな匙や白くくもった氷皿を目の前に並べてくれるのを見ながら、言った。
「黒吉さん、あの風鈴、とてもいいですね」
 すると彼はとても嬉しそうに。そして少しだけ得意そうに髭をぴん、と伸ばす。
「江戸風鈴でございやす。江戸の小物などを売ってる店がそこの通りにありやして、そこで」
 昔ながらの柄でしてね。金魚をあしらっているんですよ。いまにも泳ぎそうでしょう?
 盆を脇に抱えて風鈴まで近寄り、黒吉がちょい、と風鈴を押してやる。

 ちりりーー…ん。
 ちりり……ちりーん。

 先ほどの風ではなく、故意的な力によって風鈴が細かく震える。
 けれどもその音はやっぱりとても涼しげで、夏の夜を彩るに相応しいように思えた。
 しばらくの間そうして風鈴の音と空間を楽しみ、やがて振りかえった黒吉が笑った。
「さぁ、どうぞ。お召し上がりくだせぇ」
「はい。いただきます」
 勧められて、匙を持つ。
 白く細かに積み上げられた氷。その上からなみなみとかけられた濃い緑が一層食欲をそそる。
 ひとすくいして、口の中に運ぶ。その瞬間にさっと溶けて広がる冷たさと甘さ。
 手を添えた器はもう随分前から冷やしていたことがよくわかる。氷は細かかったり、荒かったりすることから機械でない手でかいたことがわかる。
「…………おいしいですよ、黒吉さん」
 心からそう言った。
 その瞬間、どんな瞬間よりも、黒い化け猫は嬉しそうに笑う。照れくさげに頭をかき回す彼の後ろから、少しずつ、さやかに夏の夜に鳴く虫の声が響いてきた。
 昼間とはどこもかしこも違う夏の姿。今は眠りについたお天道様が地に身体を横たえる間、自分たちは、しばしこうして。

「もう少ししたら、さきほどいただいた例のあれを、一緒にやりませんか」
 きっとよく冷えてることでしょうよ。
 口髭の前でくいっ、と何かを傾ける真似をしながら、黒吉はまた厨房に入っていく。冷たいものばかりではあれだから、とまずは暖かいお茶を淹れてくれるらしい。

 今、自分が帰る場所が何時であるのかは知らない。昼なのか、夕方なのか。夜が近いのか。
 けれど今日ばかりは、時間など気にせずに風変わりな友と一献飲み交わそう。そう思った。

 好きなだけ好きなものを堪能したあとは、きっとあの黒い化け猫がふらつく千鳥足で提灯を持ち、自分を送ってくれるに違いないから。


END



*ライターより*

いつもありがとうございます。
ねこあです。
今回はまた体調の如何で締め切り延長していただき、真にご迷惑をおかけしました。
申し訳ありませんでした。

今回は白子星さんとのコラボ、ということで書かせていただきました。
「氷はじめました」。いかがでしたでしょうか。

コラボというのは初めてで緊張しましたが、色々と互いに話し合い、アイディアを出し合って骨格ができていくのは楽しい経験でありました。一人ではとてもできなかった作品です。
そこに綾和泉さまも参加していただけたことを深く感謝いたします。

テーマが夏ということだったのですが、ありがたくも黒吉の大好きな差し入れをいただきましたので、夏の昼と夜を書いてみました。
やっぱり冷酒は濃紺の闇を照らす月の中で、という独断と偏見ですが、お気に召せば幸いです。