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<静かなる日々に>
ベッドサイドに身体を預けると、私は瞼を閉じた。
気候が急激に変化するこの時期は、通常よりも強い不自由さを己の身体に覚える。どれだけ環境を整えたとしても、僅かな気候の変化を私の身体は敏感に捉えてしまう。いつ壊れるか解らない脆い身体では、日常を過ごす事さえも困難になる時がある。
それは、『今の姿』を手に入れた私への代償なのだと再認していた。
忘却にしてしまえる程の長い時を、私はこの身体と共に過ごして来た。
時が過ぎるにつれ、いや、時を重ねるにつれ、私は『私という存在』に多くの不都合を感じる様になった。思考、感情、そして肉体。その全てが『人に近づき』つつあるという事実に。
それは進化と呼べるものなのか、それともは退化と呼ばざるおえないものなのか、今の私に判断をする事は出来ない。ただ、『人に近づく事』で私の中に知りえなかった思考が現れ始めた事も確かな事実だった。
出会い、別れ、共有、衝突。無駄な物だと思っていた他者との繋がりの中で、私の中に今まで知り得なかった『起伏』という感覚を知った。
ベッドサイドに身体を預けながら、私は瞼を開いた。
感覚の鈍い掌を、柔らかく握り締める。その掌には、優しく握り締めてくれた小さな手の感覚が今でも残っている。不器用に握り返した私の手を、優しい手が何時までも握り締めてくれていた。
感情と呼ぶには素直過ぎ、幼さと呼ぶには大人びたその少女は、私に『起伏』という思いを教えてくれた。それは理屈ではとても単純なものだったが、私にとっては不可思議に思える感情だった。
小さな喜びを共有し、小さな悲しみに心が締め付けられる。言葉のひとつひとつがとてもいとおしく、掌で包んでも壊れそうに思える優しい思い。共に過ごす時間が早く感じられ、単調に思えた日々が大きな変革を迎えた。
私は、『起伏』と称した『思い』を手にし、『他者と繋がる』事の意味を知った。
そして私は、『他者』を認識する事で『小さな孤独』を感じる事を覚えた。
<静かなる日々に>
明日に花束を 貴方にくちづけを
瞼の裏に広がる光の眩しさに、私は目を覚ました。薄い衣服越しに伝わる夏独特の淀んだ熱気が身体に不快を訴えたのか、何時もならばゆっくりと覚醒する意識が一瞬にして鮮明なものとなった。
視界の中に広がる室内は白く、遮光された窓辺には鈍い光の輪郭が作り出されている。網膜に僅かな痛みを覚え、私は手を翳し光から視線を逸らした。
定まらない思考のまま、ベッドサイドに置いていた銀色の螺子巻き式の懐中時計を手にして蓋を開くと、時刻は七時十一分を示していた。最後に時刻を合わせたのが前日の同時刻だったので、三分の遅れが出ている。正確な時刻は七時十四分だろうと認識すると、私は静かに蓋を閉じた。
室内には、人工的な冷たさが満たされている。ゆっくりと呼吸をすると、その冷たさが直接粘膜へと伝わるかの様な錯覚を覚える。思い出した様に身体は冷気を求め、私は掛けていたシーツをゆっくりと剥がした。
「……っ」
喉の渇きと酷い眩暈を覚えた私は、上体を起すとベッドサイドに置いた小型のチェストへと腕を伸ばす。そこには銀製のワインクーラーと、飲み口を下に向けたワイングラクが置かれている。ワインクラーにはクラッシュアイスが敷き詰められ、その中心にミネラルウォーターの満たされたデキャンタが挿されていた。
私は栓を抜きデキャンタをワインクーラーから引き抜くと、グラスを手にミネラルウォーターを注ぎ入れた。グラス越しに液体が流動する様が、私に安堵感を与えてくれる。デキャンタをチェストの上に置くと、私はグラスの中のものを時間を掛けて嚥下した。
「……は、ぁ」
浅く息を吐き出すと、私はチェストの上にグラスを置いた。冷やされた液体が喉を通り、乾いた感覚を潤してくれる。同時に、熱を帯びていた身体も落ち着きを戻し、眩暈を治まりをみせた。
背中を預けながら、淡い乳白色の色を見せる天井を見上げる。薄暗い光に包まれた室内には、自然の音すら入り込む隙の無い、不自然な程の静寂が満たされていた。
小さく、ワインクーラーの中で氷が音を立てて砕けた。
慌しい日常の中に生まれた、小さな安息の時間。ふと記憶を巡らせると、私の隣には常に『優しい少女』が存在していた。何時の頃か、私は今までとは違う『新しい日常』に、当たり前とも思える感情を抱いていた。少女が居てくれる事、声を掛けてくれる事、それが自然で当たり前だと思える程に、私の世界と私の心は大きな変革を迎えていた事に気付いた。
だが、こうして不意に『今までの日常』に時間が戻ってしまうと、それまで日常だと感じていた『新しい日常』との差に、少なからず違和感を覚えてしまう。痛みというよりも何かが抜け落ちたかの様な瞬間に、私は時間を持て余す様な感覚をおぼえた。
慣れていた筈の日常が、まるで遠い過去の様に思える。私を古くから知る者にすれば、恐らく顔をしかめて不思議そうに問い掛けるだろう。『何があったんだ』と。
私は、そんな者達に笑みを向けるとこう告げるだろう。『私にとって、大切なものを見つけたんだ』と。
瞼を閉じ、深く呼吸をする。こんな時間、彼女はどんな風に独りの時間を過ごすのだろうと思考を巡らせる。自分らしい事、自分らしい時間を大切にしたいと、彼女も思ってくれるのだろうかと。
「……そうですね」
呟き、瞼を開く。たまには独りの時間を過ごす事も悪くは無いだろう、と自身に言い聞かせる様に思考を取り繕う。こんなにも、自分という意識は不器用な者だったのかと心の中で苦笑いを浮かべながら、私はベッドから身体を起した。
少し長めのシャワーを浴びた後、私はラフなスーツに着替えて軽い昼食を摂り書斎へと向かった。自室にも必要な幾つかの書籍を置いてはいるが、
専門書ばかりで休日の読書には向かない内容だと思い、書斎へと足を運ぶ事を決めた。
車椅子に乗り長いフロアからエントランスへと向かうと、円柱形に作られたエレベータホールへと抜ける。私はゆっくりとした動作で車椅子を押すと、エレベーターの中へと進み、最下層へのボタンを押した。規則的な動作で扉が閉まると、重力に従う様にゆっくりした速度でエレベーターが地下へと降りて行く。身体への負荷を考慮して設計された空間では、殆ど重力の衝撃は無く、耳鳴りや違和感を覚える事無く目的の場所へと向かう事が出来た。
時間にして三分程だろうか、軽い電子音が空間の中に響くと正面の扉が規則的な動作で再度開かれた。車椅子を押してエレベーターの中から出ると、私は浅く溜息を吐く。密室という空間が意識的に苦手という訳ではないのだが、無意識のうちに負担は感じている様で動悸が早くなっている事が解る。広いフロアに出た事で、動悸は直ぐに治まりをみせた。
車椅子の車輪の音がフロアの壁に反響し、不気味にも思える音を作り出していた。書斎へと続く短いフロアを抜けると、重厚な木製の扉が正面に見えて来る。私は扉の直ぐ近くまで車椅子を進めると、ノブの直ぐ脇にある四角いパネルへと手を翳した。
「……dualgas」
低く、ゆっくりとしたイントネーションで言葉を呟くと、パネルに組み込まれた指紋と声紋を識別するプログラムが起動し、入室者の照合を行う動作に入った。数秒のブランクの後、施錠が解除される音が響き低い軋みを立てながら扉が内側へと開いていく。
瞬間、咽る様なインクの匂いが鼻腔を擽った。車椅子を押して室内に入ると、室内の三点の位置に明るさを落としたダウンライトが点灯し、床に埋め込む様にして取り付けられた三箇所のナイトライトも同時に点滅する。私が部屋の中央近くまで進んだ事をセンサーが感知すると、開いていた扉が軋みを立てながら閉まり、低い音を立てて施錠を行った。
「……久しぶりですね。ここに来るのも」
そう言葉を呟くと、口元に無意識の笑みが零れる。室内の内側を囲む様にして並べられた書籍に目を向けると、不思議と懐かしいという感情が生まれる。私は視線を落とすと、部屋の中央に置かれた重厚な作りのデスクへと車椅子を向けた。
吹き抜けにして作られた円柱形の書斎は、内側の壁全てを本棚として利用しその壁面に書籍を並べる形で保管を行っている。書籍の出し入れや室温管理は、全てロボットによる自動制御で行っており、私の声に反応に動作する様プログラムが組まれている。書籍の出し入れは、それらに全てを任せる形となる。そして、ロボットによって検索された書籍は、デスクを介して私の手元へと運ばれるのだ。
私は、デスクの近くまで進むと車輪を固定し折りたたんでいたステッキを伸ばしてゆっくりと立ち上がった。デスクの直ぐ傍にはアンティークのロッキンチェアが置かれており、私はそこへと腰を下ろす。完全な長方形にも見えるデスクの反対側には、小さな三本足のテーブルが置かれ、その上には鈴蘭型の小さなランプが置かれていた。
(『G258114610274121』『G27512684692003』『F080209457571541』『F149504001273635』……。『J00200521214983』『J004552543429300』)
私はデスクの上部に取り付けられた小さなコンソールに向けて、一桁のアルファベットと十五桁の数字を入力した。エンターキーを押すと、画面の中に『reference』の文字が現れ、同時に棒状のグラフが表示される。書斎の奥、壁の内部から洩れる様な鈍い振動が聞こえ、複雑な音域を奏でながら室内に響き渡った。
三分程経過した後、デスクに僅かな振動が伝わると、表面がスライドし中から書籍の山が姿を見せる。それをテーブルの上に置くと、私の思考は外界から切り離され、書籍という海の中へと落ちていった。
世界で最も愛読されている書籍は聖書である、と聞いた事を私は思い出していた。単純に書籍と分類されるものから調べれば、それは正しい言葉なのだろうと私は思う。だが、『話』というカテゴリーから思考すると、聖書よりも上回る書籍が存在していると私は核心している。
それは『童話』と呼ばれるジャンルだ。子を持つ親ならば、一度は本を手にし、その内容を子供に読み聞かせる事があるだろう。それは、グリム兄弟やアンデルセンといったストーリーのメジャーなものから、ビアトリクス・ポターやアストリード・リンドグレンといったキャラクターがメジャーになったものまでさまざまな形態を持つ、世界で最も読まれている『話』だと私は思っている。
私は元々、自ら好んで童話を読むという事を余り行おうとはしなかった。私にとって童話というジャンルには『昔話というイメージは無く』、何処か宗教色や差別色、グロテスクといった負のイメージが強く連想されるものだったからだ。
目にしてしまった現実の世界に幻想を抱く事は出来ない。私にとって『童話の世界』というものは『現実の世界』に他ならなかった。
現代に残る童話というものは、始めに童話が作られた時に内包していた『負の部分』を全て削ぎ落とした『美化された世界』に過ぎない。数年前、この国でも、その負の部分を内包した『本当の童話』というものがムーブメントとして巻き起こり、童話に夢を抱いていた大人達に強い衝撃を与えた事は、今でも記憶に新しい。
何世紀も語り継がれながらも、『本当の意味』というものは風化され歴史の中に沈殿してやがて記憶からも薄れてしまう。そうして、大人達はより純粋で美しいものだけを子供に与えているのだと私は感じていた。
だがある日、彼女はそんな私の言葉を柔らかく否定した。
「……はぁ」
私は手にしていた一冊の童話集を閉じると、浅く溜息を吐いた。それは、十歳未満の子供にも読める様にと作られたグリム童話全集だ。その童話集には二百近い話が掲載され、オリジナルに忠実な本文と注釈が書き加えられていた。
初めにこの本を手にしたのは、私では無く彼女の方だった。彼女は子供と接する事が多く、その中で童話を話して聞かせる事も多かった為、本を手に幾つもの話を読み聞かせたのだという。その中でも子供は、何度も読み聞かされた優しい話よりも、どこか痛みを含んだ知らない話に興味を持ったのだという。
『悪い事をするとこんな事が起こる』『悪い事をしたからこんな罰が与えられた』。子供は登場人物の姿を客観的に捉えながらも、それを自身に重ね彼女に多くの話をしたのだという。
子供は常に新しいものへと興味を持ち、その興味の中から自分にとって『正しいもの』を選び出す事の出来る力を持っている。正しいものから目を逸らし見ない振りをしているのは、もしかすると大人なのかもしれない。
そんな話を交わしてから、私は童話というジャンルに強く興味を惹かれる様になっていった。今では童話のコレクターと肩を並べる程の書籍を所持し、舞台となった幾つかの国へも足を運んだ。その中で見えてきたものは、やはり『正しいものを選ばせたい』という、大人の強い願いでもあった。
私は本を手にしたまま、ロッキンチェアに身体を預ける様にして目を閉じる。瞼の裏に映し出される輪郭を持った世界は幻想的で、かつ強い思いを内包している。
他者と繋がる事。世界と繋がる事。その全てに自分という輪郭を形作る『もう一つの世界』が存在しているのかもしれない。
私は、柔らかいまどろみの中に包まれながらそんな事を考えていた。
..........................Fin
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