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<東京怪談ノベル(シングル)>


白衣の重み
ボランティアで病院に行くなら春がいい。
あたしはぼんやりとそう思っていました。
憧れのナース服に包まれて、桜の散る中を患者さんとお散歩したり、柔らかな芝生の上でおしゃべりしたり…。
あたしの淡い夢を、蝉の大合唱とアスファルトに揺らめく陽炎が打ち砕きます。病院は長い坂の上にありました。

外とはうって変わり、たどりついた病院の中はひんやりとしていました。独特の消毒液のにおいが、あたしを包みます。
受付で聞いて、案内された部屋へ行きます。ドアを開けると何の手違いかあたしひとりです。
しばらくぽつんと座って待っていましたが、誰も来ません。見渡すと部屋の周囲には棚がしつらえられていて、たたまれた服がおかれています。広げてみると薄い青色の貫頭衣でした。ここでこうして待っていても仕方がありません。あたしはそれに着替えさせてもらうことにしました。着替えが終わり、ドアを開けようとすると、取っ手が下がり、ドアのほうが勝手に開きました。
「わっ」
「ごめんなさい!」
勢い良く開いたドアの向こうには、ナースさんがいました。驚くあたしに、彼女は微笑みました。
「ごめんなさいね、迎えにくるのが遅れてしまって。なかなか切りがつかなかったの」
忙しそうな雰囲気ですが、笑顔を絶やしません。その微笑みに、知らないうちに病院の雰囲気にのまれていたあたしも、やっと緊張が解けました。
病院の中は、外の喧騒など嘘のように静かです。ナースサンダルがぱたぱた足音を立てないように、あたしは気をつけて歩きました。
あたしを案内してくれたナースさんは明るく気さくな方です。身長も体格も同じくらい。あたしたちはすぐに打ち解けることができました。彼女は次々やってくる仕事にも嫌な顔ひとつせず、臨機応変にこなしていきます。
ボランティアといっても、あたしには資格がありませんから、医療行為にあたることはできません。
あたしは彼女にくっついて、自分で起き上がれない患者さんの体を抱え起こして清拭のお手伝いをしたり、ストレッチャーを押したりするのがせいぜいです。それでも患者さんと近く接していることには変わりありません。その緊張に、病院の冷気でひいたはずの汗が、いつのまにかまた噴き出していました。

それにしても驚いたのは、ご高齢の入院患者さんが思いのほか多かったこと。漠然と年の近い入院中の子ども達と触れ合うことを想像していたあたしは、またひとつ夢やぶれたような気持ちになりました。
想像とは違いましたが、がっかりするほどのことでもありません。患者さんたちは、あたしのように若い子が病棟にいるのは珍しいといって、楽しそうに声をかけてくださいました。年齢もそうですが、貫頭衣でお手伝いしているのが奇妙に映ったようです。
ここの病院の制服は、薄い青い色で、デザインも丸みを帯びてやわらかい雰囲気です。「白衣の天使」というくらいですから、あたしもナース服は白なのだと思っていました。聞くと、なんでも患者さんに冷たい印象を与えないように配慮してのことなのだそうです。ナースさんはあたしに笑いました。さっきまで絶えず顔に浮かべていた微笑とはまた違った笑顔でした。
「着てみたい?」
あたしはそんなにうらやましそうな顔をしていたのでしょうか。
「お嬢ちゃんみたいなかわいい看護婦さんがいるなら、いつまでも病院にいるものいいかもしれんのう」
おじいさんが冗談を言うと、病室中が明るい笑い声で満ちました。
恥ずかしくなり目をそむけると、真っ赤な耳をしたあたしの姿が、ガラスに映っていました。

窓の外の陽も傾き、そろそろボランティアの時間も終わりに近づきました。お世話になったナースさんはいたずらっぽい顔をしてあたしを小部屋に招きました。そこにはナース服がたくさん置いてあります。こっそりと着させていただいた憧れのナース服は、ふんわりしていてかわいらしく、あたしは踊りだしたい気分です。
ご機嫌なあたしにナースさんは言いました。
「せっかく手伝いに来てくれたのに、あんまり派手な仕事もなくてがっかりしたでしょう」
あたしは首を振ります。そんなつもりで病院に来たわけではないのです。
そう伝えると、一着のナース服を渡されました。
「これは私からのお礼。地味な作業ばっかりだったのに、一生懸命頑張ってくれたもんね。私のお古だけど、きちんと消毒してあるから」
あたしは感激して、いただいたナース服を抱きしめました。地道な努力を認めてくれた、その心遣いがうれしかったのです。

再び貫頭衣に着替えて、最初に通された部屋へ戻ろうとしたとき、廊下の向こうからざめきと、バタバタという複数の足音が響いてきました。
ナースさんの雰囲気が一瞬にして変わるのがわかりました。あたしも緊張に体が固くなります。
以前聞いたことがあったからです。病院内でナースが走るのはよほどの緊急事態だけ――――
病院の裏手側にある自動ドアが開きました。回転等の明かりを受けて、ガラスが不吉な赤い色に染まります。数人のナースさんに先導されて、救急隊員の方がストレッチャーを押してきました。彼らは一刻の猶予も惜しいというように、早口で患者さんの状態を告げています。
―――交通事故、胸部を損傷、肋骨に開放骨折―――
お世話になったナースさんが早口で言いました。
「今日はご苦労様。もう帰りなさい」
別人のように硬質な声です。
「で、でも」
そうは言われても、何かまだあたしにでもできる事があるのではないでしょうか。力には自信があります。ナースさんは険しい顔で
「ついて来ちゃだめ。しばらくお肉が食べられなくなるわよ」
そう言い残して、早足で運ばれていったストレッチャーの後を追っていきました。
迷った末、あたしは初療室の前の廊下に行きました。運び込まれたときの衝撃を残して、両開きのドアがかすかに揺れています。ドアから声が聞こえてきます。
―――移動します、そっちもって!―――
―――行くよ、イチ、ニ、サン!――――
どさり。重い音が聞こえました。
お医者さんの力強い指示、対するナースさんたちの声。規則的な電子音。あたしは息をするのも忘れて立ちすくみました。
―――高木医師を呼んで来い――――――
中から叫びが聞こえます。
次の瞬間ドアが開き、一人のナースさんが廊下へ飛び出してきました。慌てていたため、あたしと少し接触しました。あたしはよろけて突き飛ばされた形になり、廊下にしりもちをつきました。ナースさんは気にも留めません。あたしは口元を押さえてしゃがみこみました。
彼女がまとっていたもの、それは濃い血と、生肉の匂いでした。

どのくらい、そうしていたでしょう。ようやく歩く気力の回復したあたしは、制服を置いてある部屋へと戻りました。ひどく惨めな気持ちです。あたしはいったい、ここへ何をしに来たのでしょう。
のろのろと着替えて、今日一日お世話になった服をたたみました。せっかくいただいたナース服も、垣間見た現場の、あまりの重さに袖を通す勇気が出るとは思えませんでした。
部屋の隅にはパイプに支えられた袋がありました。使用済みの衣類を回収するためのようです。中には乱雑にナース服や貫頭衣、お医者さんの白衣が投げ入れられています。どうせ洗うにしろ、もう少しきちんと整理すればいいのに―――そう考えた後、あたしはひとり、首を振りました。着た服をたたむという、そんな簡単なことさえする暇も無いほど、彼らは日夜奔走しているのです。
ただ患者さんを救うために。
あたしは一番上に、薄い青色の貫頭衣をそっと置いて、部屋を出ました。
あたしにとって、ナース服はもうただの憧れの服装ではありませんでした。
あれを着るには、覚悟が必要なのだと知ったのです。
過酷な現実と、人の死を見届けるだけの覚悟が。
あたしは急激に涼しくなった夜気の中で、病院を振り返りました。
薄闇に浮かび上がる病棟は、巨大な墓標のようです。あたしは意識して強く息を吸い込みました。
いつかそれを引き受ける覚悟ができたとき、あたしはきっとお古ではなく、自分のために用意されたナース服を着ていることでしょう。
学校に提出するためのレポートの内容を考えながら、あたしは坂道を駆け下りました。