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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


夏の微熱


 窓から差す光を受けて白く煌く銀の髪の下から、澄んだ青い双眸が、じっとその場にいるもう一人の少年の黒い双眸を見上げていた。
 まだ幼く小さな手で、きゅっと服の裾を掴んで。
「連れて行って」
 ほんの少し舌っ足らずな言葉遣いで、けれども一生懸命に言う。くるりと、相手の様子を伺うようにあどけなさを帯びた円らな瞳が一つ瞬いた。
 そして、もう一度。
「連れて行って、河譚」
「…………、どうしてもですか」
 黒い二つの双眸で、青い瞳を真っ直ぐに見据えて言葉を紡ぐ。それに、銀の髪の少年がこくんと頷いた。
「行きたい。行ってみたい。……見てみたい」
 言って、少年は自分よりいくつか年上の少年に向けていた眼を、背後にある物へと移す。
 つられるように、河譚、と呼ばれた少年もまた、その青い瞳が見ているものを見やった。
 青い揺らぎが、そこにはある。
 時折白い光が差し込むが、それもすぐにゆうらりと柔らかく揺らぎの中に溶け込み、また青一色の世界へと戻る。
 それは、天国に一番近いと称されるとある島近辺の海の様子を映し出しているテレビ映像だった。色とりどりの魚が、まるで蝶のように水底でひらひらと優美に舞い踊っている。
「見てみたいんだ。自分の眼で、本当の海を」
「…………」
 まだ年端も行かぬ幼子だから、とその言葉をあっさり蔑ろにはできないような緩やかな――けれども、確固とした圧力が、そこにはある。
 否、それだけではなない。
 自分が、彼に仕えし者なれば、なおの事。
 無碍に却下する事など、できない。
 じっとテレビの画像に見入ったまま、そこに心を囚われてしまったかのように動きを止めてしまった少年を見ながら、黒い瞳の少年――河譚時比古は、暫し考え込むように口を閉ざした。
 主の言葉を、無碍に却下する事はできない。
 だが、主を危険な場所に連れて行く事は、尚更してはならない事。
 少年は、自然界に存在する種々の精霊達と言葉を交わし使役する事ができる「季流」の次期当主である。ゆえに、彼自身もその能力を身に着けてはいる。
 その能力を持ってすれば、大抵の危険を彼から遠ざける事は可能である。
 だが。
(彼は、その力を――精霊達を、疎み、拒んでいる)
 それが、この世に生を受けた直後に両親と祖父を亡くし、その原因が自分にあると実の祖母に疎まれ続けた子供の、現状。
 黒髪に黒瞳を持つ事が「自然」とされる季流家に置いて、雪のような銀の髪と、それこそ今彼が見つめているテレビの画面に映っている海のような澄んだ青い瞳を持つ「異端」として生まれてしまった少年の――ただの偶然や、彼自身にはどうしようもなかったかもしれない事までも「異端」であるがために、背負わされてしまった、彼の。
 それが、現状。
 そして、そんな「異端」である彼に自分が仕えているという事も、揺るがしようもない、現状。
「…………」
 ふ、と一つ浅く吐息をつくと、時比古は画面に釘付けになっている、季流白銀という名を持つ少年の、その銀色の髪を見下ろしながら微かに目を細めた。
 精霊の力を拒んではいる彼だが、それでも、水の精霊との相性はこの上もなく、良い。
 なら、もし彼に何かあったとしても、場所は「海」――水の溢れる場所である。相性がいい水の精霊が、彼を守ってくれるだろう。


 しかし、熱心に画面に見入っている白銀に「行きましょうか」と声をかけた時のその嬉しそうな顔を、時比古は――数時間後、後悔を持って思い出すことになる。
 ……思いもしなかったのだ。
 相性が良いはずの「水」の精霊の支配下にあるはずの場で――


「――……さま……っ!」
 どこかで、声が聞こえた。
 けれど、体は何かに囚われたかのように自由が利かない。腕を動かそうとしても、何か、それを押さえつけようとする抵抗のようなものを感じる。
 ……それは、一瞬のことだった。
 初めて触れた、広大な水の溜まり場。
 嗅覚に触れるのは、今まで知らなかった匂い。
 水の上を滑って吹いてくる風は、普段感じるものより少し重い気がする。
 何度も何度も、繰り返し、寄せては返していく、水の流れ。それに伴い、何度も何度も繰り返し聴こえる、水同士がぶつかり合い、砕け、溶け合う音。
「これが、海……!」
 嬉しくて、服を纏ったままだという事も失念して白銀は水の中に駆け込んで行き、腰まで浸かりきった。まだ成長過程にある華奢な体が、寄せる波につられて頼り無く揺らぐ。
 その時。
「あ……っ」
 足が何かに引っ張られたかのように白銀は体勢を崩し、水の中に頭まで飲み込まれた。
 けれど、その時は別に、何も不審には思わなかったのだ。
 海、という場所は初めてだったし、絶えず水が揺れ動いていたから。そういうものだと思っていたのだ。
 それは、浜辺で見ていた時比古にとっても同じ事だった。
 ……いや、もしかしたら「戯れておられるんだろうな」とでも思っていたかもしれない。
 異変に気づいたのは、その直後。
 その白銀の身体が水の中に沈んだままいつまでも浮かび上がって来ない事に、時比古はようやく、彼が溺れているのだという事に気づいた。
 そしてその一帯から感じる、酷く冷たく不穏な水の気配の存在にも、同時に気づく。
 慌てて名を呼びながら水をかき分けて彼の体が沈んだ地点まで駆ける。
 その間、白銀も何とか自力で水面に戻ろうと、指先で何度も水を掻いてもがいたが、遠く、水に隔てられた場所で部下が自分の名を呼ぶのを聞いたのを最後に、ごぽりと唇から肺に残されていた空気を吐き出した。
 それと同時に意識までもが白銀から遊離する。
 だが、その意識が途切れるまでの刹那。
(あ……)
 海水のせいで痛む双眸を開いてぼんやりと見た水中から見た空の色が、とても綺麗で……一瞬、心を奪われた。
 幾重もの青いセロファンを重ねたかのような――本当に、どこまでも深い、青。
 そして、一条、差し込んでくる白い光。
 まるで、天上から差す光のようだと、思った。


 ――結局、白銀は大事には至らず、海での出来事は白銀と時比古だけの秘密として二人の胸の奥深くに沈められた為、護衛の役目も課せられている時比古が、手落ちと詰られて誰かに罰せられるというような事はなかったのだが。
 それでも、時比古にとってその出来事は、容易に忘れられる事ではなかった。
 それから数日経った後も――数年経った後も、時比古は、水底から救い上げた白銀の肌の白さと、海の青に染まったかのような紫色の唇、そして……命の炎が消えたかのような体の冷たさを、忘れられはしなかった。


                    *


 空は澄み渡り、今は僅かな赤色を帯びている。その空に朱をもたらしている原因でもある太陽は、今は天頂からずれた位置にあるが、まだ地上を強い光の腕で包み込んでいる。
 何の容赦も遮るものもなく地を照らすその光は、ほぼ毎日のように天と地の間に陽炎と熱気を燻らせ、真夏日を作り出している。
 今も、陽が傾いたせいで日中よりは多少しのぎやすくなってはいるが、それでも風と共に流れている空気はどこまでも生ぬるく、ただ歩いているだけでも汗が自然と肌に浮いてくる。
 学校帰りや会社帰りの者達が行き交う街並み。その風景の中に、河譚時比古は立っていた。仕立ての良い黒いスーツを身に纏い、その双眸をサングラスで覆っている。
 そのサングラスの下からは、僅か、額から左の頬にかけて一筋の傷痕が姿を見せていた。傷の角度からして、それは左眼の上を通っていると容易に想像ができる。
 そして実際にその傷は左眼を通っており、時比古から左の視界を奪っている。
 黒スーツにサングラス、顔に傷。
 それでも時比古を不穏な職の者と見せないのは、彼が放つ柔らかな気のせいだろう。
 優しい雰囲気と、整った容姿。後ろ暗い仕事をしている者ではなかなか身につけられないものを、ごく自然に持っている為だ。
 そして、もう一つ。
 その右手に、某有名洋菓子店の名とロゴが入った赤い紙袋を下げているせいだろう。中には夏季限定、しかも夕方からのみ販売されるというなかなか入手の難しいケーキと、ドライアイスが入った小さな小箱が、一つ。
 小箱に収まっているのは、スポンジと生クリーム、メロンを幾重にも重ね、上にも大きくカットしたメロンが乗っかっている、さっぱりとした仕上がりの夏向きのケーキだ。
 ……という情報は、時比古の主である、今は高校生になった次期季流家当主・季流白銀が見ていた雑誌からそれとなく得たものである。
 別に、買って来て欲しいとか買って来いとか言われたわけではない。
 が、そのページをまじまじと見つめていた彼の様子からして、口にはせずともきっと食してみたいのだろうな……と察したから、こうしてこの人も多く暑さが残る時間帯に、街になど出てきているのである。
「……さて、帰るか」
 無事に主の望む物の入手に成功し、時比古はぽつりと呟くと、自然と足早に季流邸へと向かった。


 ふ、と。
 屋敷に帰りつき、学校から帰って来ているであろう白銀の元へ行こうと彼の自室へと向かう廊下を歩いていた時比古は一瞬、その足を止めた。
 何か、違和感を感じたのである。
「…………、これは……」
 掛けていたサングラスを外し、スーツの胸ポケットに押し込む。そして、眇めた目で廊下の先を見やる。
 肌に感じるのではなく、感覚に触れてくる、そのひんやりとした揺らぎは。
 過去、一度……感じたことがある。
 それは。
 あの。
 いつかの、海で。
 白銀が、溺れた、あの時に。
「……まさか……っ、白銀様!」
 何か考えるより先に、ここへ来る前に携えて来た物へと意識が向かう。赤い袋を提げるのとは逆の手の裡にある、刀へと。
 その名、『天破/月蝕』。
 俊敏な動きで袋を足許に置くと、時比古は白銀の部屋の方へと歩を進めた。
 進み行くごとに濃くなる、水の気配。そこから先には何者も踏み込む事を許さないとでも言うような、頑なな拒絶を感じる。
 しかし、時比古は怯む事もなくさらに進むと、右手で黒塗りの鞘を掴んで腰の辺りに構え持ち、左手で柄を握り、慣れた手つきで一気に刃を鞘走らせて抜き放った。刃が潰れている為に多少ざらついた音と振動が左手に伝わったが、それも既に、慣れた感触。
「……っ!」
 ――抜き打ちの、一閃。
 前方に膜のようにあった水の気を、天破/月蝕が一瞬で斬り祓った。抜き放った勢いそのままで横薙ぎにされた刃が潰れた刀身が紙でも切るかのように容易く水の抵抗を斬り伏せると、時比古は鞘を右手に、刀を左手に持ったままで、半ば駆けるようにその先にある白銀の自室へと向かった。
 心臓が、早鐘のように体の中で鳴っている。不安と嫌な予感とに苛まれ、常の冷静な心を保つことが出来ない。
「白銀様……っ!」
 声と共に扉を開け放って、何の躊躇もなく中へと踏み込む。
 濃く漂う、水の匂い。
「白銀様!」
「……河譚?」
 自分の声に応えるように聞こえた白銀の声に、時比古が顔をそちらへと向ける。
 そして、自由の利く右眼を見開いた。
「白銀様、一体これは……」
 視線の先には、全身ずぶ濡れになった白銀がいた。床の上に座り込み、水が滴り落ちる前髪をその細い指先でかき上げている。
「何があったのですか」
 案じるような響きと警戒するような響きを帯びたその声に、白銀はふっと浅く溜息をついた。
「あまりの暑さに辟易したから、ちょっと≪汀≫を使って涼しくなろうとしただけだ」
 汀、とは白銀が使役する水の精霊の事である。
「上手く使えば室内の温度を下げられると思ったんだけど……」
 そこまで言って、白銀は僅かに視線を床の上に散った水へと落とした。
「……、何かありましたか」
 剥き身のままだった刀を鞘に収めながら、先と同じような問いを再度紡ぐ。それに、白銀は視線を上げて苦笑を零した。
「いや、ただ、≪汀≫を使っている時に何かの力が干渉してきて……そのせいでちょっと、制御失敗したというか」
「何かの力?」
 言いながら時比古は手を伸ばして、床の上に座ったままの白銀を立ち上がらせようとその腕を掴み――ふと、動きを止めた。
 水を大量に含んだ薄手の白いシャツは肌を透かし、濡れた布越しにその腕を取った時比古の指先にはっきりとした熱を感知させる。
 白銀の、体温を。
 見下ろす位置にある白銀のその双眸は伏せられ、時比古が掴むのとは逆の掌を見て、何かを呟いている。けれどその声は、時比古の耳に届かなかった。
 聞こえるのは、自分の中で脈打つ音だけ。
 耳許で酷く昂る心音が聞こえる。
 それは、部屋まで慌てて来たからではない。
 今。
 この手で掴んでいる華奢な腕が――その、熱が、指先から流れ込んできているせいだ。
 伏せられた双眸を縁取る長い睫毛が、一度緩く瞬くのを見た。そこについていた水滴が、はらと白銀の白い頬に落ちていく。
 遠いあの夏に感じた、白銀の冷えた体温とは違う――その、命を感じさせる、熱、が……。
「――――……」
 一つゆっくりと息を吸い、そのままこくんとそれを嚥下し、何かを唇から紡ぎ出そうとした、その時。
 す、と。
 伏せられていた白銀の瞳が上げられた。そして。
「……河譚?」
 青い瞳が、真っ直ぐに時比古の右眼を見据えた。不思議そうな色合いを宿すその瞳に、はっと時比古が遠ざかっていた自我を引き戻し、慌てて掴んでいた白銀の手を離した。
「いえ、少し脈を診ていただけです。問題ないようですが」
「ああ、あの時みたいに溺れた訳じゃないし。そういえば、今日はどこへ行ってたんだ? いなかっただろう、さっきまで」
 軽く笑うと、白銀はゆっくりと優美な所作で立ち上がり、着替えるために濡れたシャツのボタンを外し始めた。それを見て、時比古はまた一瞬動きを止めたが、すぐにすっと視線を逸らし、白銀に背を向けてクロゼットに向かった。
「ちょっと、街へ。お土産があるんです、白銀様に。後でお持ちします」
「土産?」
 何だろう、と首を傾げる主の気配を背で感じながら、時比古は浅く吐息を漏らした。
 決して、振り返らず――揺れ動く気持ちを、その背で覆い隠すように。


 その――貴方のもたらす熱に魅せられたのだと、主に悟られぬように。