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日常の境界線
いつも見つかるわけではない。
が、時折こういうことがある。
「ねえ、あれ、もしかして……」
「聞いてみよっか?」
周囲で囁かれる、少女たちの軽やかな声。
しかし噂されている当人は、たいして気にするでもなく、街の雑踏の中をのんびりと歩いて行く。
直接声をかけられたならばともかく、わざわざこっちから声をかけてやる理由などない。
栄神万輝(さかがみ・かずき)は、とことこと足元をついてくる飼い猫、千影に目を向けた。
「なんだか騒がしくなってきたね。他のとこに行こっか」
万輝の仕事はとあるブランドのファッションモデル。故に、街中を歩いていると時々こういうことがある。
直接万輝に話しかけてくる人はそう多くはないけれど、こんな風に遠巻きに騒がれるのもそれはそれで鬱陶しいとのだ。
「……害がないだけこっちのほうがマシかな」
ごくごく普通の、少女たちのミーハーな気配の中に、少々異質なものを見つけて。
万輝は、くすりと小さな笑みを漏らした。
……あれで隠れているつもりなのだろうか?
子供相手だからと言って甘く見ているに違いない。
少女たちが万輝のモデルという職業ゆえに騒ぐのと同様に。彼らは、万輝のもうひとつの職業ゆえに騒ぎを起こすのだ。前者と後者の『騒ぎ』はその中身にかなりの違いがあるが。
特に意識するでもなく軽い足取りで、万輝は人の多い街中から、人目の少ない閑静な住宅街へと移動していく。
と。
つかず離れず隣を歩いていた千影が毛を逆立てて威嚇の声を鳴らした。その視線の先にはいくつかの人影。
認識したと思ったその時にはすでに彼らは万輝に向かって駆けて来ていた。だが万輝はまったく焦る様子もなく、落ちついた声音で告げる。
「その程度で僕をどうこうできると思ったの?」
子供らしからぬ冷酷な――それでいて、何よりも子供らしい、無慈悲な笑顔。
彼らの身体が一瞬、ぎくりと震えた。しかしそれも一瞬。彼らはすぐさま体勢を整え直して万輝に飛びかかってくる。
一人が手にしているナイフが、万輝の目前に迫ったと思ったその瞬間!
地の底から響くような咆哮が彼らの耳を貫いた。
ほんの数秒前まではいなかったはずの……大きな獣。鷹の翼を持つ黒獅子が、万輝の前に立ちはだかって彼らの行動を妨害した。
「ありがとう、チカ」
連れていた黒猫の名で獅子を呼び、万輝はにっこりと笑顔を見せた。
「チカ、食べちゃっていいよ」
まるで日常会話と同じ調子――飼い猫に餌をあげるのと同じような雰囲気。
そして、ふと思い出したように言い足す。
「でも、食べすぎてお腹壊さないようにね」
主の許可を得て、獅子は彼らに向き直る。肉食獣特有の鋭い牙が、口の端からチラと覗いた。
今度こそ。
彼らはぞっと背筋を凍らせた。
そう。
彼らは、失敗したのだ。
見た目に惑わされ。万輝を子供だと侮り。
だが此の世には子供ゆえの強さと怖さというものがある。
幼い子供がなんの罪悪感もなく無視の羽根をもぐように。
嫌いだからとあっさりそれを行動に現わすように。
万輝はしごくあっさりと。
人の魂を喰らう獅子に告げたのだ。食べて良い――すなわち、殺してかまわないと。
「わかってないよねえ」
獅子と彼らの攻防を他人事のように見つめつつ、万輝は呆れたように呟いた。
どうもカンチガイしている輩が多いようなのだが、情報屋という仕事は情報収集能力だけでできるものではない。
THE FOOLというもう一つの名を持ち、裏で情報屋として名を馳せている少年は、何事もなかったかのような様子で軽く笑う。
否。
この程度のこと、万輝にとっては慣れっこなのだ。
「なんか喉乾いちゃったね。どっかその辺の店に寄って行こうか」
あっさりと非日常から日常へと戻った万輝は、どこにでもいる普通の少年のようにそう言って、商店街へと歩き出した。
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