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雨の降る夜
雨。
冷たい雨。
身体を濡らし、心を凍らせる、雨。
「‥‥‥‥」
黒いレザージャケット。無造作に束ねた黒髪。
少女が黙然と立つ。
夜の交差点。
車通りも途絶え、ただ陰鬱な雨音だけがアスファルトを叩く。
「きたで。油断しなや」
「‥‥わかってる」
黒い瞳が影を捉えていた。
雨に煙る墨絵の世界を透かし。
異形の姿を。
世の中には、常識でははかれない事件が起こる。
そのうちの何割かは、警察には絶対に解決できない類のものだ。
すべて、ではない。
いわゆる怪奇事件と呼ばれるもので、本当に怪奇現象が関与しているものなど一割ほどだろう。
その一割のために、水上操のような人間が必要になってくる。
すなわち、退魔師という。
彼女のもとに舞い込んだ事件も、そういった怪奇現象のひとつだった。
とある道路で立て続けに起こる交通事故。
凄まじい力で引きちぎられた車体。
普通に考えて、事故が頻発するような場所ではない。
調査に乗り出した操だったが、最初に現場へ赴いたとき、いきなり真相と遭遇した。やはりこの事件は、退魔師が出張らなくてはいけない事件だった。
両腕が異常なまでに大きい鬼。
異形の存在。
操にとっては、絶対に狩らなくてはならぬもの。
彼女の生い立ちがそうさせるのだ。自らの身体に流れる忌まわしき血。
「‥‥消えてもらうわ」
振るわれる双刀。
このときは、やや猪突の印象があった。
それでも致命的な失敗を犯さなかったのは、精神のコントロールがなくても彼女の鍛え上げられた肉体が完璧に機能したということ。
そしてそれ以上に、敵が意外に弱かったこと。
「こいつ‥‥歯ごたえがなさすぎる‥‥」
「気を付け。誘いかもしれんで」
脳裏に響く後鬼の声。
操の持つ二本の霊刀は、オカルティストがいうところのインテリジェンスソードである。右手の長刀、前鬼は攻撃的で直線的な性格。
小太刀である後鬼の方は、慎重で婉曲的な考え方をする。
「わかってる」
アドバイスを受け、やや攻撃の手を緩める操。
鬼というものは、力だけでなく奸智も兼ね備えている。
罠に誘い込もうとしている可能性も、充分に考えられるのだ。
慎重すぎるくらいでちょうど良い。
が、その慎重さが凶と出た。
虚空に溶けるよう消えてゆく鬼。
唖然と見送る操。
追撃することすら忘れたように。
「鬼が逃げたで」
前鬼も不思議そうだ。
「‥‥どういう事なのかしら‥‥?」
誰に言うともなく、操が呟いた。
なんだろう。なにか違和感がある。どこがどうということではないのだが、抜けない棘のように、奇妙に彼女の心を苛立たせていた。
「なるほど、ね」
呟いた操が、新聞を閉じる。
街の図書館。
もう一度、事故を洗い直しているのだ。
むろん一介の高校生に過ぎない彼女が警察の捜査資料など閲覧できるはずもない。こうして何紙かの新聞で確認してゆくのである。
迂遠なことではあるが、客観視されている分、新聞から何か掴めることは多い。さすがに主観だらけの週刊誌などからは無理だが。
「二年前‥‥そこに淵源があったのね‥‥」
疲れた瞳をいたわるように、こめかみに手を当てる。
二年前のその日、同じ場所で事故が起こった。
当時八歳の少年が、トラックに跳ねられて亡くなったのである。
どちらが悪かった、という類の事故ではない。
飛び出した子供と危険予測の甘かったドライバー。どちらにも罪はあろう。
現在、そのドライバーは交通刑務所で服役中だ。
それはいいとして、
「あの鬼の行動‥‥児戯にも等しかったのは‥‥」
「実際に子供だったからなんやな」
操の呟きに前鬼が応える。
「けど、恨みを残して死んだってあそこまで完全な鬼にはならんもんや」
後鬼の声。
「‥‥そうね」
頷く操。
一般に、霊とは万能の存在だと思われることが多い。だが、それは誤りである。
現世に生きる人間とは縛られる法則が違う、というだけのことだ。それに、生きた人間の特徴たる「成長」をしない。
ようするに、死んだときの知識や経験以上のものを得ることはない。だから江戸時代の霊は電子レンジを知らないし、仮に教えても理解することができない。そういうものなのだ。
ただ、姿形はあるていど自由に変えられる。
この世に恨みを残して死んだのなら、おどろおどろしい姿で現れることはあるだろう。
「けど‥‥」
鬼、というのは突拍子がなさすぎる。
あの姿は死んだ少年の想像の中にあった、ということになるのだが、それだって首をかしげざるをえない。
「どう思う? 後鬼」
「だいたい想像はついてるんやろ?」
「‥‥そうね」
「後味の悪い仕事になりそうやな」
「‥‥後味の良い仕事なんてなかったわよ。一度もね」
哀しげな微笑を、少女が浮かべた。
「きたで。油断しなや」
後鬼の声。
「判ってる」
こたえる操。
瞬間。
鬼が突進する。自動車すら引き裂く剛力だ。
もちろん操にはそんな攻撃を受けるつもりはない。軽くバックステップして回避する。
雨に濡れた黒髪が、常夜灯の光を孕んで踊る。
「‥‥‥‥」
次々と繰り出される攻撃を、最小限の動きで避けてゆく。
やはり鬼は素人だ。
パワーとスピードなら大きく操を凌いでいるだろうが、戦い方というものをまったく心得ていない。
やがて、少女が攻勢へと転じる。
「ギ‥‥っ」
戸惑う鬼。
速度で劣っているはずの操の剣戟が、やすやすと防御をかいくぐって彼の身体に傷を刻んでゆく。
おそらく鬼には理解できないだろう。
脆弱な人間が魔を狩るために編み出した闘技があるのだということを。
「アガガ‥‥」
恐怖心に駆られたのか、例によって鬼が逃げようとする。
虚空へと消えてゆく異形の肉体。
が、
「アギャアっ!?」
雷光にも似た輝きが空中に奔り、打ち据えられた鬼が、どさりと地上に落ちた。
苦悶にのたうつ。
「‥‥結界よ」
操の呟き。
すっと歩み寄り、無言のまま振るわれる二本の刀。
砂の城が波にさらわれるように、崩れてゆく鬼の肉体。
降りしきる雨。
心と身体を凍えさせて。
エピローグ
道端に供えられた花。
あの子供を慰めるためだろうか。
普通の霊体が鬼になることはありえない。となれば、何ものかがあの男の子の霊に手を加えた、ということだ。
むろん、今の段階では確定的なことは言えないが。
「‥‥‥‥」
手を合わせていた操の唇が動く。
だがその動きはあまりにも小さく、誰の耳にも音波は届かなかった。
少なくとも、生あるものの耳には。
おわり
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