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騒乱の序曲
突如鳴り響いた轟音が、夜気を震わせた。次の瞬間、来城・圭織の身体は宙を舞っていた。ふわりと自分の体重がなくなる。次に、激しい衝撃が一気に背を襲った。目の前の木箱が、爆撃を食ったように激しく振動し、砕けちった。吹き出た木っ端がバラバラと、頭と肩に降りかかった。
初めは、自分に何が起こったのかわからなかった。圭織は、地面に倒れていた。苦しい。胸が火のように、かっと熱い。
――息ができない。
放たれた銃弾が、貫通していた。
ぬるりとした温かいものが、胸からこぼれ落ち、太腿に伝わった。圭織は胸に手を当てた。血だった。
いつもはすぐに塞がるはずの傷が、一向に塞がらない。
目の前に、足があった。圭織は、薄れる意識の中で、視線を移す。
小男の髭面が、無表情に圭織を見下ろしていた。
「苦しいかい?」
スーツの男が、まだ喘いでいる圭織の胸倉を掴み、引き起こした。
「君は、普通の処理では死なないと聞いてね……。ちょっとばかり、弾に細工をさせてもらったよ」
圭織のすぐ横で、髭面がささやく。生臭い息が、顔にかかる。
その手には、銀の弾丸が握られていた。目の前でそれをちらつかせ、にぃと微笑む。小男の目は、らんらんと輝いていた。スーツの男はあくまでも、無表情だった。
――どくん。
圭織の心臓が、突如大きなうねりを上げて波打つ。
「……だ。……が……だよ!」
髭面が、何か叫んでいる。だが、よく聞き取れない。声は次第に高くなり、やがては勝利への雄叫びと変わる。
――いけない。
そう思った瞬間。
圭織の体内で、何かが変化した。
「おやおや……」
小男は、ひゅうと口笛を吹いた。圭織は吸血鬼化していた。ゆっくりとその面を上げる。瞳が真っ赤に染まっていた。いつのまにか、血は止まっていた。
うがたれたはずの弾痕が、きゅうと絞るようにして徐々に塞がっていく。やがてそれは、美しい本来の肌を取り戻した。驚異的な回復力である。
「変身しちゃったんだ。でも、負けないよ」
小男は、あくまでも冷静だった。むしろ、その状況を楽しんでいるかのようであった。
「やれ」
驚くほど冷たい声で、命令が下る。
次の瞬間、スーツが圭織の首を締め上げた。
「ぐっ……」
圭織は、必死で抵抗する。ほっそりとしたその白い腕を振り上げ、鍵状にした手でスーツの男の頭めがけて振り下ろす。だが、それは無情にもかわされる。何度も、何度も。圭織の攻撃を見切るかのように。あくまでも、無表情に。首をほんのわずか動かすだけで。それはかわされる。
一瞬、スーツの男と目が合った。サングラスの奥に輝くその瞳は、何も語ってはいなかった。そこにあるのは、ただ死。それだけだった。ぎゅうと、男の手に力が込められる。圭織は呻いた。
――死ぬ。
このままでは、本当に死んでしまう。圭織は、あせっていた。長時間の吸血鬼化はまずいと知りつつも、どうにもならないこの状況に圭織はいらだっていた。
「ああ、もう少しだね」
小男が、圭織の顔を覗き込む。甘ったるいコロンの香りが、圭織の鼻腔を刺激する。それは胸をむかつかせた。いやらしい笑みが、ヤニで黄ばんだ男の歯からこぼれる。
――ああ、もう。
圭織は限界に来ていた。
小男の手が、ゆっくりと圭織の頬に触れる。その瞬間。
体内を駆け巡る膨大な力が、一瞬にして解放された。
圭織の中の凶暴な獣が、目を覚ました。
* * *
丸い月が出た。明るく白々しいが、見上げるものすべての胸に不安を掻き立てる、不気味な月であった。
日向・龍也はそんな月を背にしながら、家路にと急いでいた。かんかんかん……。乾いたアスファルトの音が、人気のない夜の闇に吸い込まれていく。いくらかはずれた通りである。すでに深夜の零時に近い。
「ちっ……」
龍也は軽く舌打ちすると、その足をさらに速めた。突如、目の前の進路に巨大な結界が現れた。円と三角を組み合わせた複雑な紋章は、青い燐光を帯びていた。龍也は目をつぶると、右手の平を結界に向かっておもむろに突き出した。
――はっ!
左手で右手首を握り、無言の呼気を激しくほとばらせる。次の瞬間結界は、あっけなく崩壊した。龍也はいらただしげに、道路につばをはくと結界の残骸を飛び越え先を急いだ。
龍也の瞳は、前方の、右側にある路地の入り口に注がれていた。さほど大きくないビルとビルの間にできた、
狭い隙間であった。
ふと風の中に異臭を感じた。冷たい夜気に混じって、かすかに生臭い臭気が漂っていた。常人なら気づかないほどのわずかな臭いである。
血臭であった。
異臭はそこから流れてくるのだ。
突如、龍也の目の前に一人の男が現れた。スーツに身をまとい、夜だというのにサングラスをかけている。いかにも怪しい出で立ちだが、男の態度はそれに更に輪をかけていた。
顔面は蒼白で、挙動不審であり、おどおどと何度も何度も後ろを振り返っている。月光に照らされて浮かび上がったその姿は、全身血にまみれていた。男のものなのか、他のものなのか。それはわからない。
「おい」
龍也が声を掛けたとたん。男は襲い掛かってきた。その目は、狂気の光にみちていた。
男の拳が唸りをあげて、龍也の顔面めがけ繰り出される。だが龍也はそれをかわす。拳は空を切る。ゆっくりと、スローモーションのように。そのわずかな時間の中で、龍也の身体が動いた。
次の瞬間、男は地面に倒れこんでいた。雑巾のようにぼろぼろになったその身体をうつ伏せにして、男は動かなかった。龍也は軽くため息をつくと、路地を見た。
その細い路地は、袋小路になっていた。廃材となった木箱が、高く積み上げられ出口を塞いでいる。通りと数十メートルも離れていない路地の奥には、闇が立ち込めていた。都会の夜の底を吹き寄せられてきた闇が、そこに重くわだかまっているようでもある。
そんな路地の最深部に、黒い不気味なものがうずくまっていた。
血の匂いがますますきつくなる。
龍也は、血の匂いと共に、明らかな妖気を感じ取っていた。
その妖気は、黒い影から発せられていた。黒い影の内部から、じわじわと自然ににじみ出てくる腐臭のようなものである。龍也が路地に踏み込むと、不意に妖気が固形物のように凝固した。そいつが、龍也の侵入に気づいたのだ。次の瞬間、闇の奥から炎のようにめらめらと、その妖気が龍也に向かって膨れ上がってきた。
龍也は、全身が総毛立つのを感じた。
ふいに黒い影が、闇の中にふわりと浮き上がった。影が立ち上がったのだ。黒い影は、龍也の頭上で制止していた。それは、圭織だった。
黒のタイトワンピースに身を包んだ圭織だった。胸元が大きく開き、白い肌が惜しげもなくさらけ出されている。胸のふくらみがぴったりとした布地を下から突き上げるように、押し上げていた。布の間に除く白い胸の谷間が、どきりとするほどなまめかしい。ウエストのくびれも、腰の張り具合も申し分なかった。すらりとした脚も、モデルそこのけだ。足首もしまっている。同性の女性が見ても、思わず感嘆の息を漏らすほどの見事な肢体であった。
圭織の視線は、龍也に向けられたままだった。マスカラに縁取られたきらきら光るぬれた瞳が、龍也の目とぶつかり合った。しかしその瞳は、普段龍也に向けられる優しい青の瞳ではなく、いまや燃えるような赤に染まっていた。
くっきりした瞳。ルージュを引いた唇。肩までたれたクセのない髪。
美しい顔が、無表情に龍也を見下ろしていた。圭織の赤い唇がすっと広がり、白い歯がこぼれた。冷徹なまでの笑みだった。唇の周りが、濡れ濡れと赤くぬめっていた。それはルージュではなく――。
――血であった。
地面に転がる男の喉は、きれいにえぐられていた。
<了>
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