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<東京怪談ノベル(シングル)>


恋する瞬間

 ……ずっと。
 ずっと長い間。
 それは、恩人に対する感謝の念であり、少しなりと笑えるようにしてくれた相手への親しみの感情だと思っていた。


 楷巽(かい・たつみ)、27歳、男――現在博士課程三年の医大生である彼は、最近ひとつの悩みを抱えていた。
 悩みの原因は、巽の恩人である臨床心理士。
 彼は、父親に虐待を受けていたことが原因でまったくと良いほど感情を表にあらわすことのできなかった巽を変えてくれた人物である。
 まだまだ口数が少なく、表情にも乏しいけれど。
 それでも。
 昔よりはずっと感情豊かになった。人には『いつも虚ろな表情で、何を考えているんだかわからない』なんて言われるけれど。巽と親しい――巽の感情表現に慣れている人間ならば、そこからでも多少なりと巽の心情を窺い知ることができるし、なにより。……少しだけれど、巽は、笑うようになっていた。
 昔の自分を思えば、これは大変な進歩である。もちろん巽はそんなふうに変われるきっかけを作ってくれた彼に多大なる感謝の念を寄せている。
 ……だけど。
 最近、なにか、おかしい。いや、最近ではない。以前はあまり深く考えなかっただけだ。
 例えば、彼が誰かと仲良く雑談していたとする。
 そんな彼の様子を目撃すると、巽の心になにやらザワザワとした不快感が生まれる。
 そして逆に。
 彼と二人で話している時、巽は、とても暖かい幸福を感じる。
 恩人である彼と話していて安心感を得られるのは、まあ、普通だとも思うけど。
 彼が他の誰かと話していると不安になるのは何故だろう。彼はとても優しい人で、他の誰かと仲良くなったからといって巽をないがしろにするような人ではないのに。
 自分の心の動きに気がついてから、巽はいろいろと考えるようになった。
 考えて、考えて。
 ふっと。
 それはまるで天啓のように降りてきた。
 ……ああ、この感情は恋に似ている。
 恋愛なんてロクにしたことがないのに、何故だかそう思った。
 だけど、おかしい。恋愛とは男女間で成立するもので、恋は異性に抱く感情ではないのか?
 そして巽の思考はそれより先に進めない。
 恋に似て非なるこの感情は、なんと呼ばれるものなのだろうか?
 彼の姿を目に留めるたびに大きく揺れる心を安定させるためにも。これは絶対に必要な答えだった


 そんな悩みを抱えていたある日。それは、参考資料を買いに本屋へ向かっている時に起こった。
「あっ、ごめんなさい」
 考え事をしていたせいか、道の角から歩いてきた女子高生を避けきれずにぶつかってしまった。
「いえ。僕のほうこそ……すみません」
 女子高生が落としたカバンから、教科書やら漫画やらが散らばって道に落ちているのを見つけて、巽はひょいとその傍にしゃがみ込んだ。
 ひとつひとつ汚れを払って、女子高生に渡してやる。――と。
 その中に、気になる物を見つけて、巽は思わず手を止めた。
 どうやら漫画らしいその本の表紙に描かれているのは学生服の少年と教師風の男性が抱き合っているイラストだった。
 眺めていたのはそう長い時間ではなかった。
 少しだけ悩んで、だが、心の奥から沸いてくる疑問には逆らえなかった。
 失礼だとは思ったけれど、本を渡しながら女子高生に声をかけた。
「これは……どういう内容の本なんですか……?」
 巽の唐突な問いに、女子高生は気を悪くするふうでもなくあっけらかんと笑って答えた。
「コレ? ボーイズラブ。簡単に言えば同性愛。わかる?」
「……突然すみません。ありがとうございます」
 今時の女子高生はこういうのが好みなんだろうか?
 去って行く女子高生の背中を見送って、淡々と思う。
 だが、最初に浮かんできた言葉は、すぐに別の思考に乗っ取られた。
 こういう恋愛の形もあるのかと……そう思ったのだ。
 なら……それならば……。
 ――オレがあの人に抱いている止まらない想いも……そうなんだろうか?
 だけど、自分は男。相手も男。
 だから今まで、似ていると思いつつも『そう』だとは思わなかった。
「…………」
 ぐるぐると思考が巡る。
 ――ダメだ……頭が痛くなってきた……。
 混乱する想いを整えるべく、額に片手を当てる。

 まだ、答えは出そうにない。
 本当はわかっているくせに、明確な単語にできない。
 この想いをしっかりと自覚するのは、もう少し先のことになりそうだ。