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百日紅は知っている
『水』を、くれ―――。
ゆらり、と青い炎がゆれる。
人里離れた山岳地帯の、女人結界をも越えた更に奥。連なる崖と谷の先、山の神の懐にぽっかりと大きく開いた洞があった。その穴は、暗く、深く…まるで、地の底に続くかのようにもみえる。その洞の奥で、それは静かに、しかし確実に進行しつつあった。
闇の淀む岩穴の先、洞の奥深くに古びた御堂が一つ建っている。豪奢でもなく、質素でもなく、寧ろ、禍々しいとでもいえばいいのか、負の気配が漂うその堂の中央には大きな鉄鍋が据えられ、青白い炎に炙られていた。鍋の下には、積み上げられた白い人骨。カラカラに乾いたそれを青い炎の舌が絡めとり、自らの糧として次々と燃やしていく。
鍋の周りには、幾つものふいごが置かれ、黒い衣に身を包んだ者たちが、口々に呪言を唱えながら、ふいごを吹かしていた。彼らが、ふいごを吹かす度、高温の炎が鍋を焦がしながら躍り上がる。燃える室内に篭った熱気の為に、彼らの禍々しい刺青を施した肌を汗が滴り落ちていく。黒衣を召し、呪印を身に刻む彼らの相貌は、怪にして異。呪言渦巻くこの場所に、地獄から召された鬼のようだった。
否、ようではない。彼らは、本物の鬼なのだ。
歴史の表舞台を追われ、山野に隠れ住み、この世の全てを呪いながら生きる異能者達。それが彼らの正体だった。
何十年、何百年、気の遠くなるような時間をかけて、彼らはこの洞から呪いと災いを世の中に流し続けていた。それらの呪の中には、思惑通りに事を成したもあれば、失敗したものもある。しかし、事の成否は彼らとって些細な事にすぎなかった。彼らにとって重要だったのは、この世に災いの種を撒き散らす事のみだったからだ。
そして、今。
彼らが作り続けてきた呪物の中で、最も力を持ち、最も禍々しい物が、この世に生み落とされようとしているのだ……。
炎に炙られて赤く染まる大鍋の中を、一人の鬼が呪を刻み込んだ黒鉄の棒でかき回す。鍋の中では、どろりとした溶岩を思わせる液体が、泡を立てながら煮えていた。その赤い液体の正体は、どろどろに溶けた鉄だった。無論、ただの鉄ではない。長い年月をかけて、戦場から集められた遺留品の成れの果て。肉を切り、血を吸い、幾多の命を食らってきた刀身や槍先が、鍋の中で一つに溶け合い絡まりあっている。
どろり、どろり。
鍋がかき回される度、中から湧き上がる熱気に異能者たちの唱える呪言が絡む。言の葉が渦を巻く中で、2人の黒衣の異能者が車で運んできた白い物体を鍋の中に次々と投げ入れ始めた。それは、ぐったりとした、生気のない白いもの、即ち死体だった。彼らが、鉄屑と共に戦場から集め続けた死体が、氷室から引き出され、鍋の中へ投じられているのだ。
肉が腐り、頬骨の露出した男の首が。
ねじくれ、潰れかけている左脚が。
そして、熟しすぎた石榴のように、腐り蕩けて赤い断面を曝す右腕は、白い蛆の群れを撒き散らしながら、鍋の中に落ちていく。
鍋の中の赤に浮かぶ白い体は、黒衣の男が棒でひとかきする度に、どろりとした液体にその身を焼かれながら、浮き沈みを繰り返す。
戦場に散乱した死体と鉄屑。負の感情を吸い込んでいるだろうそれらは、異能者たちが作り出そうとしている呪物にとって、恰好の材料だった。
鬼火のような炎が燃える。低く高く、異なる戦慄で謳われる呪言が、堂の中で絡まりあって木霊する。
死体と刃の溶けた赤は、鍋の中からすくい出され、何度も鎚を入れられ、鍛えられた末に、新たな姿をこの世に現した。
ゆらりと揺らめく鬼火を受けて、妖しく煌く白い刃。見る者を魅了してやまないその輝きと、柄を握るだけで使用者の体を侵食しようとするかのように伝わってくる負の気配。
それらを確認し、鬼の長たる男は、作られたばかりの小柄を前に満足そうに昏い笑みを浮かべた。
この白い刀身に、透かし彫りの椿を彫ろう。
人を狂わせる程に美しい繊細な華を。
そして…。
ただの妖刀で終わらせるには惜しい呪物を前にして、男は暫し考えにふける。そして、とある計画を実行に移すため、配下に何事かを命じると、小柄を前にして、もう一度、声を殺して笑った。
季節は移ろう。
雪化粧の白から、紫の霞漂う春へ。そして、豊かな緑滴る夏へと早足で過ぎ去っていく。
外界から隔絶された四季のない洞穴の中でも確実に時は過ぎていた。
あの小柄が、この世に生み出されてから半年。洞穴の中の御堂では、日々、この世のあらゆる物を呪う呪言が小柄に向けて捧げられ、長の命により、その刀身に繊細で華麗な椿の透かし彫りを施す為の作業が行われていた。一日毎に、呪物が完成へと近づく度に、鬼達の影のある笑みも濃くなっていく。
この呪物は、我らの望みを叶えるのに、事足るもの。
その確信めいた思いが、異能者たちの中に根づいた頃、彼らの計画は最終段階を迎えた。この小柄に、人形と意思を与えるという、その工程は彼らの計画の中でも重要な意味を持ち、彼らの望みを叶える為の呪物作成の最終段階、総仕上げの儀式になるはずだった。
半年前、熱く熱せられた大鍋が置かれていた御堂の中に、黒衣、刺青の異様な集団が並び立つ。口からは呪、手で黒光する鈴を鳴らしながら、彼らは堂の中央で行われる儀式を、目を凝らして見守っていた。中央には、毒々しいほどに赤黒い色で描かれた大きな八卦陣が生臭い臭いを放っている。その中心に。両手、両足に呪を刻まれた一人の男の姿があった。
痩せこけた頬、解れ乱れた長い黒髪、身にまとう衣は何かに引き裂かれたように千切れかけている。彼は、この儀式の為に鬼たちが捕まえた方士であり、小柄の為の贄だった。
血で描かれた八卦陣の前に立つ、鬼たちの長がその長い指で方士の髪をむんずと掴み、そのまま、男の体を上へ向って引き上る。掴まれた髪の毛に全体重がかかり、頭皮が千切れそうな感覚に襲われて、方士は大きく口を開けると苦痛の叫びをあげようとした。が、その口から上がった悲鳴が空気を震わせる事はなかった。代わりに、開けられた口から漏れたのは、空気が抜けるような無声音。
贄として攫われる最中、鬼によって切られたものか。開けられた方士の口内、桃色の隔壁の中は空洞で、本来あるべき舌が存在していなかったのだ。それでも、彼は声なき叫びを上げ続ける。
自分に苦痛を与えた男に対する憎しみに始まり、怒り、苛立ち、苦痛、悲哀といった、あらゆる負の感情が方士の体を駆け巡り、満たしていく。その瞬間を待ちわびていたかのように。
黒衣の長は、手にしていた例の小柄を方士の喉元へ突き刺した。
体内へ刀身が吸い込まれると同時に、大きく開かれる方士の目と空洞と化した口。小刻みに震える体は、足の先や指の先から、方士の体が枯れ木のように変貌を遂げていく。その間、不思議なことに、小柄の刺さった傷口からは一滴の血すらも毀れることはなかった。
静かに確実に、方士の体を小柄が喰らう。生気の一滴たりとも残さぬ程に喰らわれた男の体は、やがて、朽ちた木のように床の上に崩折れた。
「…全ての呪はここに成った。さぁ、その姿を示せ」
黒衣の長が、暗い笑みをたたえて、方士の喉元に刺さったままの小柄に呼びかける。その言葉が聞こえたのか、すでに死した男の喉元で小柄が小さく揺れた。まるで、意識を持っているかのように、否、生きているかのように振動する刀身。小刻みに揺れるその輪郭がぼやけながら、変形し、大きくなり、ゆっくりと別の姿を取っていく。
やがて、呪物の小柄は男の姿を取った。白い肌に黒く長い髪が、はらりと落ちる。贄に捧げられた方士の、憔悴しきる前の姿を模したのであろう姿を取った小柄の左肩から右腰までを、透かし彫りと同じような椿の刺青が飾っている。その目は、寒月のような銀色だった。
儀式の成功を見届けて、満足気に笑う鬼たちの中心で、意思と姿を得たばかりの呪物は、足元に転がる干からびた死体をぼんやりと見つめていた。
腹が減っている…。
しかし、目の前に転がる死体には生きている者が持つ命の輝きが、一欠片すらも宿っていなかった。
これは喰えない。喰えたとしても旨くない。
生まれたばかりの付喪神は、そう判断を下すと空腹を満たす為に、別の餌を求めて視線をさまよわせた。
餌は、彼の直ぐ目の前にあった。
黒衣に身を包み、暗い笑みを浮かべる男。その身体は生気に満ちている。
喰いたい。
喰らいたい。
空っぽの身体の中で、赤黒い炎が燃え上がる。それは、彼に宿された負の感情から生まれた本能とでも言うべきものだった。それが、彼の身体の内を焦がしながら、殺戮への衝動と満たされたいという思いを刺激する。
彼は、ゆっくりと立ち上がると目の前の男に手を伸ばした。困惑しているらしき男の腕を捕まえて、生気を喰らう。たちまちのうちに、鬼の長は贄の方士と同じ姿で床の上に転がった。
一瞬の静寂。そして、悲鳴。
彼らにとって、完成した呪物が自分たちに牙を剥くなど予想外の出来事だったのだ。作り物は製作者に対し、従順であるべき。しかし、目の前の付喪神はどうか。彼らの与えた圧倒的な力を持って、己を作った者たちを餌にすべく狙っている。
目の前で起きた現実を認めた鬼たちが、目前に迫った生命の危機から逃れようとして動き出す。逃げ遅れた二人の鬼の背後から、白い腕が襲い掛かった。刃と化したそれが、二人の身体を切りつける。真紅の血が宙を舞い、付喪神の頬を濡らした。その赤を、彼はペロリと舐め上げる。
旨い。
彼の舌が感じた赤い雫は、甘露のように甘く、瑞々しく。更に彼の食欲を煽る。もっと欲しい、もっと喰いたい、その要求のままに、彼は腕を振るい、そして全ての異能者を喰らった。
堂の中に静寂が満ちる。
血の跡と死体の積み重なった中で、食事を終えた彼は足元に転がる己の作り手たちに目を落とした。先ほどの焼けるような空腹感は収まっていたが、『まだ、足りない』と彼の中で何かが叫ぶ。しかし、ここにはもう、餌がないのは明らかだった。
ゆっくりとした動作で、足元の死体から剥ぎ取った衣を羽織ると、彼は洞穴の外へ足を進めた。
山中の奥、大地の懐は母なる身の胎内と同じ。そこで生まれた小柄の付喪神が、初めて目にした外界では、夏の夜を静かに照らす月光の中で血のように赤い花が寂しそうに咲いていた。
その村の入り口には、見事なまでに花を咲かせた真紅の百日紅の木が重そうに、枝をしならせていた。緑の香を乗せた夏の風の中で、赤い花が静かに揺れる。
村の外れに現れた異様な姿の人影を見つけたのは、百日紅の花の下で1人、鞠つきをして遊んでいた少女だった。肩口でそろえた黒髪を風に揺らし鞠つきの手を止めて、近づいてくる人影を不思議そうに見つめている。
人影は、男だった。
強い夏の日差しの中で、纏っている黒い着物と日焼けしていない白い肌がどこか不気味な印象を与える。一粒の汗も浮かんでいない顔は、透き通るように白い。男は、あの山中の洞穴で生み出された付喪神だった。
生気の感じられない顔をした男の様子に、少女は小首を傾げて声をかける。
「どうしたの?」
小さく掛けられた幼子の問いに、男の口がゆっくりと言葉を紡いだ。
「…喉が渇くんだ。」
「お水、くんできてあげようか?」
「みず……」
水…と、彼は口の中で小さく呟く。その途端に、身体の中で叫びだす何か。
そうだ、水だ、水が欲しい。
(殺セ)
喉が、渇くんだ。
(殺セ、オ前ノ望ムママニ)
花が生きる為に水を欲するように…
(殺セ、ソシテ喰ラエ)
俺が生きる為の『水』が欲しい…。
(スベテハ、欲スルママニ、心ノ赴クママニ。殺シ、奪エ)
「どうしたの?どこか痛いの?」
目の前であどけない少女が、心配そうに彼を見上げている。
その瞳に、その身体に宿る瑞々しいほどの生気。
あぁ…。
(殺セ…!!)
『水』を、くれ―――。
彼の白い手が、幼子の柔らかい腕を捕まえた…。
足元に、いつか見たのと同じような光景が広がっている。血にまみれ、積み重なる朽木のような死体の山。彼には、人を喰う事に対する罪悪感などはない。何故なら、それは彼が命を繋ぐために必要不可欠な行為であるからだ。生きとし生けるものは皆、生きる為に必ず何かを殺している。彼の場合、それが人間であっただけのこと。
彼の視界の隅で、濃い赤が揺れた。見上げれば、彼を見下ろす満開の百日紅。彼の乾きを癒す、赤い命の水にも似た花を大して面白くもなさそうに眺めた後、小柄の付喪神は誰もいなくなった村に背を向けた。行くあてはない。次の餌場を、早く見つけられる事を願うだけだ。
夏の風の向こうへと、黒い着物を着た姿が霞んで消える。
その後ろで、百日紅の血のように赤い花弁が一片、はらりと静かに舞い落ちた。
■終■
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