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[ Baby x Baby x Locker ]
------<オープニング>--------------------------------------
古びたコインロッカーが見える。
村上ゆう子は、朽ちたコンクリートの上に立っていた。熱っぽい風が吹き付けている。立っているだけで汗ばむほど暑い。夏だ。
風の香りが、夏であることを教えてくれる。
古びたコインロッカーは、ほぼ全部にキィがついているように見える。だが、本当は一つだけ、使用中のものがある。
ゆう子はそれを見つけなければならない。
何故なら、その中に置き去りにしたものがあるからだ。
それを、返さなければいけない。
それを、見つけ出して。助け出さなければならない。
熱い風が吹き、キィについたプレートが一斉に揺れさざめいた。
× × ×
もうじき、母親になるんです。
そういう言葉で依頼を切り出されたのは初めてだった。
草間武彦は、応接セットの依頼者側に座った女性を見つめる。細く煙草の煙を吐き出し、
「それは、おめでとうございます」
と答えた。
初夏である。中間テストを終えた学生達が、昼過ぎの歌舞伎町に繰り出してくる時刻だ。外廻りのサラリーマンはスーツの背中を汗で濡らし、テストから開放された学生を不満そうに見つめる、六月の下旬。
困ったような顔で、村上ゆう子という女性は微笑んだ。
嬉しいけれども、笑顔になれない。そういう顔をしている。
やや丸顔で、栗色に染めた髪を短く切っている。唇の脇に大きめのほくろがあり、水商売のようなイメージを作っている。
村上ゆう子は、もうじきに母になるのだという。計画を立てていたこともあり、妊娠はすぐに知れた。それから、夢を見るのだという。
コインロッカーの中に、何かを取りに行かなくてはならない夢。
妊娠発覚後に始まった夢は、徐々に進んでいるのだという。近頃はゆう子は夢のことばかり考えており、そのコインロッカーがJRの駅であること、自分が中学時代を過ごした家の最寄駅だったことまでを思い出していた。
「K駅は、路線工事ですでにそのコインロッカーがないんです。駅の真中に、古いホームがあって、今は入れません。コインロッカーはそこに置いてあったんです」
「ああ。あの『開かずの踏み切り』で問題になったあたりの駅ですね」
草間は頷く。東京都下の路線工事で、一時間近くも遮断機があがらない踏み切りが出来たとか、そのために駅構内を自転車が通過したとか、踏み切りの途中でお年寄りが立ち往生したとかで一時期大騒ぎしていたあたりの駅だ。
「入ることが出来るのは、電車が終わってからだと思います。違法になるんじゃないかっていうのは、判っています。でも、どうしても、そこに行かなくてはいけない気がして」
ゆう子は真剣な眼差しで草間を見る。
「でないと、私、この子を産んだらいけないような気がして」
それはまた、随分大きな話になってしまっている。
母親というのは、神経質になるものだろうか。まあ、人生の一大イベントではあるわけだから、仕方ないとも言える。
草間のような男性には一生わからない気持ちだろう。
「少し調べてみたんですが、あの駅の周りは心霊スポットになっているようなんです。コインロッカーの心霊写真も見つけました。噂や怖い話の有名なサイトなんですが、そこで草間さんのことを教えて頂いて」
ゆう子は封筒から数枚の写真を取り出す。WEBサイトからダウンロードした画像を光沢紙に印刷したものだ。
崩れ落ちた駅のホームが写っている。明かりは懐中電灯なのか、とにかく薄暗くて判りにくい。所々ひび割れて土が見えたホームは、雑草に覆われている。
その写真の片隅に、四角いものが移っている。青白く輝く、四角いもの。
よくよく目を凝らして見なければ、コインロッカーだとは思えないだろう。草間には、巨大な豆腐に見える。
「ここなら、霊媒師さんとか、そういうスジの方を紹介してくれると聞きました。私と一緒に、このコインロッカーへ行ってくれる人を紹介して頂けませんでしょうか」
ゆう子はそう言って、急にソファから立ち上がる。
丁寧に頭を下げた。
「妊婦さんが、そんな急に立ち上がったりしていいんですか? 落ち着いて下さいよ」
草間は慌ててゆう子を座らせる。
この程度の依頼なら、「見える」人間でも見繕えば問題ないだろう。相手が妊婦だということもあるから、あまり刺激的でない方法で、コインロッカーを見せてやれば。
草間は写真を拾い集め、元通り封筒に入れてゆう子に返した。
ところで、一体何だろうか。取りに行かねばいけないもの、とは……。
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日差しがたまらなく暑かった。
軽い目眩すら感じながら、海原みなもは通りを歩いていた。
JR新宿駅に降り立ち、東口から外に出る。路面のアスファルトは余りの暑さに柔らかくなり始めており、降り注ぐ日差しと照り返しがみなもを包む。
暑い。
学校を出るときに、デオドラントスプレーを吹き付けてきたのだが、気休めにしかならない。額にうっすらと汗が浮かんだ。
東口から歌舞伎町へ。初夏の一大イベント・期末考査が終わったところである。時刻は二時、恐らく最も暑い時間帯だろう。
草間興信所に着いたら、冷たいものでも飲ませてもらおう。みなもはそう考え、夏ばて気味の身体を労わってやる。
期末考査が終われば、あとの授業はおまけのようなものだ。最後の答案を提出した後から、気持ちは夏休みに飛んでいる。クラスの友人と、帰りの電車で予定を話し合って。
お小遣いが少し乏しいことに気づいた。
中学生のみなもがアルバイトできる場所はたった一箇所である。善は急げと、帰り道に早速草間興信所を訪ねることにしたのだ。
何か、ささっと片付いてちょっとしたお小遣いになるような仕事があればいいのだが。
金がない、予算はないといつも言っている割に、草間興信所は多忙である。みなもがフラッと立ち寄って、本当に何も仕事らしいものがなかったことなど一度もない。稼いだお金は一体何処に消えているのだろうと思うぐらいである。
新宿通りと靖国通りの間に草間興信所はある。同じぐらいの高さの雑居ビルに挟まれるようにして立っており、二階の窓に事務所名が大きく張り出されている。
その窓がほんの少しだけ開いていて、煙草を摘んだ手首が覗いていれば所長在だ。
今日は暑いためか、窓がぴったりと閉ざされている。中はきっと涼しいだろう。
手で顔と首筋に風を送りながら、みなもは事務所に向かう。
少し前を、お腹の大きな女性が歩いていた。
そう目立つ大きさではないが、人目で妊婦と判る。暑い中、裾の長いゆったりとしたワンピースを着ている。
そのふっくらとしたお腹を見て、みなもは暖かい気持ちになる。あの中に赤ちゃんがいるのだ。
女性は手提げから日傘を取り出そうとしていた。暑さにやられているのか、少しふらついているようだ。
片手を上げ、額を押さえる。
ふらり、と身体が揺れた。
「危ない!」
みなもは声を掛けながら走り出していた。鞄を放り出し、倒れこむ女性の身体の下に潜り込む。
肩と腰を抱くようにして、支えた。
「あ、あら」
女性はぼんやりした声で言う。みなもはゆっくりと彼女を支え直した。
「大丈夫ですか?」
「ごめんなさい、ふらっとしてしまって。ありがとう」
額にびっしりと汗が浮いている。一人で立とうとする彼女の腕を、みなもは押さえた。
「まだふらふらしてますよ。具合、悪いんじゃないですか?」
「少し貧血だと思います。ごめんなさい、重いでしょう」
「いいえ。大丈夫です」
みなもは元気に言う。女性がすまなそうに頭を下げた。
「具合が悪いなら、少し休まれませんか? すぐそこ、知り合いの事務所なので。休憩できると思います」
みなもはそう言って、彼女から離れる。鞄を拾って、彼女が取り落とした手提げと日傘も拾ってやった。
「お持ちします。歩けますか?」
そっと腕を支えてやりながら言う。女性がこっくりと頷いた。
草間興信所はすぐそこである。
× × ×
事務所の中は予想通り涼しかった。
ドアを開くと、ふわりと冷気が流れ出してくる。所長用のデスクに座った草間武彦が、こちらを見た。
その横には草間興信所の事務員シュライン・エマが立っている。二人とも大きなファイルを開き、何か相談している最中だったらしい。
「あら、みなもちゃん。こんにちは」
シュラインが笑顔を見せた。
「こんにちはー! あの、外で具合が悪くなった方がいたのでお連れしたんですけど、休ませてもらっても大丈夫ですか?」
「ええ、勿論よ。あら……村上さん。大丈夫ですか?」
シュラインは驚いたように言う。ドアのところに立っている女性に駆け寄った。
二人がかりで女性を支え、ソファに座らせる。
「冷たいものをお持ちします。みなもちゃんは麦茶でいい?」
シュラインの申し出に、みなもは頷いた。
「落ち着くまでここにいて下さって大丈夫ですよ。楽にして下さい」
所長デスクから草間がやって来る。
そこでようやくみなもは、彼女の名前が村上ゆう子ということ、そしてつい先程までこの草間興信所に居たことを教えてもらう。おずおずと依頼内容を聞くと、ゆう子はあっさりと教えてくれた。
一週間後の金曜日に、K駅に忍び込む――。
みなもはゆう子のお腹と、繰り返し見る夢のせいで疲労した様子を心配する。そして、同行させてもらえないかと切り出した。
「お嬢さんも、その。幽霊とかが見える方なの?」
ゆう子が驚いて言う。みなもはにっこり微笑んだ。
「ほんの少しですけど」
「でも危ないわ。ご両親も心配なさると思うし」
「大丈夫です! 初めてじゃないし、それに危ないのはゆう子さんの方ですよ。ここで会ったのも何かのご縁でしょう。ぜひ、お手伝いさせて下さい」
みなもは力をこめてそう言う。
「それに、丁度アルバイト探しに来たんです。ね、草間さん。いいでしょう?」
「お?」
いきなり水を向けられた草間が困ったような顔をする。しばし思案するようなそぶりを見せ、それからゆう子に向き直った。
「彼女はまだ若いですが、よく気のつく落ち着いた子です。ゆう子さんの思い出と年が近いし、目線なんかがシンクロしていい結果が出る可能性がある。ゆう子さんさえ良ければ」
「ええ……そうですね」
ゆう子は困ったように首を傾げた。
「それじゃあ、お願いします。みなもさん」
そっと手を伸ばし、みなもの手を握った。妊婦さんの手は暖かくて、みなもは少し戸惑ってしまう。
「大丈夫。大人もつけます」
草間が麦茶を持ってきたシュラインをひょいと指差す。シュラインが暖かく微笑んだ。
× × ×
K駅周辺には、産婦人科も救急病院もあるようだった。
ゆう子と出会ってから1週間後。個人的に携帯電話のメールアドレスを交換したみなもは、彼女の体調が随分落ち着いていると伝えられていた。
妊娠している女性なんて、ここ数年お近づきになる機会がなかった。いつかは自分も、と思って憧れの眼差しを注いでいたのだが、こうして生の声を聞ける機会に恵まれるとは。
産婦人科と救急病院の連絡先を手帳に書き込み、ホームページで公開されていた地図を印刷する。それを丁寧にたたんで手帳に挟み込んだ。
少し大きめのバッグの中に、懐中電灯と虫除けスプレー、凍らせたタオルなどを押し込む。最後に手帳と財布、携帯電話を入れた。
草間興信所で待ち合わせた時間は午後十時。打ち合わせの後、草間が手配した「アシ」でK駅に向かうという。
すっかり失念していたが、忍び込むのは最終電車が行った後なのだ。帰りに電車はない。
みなもは母に出掛けると声を掛け、家を出た。
日が沈んでいるとはいえ、外はまだ暑い。気温が下がりきるのは夜中を回ってからだ。
梅雨明け宣言がまだ出ていないとは思えないほど、暑い。
電車を乗り継ぎ、新宿へ。草間興信所に着く頃には、身体が暑さに慣れてきていた。
事務所の中には草間とゆう子、そして見知らぬ男性がいた。雑談のような打合せのような話を交わしている所を見ると、車を運転してくれる人だろう。
みなもはちょこんと頭を下げ、男性に挨拶した。
男性の名はモーリス・ラジアル。涼しげな美しい容貌をしており、物腰も柔らかだ。オトナの醸し出す雰囲気に、みなもはどぎまぎしてしまう。
「もう少ししたらここをでましょう。この時間なら道もそれほど混んでいないし、先行しているシュラインと合流して、軽く食事をとって丁度というところでしょう。K駅の最終電車は一時十五分。これで乗り入れている電車が全て行き来しなくなる」
モーリスがそう説明する。最終電車とはそんな遅くまであるものなのかと、みなもは少し感心した。
「駅構内が完全に無人になるのにもう少しかかるだろうから。決行は二時が妥当かな」
モーリスは何かを思い出すように首を傾げてそう言う。
ソファに座って煙草を吹かしていた草間が、ひらひらと手を振った。
「それじゃ、頼む。女性ばっかりだが、あんたならうまくやれるだろう」
「女性のことなら」
モーリスはうっとりするほど華やかな笑みを浮かべる。
「車は下に停めてあります。どうぞ」
芝居がかった仕草で、みなもとゆう子の手を取る。その仕草が、美しい容貌にぴたりとはまる。
「無茶するなよ」という草間の声を背中に聞きながら、みなもはどきどきしながら事務所を後にした。
× × ×
車の中は殺風景で、モーリスという男性に似つかわしくない雰囲気だった。
ゆう子と後部座席に乗り込む。車内は蒸していて、再び汗が浮かんできた。
「少し我慢して下さいね。クーラーが効くまで少しかかります。安い車ですから」
モーリスはそう言い、車を発進させる。
「自分の車なのに、安いとか言っちゃっていいんですか」
みなもは夜のドライブでやや興奮しながら言う。モーリスのハンドルさばきは素晴らしく、比較的乗り物酔いしやすいみなもでも不快を感じない。
「これはレンタカーです。目撃された時のために、ナンバーに少し加工をしてあります。理由はともかく不法侵入ですから、少しばかり小細工をね」
「わざわざすみません」
ゆう子がすまなそうに言う。モーリスは、仕事の一環だからと快活に笑った。
「村上さん、コインロッカーの中にある、取りに行かなくてはいけないものとは何ですか。草間にはお話されなかったようですが」
ゆう子の顔がハッと強張る。みなもはゆう子を見つめた。言いたくないのかと思って、今まで聞いていない。
「それが、覚えていないんです」
ゆう子は口元に手を当てて言う。
んですが、それが何かは覚えていないんです」
「どんな感じのものとか、判りますか? コインロッカーの大きいところに入れたのか、それとも小さい所に入れたのか」
みなもはゆう子から極力情報を引き出そうと、細かく聞く。
少女が話したほうが話が早そうだ。
「小さい所、ですね。小さいコインロッカーが、駅のホームに背中合わせに二つ、置いてあったんです。薄い黄色の丸いプレートがついている鍵がささっていて、値段は覚えていません。ロッカー自体が小さいものしかありませんでした。フェンスがあったんですが、やんちゃだったので乗り越えられたんですね。当時、そのコインロッカーに赤ちゃんが捨てられるという事件があって、私たちの通っていた中学校でも呪われたロッカーということになっていました。小中学生は、使わなかったんです。怖くて。夢の中で私は、その呪われたロッカーに向かっていくんです。右手に、何か……柔らかいものを持っていて、それを押し込んで」
ゆう子はぼんやりした口調でそう言うと、頭を抱えた。
「なんだろう。何を入れたんだろう。思い出せない」
車が静かに道を進む。みなももモーリスも、少しの間黙っていた。
「それで、取りに行くんです。でも、何処に入れたのか判らなくなって、探しても探しても見つからなくて。ようやく使用中のロッカーを見つけたら、今度は鍵がない。そういう夢です。確かに覚えがあるんです。私、あのコインロッカーに何かを入れました」
「それは、夢じゃなくてですよね?」
「現実です。中学生の頃、何かを入れました。それを思い出して、夢に見るんですね」
「どうして、妊娠と同時にその夢を見るようになったんだと思いますか」
モーリスは静かに聞いた。
「家族が出来るんだ、と思ったんです。そうしたら、……私は母親になんてなってはいけないんだ、って思ったんです」
「母親になってはいけない、とは?」
「よくわかりません。そんな権利は無い、と。子どもがあまり好きではなかったのもあって」
「自分の子どもも、可愛いって思えないかもしれないって思ったんですか?」
みなもが驚いて言う。ゆう子は何か引っかかるような顔をした。
「それだけじゃないかもしれません。でも、夢を見るたびに強く思います。私は今のままでは子どもを愛せない。でも……見つけ出したら、この子を愛せるんじゃないか。そんな気がして」
なんとも漠然とした話だった。
みなもは問い詰めても仕方ないと思い、話を逸らした。
「赤ちゃんは男の子なんですか? 女の子?」
みなもはゆう子のお腹に目を落とす。ゆう子は調べていないと言った。
「可愛いって、思ってるんですよね?」
「思ってます! 凄く、大事だと思っています。自分のお腹に命があるって、凄いことだって思います。でも、生まれてきたら」
「生まれてきても、きっと凄く凄く大事ですよ!」
みなもは力をこめて言う。
「それがお母さんっていうものですよ、きっと」
ゆう子が微笑んだ。膨れたお腹を優しく撫でる。
「あの、触ってみてもいいですか?」
みなもはおずおずと言ってみる。ゆう子がみなもの手を取り、そっと下腹に宛がった。
命を包んで、ぱんぱんに張り詰めたお腹。耳を近づけると、鼓動が聞こえた。
× × ×
最後の電車が通り過ぎる。JR中央線の終点、高尾まで下っていく電車には人がかなり乗っていたが、今度は車両の殆どに人が乗っていなかった。
エンジンを切った車の中から、みなもたちはK駅を観察していた。
フェンス越しに見えるK駅は暗く、ホームに点在する灯りが頼りない。三十分も前に最終電車を送り出したホームの電灯が落ちているのと、向こう側のホームまでの間に古いホームが横たわっているためだ。
あちこち崩れて朽ちたホームは、伸びた草に覆われている。暗いため定かではないが、ススキだろうか。伸び放題の草はホームの高さ以上に茂り、夜の風に揺れている。
使われなくなった建物は急速に朽ちる。存在意義を失ったとたん、一気に廃墟になるのだ。
駅舎から完全に照明が落ちた。
ゆう子が真剣な眼差しで駅を見つめている。
「ホームがあったのは、どのあたりですか」
運転席のモーリスがゆう子に問いかける。みなもはシュラインが連れてきたシオン・レ・ハイとゆう子と共に、後部座席に収まっていた。
フェンス脇にある街灯の光は頼りない。駅舎の明かりがなくなると、ホームはシルエットしか見えない。
暗闇に沈む駅は、夜の学校にも似ている。昼間大勢の人が居るのに、夜になれば誰も居なくなる。その時間を、眠りと死、どちらに例えたらいいだろう。
「下り側の先頭の方でしたから、もう少し後ろですね」
「思い出しながら指示して下さい。バックします」
モーリスは後ろを見たまま車を動かす。そろそろと車を後退させた
「磁場が歪んできていますね」
シオンが呟く。みなもも頷いた。
「何かが集まってるみたいな。心霊スポットだとしたら、強力な方に入りますね。私、あんまり鋭くないので、説明しにくいんですけど」
何かに呼ばれているような気配が、徐々に濃厚になっていく。首筋がちりちりした。
霊を集めやすい磁場には二種類ある。引き寄せるタイプと、吸い込むタイプ。前者は霊が集まりやすく、方向性が一致している者が集まる。今回は後者のようだ。
霊も人も、それ以外のものも、吸い込むように集めている。
「ここです」
ゆう子が小さい声で言う。両手でこめかみを押さえている。
みなもたちたちは車から降りた。
虫の気配が草むらから湧き上がる。
「蚊が一杯居そう! 虫除けスプレー使います?」
みなもは言う。バッグの中から小さなスプレーを出した。
「妊娠してると体温が高くなるそうですから、ゆう子さんは絶対」
ゆう子の二の腕や足元に、シュッとスプレーしてやった。
「用意がいいのね。私も借りていいかしら」
シュラインも手を出す。みなもがニコニコして手渡した。
スプレーを吹き付け、それでも寄って来る蚊を手で追い散らす。フェンスに近づいても、ホームは暗くて見づらい。
「撤去された跡らしいものがありますね。ボルトを抜いた孔があります。近づいてみないと判りませんが、あれに触れば復元も可能でしょう」
片目に黒い眼鏡のようなものを装着したモーリスが言う。時計職人などが着けているものに近い。なんだろうか。
「ロッカーを復元できるんですか」
ゆう子が驚いたように言う。モーリスは頷いた。
「少し空気が澱んでいます。丁度ロッカーのあった場所を中心に、何かが渦巻いている。近づいてみないと判りませんが、草も茂っているし少し危ないかもしれません」
「行きます」
ゆう子がしっかりした声で言う。
「そのために来ました。多少の擦り傷は覚悟しています。お願いします」
モーリスが探るようにゆう子を見る。ゴーグルを外した。
「ではフェンス越えから」
軽く助走をつけて飛び上がり、フェンスの上を掴む。逆立ちして向こう側に反り返り、手を放す。
物音一つ立てず、向こう側に着地した。
みなもとシュラインも、音を立てないようにそろりそろりとフェンスをよじ登る。シオンがフェンスを掴み、反対側に足を引っ掛ける。ゆう子に手を伸ばした。
ゆう子がシオンの手をしっかりと掴む、
「揺れますから、気をつけて。離しませんから、ゆっくり足をかけて登って下さい」
ゆう子がフェンスをよじ登る。身体を乗り越えさせたところで、シオンがゆう子の脇の辺りを抱きかかえ、支えた。
シュラインとモーリスが手を伸ばし、ゆう子のバランスを保ちつつ下まで降りさせる。
「ありがとうございます」
真剣な顔つきになって、そう言った。
みなもは目眩を感じて額を押さえた。ゆう子がこちら側に足をついた瞬間から、空気が変わり始めている。
上りホームを乗り越える。
みなもたちは息を呑んだ。
中央のホームが、淡く光っている。ホームを視界に入れていると、くらくらする。ホームのあたりだけが明るくなっていた。
古いホームの周辺だけが、昼間になっていた。眩しい日差し、かすかに漂ってくるのはうだるような夏の日の昼時だ。
映画を見ているようだった。古いホームが、昔の姿に戻っている。
「これは、幻?」
ゆう子が呆然と呟く。みなもは直感的に、これは強力な霊視の一種だと理解する。この磁場が、まったく霊感がないゆう子にも、視る力の弱いみなもにも、強制的に記憶を見せている。
「あのホームだわ……あの時の! あの日の……!」
ゆう子が線路に飛び降りる。つんのめりながら線路を越える。
「落ち着いて、ゆう子さん!」
みなもは慌てる。ホームから飛び降り、ゆう子を追った。
ゆう子がホームに取り付く。みなもも線路を越えて走っていこうとする。
「いけません!」
鋭い声が響き、後ろに引っ張られる。
鼻先を、オレンジ色の車両の電車が通り過ぎた。
電車の巻き起こすオイル臭い熱風を鼻先に感じる。暑い日差し、澱んだ空気は息苦しいほどの湿気と熱を含んでいる。
シオンにしっかりと抱きとめられていた。シオンが抱きとめてくれなければ、電車の前に飛び出していたことになる。
電車が熱気を振り撒きながら停車する。見上げると、車両の中に夏服を着た人々が乗っているのが判った。
発車のアナウンスとメロディが響く。車輪が動き、電車がホームを抜けてゆく。
「ゆう子さん!」
みなもが叫ぶ。
駅には、ゆう子の姿は無かった。
電車が行ったばかりのホームには、出口へと向かう乗客がいるばかりである。どこを探しても、ゆう子の姿は無い。
ホームのすぐ前に、古いタイプのコインロッカーがあった。
昼過ぎの暑い中、不快なだけの風が吹いている。コインロッカーにつけられた鍵、それを識別する丸いプレートが揺れている。
人々が出口へ向かう階段を上りきってしまった後、そこにセーラー服を着た少女が現れた。階段のすぐ下に立っている。髪が長くて俯いているため、顔は見えない。
それでも、彼女が泣いているのは判った。俯けた顔から、滴が落ちている。
少女は、タオルにくるんだ何かを持っていた。小さい小さい何か。タオルにくるまれたそれを、だらりとたらした手に握っている。
瞬きすると、少女は消えてしまった。
ロッカー前に出現する。ロッカーの前にかがんで、鍵を弄っている。
タオルにくるまれたものを、ロッカーの中に押し込む。鍵を締める。
再び消える。みなもの目の前に、少女が立っていた
「子供なんか死ねばいい。皆、死ねばいい」
真っ黒く空ろな口が、そう呟く。腐臭がした。
みなもは悲鳴を上げる。
少女が顔を上げた。
真っ赤な涙を流した少女の顔は、幼い幼いゆう子だった。傷ついて、どうしようもなく追い詰められた、絶望した少女の顔。
ゆう子さん、と言おうとした瞬間、夏の気配が消滅した。
遠くから、カカカと鳴く蛙の声が聞こえてくる。あたりは再び闇。
朽ちたホームに、ゆう子が倒れていた。
みなもははシオンとホームへ走る。伸びたススキが二の腕や頬を引っかいた。
一足先にホームに上ったシュラインが、ゆう子を抱き起こしていた。
ゆう子の首が、瘧のようにガクガクと揺れた。
「誰も助けてくれなかった どうして私が? 怖い 痛い 苦しい 助けて 誰か お母さん 触らないで お願い 気持ち悪い 痛いよ いや いや いや!」
ゆう子が絶叫する。
再び、昼間の気配が忍び寄ってくる。風に柔らかい花の匂いが混じっている。暖かい季節だ。夏ではない。草が茂った道を、歩いている。桜の花びらが一枚、落ちてきた。
突如目の前に、大柄な男たちが現れる。三人いる。手が伸びてきて、突然殴られた。
夜の朽ちたホームと、草むら。目に、違う風景が二重写しになる。
桜の花びらが、潤んで歪んだ視界に移る。舞い落ちる、花びら。
ゆう子が捨てたのは子供だ。父親は――父親は。
見知らぬ男たち。
「ひどい!」
みなもが叫ぶと、草むらの風景は消えた。
ゆう子が感じたであろう恐怖を、痛みを、みなもも感じた。みなもは自分の身体を抱きしめ、泣いていた。
シオンの暖かい手が、みなもの肩を掴む。
ゆう子の忘れ物。取りに帰らなければいけないもの。
愛せずにいた、子ども。
ゆう子が目を開いた。
「子どもが悪いんじゃ、なかったんです……」
ゆう子が消え入りそうな声で言う。
「親に言おうか迷って。太ったと誤魔化して。どうしたらいいのか判らなくて、死ねばいいとか殺してやると、思いました。隣の駅のプールに通っていて、帰り道に……流れてしまったんです」
みなもと同年代の少女に降りかかった、呪わしい出来事。
――おかあさーん――
舌足らずな声が響いた。
振り返ると、淡く光るコインロッカーが出現している。すべてのロッカーから、小さな小さな手が伸びていた。
――おかあさーん――
朽ちたホームから、無数の手が伸びて来る。小さな手が、みなもの手足を掴む。掌は小さいのに、手は紐のように長い。
手が、ゆう子の首を、みなもの首を絞める。
――おかあさーん――
声がどんどん大きくなる。息苦しくなって、みなもは首を振る。ロッカーの中の小さな手が、招いている。呼んでいる。
シオンの手が、小さな手を掴んで引き剥がした。
絡まったつる草を引き剥がすように、白くてぷよりとした手を掴み、引きちぎっていく。
ゆう子が立ち上がった。
「ゆう子さん、これは!」
次々と伸びてくる手を振り払い、シュラインがゆう子の肩を掴んだ。
「あなたの後悔が、ロッカーと子どもを呼んでいるんです! 落ち着いて!」
「私に――子どもを生んで愛する権利なんて、ないんです――シュラインさん」
抑揚の無い声でゆう子が言う。シュラインが首を振った。
「あります! ゆう子さん、あなたの後悔は何のため? 今の赤ちゃんを生む前に、清算したいと思ったから、ロッカーは現れたのよ!」
シュラインの口を、手が覆った。手の数がどんどん増えている。シュラインはホームの床に転がされた。
どうしたらいい。小さな無数の手に叩かれ、つねられ、縛り上げながらみなもは考える。きとシュラインが考えていることが正解だ。
「ゆう子さん! ここで負けたら、お腹の赤ちゃんが――!」
手を引きちぎり、シュラインは叫ぶ。
ゆう子が立ち上がった。
みなもの頭に、一つの正解が閃く。子どもは母を呼んでいる。ゆう子を呼んでいる。後悔しているのはゆう子、呼び寄せられているならば。
「見つければいいんじゃないでしょうか!」
シオンが叫んだ。手を振り払い、ゆう子を抱き上げる。
そうだ。それが正解だ。
みなもは首や口を押さえ込もうとする手を振り払い、飛び起きた。
「そうですよ!」
バッグに手を伸ばす。ゆう子を守るために持ってきた水がある。これを使えば、少しはみんなを守れる。
「あそこまで行きましょう、ゆう子さん!」
キャップを外し、あたりに水をぶちまける。
飛び散った水滴が、薄い膜となって床を覆う。水の膜が硬化し、手を封じ込める。
ただし気温が高い。限界まで薄くして膜とした水がどれだけ保つか不安がある。
「暑いからすぐ蒸発しちゃう……急いで!」
みなもはゆう子に言う。意識を集中させ、薄い薄い膜で手を押さえ込む。
ゆう子が立ち上がり、よろよろとロッカーに向かった。
「手伝います、みなもちゃん」
シオンがしゃがみ込む。上着を脱ぎ捨て、手を床につける。
「お願いします、お願いします。うまくいきますように!」
祈るように言う。シオンの身体から、冷気が立ち上った。
シオンを中心に、水が凍ってゆく。薄い薄い氷が、ホームを覆う。
「これなら少し時間が稼げそうです!」
みなもは頷く。意識を集中させ、硬さを保つことに意識を集中する。
――お願いゆう子さん、見つけて!
ゆう子がロッカーにたどり着く。しかし、その手はロッカーを掴むことができない。
空気を掴むように、指が空を掻く。
モーリスが駆け寄った。
無数の手が蠢く床に手をつける。探るように撫でた。
「一瞬だけなら、復元できます」
「見つけます」
ゆう子が言う。モーリスが頷いた。
氷を突き破り、コインロッカーが出現する。細かな破片が夜風に舞う。
ゆう子は、迷わず一つのドアを掴んだ。
「私は、この子と幸せになるの! 許して!」
ロッカーの中に手を突っ込む。
血に染まったタオルを掴みだした。
ロッカーが霧散する。それと同時に、ホームを覆っていた氷も蒸発してしまう。
一瞬だけざわめいて波打った手が、消えた。
ぼろぼろの赤いタオルを抱いて、ゆう子は泣いていた。
「あなたは何一つ悪くなかったの」
タオルが空気に溶けていく。
「次に生まれてくるときは、この子の兄弟になって。必ず、生むから。生まれてきて」
ゆう子の手からタオルが消える。
低い嗚咽が、K駅に響いた。
みなもは立ち上がり、服についてしまった土ぼこりを払う。
ゆう子が立ち上がり、一同を振り返る。
「ありがとうございました」
丁寧に頭を下げ――
一声呻いて、しゃがみ込んだ。
「どうしました!」
モーリスがゆう子の肩を掴む。ゆう子はお腹を抱え「陣痛が」と言った。
× × ×
車どおりがまばらな道を、制限速度オーバーで走り抜ける。
「モーリスさん、次の角、右!」
救急病院の地図を握り締め、みなもは指示を出す。いざというときのために、産婦人科と救急病院の地図を持ってきたのが役に立った。
赤信号を無視し、モーリスは車を曲がり角に押し込む。
「シオンさん、病院に電話して下さい!」
みなもはシオンに携帯電話を渡す。地図の下に書いてある電話番号を切り取り、渡した。
隣では、痛みに喘ぐゆう子をシュラインが解放している。みなもが持ってきた濡れタオルで、汗の浮いた額をぬぐってやっていた。
「舌を噛まないように」
モーリスは一言注意して、さらにアクセルを踏み込む。
しばらく走ると、大きな病院が見えた。
駐車場に突っ込むようにして車を止める。モーリスがドアをあけて飛び降り、ゆう子を抱きとめる。
助手席側から回ったシオンが手を貸す。二人がかりでゆう子を抱きかかえ、救急受付に走っていった。
みなもとシュラインもは、ゆう子の持ち物などをバッグに入れ、車のエンジンを切ってから三人を追いかける。
中に入ると、ゆう子がストレッチャーに乗せられて運ばれていくところだった。
看護士が、シュラインたちを分娩室の外のソファに案内してくれる。
ソファに座り、みなもは両手を握り合わせて祈りを捧げた。
「予定日にはまだ間があるって話だったけど、大丈夫かしら」
シュラインがそわそわと言う。しばらく廊下を歩き回った。
みなもはソファに座り、手を組み合わせて祈った。
ゆう子さんとお腹の赤ちゃんを、神様どうか、お願いします……!
「あの、お父さんにご連絡とかしなくて、いいんでしょうか?」
シオンが声をかける。シュラインはパンと手を叩いた。
「そうね、事務所に電話かけてきます」
武彦さんが事務所に居るとたまには役に立つわ、とぎこちない軽口を叩く。看護士に電話の場所を聞くと、走っていった。
みなもは祈り続ける。水の神様、天の神様。二つの命をお守りください。
自分が生まれるときも、父はこんなふうに祈っただろうか。
× × ×
海から吹いてくる風が、真夏とはいえ涼しかった。
レンガ敷きの通りは気持ちがいい。ゆう子にプレゼントされた日傘を差し、みなもはゆう子と赤ちゃんと三人で通りを歩いていた。
夏休みも三分の一が終わった頃、ゆう子から一通のメールが届いた。
――赤ちゃんを見に、遊びに来ませんか? みなとみらいのすぐ側で、海が見えるマンションです。少し騒々しいかもしれませんが、手料理をご馳走したいと思っています。ゆう子
みなもは喜んで返事を書く。日曜日なら大丈夫です、最寄の駅はどこですか? 赤ちゃんと一緒に、公園をお散歩したいです。
ゆう子のマンションは最新式のオートロックで、横浜の海が見下ろせる場所にあった。ゆう子の両親のマンションで、一人で子育てができるぐらい回復するまで、ここにいることにしたという。
両親と一緒ならば睡眠時間も休憩も取れる。ゆう子は少し太って、幸せそうだった。
「本当に、あの夜はありがとう。みなもちゃん。忙しくて落ち着いてメールができなくて、ごめんなさいね。夕御飯は私が作るから、食べて行ってね。ここらは夜景が綺麗なのよ」
「海風も気持ちいいし、赤ちゃんきっと、元気に育ちますね」
みなもはゆう子が抱いている赤ん坊に手を伸ばす。口をもぐもぐさせていた赤ん坊がにっこりと笑いかけ、みなもの指を握って歓声を上げた。
「赤ちゃんって可愛い!」
みなもは感激して言う。ゆう子が微笑んだ。
「みなもちゃんは、好きな人とかいるの?」
「え? え、あ。はあ。まあ」
みなもは真っ赤になって言葉を濁す。
それは、いるような。いないような。まだ早いほうがいいような、待ち遠しいような。
みなもは想像してみる。ゆう子のように幸せな表情で、愛しい人との子どもを抱く自分の姿を。
それはまだ少し早いようで、遠い分だけロマンチックな想像だった。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【1252 / 海原・みなも / 女性 / 13歳 / 中学生】
【3356 / シオン・レ・ハイ / 男性 / 42歳 / びんぼーにん】
【2318 / モーリス・ラジアル / 男性 / 527歳 / 調和者】
【0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 草間興信所の事務員】
※順不同
※複数職業のある方は今回のノベルゲームで活躍した職業を表記しました
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■ ライター通信 ■
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ゲームへの御参加、ありがとうございました。
担当ライターの和泉更紗です。
日本全国が猛暑に覆われている中、アツイアツイ夏のゲームに御参加ありがとうございました。
少しの冒険と、夏の熱っぽい気配、少女のちょっとした成長を織り込んで書かせて頂きました。
海原・みなも様の一夏の思い出として、気に入って頂ければこれ以上の幸いはございません。
改めて、
日本列島猛暑の夏、K駅での擦り傷肝試しに御参加ありがとうございました!
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