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行く先はいずこへか
――プロローグ
キヨスクでお茶とタブロイド誌を買って、プラットホームに立っていた。
ここは新幹線のホームだったので、ちらほらいる人もドア印のついたところに並んでいるわけではない。
草間・武彦は少しぼんやりしていた。
それでも、いつもの癖で回りにいる人間を観察していた。
すぐ隣の女の子の、上と下のまつげについたベタベタの黒い色。手持ち無沙汰に立つサラリーマンの背中。携帯電話に使われている若い男の子。
草間は切符を確認した。
ズボンの右尻ポケットの中にある切符。そこには行き先が書かれている。
草間はそこに行くのだろう。そうだろう。一人で、合点する。行き先が真っ白い切符なんて、東京のどこを探しても……世界中のどこを探してもないに違いない。
山手線がぐるぐる回っていることを考えたら、新幹線の方が幾分かマシに思えた。
少しいつもより気持ちが急いでいるようだ。
――エピソード
草間・武彦は長距離の移動が苦手だった。
それは長年付き合っているシュラインには周知の事実だった。特に新幹線には弱い。飛行機ともなると、子供心に帰るのか何も言い出さないが、新幹線のように地を這う乗り物に乗るとそわそわし出すのだ。
その理由は当人に言わせると『線路を走っているから』だったり『道を走っているから』だったりする。つまり草間は、誰かに道を決められているのは嫌なのだと思う。自分の意志とは違うところで、(実際は意志のとおりであるのだが)名古屋や大阪を経由して新大阪に着く。電車は線路を走っている。きっとそれが許せないのだろう。
くだらない理由だ、とシュラインは思う。同時に、なんて子供っぽいのかしら、とも思った。
絶対温かいコーヒーが飲みたいと主張した草間の希望を叶える為、シュラインはホームの端の自動販売機でコーヒーを買っていた。
しかし戻ってみると、さっきいた草間がその位置にいない。
新幹線を前にした草間は気もそぞろで、糸の切れた風船のような精神状態だから、きっとふらふらとその辺を歩いているのだろう。
「困ったものね」
思わず口に出すと、後ろから声をかけられた。
「誰がだ」
一瞬びっくりして口を噤んだが、すぐに切り返す。
「あなたよ」
「じゃあ、言い方を変えよう。なにがだ?」
草間がシュラインの隣に並ぶ。シュラインは両手に持ったコーヒーの一方を草間に差し出した。草間は、自分が頼んだというのに暑そうに顔を歪めた。それから、淵の部分を持ってコーヒーを受け取る。シュラインは思わずいたずらっぽく笑った。
「糸の切れた風船よ」
「なんだよ、そりゃ」
彼は片手でくしゃりと頭を撫でた。それから、トン、トントンと右足の先でホームを打つ。これは人を貧乏ゆすりという。草間は線路の向こう側にある大きな看板を見やりながら、心ここにあらずそんな風に言った。
「禁煙車両が増えすぎだ」
「私は困らないわ」
「そうか? だって、お前の行く学者の連中だってきっと煙草ぐらい吸うだろう。東京で学会があってみろ、出席できなかったらコトだ」
草間は気が付いたように片手で煙草を取り出した。
「どうしてそこに話が飛躍するのかわからないんだけど……」
シュラインは微笑んだ。
「残念ながら私は日本語研究者じゃないから、全員禁煙に慣れっこだわ」
「どういうことだ」
「こんなに堂々と煙草が吸えるのなんて東京ぐらいってことよ」
妙に納得した顔で、草間が手を止める。
しかし、ほうと一言洩らしただけで、草間は器用に煙草を一本くわえ、煙草をポケットに戻しズボンのポケットからライターを取り出した。シュラインは火をつけるさまを見ていた。草間は常時ライターを何本もポケットに入れている。それはきっと、探すときにどこにでもあった方が見つかりやすいからだ。見つからず次のライターを買う。また買う。そして、草間のライターは色とりどりに溜まっていく。
「それに例えば」
シュラインが人差し指を立てる。きれいにコーティングされた爪先を、草間も見た。
「煙草を三時間吸えないからって、学会を欠席する学者なんかいないわ」
「俺なら欠席だな」
呆れたシュラインが溜息混じりに言った。
「仕事よ?」
「会議は苦手なんだ。小学校の頃から」
細い煙を吐き出した草間が言うと、シュラインは声を立てて笑った。
「それ、学級会ってやつかしら」
「大嫌いだ」
コーヒーはもう温くなってしまっている。シュラインが口を付けようとすると、新幹線が音を立てて入ってきた。
草間は新幹線の轟音に構わず続けた。
「そもそも、なんで一人の奴が給食を残したからって話し合う必要があるのか」
どうやら学級会に苦い思い出があるらしい。得てして学級会というものは、そういったくだらない出来事を取り上げることが多い。小学校の頃にやったディベート大会なんて、カレーが偉いかラーメンが偉いかの二者択一だった。
シュラインは思い出してクスクス笑った。
「なんだよ」
草間がくわえ煙草で言う。彼は二人分の荷物を片手にぶら下げて、新幹線の扉の前に立った。
シュラインは草間の口元から煙草を取り上げた。
「全席禁煙です」
「は? 聞いてないぞ、俺は」
「言ってないもの。言ったら、武彦さん蹴ったかもしれないでしょ。この仕事」
草間の心底渋い顔は、シュラインの予想を裏付けている。
困った人ね、本当に蹴るつもりだわ。
シュラインは要領よく質問をまとめていたし、面会を求めていた言語学者も専攻は言語学ながら理系の人間らしく、物の言いようがすっきりしていて受け答えがスムーズだったので、すぐに話し合いは終わった。聞きたいことは聞けたし、それなりに理解もできたと思う。
携帯電話を取り出して草間に連絡を取ると、草間はタクシーの中らしかった。
「爆笑の話があるんだ」
草間はそう言った。ついでに、彼の仕事ももうすでに終わっているそうだった。
「なに食べましょうか。お好み焼き? たこ焼き? うどん?」
「ホテルのレストランでいいじゃないか」
「だって、私達のホテル格安よ。食堂って感じじゃないかしら……」
携帯電話の草間の声はぷっつりと沈黙した。
「新大阪の長距離バスターミナルの前でいい?」
シュラインが訊くと、草間は軽い口調で答えた。
「わかった」
時間はまだ三時過ぎだった。待ち合わせのバスターミナルには人が少ない。
長距離バスは夜走るものが多かったから、その関係に違いない。
まだ梅雨だというのに、空は一面青かったし日差しは焼け付くような痛いものだった。シュラインは七部袖の青いかっちりとしたシャツを着ていたので、日焼けの心配はない。しばらく待つと、バスターミナルにカローラが入ってきた。
ブ、ブ! とクラクションを鳴らした。シュラインは訝しげにカローラを見ていた。
やがてカローラの運転席の窓から草間が顔を出した。
「エマ」
シュラインに向かって呼ぶ。
シュラインはハンドバックの紐を持ち直して、慌てて車へ向かった。
「なに? 借りたの」
なんだか笑いが込み上げてくる。笑みをこぼしながら草間に訊くと、助手席のドアを開けた草間は涼しい顔で「ああ」と答えた。それから、かけていたラジオのボリュームを小さくする。くわえ煙草を手に取って、フィルター近くまで吸ってある煙草を灰皿に押し込んだ。
草間は冗談めかした顔で言う。
「お前、通天閣行ったことあるだろ」
「あるわ」
「道頓堀川は除外として、大阪城は?」
「ないわね」
返答を聞き、草間は訊き返す。
「行きたいか?」
シュラインは助手的のシートにもたれ、シートベルトをはめながら答えた。
「そうね、行きたいかと言われるとそうでもなかも」
草間は納得のいった顔をして肯定した。
「そうなんだ。俺も、別に見たいところなんてない」
せっかくの休暇なのだから、そんなことを言っている場合ではないと思うのだが、草間はそう断言し尚且つ上機嫌だった。
「それなら、ドライブでもするのが一番いいだろ」
普段は電車派の草間とは思えない発言だった。
実際草間は車好きだった。探偵の性というのか、地味な車しか持っていないが、車の雑誌を買うこともあるぐらいだ。せっかく観光地に来て車を借りたのだろうに、選ぶ車がカローラとは、探偵の性は思ったより根が深いらしい。もしかしたら、他の車は貸し出されていたのかもしれないが。
ラジオが小さな音で、ジャズを流していた。
ギアを入れて車が発進する。
「どこへ行きたい?」
四車線の大道路に入って草間が訊く。草間を横目で見ると、彼の眼鏡が差し込む日差しで光っていて目が見えなかった。
シュラインは微苦笑をして答えた。
「あてもなく走りたいわね、武彦さんとなら」
草間は少し間を置いてから、なんとも言えない声で言った。
「あてもなく、か」
「フェリーに乗って渡っちゃうとか。とんでもない山道登っちゃうとか」
少し暗喩がすぎたかとシュラインは思い、咄嗟に補足説明をした。別に、特に意味があるわけではないと伝えたかった。本当は、確かに意味があったのだけれど。
草間はおかしそうに笑った。
「夜景よりそういう方が好みか、お前は」
「それよりまずごはんね」
シュラインが同じように笑いながら言うと、草間はまたクツクツと喉を笑わせた。
「レストランで食事、バーで酒、最後にクラブにでも行くか」
「そこまで若くないわ。特に、武彦さんが」
「……まあ、確かに」
笑いが苦いものに変わる。
草間は小さな画面をポンと叩いてから、
「今日は完璧なナビつきだからな。一時間ぐらい走って京都まで行くか」
「京都に何かあるの?」
「とっときのレストランがある」
シュラインは小さく驚いた。
「あら、珍しい」
「ポイントはノーネクでも入れることだ」
二人は笑った。
何度か来たことのある程度の小さなレストランだった。駐車場は二台分しかなく、たまたま一台分空いていたのですかさず停める。店の前の黒板には今晩のコースメニューが書いてあった。ハンドバックを下げたシュラインが、「へえ」と後ろで言う。
「小さいところね」
「値段は中の上ってところかな」
「それは、大きく出たわね。私の財布を当てにしないでよ」
シュラインはクスクス笑った。彼女は今日、とてもよく笑っている。草間も少しだけ口元を笑わせて、ポンと財布の入っている左の尻ポケットを叩いた。
「キャンセル料が出たからな」
「やだ、依頼料じゃないの」
店はガラス張りになっていた。数名の男女が中にいる。バーカウンターがついていて、テーブル席は四つしかなかった。草間がドアを開けると、カウベルがカランと鳴った。黒く短いエプロンをした若いウェートレスが出てきて、お二人様ですかと訊いた。うなずくと、四人席のテーブルに案内される。ウェートレスはランチ用とディナー用のメニューを持ってきた。どちらでもいいようだ。
「ディナーで」
草間が言うと、シュラインが驚いた顔で彼を見た。
「豪勢な気分ね」
「タマにはいいだろ。タマにはさ」
「キャンセル料ってそんなにもらえたの?」
出された冷に口をつけながらシュラインが訊くと、草間は嬉しそうにうなずいた。
それから少しもったいつけて語り出す。
「なんとさ。ま、いわゆる幽霊騒ぎだったんだが。ちょうどな、その説明をしているときにだ」
「ええ」
「山伏みたいな格好をした男がさ、出てきたんだよ」
目の前に山伏が出てきたように、草間は宙に視線を投げてニヤニヤ笑う。
「でな、ここには悪い気がいるって言うのさ」
「それが笑えたこと?」
「しかも依頼人のやつ、すっかりその山伏を信じちゃってさ。探偵さんには遠くまでおいでいただいて申し訳なかったから、お礼をって、まあその礼はもらってきたわけなんだが。今の時代、陰陽師だって背広着ている時代にさ、山伏が出てきちゃったら探偵側としては黙って引き下がるしかないというか。むしろ、バカバカしくなってきちゃって」
メニューをハラハラと開いて草間はシュラインを見やった。彼女は楽しそうな顔で、頬杖をついて草間を見つめていた。
「ここのスープが美味いんだ」
「お任せするわ」
シュラインが微笑む。草間は手を挙げてウェートレスを呼び、二人分のコースを頼んだ。間接照明は少し遠慮深く二人を照らしている。オールドのジャズが静かに流れていた。
なんとなく落ちてきた沈黙に、するりと音楽が流れ込んでくる。シュラインとの間に忍び込んでくる沈黙が、草間は嫌いではなかった。どちらかというと心地よいし、もしかしたらしゃべっているより、距離が近くなるような気がする。
やがてスープが運ばれてきて、ゆるやかなひと時が破られる。シュラインはナプキンを膝に引いた。草間は面倒だったので、テーブルの端に追いやった。
スープはニンニクがベースで、香りがとてもよい。上品な味とは言えないかもしれないが、草間の口にはよく合った。
「美味しい」
「だろ? あー、よかった」
心底ほっとして草間が言うと、シュラインは不思議そうな顔で草間を見上げた。
「何がよかったの」
「だって、不味いって言われたらショックだろ」
彼女は口許をすうと笑わせた。濡れた紫陽花のような微笑みだと草間は思った。
「幽霊なんか、よく見るようになったじゃない?」
シュラインはスープをすくう手を止めた。草間も止める。一瞬隣の男女の楽しそうな笑い声が、二人の間に紛れ込む。
「……なったな。ずいぶん」
「考えちゃうのよね、自分が死んだら化けて出るかもって」
草間は答えに詰まる。そしてすぐに、眉を寄せた。
「縁起でもない」
「可能性がないわけじゃないじゃない。なにしろ、武彦さん最高に運が悪いし」
そう言われてみると、巻き込まれるトラブル率は年間ランキングトップに入るかもしれない。もちろん一緒にいるシュラインも同じだ。だから、もしかすると草間ではなくシュラインの運が悪いのかもしれない。
「化ける予定があるのか、お前」
「あるわね」
シュラインは確信めいて言った。草間は笑顔を引っ込める。
「そりゃ、どこに?」
「興信所かも」
「死んでも仕事し続けるってことか? ありがたいような、ありがたくないような」
つい笑い話に持っていってしまう。なんとなく、言わんとしていることはわかるような気はしていた。
「化けて出たら除霊する?」
「しないよ」
言い切ったところへ前菜が運ばれてくる。玉ねぎがクタクタに煮てあり、他にも野菜が盛り付けられていた。
照れがよぎっていたから、草間は付け足した。
「仕事してくれるんだろ、ありがたいじゃないか」
「武彦さん」
ナイフとフォークを持った草間に、シュラインが囁くような声で言った。
「真面目に聞いてる?」
死んだ後化けて出たときの話を真面目にするなんて無理だ。草間はそう思ったが、口には出さなかった。シュラインが真剣なのはわかっている。話を逸らす自分が卑怯なのもわかっている。
「悪かった」
草間は正直に謝った。それから手に持った物を置いて、両手を握る。
「謝ることじゃないけど。ちょっとだけね、ちょっとだけ真面目に聞いてほしかったの」
「知ってる」
シュラインは言葉を継いだ。
「言葉って本質が伝わらないと意味がないと思うの。どんな言い回しにしても、伝えたことが伝わらなかったらダメね」
「かもな」
草間が短く答える。
彼女は少しおどけた調子で続けた。
「死が二人を分かつまでなんて言うけど……」
それを草間が遮った。
「死んでからだって一緒にいる自信はあるぜ」
シュラインが言葉を飲みこむ。じっと二人は目を合わせた。ぎこちない空気が流れているのに、二人ともそれに気付かなかった。ただそこにあるのは、たぶんどちらもの自信だけだ。
死んでも尚固執してしまうだろう想いと、それを遥かに超える奇妙な許容力と。草間の気持ちが、惰性なのかそれとも執着なのか、それとも愛なのかはわからない。ただ、草間は自分が化けて出るほどの想いは持っていない。それでも、そこにもし彼女がいるならば共に過ごしたいとは思った。
「死んでるのよ?」
クスクス、笑い出しながらシュラインが言う。
「だって、いつも退治しちゃうじゃない」
草間はしれとした顔で答える。
「いつもは他人だからな。エマじゃない」
「現金ね」
「そういう男だぜ、俺は」
ナイフとフォークを手に取って、草間は玉ねぎを分解した。口に運んでから、
「お前も食べろ」
そう促す。シュラインも前菜に口をつける。
心地よい沈黙が戻ってきた。
草間はなんとなく落ち着かず、また山伏の話を持ち出してでっちあげた多くの話をしたが、シュラインはどれも笑顔で聞いていた。
きっと照れ隠しだと全部見抜いているのだ。
女はそういう勘が鋭い。草間はなんとなく浮き足立って、いっそうバカな話ばかり持ち出した。
もちろんシュラインは、ときどき相槌や笑いを入れながら静かに聞いている。
恥ずかしいことばかりだと、草間は心の端で痛感していた。
――エピローグ
荷物は足元に置いて、シートにかけている。
行きの電車では温くなってしまったコーヒーが、今は熱いまま手の中にあった。二人はコーヒーを静かに飲んでいる。
草間は短い休暇が終えるのを満足していた。短いからよいのだろう、とも思う。
肘掛に置かれたシュラインの白い手に、自分の手を重ねて、彼女の冷たい感触を味わいながら草間はぼんやりと考えた。
例え死んだとしても。その例えを持ち出すほど、二人はまだ近くはない。
それなのに、当たり前のように思えている。彼女のいる生活と、彼女のいる居場所が。
それだけで十分だというのは、やはり男の身勝手だろう。
そっと十年後の自分達を想像してみて、草間は口の中で笑った。潤わない生計、翻訳家の彼女、嫌な怪奇事件。それらのポイントはずれることなく落ちているだろうか。
今と、変わらずに。
――end
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0086/シュライン・エマ/女性/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
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■ ライター通信 ■
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シュライン・エマさま
毎度どうも! 100回記念「行く先はいずこへか」にご参加ありがとうございます。
ライターの文ふやかです。
実を言うと直球の恋愛のやり取りがすごく苦手で、いつも間接的になってしまうのですが、今回も例に洩れずこういった形になってしまいました。
少しでもお気に召していただければ、幸いです。
ご意見、ご感想お気軽にお待ちしています。
文ふやか
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