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出逢いは紅の焔の如く
過去を振り返るといつもしんと冷えた闇。
友峨谷涼香は思う。
二年前に母が死んだ。
殺された。
妖が母を殺した。
幼い記憶に焼きついた殺意は今も鮮やかだ。何よりも鮮明に、何よりも深く記憶の底に焼きついている。母の死と共に自分のなかから感情が失われていくのが手に取るようにわかった。失われていく母の亡骸が感情の一切を連れて行ってしまったかのようにして、それまでは両手に余るほどだった感情が静かに緩やかに失われていった。母の葬儀の場で泣くことさえできなかったように思う。笑うことはおろか、何ものにも心動かされることがなくなってしまった。
笑顔は失われ、自ずと自分の殻に閉じこもるようになっていた。傍から見た自分の姿はきっと抜け殻のようなものだったろう。感情が失われ、一つ一つの感覚が不鮮明になる。見ているものが現実なのかどうかさえもわからなくなり、いつも夢と現の間でぼんやりと過ごしていた。
あの頃の齢一桁の自分には、復讐という二文字しかなかった。それ以外の一切は母と共に去り、それだけがこれからの生きる指標だとでもいうようにして鮮明だった。
小学校にも通うことをやめて、淡々と復讐のためにだけ思考を巡らせていた。鈍った感情が思考回路を鮮明なものにして、辿り着く先の復讐という言葉をよりいっそう際立てる。母を奪った者への復讐心。それだけが涼香を生かしていたといっても過言ではない。
今思えば、あの頃の自分を亡き母が喜んでくれないことは十分にわかる。
けれどあの時は復讐という二文字が総てだったからこそ生きられたのだ。今ここにいる自分は、復讐という二文字に生かされてきた自分だ。他者に対する煮えたぎるような復讐心だけが総てだった。妖への憎しみの感情だけが復讐心と上手くリンクして、それを滅ぼそうと巡らせる思考の鮮明さは総てを凌駕した。自分のことなど二の次で、ただただ復讐という二文字が弾き出す答えだけがあの頃の自分の総てだった。
妖というものの消滅を望む心は何よりも素直に真っ直ぐに、ただそれだけのために作動する。
だからあの伝承を知ることができたのも、一重にその心のおかけだと涼香は思う。
妖を滅ぼす、それだけのために作られた刀があるという。
真偽の程もわからない噂のような伝承。
人々の口を渡ってきたそれが、涼香の心に腰を落ち着けた。それがあればと思う心がそれを求めた。母のために、そして自分のために。割り切れない過去を清算するためにはそれが必要だと心が叫んでいた。
妖を滅する退魔師の存在を知ったのはいつのことだったろうか。はっきりとはしない。妖を滅する存在。それに憧れた幼い自分は誰よりも素直だった。そのためには刀が必要だと思った。何よりもまず滅する術を身に付けなければいけないと、それだけを求めた。
だからあの夜、丑三つ時に外へ出たのだ。夜の闇をどこかで恐れる心を押し殺して、復讐心に突き動かされるように外へと飛び出した。幼い足で歩くにはあの闇は深すぎたと今なら思う。
けれどあの日、あの夜に外へ出ることがなかったらと思うと幼い自分を褒めてやりたいような気持ちになる。
くすんだあの夜の記憶。
木々の生い茂る小道の向こう、視界の開けたそこには朽ちた廃墟のような神社。少しの衝撃で崩れてしまいそうなそれを前にしても、不思議と諦めるという気持ちはなかった。闇に視界を閉ざされても探し出してみせるという強い気持ちがあった。一縷の眩しいくらいの光があったとしたら、それは自分の気持ちだった。母を殺した妖への、母の死をそのままにできないという自分の、紛れもない復讐心だけが眩しく降り注ぐ光のように鮮やかだった。
だからそれを頼りに、それを標に、幼い足で、幼い手で、幼い全身でそれだけを求めて闇のなかを手探りに彷徨った。
盲目的に求めていたといっても過言ではない。前しか見えていなかった。それだけを見ていれば救われると、総てが報われると思っていた。
だから気付くことができなかった。自分が夜の闇のなかでひどく無力な存在であることを、いつ襲われてもおかしくなかったのだということをすっかり忘れてしまっていた。襲ってくるのは何も人ばかりではないということを自らの経験を通して知っていたというにも拘らず、油断した。
足元を掬われた。
気付いた時には遅かった。
痛みを認識するよりも早く、鋭さが神経を震わせた。
雑草茂る地面に倒れて、反射的に足元に視線を向けた。
どうして……―――。
幼い自分は無力だった。
自分に向けられた殺意を跳ね返すこともできないくらいに無力な一人の人間でしかなかった。
足に絡みつく異形のものは紛れもなく母を殺した妖の類にものだった。
恐怖はなかった。痛みもなかった。ただ憎かった。足に絡みつくそれが憎く、なすすべもなく殺されてしまうであろう自分が情けなかった。力があれば殺してやるのに。憎しみの総てをぶつけるようにして殺してやるのに、どうしてそれを許されていないのだろう。奪われたものの大切さを、大切なものを奪われた哀しみをぶつけるようにして殺してやろうと思うのにそれができない歯痒さばかりが募っていく。
―――涼香……。
不意に誰かが自分の名前を呼んだ。鼓膜に直に注ぎ込まれるようなその音が、自分に救いをくれるような気がした。行き場のない憎しみを昇華する術を教えてくれるようにさえ思えた。
―――我にその血を吸わせろ。
声が云う。誰とも知れない声が確かに涼香に向かって言葉を綴る。
―――その憎しみ、真に昇華したくば、我を呼べ。
途切れていく意識のなかでもそれは鮮明に涼香の頭のなかに響いてきた。
その声に縋るようにして涼香は意識が途切れるその刹那に、総ての力を振り絞るように凛とした声で云われるがままに名前を呼んだ。
「紅蓮っ!」
すると幼い手には似つかわしくない刀がしっくりと掌に収まる。まるで初めから自分の一部であったとでもいうように、しっくりと馴染むそれを握り締めて、涼香の鮮血を啜るかのように足元からは這い上がってくる妖に向かって切っ先をつきたてた。悲鳴と呼ぶにはあまりに金属質な音が周囲に響く。そして痛みは遠く去り、刀の重みだけが掌に残された。
雑草茂る地面に倒れたまま、涼香はその柄を握る自分の手を見つめていた。この刀を操るにはまだ自分は幼すぎる。それだけが明瞭だった。けれどいつまでもこの刀と共にありたいと思った。母のため、そして自分のために手放したくはないと思った。
―――我と共にありたくば、己を磨け涼香。
手の中で紅蓮が云う。
その声は慈愛に満ちて、そして涼香と同じ想いを抱いている気配がした。
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