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<東京怪談ノベル(シングル)>


憎しみ、それは煉獄

 紅蓮を振る度に、漂う香りは憎しみ。
 そして哀しみ。
 妖を滅する度に鮮明に見せつけられる紅蓮が背負う過去の映像。
 幸福が崩れていくようなそれを、涼香はまるで自分のことのようにして受け止める。
 愛するものを、大切なものを奪われた哀しみは消えない。日々と共に憎しみに変化して、心の奥底で常に燃え盛る炎となる。憎しみがもたらす苦痛。それは地獄のように終わりがなく、自分自身を苛み、無力さを突きつける。まだ足りないと現在が云う。戻ることのできない過去の自分の無力さをいつまでも責めるようにして云い続ける。
 紅蓮の過去は今も鮮やかなまでにそうして紅蓮を苛み続けているのだろう。
 遠い昔。人々がまだ刀を手に争いごとを繰り返していた時代。世には魑魅魍魎が蔓延り、力を持たぬ人々は肩を寄せ合ってそれぞれの幸福を必死になって守ろうとしていた。慎ましやかで幸福な日々を、力を持たない腕でもそれなりに必死になって守ろうとしていたのだ。
 そんな時代のなかにその男も生きていた。自身の才能に溺れるでもなく、それ故に奢ることもなく、ただ慎ましやかに自身が守るべき家族を愛し、慈しんで日々を暮らしていた。
 男は稀代の刀鍛冶と呼ばれていた。男の打つ刀はすっと滑らせるだけで薄い紙さえも切り裂くほどに鋭く、どんなに肉を断ち、骨を断っても刃が欠けないと評判だった。評判が広がるにつれて男の暮らしは裕福なものになっていった。けれど男が元来強欲な性質ではなかったせいもあって、どんなに裕福になろうとも奢ることはなく、云われるがままの刀を打ち出すばかりであった。人々が聖人君主のようだと本心から云っても、男はそんな言葉は勿体無いと笑うばかりで、ただ慎ましやかな生活を守りたいだけなのだと口癖のように繰り返していた。
 男が何よりも大切にしていたのは家族だった。どんなことがあろうとも寄り添ってくれる妻を、そしてその妻との間にできた子供を愛していた。刀を打ちはじめれば盲目的にそれに没頭する夫に愚痴一つ零すことなく妻は甲斐甲斐しく支え続け、子供は無邪気に父親に甘えて見せた。男が最も幸福を感じることができたのは、食事の場だった。三人が揃うその時間のためだけに刀を打っていたといっても過言ではない。
 他愛もない会話。
 子供の粗相。
 慎ましやかな食事。
 それがあれば何もいらないと思えるほどに、男は家族との時間を愛していた。それが奪われることなど考えることもないほどに、それだけを盲目的に愛していた。誰かの手によって奪われるなど幸福な日々のなかでは考えつくわけがなかったのだ。自らの手で壊せないものを、何故他者が壊せるのだろうかと思っていたほどだ。
 だからあの日を現実として受け止めることができなかったのだ。
 いつもと変わらない朝食を、そして昼食を三人で摂った。妻は笑い、子供は無邪気に膝の上で手に余る椀を抱えていた。子供は漸く言葉を覚えたばかりで、父様、父様と繰り返し男の名前を呼んでは、着物の袖を引いた。昼食を済ませ、仕事場である鍛冶場に戻っていく男をいつまでも引きとめたあの幼い手を懐かしく思う日がくるなどとは思ってもみなかった。
 正午過ぎの高い日差しの下、男は纏わりつく子供をあやしながら昼食の片付けをする妻の背中に声をかけて鍛冶場に戻った。いつもと変わらぬ昼食後の光景だった。数刻仕事に没頭すれば、再び幸福な食事の場に、幸福な日常に戻ってくることができるのだと誰が約束したわけでもないというのに確信できた。今までずっとそうだった。
 それがどうしてあの日に限ってそうではなかったのだろうか。男には理解できなかった。刀を打つのに集中していた数刻の間にどうして、救いの声を発する間もなく妻子が奪われてしまったのだろうか。奪われなければならない意味がみつからなかった。
 全身汗に塗れて、いつものように母屋に戻るとそこには父様と笑って飛びついてくる子供の姿はなく、お疲れ様ですと微笑んでくれる妻の姿もなかった。あったのは僅かな肉片と髪の毛。そして噎せ返るほどの血の臭いだった。妖が出るから気をつけろと云ってくれたのは誰だったろう。幸福な自分の日々には関係のないものだと一蹴したその言葉を残して去った人の姿が思い出せない。
「許さん……許さんぞ、決して」
 呟きながら男は散らばる肉片、髪の毛の一本までを丁寧に拾い集め、着物が血で汚れるのもかまわずに慈しむように抱き締めて、鍛冶場へと足を向けた。つい先ほど仕事を終えて、さっと片付けただけのそこに戻って、男は狂気にも似た憎悪をいっぱいに湛えた双眸で玉鋼に向かった。赤々と燃え盛るそれを前に、両手にも余る肉片と髪の毛を一度強く胸に抱き、
「おまえたちをこのようにしたものを決して許しはしない」
と呟くと名残惜しげに妻子の欠片を炎のなかへと送り出した。指先が焼けた。そんなことは些末なことだった。熱さも痛みも感じなかった。二人が味わった苦しみを思えば、熱さも痛みも些末なことだ。男はただ許さんと繰り返す。狂気にも似た憎悪だけが総てだった。妻子の欠片が燃え尽きていく様を見届け、男は躊躇うことなく自らもその炎のなかへと投じた。
 ―――許さん……決して許さん。たとえどんなことがあろうとも、許すものか。
 憎悪だけが残る。怨念として、妻子への愛として、肉体を失ってもなお残る。時間軸を越えて、過去も未来も現在さえも関係のないところへ向けて残される。
 主を失った母屋が荒れ果て、鍛冶場が荒廃し、玉鋼が炎を消した時、そこには一振りの太刀が残された。
 それが涼香の手にする紅蓮である。妖を滅するたびに、哀しみを増していく退魔刀。何故守れなかったのかと嘆く声が聞こえる気がする。刀鍛冶でなければよかったのだというように、悲嘆に暮れる声を聞く。
 ―――血生臭いことを好んでいるわけではない。
 それは涼香も同じだ。
 けれどそうしなければ憎しみは癒されず、最愛のものをなくした哀しみを抱えて生きていくほど強くはなれない自分に情けなさを感じるだけだ。
 誤魔化して生きていく。
 償いだと誤魔化して、遠く、いつともしれないその日まで生きていく。
 失われた人々がどんなに今の自分の姿を哀しみを湛えた目で見つめたとしても、生きていかなければならない。
 後に独り、残されてしまったからにはそうするしか術はなかった。