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<東京怪談ノベル(シングル)>


別れは会うの初め

 新幹線到着のアナウンスが構内に響いていた。門屋将太郎は時刻表を見上げ、そろそろ着くだろうと改札口の脇に陣取った。のっそりとした和装姿の将太郎は嫌でも目立ち、土産の入った紙袋を抱えた旅行客が、ちらちらと視線を投げていく。さすがに外を出歩くときは白衣を着ていないのだが、それでも平生から和服を纏う大男が珍しいようだった。
「将太郎」
改札を抜ける行列がまばらになってきた頃、ようやく階段を下ってくる姉の姿を見つけた。会うのは何年ぶりになるだろうか、相変わらず目鼻立ちのくっきりした、男らしい顔立ちだ。姉から数歩遅れた後ろにリュックを背負った少年、甥っ子の姿も見える。こっちは幼稚園の頃会ったきりだから背丈も顔立ちも随分変わってしまった。
 少年のほうがのろのろと歩くものだから、姉は何度も振り返っては手をつなごうとする。しかし照れているのか本気で嫌がっているのか手を握られては邪険に振り払い、最後にはホーム中央にある観光掲示板とごみ箱の横で拗ねたように動かなくなってしまった。
 仕方なく姉は一人で将太郎の目の前へ辿り着くとホームを仕切る柵にもたれかかり、前髪をかきあげる。
「いきなり電話してごめんなさい、驚いた?」
「まあな」
一応将太郎は頷く真似だけしてみせる。
 確かに会いたいと連絡をもらったのは昨日だったが、離婚の話を聞いたときからなんとなく予感はしていた。いや、離婚の話を聞くよりもずっと以前から、そんな気がしていたのだった。

「あんな、相談あんねんけど・・・・・・」
夜中の電話は義兄からだった。義兄は生まれも育ちも生粋の大阪人で、切り出しの口調を聞けば名乗らなくてもすぐにわかった。耳につく、かといって不快でもない関西弁。眠ろうととしていたはずの将太郎の頭は、義兄の声を聞いた途端に睡魔が冷えてゆき、外していた眼鏡をかけなおした。
「どうかしたのか」
深夜にかかってくる電話にいい報せは一つもない。職業柄、精神を病んだ患者が突発的にかけてくる電話にも慣れている将太郎だったが嫌な予感は拭えなかった。人が死ぬのも、金の無心も、大抵は夜中の密談から打ち明けられる。
「うちのんのことで、な」
そのとき義兄は幾つもの悩み事を抱えていた。将太郎はその中から一つを選択した。
「子供、もう小学生になってるはずだよな、どうかしたのか?」
「ああ・・・・・・。実はな、うちのん、様子がおかしゅうなってしもたんや」
「おかしいって、どんな風に」
生まれたときと、幼稚園の頃に何度か会ったきりの甥っ子だったが、最後に会ったときには妙な様子はなかったはずだ。
 近頃は子供が生まれるなり精神的な病気はないかと診せにくる親がいる。自閉症じゃないかとか、逆に多動児の恐れはないかとか親だけでさんざ騒いで帰っていく。生まれたばかりの子供を見て、そんなことわかるはずもない。将太郎にわかるのは目の前にいる人間がなにを考えているかくらいだ。
 生まれたばかりの赤ん坊の心はどれも真っ白だ。皆、生まれてきた幸福に包まれている。それが幼稚園から小学生くらいになるとそれぞれの家庭環境で黄色だったり緑だったり、ときに黒が混ざったりして少しずつ色彩に溢れてくるのだけれど、姉夫婦のところの子供の心は美しい色をしていた。
「急にな、口きかんようなってしもたんや」
「無口に・・・・・・?表情はどうだ?」
「石みたいや」
たまに喋っても口調がやたら冷とうなってしもて、自分のこともボクやのうて俺やら言うようなってしもたし・・・・・・。
 義兄は、息子が突然変わってしまったことに戸惑いを隠せないでいた。無意識に電話の話し口を爪で叩いては、叫び出したくなる衝動を押さえ込んでいるようだった。
「俺らが構ってやれんから、あいつおかしゅうなってしもたんやろか、俺らが悪いんやろか・・・・・・」
ついに堪えきなかったのか、電話の向こうから義兄の鼻をすする音が聞こえた。
「うちのんの仕事がな、最近忙しゅうなったんや。なんや大っきい仕事に首つっこんどるらしくてな。仕事より子供やろて、俺何度も言うたんや。けどあいつ、全然聞かへんのや」
真面目で友達思いで仕事熱心、義兄は善良な人だ。姉が結婚を決めたとき、将太郎は反対しなかった。ただ、子供の養育に関しては結婚当時から意見がすれ違っていて、ずっと気になってはいた。不安が、最悪の結果に変わりそうだった。

 だから将太郎は、再び深夜に電話が鳴っても驚かなかった。相手が姉だったことも、予想の範疇であった。
「別れることにしたわ」
独身時代から約十年間大阪に暮していたはずなのに、姉は相変わらず綺麗な標準語で喋った。
「そうか」
子供はどうするんだと聞いたら、親権は私が取ったと言われた。恐らく義兄も、手放したがらなかったに違いないが温厚な義兄と勝気な姉とでは、勝負の行方は知れている。
「だけど、ちょっと問題があってね」
そして姉は、以前義兄が相談したのと同じ話を将太郎に繰り返した。将太郎はもう聞き飽きたなどとは言わず、黙って相づちを打った。本人の口から状況説明をさせることで、自分が今どうすればいいのか判断させる効果もあるのだ。
「・・・・・・というわけだからうちの子、診断ついでにしばらく預かってくれない?」
「は?」
診断するくらいは了承するつもりだったのだが、しかし、話がいきなり飛んでいた。しかも診断のついでに甥っ子を預かるというよりは、どちらかといえば甥っ子を預かるついでに診断してほしいという口調だった。
「私もね、これから忙しくなるのよ。仕事は今のまま続けなきゃいけないし、でも離婚したから新しい家は探さないといけないし」
まず大阪に住むか東京に移るかが問題なのよ、と姉は将太郎に反論もさせず一気に喋り捲った。姉の仕事はフリージャーナリストだから、仕事で人に会う場合は東京のほうが都合がよかった。飛行機を使えばどこへでも、海外にだって、飛び立つことができるからだ。
「多分、東京になると思うの。今の仕事を片付けたら家を探すつもり。だから、その前に子供のほうを東京に慣れさせたいって気持ちもあるのよね」
「・・・・・・」
これは頼んでいるのではなく決定事項だった。姉は将太郎の協力まで含めた前提で予定を組んでしまっていた。仕方なく将太郎がどれくらいで仕事が片付くのかと尋ねたら
「そうね、早くて三ヶ月かしら」
姉は昔から、約束の時間を十時と決めたら十一時に来るような人だった。
「一体何年預けるつもりなんだ」
子供なんて慣れないんだから断る、と言おうとしたら姉が機先を制して
「養育費はちゃんと払うから」
将太郎の心理相談所が赤字経営だということを承知しているらしい。さすが姉弟、将太郎は続ける言葉が見つからなかった。

 そういうわけで今日、将太郎は約束どおり甥っ子を迎えに来たというわけだ。姉と約束した時間は二時半だったが駅の時計は既に四時を指していた。一体、どこをどうすれば新幹線の到着時間を一時間半もごまかせるのだろう。どうせ遅れるに違いないと将太郎は三時半に駅へ着いたのだが、それでもきっかり三十分待たされた。
「あれが息子よ、名前は覚えているでしょう?」
「ああ」
姉が手招きすると仕方なく傍へ寄ってくる。さすが小学生、まだ背が低くて将太郎の半分くらいしかない。背中のリュックだけでなくよく見ると旅行用の小さなスーツケースも引きずっていた。
「それじゃ、頼んだわ」
「は?」
柵越しに将太郎の肩を叩き、息子の頭を軽く撫でると姉はそのまま踵を返して新幹線のホームへ戻っていこうとする。慌てた将太郎が、呼び止める。
「お、おい、ちょっと待てよ」
「なに?」
新幹線の時間があるんだけどと時刻表を指差されるが、ことは重大である。
「東京来て、ちょっと観光とか一日泊まっていくとかないのか?」
せめて息子と一緒に改札を出るくらいしてやってもいいだろうと将太郎は言いたかったのだが、姉はケロリとしていた。
「だって、忙しいのよ」
「でも」
可哀想だという言葉を使わずに可哀想と表現するにはどうやればいいのだろう。言葉を探す将太郎、その着流しの袖を小さな手がきゅっと掴んだ。
「ええんや、おっちゃん」
初めて、少年が口をきいた。
「母ちゃん、忙しいからええんや」
俯いた少年の頬に涙を認め、将太郎は姉の面影を見た。
 そういえば姉は昔からこういう人だった。なにか辛いことがあると、耐えるのではなく自らを忙しくして跳ねのける、強い人だった。昔恋人に浮気をされたときも、同情されるくらいなら死んだほうがまし、と泣きながら怒鳴ったものだ(もちろん義兄相手ではない)。
「将太郎」
そのとき姉がくしゃりと笑った。今まで強がっていたことを露わにするような、今にも泣き出しそうな笑顔だった。
「頼んだわよ」

 誰もが少しずつ、痛い思いを味わっていた。将太郎一人が被害者というわけではなかったし、少年だけが哀れとは思えなかった。姉も、義兄も、同じように痛みを堪えているのだ。堪えるくらいならなぜ別れてしまうのだ、と責めたい気持ちもあるが口には出せない。
 最初は、うまくいく気がしているのだ。この人となら一生を添い遂げられる、幸福でいられると信じて結婚する。それなのに何年も暮らしていると少しずつ歯車が噛みあわなくなって、ずれて、軋んで、悲鳴を上げる。放っておくと壊れてしまうからその前に、少しだけ痛い思いを味わって、自ら離れていくのだった。
 少年がたった一人で改札をくぐるのを、将太郎はじっと見守った。底部に車輪のついたスーツケースを引きずる姿がやけに重そうだった。
「それ、持ってやろうか」
純粋な親切心からひょいと手を伸ばしたが、少年は盗まれるとでも言わんばかりにスーツケースの持ち手を強く握りしめた。反射的な子供の拒否は、正直傷つくものである。
「なんだ、重そうだから手伝ってやろうとしたんだぜ」
「いらん。俺、そない子供やないから一人でも大丈夫や」
「おいおい」
将太郎は胸の前で腕組みをすると、肩をわずかに上げてみせた。少年自身がどれだけ主張しようとも、客観的な視点で見れば彼は立派な子供だった。細い手足、大きな目、甲高い声。子供以外の何者でもない。
「お前、どうしてそんなに大人になりたがるんだ?」
姉夫婦から相談されたいくつかの特徴は、大人になりたがっている少年の顕著な反応であった。口調に伴う一人称の変化、表情の乏しさ、臨床心理士の目はごまかせない。
「……俺が大人になれば、父ちゃんと母ちゃんは別れんでもよかったんちゃうんか?」
「?」
「俺のせいで父ちゃんと母ちゃん、喧嘩したんや。俺が大人になれば、父ちゃんと母ちゃんはまた仲良うなれる」
言いながら、少年の目には再び涙が湧きあがった。両親の口論を身近に見続けることは、よほど辛かったのだろう。
「お前のせいじゃないさ」
本当に、少年一人の責任ではないのだ。大人には、子供にわからないすれ違いがある。子供がどれだけ切なく願っても、繋ぎとめられないことがあるのだ。
「だからお前は無理に大人にならなくたっていいんだ。俺んとこにいる間は、子供のままでいいんだよ」
将太郎は、少年の真一文字に結ばれた唇に目を落とした。いつか、この口から「ボク」という言葉は聞けるのだろうか。と、その唇の端がきゅっと吊り上ってわずかだが微笑んだのがわかった。
「……やっぱり母ちゃんの弟やな、ええ人みたいや。行くとこもないし、世話なろか」
「偉そうに言いやがって」
そして将太郎は、手渡されたスーツケースを片手にかついだ。先に立って歩き出すと、少年はすぐ後ろをついてきた。こうして、二人暮しは始まった。