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All glory, laud, and honor
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、昔いまし、今いまし、後きたりたもう
思う様に暑気を撒き散らしていた太陽が沈み、白い月がぼんやりと薄闇に包まれた世界を見守っている。
行き渡る風は水気を含んでいるせいか、ちょうど心地よいほどの冷気をはらんで吹いている。
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、昔いまし、今いまし、後きたりたもう
澄み渡る夜の世界を癒すような歌声が、静かな水音に重なり草の上を滑って流れていく。
声の主は川辺に一人佇んでひとしきり歌い終えると、小さなため息を一つついて手頃な大きさの石に腰掛けた。
彼女――嘉神 しえるは石の上に腰掛け、視線を空へと持ち上げると、少しづつ闇の色を濃くしていく様相をしばし見守っていた。
郊外にあるその川は、都心部の喧騒のかけらさえも感じさせないほどの静寂に支配されていて、人通りも少なく、こうして日が落ちてしまった後には川を流れる水の音しか聞こえない。
――蛍がいるらしいですよ
彼女にそう教えてくれたのは誰だっただろうか。
嘉神は良い友人達に恵まれ、毎日とても楽しく、そして慌しく暮らしている。
それは彼女が持つ血脈の影響でもあるのだが、彼女自身はその事に気付いてはいない。
いや、もしかしたらその影響を差し引いたとしても、爛漫な性格の彼女の周りにはたくさんの友人達が集まってくるのかもしれないが。
その幸福な時間の中、ふと一人になってみたいと思い立ったのは、アスファルトで照り返される強い夏の太陽に少しだけ疲れたせいかもしれない。
――――あるいはこうして一人になって、久しぶりに古い馴染みの事をゆっくりと思い返したいと思ったためかもしれない。
空を見上げていた瞳をゆらりと揺らし、ゆったりと瞼を閉じる。
さわさわと草が風に揺れて擦れる音がする。
小さな魚かなにかが川面を跳ねた音がする。
ゆっくりと、ゆっくりと。のんびりと灯りを強めていく月の光を頬に感じる。
「…………静かだわ」
誰に告げるでもなく呟いてみせる。それに応じたのか、すぐ傍で虫が鳴き始めた。
ぽつり ぽつり ぽつり
閉じた瞼に何かがささやく。
小さな小さな、消え入りそうなかすかな声。
嘉神はゆっくりと睫毛を持ち上げて辺りを見まわした。
「――――誰?」
ひっそりとささやくように聞こえてくる声は、嘉神を取り囲むように遠く近く聞こえている。
虫の声はやがて合唱へと移り変わり、彼女の周りで即興の音楽を作り上げていく。
さわさわと、草の海が風に揺れる。
ぽつり ぽつり ぽつり
――――風が凪ぐ。同時に、草の海からふわりと小さな灯火が宙を目掛けて飛び立った。
* * *
今より遠くさかのぼった時間の彼方、嘉神は光眩い神の坐す世界で魂の産声をあげた。
三対の翼は半透明で穢れ一つない純白。絹糸のような髪をなびかせ、肌は透き通るような白。
純粋な光の思考として神と直接に交わることの出来る最高位の天使。熾天使(セラフィム)として生誕したのだ。
天は熾天使として産声をあげた彼女を温かく迎え入れ、いつも朗らかで美しく、そして優しい場所だった。
ある日彼女は、その天という広い世界のどこかから、彼女を呼んでいるようなかすかな声を耳にした。
それはともすると消えてしまいそうなものだったが、日に日に強くなっていくその声は、彼女自身でも不思議なほどに彼女の心をわしづかみにしていった。
――――我が主……我が主……我はここぞえ――――
気がつくと、彼女はその声の主を探し出していた。
広大で果ての見えない世界のどこに居るのかもしれないその主を、彼女はまるで引き寄せられるかのように迷うことなく見出したのだ。
――そして見つけ出したその声の主は一振りの剣だった。
* * *
草の海から飛び立った灯火は、嘉神が見守っている目の前で見る間に数を増やし、光のない暗闇を照らし出す閃光となって瞬き始めた。
その緑色の光沢は時に円を描くように舞いあがり、そして時には地上にともるライトのように草の上で光っている。
強く弱く歌う虫の声がする。
幻想的なその風景に、瞳を細めてゆったりとした笑みを浮かべた。
蛍が放つ光は儚いものだが、反面とても鮮烈なものに見える。
それは蛍がその短い命の中で、種の螺旋を絶やさないためにと懸命に瞬いているからかもしれない。
人の目から見ればなんとも美しく幻想的なその光は、裏を返せば彼らの求婚のための合図なのだから。
儚く、美しい。
鮮烈で、美しい。
「ああ――――そうか」
ゆったりとした笑みを浮かべていた口許をほころばせ、嘉神はふと呟いた。
「この光は、あなたに似ているのだわ」
口にした言葉に自分で小さく笑いながら天を見上げる。
* * *
見つけ出したその剣は、長い永い間、誰をも寄せつけることなく、ただただ眠り続けていたのだという。
蒼き焔と雷を従える美しい剣。
それは永遠とも思えるような時間の中、ただ一人の主を待ちつづけていたのだという。
自分を手にすることの出来る唯一の主。それこそが嘉神だった。
嘉神が熾天使としての魂を受けた瞬間に、剣は自分の主がようやく現れたのだと知った。
そしてそれから絶え間なく呼びつづけていたのだ。
天使の身であった嘉神がその剣を見つけ出したとき、剣は青白い光をかすかに閃かせ、声なき声ではっきりと告げた。
『待っておったぞえ……我が主……』
嘉神は不敵に笑ってみせると、その柄へと手を伸べた。
「主……ね。この私を選び出すなんて話のわかる刃ではないの」
嘉神の手が触れると、それまでおぼろげに放たれていたかすかな光は、眩いほどの鮮烈な光へと変貌した。
「それで、あなたの名はなんと言うの?」
鮮烈な光に満足げな笑みを浮かべた嘉神に、剣は月光にも似た輝きをたたえ尊大な口調で返事をする。
『我が名は蒼凰。鞘を持たぬ身。これまで我が主と呼べる者に巡り逢うてこなかったが、ようやく我を手にするにふさわしい者が現れた。――さあ、我を手に取り、高く宣告するがよい』
そう告げる剣は銀で造られた十字架を模した諸刃の刀身に、瑠璃を戴いている。
口許に薄い笑みを浮かべると、嘉神はそれを空高く持ち上げて凛とした声を張り上げた。
「これより私があなたの主。蒼凰、あなたは今より私の力となり、離れることなく私の傍に居続けるがいい」
あなたは私のもの。そう告げた嘉神の言葉に、剣はその光を一層強いものへと変えて嘉神の翼を青白く照らし出したのだった。
* * *
気がつくと辺りは一面の闇に覆われ、様々な虫の音が重なりあって浄らかな歌を紡ぎ出していた。
川の水面を撫でて吹いてくる風は、しっとりとした夜の気配をはらんでいる。
数多くの蛍が彼女を囲むように飛び交い、ぽつりぽつりと声なき声で何事かをささやきあっている。
嘉神はふと目を閉じて彼らの声に耳をすませると、さわさわと吹く夜風に身を任せて両手を広げた。
目を閉じれば、こんなにも鮮やかに蘇る天の風景。
何よりも思い出すのは、永い輪廻の果てにおいても供に在り続ける一振りの友との出会いの場面。
ふいに一匹の蛍がふわりと飛び立ち、嘉神の肩の上でその光を放ち始めた。
頬に感じるその光に、彼女は瞼を閉じたままでふと口許を緩める。
天を離れ、地に足をつけ、人としての生活を送り、その時間を謳歌している。
これまで自分が送ってきたどの時間に対しても悔いはない。懐かしく振り向くことはあったとしても、立ち止まることはこれからもないと信じている。
「だって、あなたがいるもの。……ねえ、蒼凰」
そう。例えばこの先何度輪廻を繰り返しても、あなたは私を呼ぶのでしょう?
あの日初めてあなたを見つけた時、私にはあなたがまるでうずくまって小さく泣いている迷子のように見えたのよ。
――でもそれはあなたにも告げることのない秘密。
閉じたままの瞼の向こうで、声なき声がフムと頷く気配がした。
『……呼んだか、我が主』
――了――
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