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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


聖家族



オープニング


小さな掌が、大事にくるんでいたたくさんの小銭達を机の上にそっと置いて、不安げに揺れる目で見上げられながら「足りませんか?」と聞かれた瞬間、零は耐えきれず目頭をハンカチで抑えた。
「おこづかいと、お年玉の残りと、あと、お手伝いした時にもらったお駄賃も一緒に持って来たんです」
武彦は小さな依頼人に、いつもの少し憮然とした顔つきで「足りないね」とにべもなく答える。
「大体、ウチは興信所であって、医者ではない。 無理だね」
冷たい言葉。
その言葉に、武彦の前に座る、坊主頭の子供の目からポタポタと涙が零れ落ちた。
「お…お、お願いします。 ば……ばぁちゃん…ずっと、俺の事、一人で育ててくれたから……、俺…どうしたら……いいか…」
そのまま、グシグシと泣き崩れる姿に、零は手を伸ばし、その小さな頭を胸に抱え込む。
「そうよね。 お婆ちゃんいなくなったら、独りぼっちになっちゃうものね……」
依頼に来たこの子の名前は、健司。
まだ、小学生だという。
両親が早くに死に別れ、祖母の手によって育てられたそうだ。
だが、その祖母も、かなりの高齢でこの夏、とうとう倒れてしまったらしい。
その間、健司は一人で家の中の事を切り盛りし、祖母の世話をし、学校にも通った。
だが、そんな健司の懸命な看病にも関わらず、医者の話では、祖母はこの夏一杯の命と考えた方が良いらしい。
「お、お婆ちゃんの事助けて下さい…。 何でもします。 お、俺、何でも…何でもします…」
彼は、この興信所が、不思議な事件ばかりを解決してきているという噂を聞き、藁をも掴む思いで尋ねてきた。
「お婆ちゃんの命…助けて下さい」
しかし、武彦は首を振り、諭すような調子で言う。
「決められた命の長さを、人の手では左右できない。 例え出来てもしてはならない。 お前の婆ちゃんは、立派に生きて、やっとお役ご免の時がきたんだ。 お前は、今、婆ちゃんが生きてる内に、もう一人で立派に生きてけるって見せて、安心してあの世へ行かせてやらなきゃ駄目だ。 有りもしない、命を永らえる方法を探すより、そっちの方がずっと大事なんだ」
武彦の言葉に、健司は首をブンブンと振る。
「ひ……一人で、なんて、無理です。 だって、だって、俺、ずっと婆ちゃんと一緒に……一緒に……」
そんな健司を見て、零は、沈痛な面もちで口を開く。
「一人でなんて、無理よね。 一人は、寂しいものね。 でもね、兄さんの言う通り、無理なの。 お婆ちゃんを助ける事はね、どうしても無理なの」
その言葉に、零と武彦、交互に視線を送った健司は、「う……うぅ…」と嗚咽を漏らしながら立ち上がり「分かったよ! もう、頼まないよ!」と叫ぶと興信所から走り出ていった。
零は、その背中に「あ!」と声を掛けて手を伸ばす。
そして項垂れると、「…どうしよう」と呟いた。
そんな零に、見透かすような視線を送りながら武彦は口を開く。
「あーあー、困ったなぁ」
「え?」
驚いたように顔を上げる零。
「あいつ、金置いてっちゃったな」
そう言いながら、ヒラヒラと一枚の紙を見せる。
「これ、健司が書いてくれた連絡先と住所。 んで、忘れ物の金」
「……え?」
「届けてくれるか?」
そう首を傾げられて、零は勢い良く頷く。
すると武彦は、少し笑って、「ホイ」と紙を渡してきた。
健司の家は、下町にある、古く、今にも倒れそうな姿をしていた。
零が、そっと中を覗き込めば、開け放した畳の部屋は、荒れ放題の様相を呈している。
どれ程頑張ろうとも、小学生一人では手入れが怠ってしまうに違いない。
祖母の世話だって、大変な筈だ。
ご飯はどうしているのだろう?
そう考え出すと、もう、駄目だった。
零は、トントンとドアをノックしながら決意する。
「お節介だって言われようと、私、この一夏、この家の家事を手伝ってあげよう」と。




本編



草間興信所を、沖縄旅行の土産を持って訪ねる。
向こうの抜けるように青い空や、宝石のように奇麗な海、ハイビスカスの鮮やかな赤を思い出しながら、トントンと階段を軽い足取りで上り、コンコンと控えめなノックをする。
零の、香り高い珈琲を啜りながら土産話に花を咲かせたい。
どうせ、今日も暇だろうから、零と二人話し込めるだろう。
そう楽しい想像をして、そのまま、数秒。


返事がない。


凪砂は首を傾げ「あれ? 聞こえなかったかな?」と再度、ノック。
すると、扉の向こうから、いつもならば零の愛らしい返事が聞こえてくる筈なのに、今日は武彦の煙草で少し荒れた声が聞こえてきた。
「どうぞ」
凪砂は、疑問を感じながら扉を開け、キョロキョロと興信所内を見回す。
「凪砂?」
武彦が、凪砂の姿を見留め、そう呼びかけてくるに至って、漸く「あの、零さんは?」と声を掛けた。
零の淹れる珈琲とお喋りが目当てて、ここに来たと言っても過言ではないのに…。
不満げな表情を隠しもせずそう言えば、あからさまに嫌そうな顔を見せ「悪かったな。 いるのが俺だけで」と答え、それから面倒臭そうに、零が今、興信所にいない訳を説明しだした。



武彦から一通り話を聞き終えた凪砂は、いてもたってもいられずに、お土産の入った袋を持って立ち上がる。
「おい? どうしたんだ?」
武彦にそう問われて、凪砂は、真剣な表情で答えた。
「…あの、その、健司君という子の、ご自宅の住所教えて頂けないでしょうか?」
凪砂の言葉に、目を見開き、武彦は「何でだ?」と、問い返す。
「私も、お手伝いしたいんです。 いえ、させて下さい」
凪砂の頭の中には、自分の事を救ってくれた男性の事が頭にあり、それ故、どうしても健司の事も他人事だとは思えず、何か自分の出来る範囲で、健司やそのお婆さんの為になる事をしたいという強い決心が芽生える。
武彦は、少し眉を上げて、灰皿に押し付けた。
「そりゃ、向こうとしては、手伝いの手が増えんのは、万々歳だろうが…、良いのか? 旅行から帰ってきたばかりだろ?」
武彦の言葉に凪砂は、コクリと頷き、それからフト気付いたように、「…でも、その、お婆さんが亡くなられた場合、健司君はどうなってしまうのでしょうね?」と呟いて、俯いた。
そして、再びストンと腰を掛けると、眉を顰め、じっと黙考を続ける。


考えてみれば、身寄りがそのお婆さんしかいないとすれば、その人の死後、健司には行くアテがないのだ。
お婆さんが倒れ、小学生が、介護や家事の一切をやっているという状況で、誰も助けにいっていないという状況は、親族がいない事を示しているようにも思えるが、しかし、本当にそうなのだろうか?


そんな凪砂を興味深げに眺め、武彦は何も言わずに、新たな煙草に再び火をつける。
暫く経った後、凪砂は決心を付けるように、パンと膝を叩き、それから武彦に声を掛けた。
「草間さん。 依頼、お願いしたいんですけど…」




凪砂が、武彦に聞いた住所を訪ねれば、そこには今時珍しい位の、古い家があった。
黒ずんだ木造建築で、よく言えば歴史のありそうな、悪く言えば今にも崩れ落ちそうな姿に、凪砂は思わず不安の目で見上げてしまう。
庭には、興信所関係者で凪砂と同じように手伝いに来ているのだろう。
銀の長髪を後ろで括りタオルを頭に巻いた青年が黙々と草むしりをしており、屋根の上では物腰は柔らか、いつも高価で、小綺麗な格好をしておれど、どっこい家なし、現在ある廃屋で生活中シオン・レ・ハイが、健司と思われるいがぐり頭の少年と、銀髪の少女、それに髪の茶色い、健司と同い年くらいの少女に囲まれ金槌を振るって修繕にあたっていた。
「あの……」
そう小さく声を掛ければ、銀髪の青年が顔をあげ、無表情のまま首を傾げる。
「…誰だ?」
無愛想に問われ、少しビビリつつも凪砂は、「草間さんからお話聞いてきました。 雨柳凪砂と申します」と答えた。
青年は、合点がいったのかなんなのか、一度頷くと「俺は、諏訪海月。 宜しく」とだけ言い、また、庭仕事へと戻る。
凪砂は、戸惑い一瞬立ち尽くすものの、ここにいては埒が空かないと感じ、扉の前に立って、インターフォンを押した。
「……うん、ていうか、インターフォンも壊れてるんだ」
カスッと、虚しい音を立てて凹んだボタンに人差し指を当てたまま、凪砂自身も凹みそうになる。
とにかく、ノックしても無駄そうだし、って事で、「お邪魔します」と一声掛け、扉を開ければ、丁度ハタキを持って歩いている零が玄関の前を通っており、「あれ? 凪砂さん? 来て下さったんですか?」
と、嬉しげに声を掛けられる。
その態度に何故か安堵する凪砂。
「今日和。 草間さんに話聞きました。 私も、お手伝いさせて貰って良いですか?」
そう問えば、ニコリと笑顔で「勿論! お願いします」と言われ、此方まで嬉しい気分になる。
「あ、そういえば、これ、差し入れという名の沖縄のお土産なんだけど」
そう、凪砂が言えば、「うわぁいv 嬉しい。 じゃ、とりあえず、台所案内します。 ほら、悪くなるといけないから…」と言いつつ、先に立って歩く。
「で、その後、志之さんに、御挨拶に伺いましょう」
そう言われて「志之さん?」と首を傾げる凪砂。
零が、「ここにお住まいの、健司君のお婆さんの名前です。 初めてお会いしたときに、『お婆さん』って言ったら怒られちゃって…、それからは皆で『志之さん』に統一してるんです」と答えた。

零に案内された古い台所の入り口から、中にいる三人ほどの女性の声が漏れ聞こえてきた。

「健司君、嫌いな物ないですよね」
そう言いながら、ほわわんとした柔らかな空気を有する、可愛らしい女性が奇麗な手付きで皮を剥いている。
隣りに立つ、興信所のボランティア事務員であり、そして武彦の恋人でもあるエマも負けず劣らずの手付きで、里芋の面を取っていた。
「嫌いでも、食べさせなきゃ。 大きくなってから、たくさん偏食のある人ってみっともないわよ? それに、栄養のあるものは、今の時期なんでも食べた方がいいの」
エマの言葉に、ほわわんとした女性も頷く。
「そうですね。 とにかく、お野菜だけは、ちゃんと食べなきゃ。 健司君に聞いたけど、志之さんが倒れてから酷い食生活を送ってたみたいだし、うんと、栄養があるものを食べて貰いたいんです」
もう一人、野菜の皮を剥いていた温厚そうで、優しい雰囲気と美しさを有する女性も、その言葉に同意する。
「過剰な同情というのは、軽蔑にしかならないとは悟っているんだけど、初めてここに来た日、外で鵺さんやいずみちゃん達と水着で水浴びして遊んでいる時にね、健司君が凄く痩せてる事に気付いたら、なんだか、こう…凄く悲しい気分になっちゃって。 その後、家に帰ってチェロのレッスンをしていても、気になって気になって仕方ないんです。 で、結局、こうやって暇を見付けては通っちゃってるんですけど……」
ペロリと舌を出して音楽家らしい女性が言えば、ほわわんとした雰囲気の女性は「でも、初瀬さんが来て下さって本当に助かってます。 零さんも、私も……」と言えば、エマも「私もね」と言って、笑った。
そんな会話が繰り広げられる台所に、会話の頃合いを見計らって零がパタパタと足を踏み入れる。
「わ! 今日の夕食はなんですか?」
零がそう問い掛けてれば、ほわわんとした女性が「今日は、エマさんの絶品煮っ転がしに、私と初瀬さん合作の蛸飯と、茶碗蒸し。 それからキュウリの酢の物です。 お婆さんには、蛸飯の代わりに茶粥を持っていこうかと考えてるんですけど…」答えた。
その、自分の大好物ばかりともいうべきラインナップに凪砂は思わず「きゃぁv」と嬉しげな歓声をあげてしまう。
三人が一斉に振り向いたので、とりあえず知り合いであるエマに「今日和!」と言いながら、紙袋を掲げてみせた。
「あら? 凪砂ちゃん?」
驚いたようにエマは、里芋を一旦流しの中へと置き、凪砂の側に寄ってくる。
「どうしたの? 武彦さんから、ここの事聞いたの?」
エマの問いに、凪砂は頷いた。
「私にとっても他人事じゃないって感じのお話だし、少しでもお手伝い出来ればと思って……、あ、それで、玄関で、零ちゃんに会って…」
その言葉を次いで、零が口を開く。
「で、お土産をお持ちだという事で、とりあえず此方へご案内したんです」
「この時期だし、冷蔵庫入れた方が良いかな?って、思いますしね」
そう言いながら、凪砂は土産の袋を差し出す。
中に入っているのは、東京銘菓の「ひよこ」と「鳩サブレー」である。
「沖縄土産ですv」
凪砂の言葉に、「うあ」と呻くエマ。
「わぁ! 私、コレ、東京駅でも見掛けた事ありますよー? 凄い! 『ひよこ』や『鳩サブレー』って、沖縄のお菓子だったんですね!」
そう驚くほわわんとした女性にに、初瀬という名らしい女性が何度も頷いて、「私、東京タワーで見ました。 へー、沖縄の銘菓だったなんて知らなかった」と納得している。
零がとどめとばかりに頬を染めながら「恥ずかしい…。 私も、東京のお菓子だと思ってました。 ずっと、こちらでの暮らし、長いのに…」と呟いた。

エマが、まるで(だめだ。 この人達)といわんばかりにがくりと項垂れ、「や、まごう事なき東京銘菓だし…」突っ込んだ後、「何故に、沖縄で、ひよこ? そして、鳩サブレー?」と問い掛けてくる。
その問いに、「成田空港で見掛けて、美味しそうだったから」という答えしか持たない凪砂はキョトンとした表情で返事をした。
「えー? 美味しいですよ? ひよこ」
「あー、うん、美味しいわ。 それは知ってる。 結構美味しい、ひよこは」
エマが、頷けばポンと手を合わせて「だったらいいじゃないですかー」と、凪砂は明るく結論を付けた。
「や、でも、ね? 沖縄土産って言って…」
そう言葉を続けようとするエマに気付かず「良かったぁ。 やっぱり、東京のお菓子でしたね。 ひよこと、鳩サブレー」とほわわんとした女性が喜び、初瀬が「うん。 何か、記憶違いだったのかな? って、不安になってたけど合ってたねぇ」と、嬉しげに言う。
零も、ホッと胸を撫で下ろしており、その時点で何か言う事を諦めたらしいエマは、冷蔵庫を指差し、「悪くならないように、ソコ入れといて。 あと、健司君は、庭、健司君のお婆ちゃんの志之さんは、寝室にいるから…」とそこまで言って、手を台所で洗い、「えーと、志之さんとこから最初、挨拶行こう。 この家、広いし、案内するから私も、一緒に行っていい?」と言ってきた。
凪砂は、頷いて「私もエマさんも加えて、お婆さんにお聞きしたい事あったので、どうぞお願いします」と答える。
「あ、じゃあ、里芋、こっちで剥いておきますね?」
そう初瀬に言われて「頼むわ」と手を合わせると、凪砂はエマと連れだって、家の奥、志之の寝室へと向かった。


志之の寝室には、黒髪銀メッシュ、右目に眼帯をしたスーツ姿の美形男性が座っていた。
団扇で、眠る志之の事を仰ぎながら、整った横顔を此方に見せている。
「幇禍さん?」
エマとその男性は、知り合いらしい。
彼女が志之を起こさぬよう、静かにそう声を掛ければ、別段驚いた様子もなく、此方を見上げ、そして凪砂の姿を見留めて軽く頭を下げた。
「初めまして」
幇禍という男性の言葉に、凪砂も、慌てて頭を下げながら「初めまして」と答え、自己紹介の為に口を開く。
「あ、あの、私…」
「雨柳凪砂さん…ですよね? 武彦から聞いてます。 健司君のご家族に関しての調査依頼をなされたそうで。 俺は、魏幇禍という者です。 また、後で会うと思うんですけど、銀髪の、ちょっとここ最近では見た事もない位っていうか、ぶっちゃけ世界一? うん、世界一でいいよ!って位、可愛い鬼丸鵺というお嬢さんの家庭教師兼(フフと、微笑む)婚約者なんですけど…、まぁ、鵺お嬢さんといったらとっても、お茶目な一面も…」
滔々と何故か鵺という婚約者の(後に、判明するが庭にいた、銀髪の少女の事らしい)、可愛さについて語り続ける幇禍の目の前にヒラヒラと手をかざし、その台詞を途中で遮るエマ。
「幇禍さん? 幇禍さーん? あのね、今、聞きたいのは、惚気っていうか、鵺ちゃんのお話じゃなくて、そしてお茶目って言い回しはとっても古いな…って事でもなくて、どうして貴方がここに来ているかっって事なんだけど?」
冷静な声音で言われ、ハタと気付いたように、顔をエマに向けた。
「あ! あー、あ、そうでした。 えーと、俺はですね、前から友人だったらしい健司君の話を鵺お嬢さんから聞いてまして、で、お嬢さんが此方の家にお手伝いに来ると言っていましたから、是非! 俺は、是非、そのお供をして、この家のお手伝いをしたいっつうか、ぶっちゃけ、鵺お嬢さんと一緒にいたかったんですけど……」
本音をさらけ出し過ぎながら喋る幇禍に(そんなに好きなのね。 鵺さんって人の事が)、とぼんやり感じながら話を聞く凪砂。
「けど……ふふふ…何ででしょうね…。 なんか、『幇禍君、来るとなんか騒動起きてめんどくさいから、今回は別行動ね!』って言われちゃってというか、この台詞の中で、最も注目しどころ、及び俺の心の傷付けどころは『めんどくさい』ってとこなんですけど…、どうですかねぇ? 俺って、面倒臭い男ですかねぇ…」
幇禍の言葉に、思わず凪砂は正直に答える。
「面倒臭いっていうか…うーん、うっとうしいというのは、あるかもしれませんね!」
朗らかな声でそう言えば、一層落ち込む幇禍に(まずい事いったかな?)と、凪砂は不安になる。
エマが「で、鵺ちゃんと別行動の貴方は、武彦さんに何聞いてきたの?」と、気を取りなすように聞けば、幇禍は暗い表情のまま顔をあげて「…とにかく、鵺お嬢さんとは別行動ながらも、色々気になった事があって、武彦に話を聞きに行ったんです。 志之さんが亡くなってからの、親権の事とかね」と、言った。
凪砂も一番気になっていた事故に、幇禍の言葉に同意を示す。
「私も、それが気になっていて…。 志之さんが亡くなられた後、どなたが健司君の面倒を見るのかとか、考え出すと、不安になって、草間さんに調査依頼をしたんです。 本当に、ご親族の方がいらっしゃらないのかという事をですけどね」
そう。
あの時、興信所で武彦にした依頼は、志之や健司の親類関係を調査して欲しいという事だった。
武彦は、「物好きな」と呆れながらも、仕事は仕事として請け負ってくれて、凪砂は自分でも調べられるものは調べようと、直接志之と話をする為にも、この家を訪れたのである。
エマが、頻りに首を傾げながら呟いた。
「調査依頼……?」
訝しげなエマに、凪砂は何でもない事のように告げる。
「だって、ご費用とか、掛かりますし、草間さんにただ働きをさせる訳にもいきませんから…」
そう答える凪砂に、エマは思わず「それは、どうも有り難う御座います」と興信所職員の立場となって御礼の言葉を述べてくる。
次いで「でも、まぁ、確かに、健司君の招来の事も、考えていかないと…」と呟くと、「あんた達に、そんな心配して貰わなくとも、大丈夫だよ」と、突如志之がはっきりとした声を発する。
「っ! 志之さん?」
驚いたように名を呼ぶエマ。
凪砂が目を見開き、志之に目を向ければ、ぱちりと目を見開き、寝たまま此方に視線を向けている。
「健司にはね、あたしが死んだら降りる筈の保険金と、この家、それに少々の貯金があるんだ。 まぁ、遺産税し払っちまったら、保険金やらなんざ、殆ど残らないだろうが、そん時は、この家を売ればいいさ」
志之は気にしていないようだが、凪砂は、病人の枕元で、その病人の「死」を前提に語り合っていたという、自分の不謹慎さと、不用意さに顔を伏せる。
同じ様な気持ちなのだろう。
幇禍と、凪砂もきまずげな顔を見せていた。
「…うるさくして、起こしちゃったね」
エマがそう言えば、「ふん」と鼻を鳴らし「あたしの事は気にせず、喋っておくれ。 何にしたって、いつかは決めにゃならん問題達だ。 しかも、あたしには、そう時間がない」と、何でもないことのように言う。
すると幇禍が、志之の言葉通り、それ程気負いのない様子で尋ねた。
「家売るって、アテはあるんですか?」



幇禍の様子を眺め、凪砂は、そうだ、今からこんな事でどうするんだと自分を叱咤する。
覚悟を決めねばならない。
関わると決めた以上、対話する必要があるんだ。
そして、その対話には、志之の先に待ち受ける死を話題にのぼらせずにはいられない。



「ああ。 まぁ、こんな家でも、一応は都内だからね。 広さだけはあるし、欲しいっつう人もいるんだ」
志之がそう言い終わるのを待ち、とにかく挨拶と自己紹介をせねばと、凪砂は口を開いた。
「あの、初めまして。 雨柳凪砂といいます」
「はいな。 私は、立花志之。 あんたも、興信所さんに聞いて、手伝いに来てくれたのかい?」
志之が、そう問うてくるので、凪砂はコクリと頷き、それから意識してはっきりとした声で言葉を続ける。
「はい。 あと、本日はお節介かとは思いましたが、志之さんが受けられる保険や福祉に関して、ちょっと調べたいと思い、お話を伺いたいと考え参りました」
「調べる? そりゃ、また、大層な……あたしゃ、難しい話、苦手だよ」
「いえ。 ちょっと、幾つかのご質問に答えて頂くだけです。 あとは、雨柳家の顧問弁護士に調べて貰いますから…」
そこまで、滔々と言った凪砂は、何故か、エマや志之が、目を見張って自分を眺めてくるのか全く理解出来ないまま、言葉を続けた。
「それに、入院費用に関しても、ケースワーカーさんに相談して控除出来るものは、控除して貰わなきゃだし……」
凪砂の言葉に、エマが「そうね。 志之さんが、現在自宅療養をしていたとしても、その前に支払っている入院費用については、きちんと手続きをすれば、ある程度返還を求める事が出来る筈よ。 それに、お婆ちゃんが、健司君に遺産を残す為の法的な手続きだったら、私の知人に頼れない事もないし……」と、そこまで提案する。
すると、その言葉に答えるように「ハイ」と幇禍が手をあげた。
「そういう遺産相続等の、面倒な手続きは、俺に任せて貰えませんか?」
旦那様のお手伝いで、色々理解してますし……と言われ、「じゃあ…」と頷くエマ。
凪砂も得意な人がいるのなら、任せた方が良いと思い、頷く。
「志之さん? 良いかな。 他人の私達が、あれこれ手や口出して」
そう聞けば「構わないよ。 健司の為になる事ならね。 それに、難しい話を他の人が面倒見てくれるっていうなら、願ったりかなったりさ」と志之が答え、微かに幇禍に頭を下げた。
「…どうぞ、宜しくお願いします」
志之の言葉に、幇禍は神妙な表情で答える。
「任せて下さい。 俺に出来る限りの事は、させて貰います」
そして、ツイと立ち上がりエマを手招きした。
何か、二人話があるのだろう。
凪砂は、凪砂で早速、志之に質問を始めた。


「え…と、まず、志之さんにお聞きしたいんですけど、志之さんに、ご親戚やご親族の方って、御自分の知る範囲ではいらっしゃらないんですしょうか?」
凪砂の問いに、志之は首を振る。
「いないねぇ。 健司と一緒。 ちっさい時に、死に別れちまった。 だからね、あの子にはあんま、おんなし思いさせたかなかったんだけどねぇ」
凪砂は、その言葉に頷き、やはり武彦にちゃんと調査をして貰うべきだと考えつつ、問いを重ねる。
「では、健司君の御両親についてお聞きしたいのですが…」
と、そこまで言った時だった。
そっと襖をあけて、庭で見掛けた茶色の髪をした女の子と、壺を片手に持っている銀髪の青年、そして麦茶の乗ったお盆を抱えたあの、ほわわんとした雰囲気の女性、それに、健司が室内に入ってきた。
健司の手には、名前はよく分からないが、赤い奇麗な花が握られている。
大人びた表情を見せる、女の子がぺこりと凪砂に頭を下げると、健司も慌てて頭を下げた。
その態度に、慌てて凪砂も頭を下げ返す。
そして、自己紹介の為に口を開いた。
「雨柳凪砂です。 えーと…」
と、そこまで言って自分の職業をどう説明していいのか言葉に詰まる。
(こ…好事家? …えぇ? や、怪しいでしょ、それは。 えっと、じゃぁ…うーんと…)
焦ったように色々考え、目を泳がせたまま、凪砂は「じ……自由人です」と、格好良いんだか、目を逸らした方が良い人なんだか良く分かんない事を言う。
思った通り、ギョッとしたような表情を女の子が見せ、「…自由人?」と首を傾げつつも、淡々とした声で「初めまして。 飛鷹いずみです」と言った。
健司も「立花健司です。 あの…、興信所の方ですか?」と自己紹介しつつも、不思議そうに凪砂に問い掛けてきて、思わずブンブンと頷く。
最初から、興信所の紹介で来たと言えば良かったと悔やむ、凪砂。
(じ…自由人って…自由人って……何よ?! 滅茶苦茶怪しいじゃない!)
と、心中で恥ずかしく思い身悶える。
しかし徹頭徹尾無表情の海月は、無言のまま壺を殺風景な床の間に置き、ほわぁんと何も分かってなさそうな女性は「私、自己紹介まだでしたよね? スイマセンッ! あの、暁水命です」と笑顔で告げ、それから心配げに「大事なお話の邪魔したんじゃないですか?」と問い掛けてきた。
いずみも「お邪魔してすいません」と言い、「ほら。 早く、活けちゃおう」と健司の腕を引く。
凪砂は、少し笑って「そのお花どうしたの? キレイね」と聞いた。
コクンと頷く健司。
「あの、か…海月さんが、お庭の掃除している時に、見付けてくれて、で、変な虫もついてないし、このまま雑草と同じ扱いにするのは勿体ないから、お婆ちゃんの部屋に活けようと思って…」
健司がそこまで言った所で、海月がポンと健司の肩を叩き、「花…、早く、水に入れてやれ…」と言う。
健司が頷いて壺の中に、花を淹れるのを眺めていれば、「あんた、健司の両親について話聞きたいんだろ?」と問い掛けてきた。
「あ、はい。 お願いします」
凪砂は、再び志之へと向き直る。
すると志之は、健司に声を掛けた。
「健司。 良い機会だ。 あんたも、話聞いときなさい。 それに、いずみや海月さん、あと水命も…、良かったら聞いてって」
志之の言葉に、三人はコクリと首を縦に振る。
志之は、少し、目を閉じてそれから、少し言葉を選ぶように、話し始めた。
「……健司の両親…、聡と恵子はね、どちらも凄く優しい子だった。 健司、あんたは、誇りに思って良い。 誰にでも好かれる、優しい、優しい、お父さんとお母さんだったんだよ…」



志之によれば、聡と恵子という人は本当に優しい人だったらしい。
誰にでも分け隔てなく接し、人への親切を惜しまず、どちらも大変働き者だったそうだ。
志之と同居しながらも、嫁の恵子とはとても仲良くできており、この古い家で、それでも慎ましく、絵に描いたように幸福な家庭を築いていたらしい。
しかし、健司が3歳になったばかりの、二人の婚約記念日。
共働きの二人の休日が、丁度重なったものだから、志之は自分が健司の面倒を見るから、羽根を伸ばしておいでと、無理矢理のように遊びに送り出した。
若くに結婚し、家の事や、仕事に励み、遊びらしい、遊びをしていない聡と恵子を不憫に思った志之からのささやかな贈り物だった。
恵子は何度も恐縮し、聡も健司の事を気にしながらも、やはり志之の申し出は嬉しかったのだろう。
二人は連れだって出掛けた。


そして、夕方頃、志之の家に連絡が入る。


母親が目を離した隙に道路に飛び出した、聡の運転する車の前を横切った子供を避ける為、聡は慌ててにハンドルをきって、道路脇の建物に激突し、助手席に座っていた恵子もろとも二人は死亡した。



「あの子達が死んだのはね、あたしのせいなんだよ」
目を閉じて、囁くように志之が言う。
健司が、即座にその言葉を否定した。
「そんな事ない。 絶対ない。 婆ちゃんは、俺に何遍だって、そうやって言う」
健司は強い視線で、志之を睨んだ。
志之は弱々しく首を振る。
「…違うよ。 あんたの、お父ちゃんとお母ちゃん、死なせちゃったのは、婆ちゃんなんだよ。 ごめんね。 ごめんねぇ、健司」
「っ! 何で謝るんだよ!」
健司が、パッと仁王立ちになった。
「何で! いっつも、俺に…。 分かんないよ…。 俺、よく分かんないけど、でも、婆ちゃんは悪くないって、言ってんじゃん! 謝るなよ! 俺、婆ちゃんが謝ってる姿なんか、見たくないよ!」
クルリと踵を返して走り去る健司。
いずみが慌てて立ち上がり「失礼します」と頭を下げて後を追う。
一瞬の沈黙の後、水命が言った。
「私も、悪くないと思います。 志之さんが、悪いだなんて、世界中の誰も言えないと思います」
凪砂は、何も言えず、ただ黙ってじっと、座り込む。
蝉の声がやけに耳につく。
凪砂は、所在なげに手を伸ばして、水命が運んできてくれた麦茶に手を伸ばし、一口啜った。
それまで、ただ黙って、壁際で胡座をかいていた海月が唐突に口を開いた。
「罪悪感を……」
その突然の発言に、ぎょっとしたように、三人から送られる視線も気にせず、淡々と海月が言う。
「罪悪感を、感じなければ、乗り切れないような悲しみはある。 あなたも、きっと、自分のせいだと思う事で、今まで、生きてこれたのだろう。 ならばいい。 そんなあなたには、『あなたのせいではない』という言葉は苦痛でしかないのだろうから。 誰の、言葉も届かないのだろうから…。 しかし、健司は、あなたの事が好きだ」
海月が訥々と語る言葉には、妙な説得力があり、皆、何も言わずに聞き入る。
「とても、尊敬している。 感謝している」
志之は、じっと海月の顔を見つめている。
海月も志之から目を逸らさない。
「そういう人は、詫びてはならない。 悔いる姿を見せてはならない。 せめて健司の前では誇り高く、胸を張って、最期まで生き続けて…下さい。 あいつが、これから先、貴方を誇りとして生きられるように…。 お願いします。 どうかお願いします」
それだけ言って、海月はまた、口を噤む。
再び、蝉の声が部屋に満ちた。
志之はじっと考えるように、目を閉じ、そして囁いた。
「悪いけど、ちょっと疲れちまったよ。 少し、眠らせてくれないかい?」
志之の言葉に、まず海月が、そして凪砂と水命も立ち上がり、寝室を辞す。
海月は「さ、お料理の続き、戻らなきゃ…」と呟いて、台所へと向かって歩き始めた。
海月は、庭仕事の続きをしに行くのだろう。
玄関へと向かう。
凪砂は、慌てて、その後ろ姿に声を掛ける。
「あの…!」
海月が静かに振り向いた。
「……あの……、あ…りがとう、ございました」
少し首を傾げる海月に、凪砂は言葉を重ねる。
「私は…、何を言えばいいのか分からなかった。 それは、志之さんに対してだけじゃなく、自分に対しても言葉を持たなかった…だから…」
ぺこんと、凪砂は頭を下げた。
「有り難う御座いました」
顔をあげれば、微かに笑っている海月が、「別に……、俺も、大した事は言えなかった…」とだけ言って、踵を返す。
海月の背中を見送り、凪砂は、「さて!」と一声自分に声を掛けて気合いを入れると、零の掃除の手伝いをする為に動き始めた。




さて、健司の家からの帰り道。
志之さんが知る限りでは、やはり頼れそうな親族はいないらしいという事を興信所へ報告しに向かう。
幇禍も、里親探しについての相談があるそうだし、また、エマは毎日、立花家の手伝いをした後は、興信所に寄っていっているらしく、三人で一緒に向かう事になった。
「毎日ね、報告に行っているのよ? なんだかんだ言って健司君の事、気になってるみたいだから」
そのエマの言葉に、凪砂も、幇禍も声を揃えて「「素直じゃないですね」」と言い、笑う。
「草間は、自分で見にいきゃあ、いいのに」
「でも、そういう所が、らしいのかも」
「ていうかね、面倒臭いのよ。 色々ね」
三人そう語り合っている最中に、武彦が興信所で、小さなくしゃみをした事は、このお喋りと関係あるかどうかは、分からない。


エマが、ソファーに腰掛け、嬉しげに今日一日の出来事を報告している。
「今日はね、蛸飯と茶碗蒸し、それにキュウリの酢の物をご馳走になったの」
「ふーん…」
机前の椅子にふんぞり返って座り、気のない返事を返す武彦。
「物凄く美味しくってね、茶碗蒸しがとろけるみたいで、私、特別のレシピ教わったからまた作ってあげるね。 それでね、健司君ったら、ご飯三杯もお代わりしてね、志之さんには、茶粥と私のお手製の煮っ転がしを持っていってお世話したんだけど、それも、残さず平らげて下さったのよ」
「へぇ…」
「健司君ってば最初の頃は、態度固かったのに、鵺ちゃんやシオンさん達のおかげね。 すっかり、子供らしい表情を取り戻して…」 
「ほぉ……」
爪の辺りを弄りながら、グルグルと座っている椅子を左右に回す武彦。
バレバレな程に、気になっている自分を必死になって隠しているのが分かって楽しい。
凪砂は必死に「くくく」と笑いを堪えた。
「志之さんもね、最初、遠慮してたっぽいんだけど、今じゃぁ、すっかり、コキ使ってくるのよ? 私ってば最早、立花家内部に関しては、知らぬ事はないわね。 隅から、隅まで掃除させて貰いましたから 」
「それは、それは……」
「…武彦さんは、来ないの? 零ちゃんも、頑張ってるわよ?」
「俺はね、ただ働きはしないの。 それに、凪砂から頼まれた仕事もあるしな」
武彦の言葉に、ハッと今日自分が、何故ここを訪ねたのか思いだし凪砂は座っていたソファーから身を乗り出した。
「で? どんな感じです。 健司君の、御親類など、本当にいらっしゃらないのでしょうか?」
幾ら志之がいないと言おうと、天涯孤独の身の上など、そうザラにあるものではない。
もしかしたら、知らないだけで、何処かに…と、意気込む凪砂に、武彦が、呆れたように首を振る。
「お前ね、今日依頼貰ってすぐには分かんねぇよ。 もうちょっと、時間をくれ」
その答えに不満げに口を尖らせる凪砂。
確かに、言われてみればそうだが、どうしてだろう。
皆が、懸命にあの家の人間達の為に働いている姿を見て、何だか、焦りのような気持ちさえ沸き上がっている。
幇禍が、「あ、それに関しては、ちょっと俺も話がある」と、ひらひらと気のない様子で手をあげた。
「その、親類捜しっていうか、まぁ、健司君が志之さん死後、どなたに面倒みて貰うかっていう調査に一枚噛ませてくれ。 金は別にいい。 個人的に、鵺お嬢さんが仲良くしてる子の話だから、手助けしたい」
幇禍の言葉に、何故か目を剥く武彦。
「お前が、人助けとは、恐れ入るぜ。 真夏に雪でも降んじゃねぇか?」
酷い言い草だと思い、目を見張るが、幇禍は言われ慣れているのか、全くダメージを受けてない様子で言い返す。
「ははは、武彦君。 俺が、いつまでもそのような極悪非道キャラに甘んじる人間だと思うなよっていうか、それ位の血と涙と慈悲はある!」
しかし、ズビシとそう言い切る姿に、フト、昼間、幇禍の婚約者兼雇い主でもある、少女。
鬼丸鵺から聞いた話を思いだし、凪砂は「そういえば…」と問い掛けた。
「あの、『下町人情トラック野郎外伝〜ガキ連れ旅情旅〜』は面白かったですか?」
凪砂の問いに、ブンブンと首を振る幇禍。
「やぁ、もう、泣けるんですよ! マジで。 見た方が良い。 日本人なら見た方が良い! 山田和次監督最高! 『下町人情トラック野郎〜第三章〜 小町娘恋慕』も絶対見ます!」
そう感極まったように言う幇禍の様子を見て、全てを悟る興信所内の人間達。
(わぁ、なんて、影響を受けやすい人なんだ)
そう思いつつ遠い目をしならが凪砂は、「鵺さんに聞いたんですよ。 何か、幇禍さんが、今、下町人情映画にはまってて、実は健司君の家にお手伝いに行こうって最初提案したのも、幇禍さんだそうですよ」と、小さく呟く。
「でね、主人公の寅介がね、その子供の母親を探す為にね…!」
何だか力説している幇禍を見ながら深々と溜息をつくと、エマは「じゃ、明日も来るわね?」と手を振って、一足先に興信所を後にし、凪砂はとりあえず武彦に健司の両親の名と「志之さんが知る限りでは、ご親族はいらっしゃらないようです」という事だけ伝えて帰宅した。 


それから暫くの間、凪砂は福祉事務所と、立花家を報復する日々が続いた。
ケースワーカーと弁護士を交え、エマの言う通り、入院費用などの控除や受けられる福祉について話を聞き、手続きを推し薦める。
志之自体は、最早手の施しようのない所まで、現在の病状は進んでおり、だからこその自宅療養を過ごしているので、これから先、入院などという事はないのだが、それでも、返還を求められる部分については、全て申請等の手続きを済ませておいた。


そんなある日、凪砂は、武彦から呼び出しを受けて、興信所にいた。
曰わく、健司の里親候補が見つかったらしい。
武彦に告げた通り、幇禍も調査を手伝ったらしく、慌てて駆けつけた凪砂を迎え入れてくれた。
興信所には、他に見知らぬ人間が一人。
年の頃は40代後半といった所の、如何にも柔和そうな雰囲気の、小太りの男性がいた。
幇禍の言っていた、里親候補という人なのだろう。
凪砂は、ペコンと頭を下げて挨拶する。
男も、此方に丁寧な仕草で頭を下げた。
「この度は、色々と有り難う御座いました」
凪砂は、何故だかその仕草や、声音を聞いて、フッと気が抜けるような安堵を感じる。
(…この人なら大丈夫)
何故か根拠もなく確信する。
男の名は、新庄といった…。



立花家の入り口で、三人並んで立つ。
「えーと、じゃあ、とりあえず、潜みましょう!」
朗らかに意味の分からない提案を新庄にする幇禍に、目を剥く二人。
「へ? 潜む…?」
「えーと、何でですか?」
二人で口々に問い掛ければ、チッチッチッチと何故か得意げな様子で舌を鳴らし、指を振る幇禍。
「新庄さんはともかく、凪砂さんは忘れちゃったんですか? 俺、鵺お嬢さんの命令で、別行動任務なんです。 っていう事で、直接会うのは不味いんですよ。 だから、一旦、志之さんの寝所に面した庭に潜んで様子を伺い、お嬢さんの姿がない事を確認してから、お邪魔しようかと…」
そこで思わず「や、だったら、幇禍さんだけ、頑張って潜んで、新庄さんは別に正面から挨拶で良いのでは?」と、突っ込む凪砂。
しかし、再びチッチッチと、幇禍の指振り攻撃にあう。
「新庄さんだって、健司君の前で、いきなり里親になる予定だの、あのご事情等、喋れはしないじゃないですか。 だから、一緒に志之さんの部屋伺って、健司君の姿がなくなった事を確認してから、お部屋を訪ねた方が良いと思うんですよ。 最初の内は、ほら、何も知らせず一緒に生活するって予定なんだし…」
確かに言われてみれば、頷かざる得ない言葉なのだが、どうもいい年こいた男性二人が、探偵ゴッコのように庭に潜んでる姿というのが想像し難い。
しかし、よっぽど人が好いのか、そういう性格なのか、新庄は真剣な顔で、幇禍の提案に頷くと「分かりました。 俺、潜みます!」と、訳の分からない決心をつけていた。


凪砂は、よく分からない盛り上がりを見せ始めた男二人を不安に思いつつも、とりあえず幇禍に任せようと思い、家の中へと入る。
まず、零に挨拶をして新庄の事を話し、それから台所の手伝いにでも行こうかと考える。
しかし、家事があまり得意ではなく、昨日も零の手伝いのつもりで雑巾掛けをして、バケツをひっくり返し、惨状を晒してしまった凪砂としては、台所仕事なんて想像するだに恐ろしい。
超絶的に不器用という訳ではなかっただ、指の切り傷の一つや二つは覚悟せねばならなさそうだ。
「むーー…」
唸りながら、零の姿を探して、まず台所へ足を踏み入れる凪砂。
そこには料理を作っていると思しき人間はおらず、銀髪を三つ編みにした快活そうな少年がお鍋の中から、何かを摘んで口に運んでいるのが目に入った。
「…こら!」
巫山戯てそう怒鳴ってみれば、びくっと体を跳ねさせて、それから此方に硬直した視線を送ってくる。
「つまみ食いは、駄目ですよ?」
凪砂の言葉に、硬直していた体を弛緩させる少年。
「ビビッた〜。 初瀬だと思ったじゃねぇかって、まぁ、今日はまだ、来てねぇんだけどな」
そう言いながら、頭を掻き「この肉じゃが食った?」と問い掛けてくる。
フルフルと首を振れば、少年はニカッと笑って、「じゃ、食ってみろよ。 すんげぇ、美味いぜ?」と言ってきて、凪砂は思わず鍋に手を伸ばしそうになった。
「って! そうじゃなくて、駄目ですよ? つまみ食いは。 えーと……」
「あ、俺は羽角悠宇。 あんたは?」
そう問い返されて「雨柳凪砂です」と答える。
それから、先程の言葉から「初瀬さんとお知り合いなんですか?」と聞いたら、途端に顔を真っ赤にして「や、し……知り合い? 知り合いっつーか、なんつぅか…」と、口ごもりながら悠宇は俯いた。
その態度から全て察する凪砂。
「お付き合いされているんですね?」
と、確信を持って問えば、顔を真っ赤にしたまま、悠宇は小さく頷く。


青い春だな。


少年らしい照れる仕草を微笑ましく思いながら、そう感じて、それ以上意地悪な質問はしないでやる。
「お若いのに、ボランティアのお手伝い参加なされるなんて感心です」
そう言えば「や、俺がっつうか、初音に言われて来てるんだけどな…」と言いつつ、鼻の下を擦った。


そんな会話をしている時に、パタパタと慌ただしい足音を立てて、鵺と海月が現れた。
何故か海月は、大きな大きなスイカを抱えている。
「どうしたんですか? それ?」
不思議に思って問えば、海月が相変わらず無愛想な声で「いや。 エマさんが、何か、持ってきたらしい」と言い、鵺がはしゃいだように「でね! でね! 井戸で冷やすの!」と言った。
「井戸?」
首を傾げれば、嬉しげに頷く鵺。
「この家の裏庭にあるんだよ? アレレ? 凪砂さん知らない? じゃ、鵺、案内してあげるよ」
そう申し出てくる。
「井戸なんてものが、都内にまだ残ってるんですね…」
と、呟き、元来古い物好きの面もある凪砂は、目を輝かせて「是非、案内して下さい!」と強請った。
「その…前に…」
そう言いながら、机の上に置いてあるクーラーボックスから、身の細い魚を取り出す海月。
存在感のある大きさにも関わらず、全くクーラーボックの存在に気付いていなかった凪砂は、驚いて「わ! 何ですそれ?」と質問する。
「釣り行ったんだよ。 川にな」
黙々と魚たちを、台所にあるボールに移す海月に代わって、悠宇が答えた。
「今日はかなり、入れ食いでさ、あんたも夕食食ってくんだろ? 美味い川魚が食えるぜ? 肉じゃが見る限りじゃ、料理作ってる奴の腕は信用出来るしな」
そう言われて、思わず凪砂は笑顔になる。
確かに、海月の手の中にある魚達は艶があって美味しそうだ。
しかし、鵺はプンとむくれると「翼は、確かに料理上手だけどね! 性格は最悪に悪いし、気障だし、もう、チョーむかつくんだから!」と喚く。
翼の名を聞いて、少しときめいてしまう凪砂。
F1での「最速の貴公子」の異名を取る男装の麗人蒼王翼に、何度かお見舞いがてら、必要な話を聞きに訪れた時に会い、彼女がここに手伝いに来ていると知った時は、不謹慎ながらもやる気が倍増した。
その位、美少年めいた容貌の持ち主であり、女性を喜ばせるツボを知った発言をしてくれる彼女が、「大体さ! 『ミーは、女の子の味方ザンス、プロバンス! 世界中の女の子は、ミーの物でありんす〜』とか言うんだったら、私にももっと、優しくしてくれても良いよね!」と、鵺にありもしない事を言われている事に(翼さんは、そんな喋り方しないし、大体『ありんす』は、多分、何か色んな意味で勘違いしてる)と、感じ、抗議しようと口を開けど、「だ〜〜かぁぁらぁぁ、それは、誰の話だ!」の怒声と共に、翼が鵺の背後に現れた。
「やっだぁぁ? また聞いてたの? もしかして、翼ちゃんってば、盗み聞きプリンス?」と問う鵺に「…やだなぁ。 そんなプリンス」とぼそっと呟いている、悠宇。
海月が、氷水で素早く魚を洗いながら、内蔵を取り出しつつ微かに頷いているのを、目の端で確認する。
翼は、ワナワナと震えながら「キミは、本当に、僕の神経を逆撫でる天才だね?」と言った後、黙々と魚の内蔵を取り出し、洗っている海月の姿を認めて、慌てたように走り寄った。
「っと、スイマセン! 有り難う御座います。 …って、わ、凄い、手際良いですね」
感心したように言う翼に「一人暮らし長いから」と答える海月。
「洗うのだけやっておくから、他の料理の準備を進めな」
その海月の言葉に、今度は鵺が抗議した。
「えー?!  折角、井戸に案内してあげるつもりだったのに! スイカどうすんのよ?」
そう言われて海月は「悪いが、サッと行ってきてくれないか?」と言った。
むくれた表情で、「じゃ、行こ? 凪砂さん」と言う鵺。
頷いて、スイカを抱えようとするも「あ! それ鵺が持ちたい」と、挙手される。
「大丈夫? 重たいわよ?」
と不安げに問いつつも任せれば、細い両手を一杯に広げて、スイカを「うんしょ」の一声と共に、抱えると、小柄な体をゆらゆらさせながら、先に立って歩き始めた。


結局、鵺の事がこけないだろうか心配で、折角の井戸も、それ程観察できなかった凪砂。
二人で力を合わせて縄を引き、つるべを引き上げて、水のたっぷり入ったその桶に、スイカを入れる。
そして、再び、ゆっくりとスイカを井戸に落とさないように井戸の中に入れた。
これで、スイカを冷やせる筈だ。
水も、かなり深いところの地下水なのだろう。
とても冷たく、条例で飲料水として使えなくなっている事が惜しい位澄んでいる。
「この水でね、前はみんなで水浴びして遊んだんだよ?」
そう無邪気に告げてくる鵺に「冷たくないのかしら?」と驚きつつも、子供は元気だなぁと思わざる得ない。
ま、そのみんなの中に、42歳のシオンが混じっている事を知ったら別の感想も出て来ただろうが、凪砂は「そうなの。 気持ちよさそうね」と羨ましげに答えて、台所へと戻った。


さて、台所には、先程までのメンバーに加えて零もいた。
翼と、海月は並んで調理を続けており、その体勢のまま、翼が問い掛けてくる。
「凪砂さんにお聞きしたいんですけど……」
素早く調理されていく素材の数々に見とれていた凪砂は急に問い掛けられてビクっと身を跳ねさせる。
「…っ、っはい!」
そう返事をした凪砂に、翼が、心から済まなさそうに「あ、すいません。 驚かせてしまって…」と詫びた後、「あの、庭に隠れてらした方、凪砂さんご存知ですか?」と問うてきた。
凪砂は目をパチパチさせて(とりあえず、本気で潜んだんだ…)と思いつつも、「えーと、幇禍さんの事ですか?」と聞いてみる。
すると、何故か、深い深い、溜息を鵺が吐き「どーして、あんなトコに潜むかなぁ」と呟いた。
「あ、いえ、幇禍さんじゃなくて…あの、もう一人いらっしゃったと思うんですけど…」そう翼が言えば海月が「別にどうって事はないし、害意も全く感じなかったが、見知らぬ気配があったからな…」と呟く。
悠宇は何が何だか分からないって顔で見回していたが、ポンと手を叩くと「幇禍なら、知ってんぜ? あいつ、まだ鵺の事、見守ってんの?」と、面白そうに言った。
その言葉に鵺が頭を抱え「ていうか、悠宇にまで知られてんの? 恥ずかしいなぁ、もう…」と呻く。
「気配感じられるだなんて、凄い」
と、凪砂は驚かされながらも、隠すことではないし、素直に「じゃあ、もう一方は新庄さんですね」と答えた。
「新庄さん?」
そう首を傾げる翼に、凪砂は「健司君の里親候補です」と答える。
零が素っ頓狂な声で「里親?!」と叫んだ。
「や、ま、確かに、そりゃあ、考えなきゃいけねぇ問題だけどよぉ」
そう呟きながら悠宇が、台所にある丸椅子に腰掛け足を組むと「詳しい話、良いか?」と聞いてくる。
凪砂は、頷くと、興信所で新庄に聞いた話をする為に口を開いた。
「つまり、新庄さんは、家族になりたいんだそうです。 健司君の。 そして、志之さんの…。 これからする話はロマンスなんです。 それも、涙が出る位、純粋なロマンス」
そう口火を切った凪砂の言葉に、皆が一斉に耳を澄ます。
静けさが、また、蝉の声を運んできた。


「まず、始まりは、私が草間さんに対し、健司君の親族関係や、里親になってくれそうな人の調査、捜索依頼を行った事でした。 健司君が、志之さんの死後誰に引き取られるかというのは、重大な問題に思われましたし、放ってはおけなかったので、お節介が過ぎる事を自覚しながらも、せずにはいられなかったのです。 後に、その依頼を幇禍さんが手伝ってくれるという事になり、禍さんは、有力なネットワークの持ち主とお知り合いになられているようで、そういうツテも行使しつつ、探してくれたのですが、やはり、健司君には親戚と呼べる人はおらず、志之さん自体、複雑な事情があって、完全に身寄りのない身の上の方でした。 草間さんの調査も暗礁に乗り上げ、さて、どうしようかと悩み始めた時に、幇禍さんの知り合いがある情報を彼に教えてくれたのです。 どうも、健司君や、志之さんの事を、知ってる人がいるらしいと。 その情報先は、ある出版社で、その出版社にお勤めになっていらっしゃる方が、自分の担当先の作家が、もしかすると、その志之さんや、健司君達を知っているのではないかと、幇禍さんのお知り合いに教えてくれました。 幇禍さんは、慌てて、その作家さんのお家、つまり新庄さんのお家を訪ねました。 そこで、全ての事情を説明し、里親になる人を捜している事をお伝えしたところ、それならば、是非自分がという事で、本日お越し願えたという訳です」
その言葉に鵺が、あっけらかんとした調子で凪砂に尋ねる。
「それで、一体、その新庄さんって人と、志之さんはどういう関係なわけ?」
鵺の問いに凪砂は、一旦唇を舌で湿らせ、再び口を開く。
「新庄さんって方は、健司君のお父さんの学生時代の親友だったそうです。 健司君のお父さんは、随分と親切な好漢だったそうで、新庄さんは昔、大学に通う為に下宿していた家が火事にあってしまい、殆ど身の回りの物も持ち出せずに焼け出された時に、同じゼミだった健司君のお父さんに助けられ、このお家で卒業までの間、お世話になったと言っていました。 その時、既に志之さんのご主人は他界されていたらしいのですが、志之さんは、男手が増えると新庄さんの事を歓迎し、殆ど家族同然として、三人でこの家で、二年ほどの年月を過ごしたそうです。 新庄さんは、余り家庭的に恵まれてない環境で育ったそうで、余計に、その二年は、大事な思い出となったのでしょう。 だけど、新庄さんは、その二年間で、思い出以上の大事なものを見付けました」
翼が、全てを察したように、そっと囁く。
「それが、志之さんなのですね…」
翼の言葉に、息を呑む一同。
凪砂は、コクンと頷く。
「30歳近く年が離れていますから、始め新庄さんが、志之さんに想いの丈を告げても、取り合っては貰えなかったそうです。 在学中に、公募の文学賞で受賞し、卒業時には、何とか食べていける位まで新庄さんが、作家として独り立ちしても、志之さんは、新庄さんの結婚して欲しいという申し出に、首を縦に振りませんでした。 でも……、どうなんでしょうね…。 本当に嫌な相手ならば、想いを告げられた時点で、この家を出ていかせるんじゃないでしょうか? 志之さんが、新庄さんの事をどう想っていたかなんて、今となっては分かりませんが、それでも、新城君の事を悪しくは考えていなかったんじゃないでしょうか?」
凪砂は、一旦そこで言葉を止め、懐から一枚の写真を取り出す。
そこには、この家の前で並んで立つ、若い頃の志之と、それから健司は父親似なのだなと感じさせる、快活そうな男性、そして今よりも、随分痩せている新庄の姿が写っていた。
鵺が手を伸ばし、如何にもしっかりしてそうな、ひまわりのように力強い笑顔を見せる志之の顔を指先でそっと撫でた。
「これ、新庄さんの大事な写真を焼き増しして貰ったんです。 皆さん、御覧になりたいかと思って…」
凪砂が、そう言って笑う。
「素敵な写真ですよね……。 新庄さんが、大学を卒業して一旦地元に帰る前に、撮った写真だそうです。 新庄さんが、地元に戻る前の日、再度、志之さんに自分の気持ちを新庄さんは伝えましたが、志之さんは結局その想いを受け入れず、自分の事は、一時の気の迷いだから、忘れなさい。 もう、私に連絡を寄越してもいけない、と言って聞かせました。 新庄さんは、志之さんのその強い言葉を受け入れながら、それでも、何か困った事があったら、助けが欲しい事があれば、必ず自分を呼ぶようにと伝えて、地元に戻ったそうです」
写真の中の、新城の表情は、笑っていてもどこか憮然としていて、なのに悲しそうで、色々複雑な感情の入り混じっているように見える。
どんな気持ちだったのだろう。
親友の、母親に恋をして、恥も外聞もなく、学生の身で求婚し、その全てを気の迷いと言われて、実家に帰る身というのは、どんな気持ちになるのだろう。
淋しいのだろうか、悲しいのだろうか、憎いのだろうか……。


それでもまだ、愛おしいのだろうか。


「結果を言えば、新庄さんの想いは、一時の気の迷いなどではありませんでした。 志之さんの事が忘れられず、他に女性と付き合っても、どうしようもなかったそうです。 それから、20年近く、結婚する事無く、ずっと、ずっと、ずっと……。 志之さんの事を、想い続けていたのです。 …純愛ですね」
凪砂の言葉に、翼が、静かに答えた。
「羨ましい位の、純愛ですね」
海月が、静かな声で呟く。
「そんなに惚れた女と、漸く再会したっつうのに、それが最期の別れが近い時だというのはどんな気持ちなのだろうな…」
凪砂は、蝉の声に耳を傾けながら答える。
「悲しいでしょう。 それは、とてもとても、悲しいでしょう。 それでも、最期に会えないまま逝ってしまわれるよりは、屹度、悲しくないのだと思います」
志之の事を語る新庄の表情を思い出す。


あんなに純粋に人を想えるのならば、屹度、人は、私が思っているよりも美しい。


凪砂は、そう確信した。




夕食のテーブルに、皆でちゃぶ台を囲む。
幇禍は「お嬢さんに会うと、叱られるんで!」と短く答えて、シュタッと消え去ってはいたが、今食卓には、10人近い人間がついている。
いつもの自分の暮らしからは考えられない程の、賑やかな食卓風景。
凪砂は健司と、新庄の側に腰を下ろし、二人の会話を取り持とうと努力する。
しかし、凪砂があくせくする間もなく、屹度新庄の人柄なのだろう。
健司は完全に、新庄に打ち解けていた。
「で? で? お父さん、そん時どうしたの?」
健司には新庄の事を、亡くなった父の友人とだけ伝えてある。
幇禍の言葉に従った結果だが、確かにその方が、打ち解け易くはあったみたいだ。
「んー? 逃げたよ? 自慢じゃないけどね、俺も、聡も喧嘩はからっきしだったんだ。 逃げるが勝ちだよ」
今も、父親と二人で不良に絡まれた時の思い出話を、流石作家と言うべき軽妙な語り口で聞かせながら、健司をカラカラと笑わせている。
健司の隣りに座るいずみも、黙ったまま聞き入っており、子供二人相手にも手を抜いた様子なく、新庄は真剣に語り続ける。
「すっげぇ! で、逃げられたの? 逃げられたの?」
「それがね、向こうも人数が居るからね、挟み撃ちに合っちゃって、で、そん時の聡が凄いんだ。 いきなり、近くにあった、家の塀をよじ登ってね…」
その口調に思わず、凪砂も聞き入ってしまう。
「うん! うん!」
と強い相槌を打つ健司の横腹を、いずみがつつき「ちょっと、うるさい」と言って、可愛らしい言い合いが始まり掛けるも、新庄が話し始めれば、再び意識はそのお話にいくらしく、凪砂は「可愛いっv」と思いつつ、自分も子供のように目を輝かせて新庄の話を聞いていた。
まわりでは、銘々がそれぞれに会話を交わし、食卓に並べられる料理の数々に期待の眼差しを寄せている。
その騒がしさの中、凪砂はぼんやり思った。



大家族みたいだ。



そして、この先本当に家族としての関係を結んで行かねばならないだろう、健司と新庄を思い、新庄の話が一段落したところで、いつも、志之の食事の世話をしている水命に声を掛ける。
「あの、今日の、志之さんの食事のお世話、健司君や新庄さんにもお手伝いして頂いたらどうでしょうか?」
水命は事情は全て察しているのだろう、「あ! それ、いいですよね」と、コクンと頷くと、健司と新庄、そして何故か鵺の肩を叩く。
「あの、一緒に、志之さんのお食事のお世話、お手伝い頂けませんでしょうか?」
水命の言葉に、声を掛けられたメンバーは「勿論」と答えて立ち上がり、水命が用意したお盆に、銘々の夕餉を乗せると、部屋の奥、志之のいる部屋へと向かった。
新庄は、水命が持っていくというのを、「お願いだから任せて下さい」と言って、自分のだけでなく、卵粥の乗ったお盆も抱えて行く。
「…どうして鵺ちゃんが?」
と首を傾げれば、いずみが訳知り顔で「健司の男心を水命さんが、察したんです」とシレっと答えた。
意味が分からないまま、料理を作った翼が照れ臭そうに手を合わせるのを見て、自分も慌てて手を合わせる。
彼女が「いただきます」と言うのを聞くや、凪砂はまずは美味しそうな、健司達の釣ってきたあまごの塩焼きに箸を伸ばした。
そっと身をほぐし、口の中へ運ぶ。
あまごの柔らかで、でも、弾力のある身がプリプリと舌の上で弾け、ほのかな塩味と共に淡泊で深い味わいが口の中に広がるのを、目を細めて楽しみ、次いで、肉じゃがを、つまんだ。
翼の腕前なのだろう。
あまごは、全く形崩れしておらず、肉じゃがも、中まで味が染みていて、幸せな気分になる。
隣りに座っていたいずみが「おいしい…」と、思わずといった調子で呟くのを、翼はニコリと微笑んで「可愛いリトルレィディに誉められて、光栄だよ」と告げた。
ああ、今、鵺がいたならば、思う存分突っ込んでいただろうななんて思いつつ、色んな意味で、鵺を連れていった水命に、平和な食卓を守ってくれてありがとうと、感謝の念を捧げる。
もう片方の隣りに座っていた零も、幸せそうに箸を口に運んでおり、シオンや凪砂は言うに及ばず、皆が美味しい料理のおかげで幸福そうで、凪砂は胸が一杯になった。


いいなぁ。 こういうの…。


一抹の郷愁と共に、そう胸で呟く。
そう浸っていた凪砂の耳に、エマの明るい声が聞こえてきた。
「ね? 食べ終わったらさ、花火しよ? 花火」
その言葉にいずみが、珍しく、パァッと表情を輝かせてエマを見上げた。



ヒュルヒュルッと音を立てて、空で咲く、小さめの打ち上げ花火に零や、鵺が歓声をあげている。
家の奥にあったのを外に引っぱり出した、古い木の机に、切り分けられた西瓜が並んでいる。
と、言っても、物凄い勢いで売れたので、残りはあと僅かだ。
先程帰った筈の幇禍が、何故か鵺と一緒に、花火を振り回してはしゃいでいた。
また、何処かに潜んでいた所を見つかったのだろう。
自分よりも年上の筈なのに、まるで子供のように見える。
悠宇が呼んだらしく、日和が涼しげな浴衣姿を披露しながら、二人並んで、花火をしていた。
いずみと、健司は何事か言い合いながら、海月が打ち上げる花火を、目を煌めかせて見上げている。
キラキラキラと、頭上に咲く火の花に、シオンが運んで縁側に寝かせた志之の側に腰掛け、凪砂は口元を綻ばせながら花火を見上げる。
シャクリと口にした、西瓜は井戸のおかげで歯に染みるほど冷たく、そして滴り落ちる程の甘い果汁を秘めた一品で、エマが「私の目に狂いはなかったわ」と、勝利の笑みを漏らした。
翼が、その言葉にクスリと笑って「確かに、これは見事な西瓜です」と言い、自分も、小さくかぶりつく。
志之も新庄が、スプーンで果肉を掬って差し出せば、一瞬照れた様子で躊躇しながらも一口、口にして頷く。
「これは、美味しい西瓜だねぇ」
そう言うのを聞くと、こんなに騒がしくとも、この生活は志之にとっては良いものなのだと確信できて、少し安心した。
健司が、大きく手を振って、新庄の事を呼んでいる。
新庄は、頷くと、スプーンを翼に託し、健司の元へと走り寄っていった。
蚊取り線香は匂いがキツイだろうとシオンが、用意した蚊連草(蚊を寄せ付けなくするらしい)を置き、横たわって花火を眺めている志之をそっと団扇で仰ぐ。
「…キレイですね」
シオンが、うっとりとした表情で呟いた。
「エマさん、感謝します。 西瓜も、花火も…」
シオンの感謝の言葉にエマは、「いえ。 こっちこそ、ありがとう。 シオンさんに言われなきゃ、こんな事思い付かなかった。 良かった。 健司君も、みんなも喜んでるんだもの。 本当に良かった」と柔らかな声で答えていた。
至る所で、咲いている小さな火の花達。
その火の花が照らし出す表情は、皆笑顔で、心が満たされていくのを感じる。
凪砂は、今なら聞けるかも知れないと思い、縁側から降りると、線香花火に火をつけて、パチパチと弾けさせながら、何気ない調子で志之に問い掛けた。
「…志之さんは…、新庄さんの事、どう思ってたんですか?」
いきなりの質問に、息を止める一同。
皆が耳を澄ます気配が、伝わってくる。
「どうって…どういう意味だい?」
飄々と問い返す志之。
凪砂も、内心の緊張を抑えながら淡々とした調子で問いを重ねた。
「新庄さんの事、好きじゃなかったんですか?」
すると志之は、「好きだったよ。 ウチの息子の、大事な友達だったからね」と答えてくる。
凪砂は、じっと線香花火を見下ろしたまま、首を振る。
「そういうのじゃなくて…」
「そういうのだよ。 そういうのだけさ。 何、聞いたかしんないけどね、あの子とあたしには、20以上も年の開きがあって、あの子は、ここに住んでる時は、ほんの子供で、そういう子供に対してどうこうってぇのは、ないんだよ。 それにあたしは、死んだ旦那一筋なのさ」
志之の声音が、少し震えているような気がした。
辛いことを聞いているのだろうか。
そう不安になりながら、それでも問い掛けを止める事が出来ない。
「……ほんと、ですか?」
「本当だよ」
凪砂は、新庄の事を思い、どうしても志之の本心が知りたかった。
新庄に、貴方の20年は無駄では無かったと言ってやりたかった。
凪砂はチリチリと散る花火を見ながら、優しい声で囁く。
「………新庄さん、ずっと、志之さんの事、想ってたそうです。 ずっと、ずっと、志之さんの事好きだったそうです。 いえ、今も想ってます」

凪砂は、ポトリと落ちた線香花火の芯を淋しげに見下ろして言った。
「…純愛ですね」
志之は、微かに笑った。
淋しい、憐憫に満ちた笑みだった。
「嗚呼。 あの子に、あたしは引導を渡してあげたかったのにねぇ…」
翼が、怪訝な声で「引導?」と問う。
志之は、頷いた。
「若いあんたらには、ピンと来んだろうけどね、あたしは、旦那に先に死なれてから、ずっと、死っつうのを、見据えて生きてきた。 あたしは、あの子より先に死ぬ。 どう生きようとも、あたしに先にお迎えが来るのは確かだ。 あの子に、結婚しようと言われた時から、ずっと分かりきっていた。 好きになった人にね、先に死なれるっつうのは、淋しいよ。 堪らないもんだよ。 そんな思いはね、出来るだけ誰にもさせたくなかったんだ」
志之は、そっと目を閉じる。
「20年間、あの子に辛い思いをさせてたんだね。 嗚呼、あの時、もっとちゃんと引導を渡してあげれば良かった」


その優しさが、声音が、表情が、志之の想いの全てを語っていた。
凪砂は目を伏せ、唇を噛む。


そういう恋もある。



知らなかった。



そういう恋もあるのだ。




花火の火が、また一瞬、志之の横顔を照らした。


深い皺。
浮いた染み。
目立つ頬骨。


だけど、美しいと凪砂は感じた。
嫉妬するほどに、その瞬間の志之の横顔は美しかった。








さて、花火後、全員集合の状態になっている現状を見て「銭湯行かない?」と明るい声で提案してきた。
花火の高揚も残っているのだろう。
何だか、帰る気にならず、ここで大人同士なら飲みに行く?となるが、未成年の多い状況で、銭湯という提案は至極素晴らしいものに思える。
「いいな、それ」
そう無口な海月が、賛同の意を表したのも効いて、志之の世話の為に残るというエマと翼を置いて、一路銭湯へ向かう事になった。
と、言っても泊まり予定の無い凪砂含むメンバー達は、皆、着替えに女性は志之の、男性は亡くなられた志之の旦那さんの浴衣を借り、タオルや石鹸なども、出して貰う。
「洗濯物、大変じゃないですか?」
と、問えば、海月と水命が同時に首を振り、「大丈夫」と言ってくれた。
「銭湯、銭湯〜v 初体験!」
楽しげに跳ねる鵺に、「お嬢さん、ちゃんと、前見て歩かなきゃ、転びます」と心配げに、幇禍が注意を促している。
凪砂も実は、銭湯は初めてで、浮き立つ心を抑えきれず「どんなんでしょうね?」と笑顔で海月に問い掛けて「…そんな、大の大人にワクワクする程の所ではない」と無表情に一刀両断された。
しかし、そう言う海月の後ろでは、スキップしそうな勢いで「みんなで、お風呂なんて、楽しみですね!」と健司と一緒になってはしゃぐシオン(しつこいけど、42歳)がおり、何ら説得力がない。
健司も、「銭湯、こんな大人数で行くなんて、すごい!」と満面の笑みで、いずみに「こどもね」と冷たく笑われていた。
ま、しかし、そのいずみも、どこか足取りは軽く、水命や初音、それに悠宇も嬉しげで、やっぱり全開でワクワクした方が良いと、凪砂は感じる。


「ここが、私のよく行く銭湯です」
そうシオンが告げたのは、古ぼけたコンクーリート作りの、いかにも銭湯っていう感じの建物で、「ゆ」と書かれたピンクと、紺色ののれんが二つの入り口にそれぞれ掛かっていた。
「じゃ、あとでね?」
鵺がそう言って、女性用のピンクののれんをくぐり掛け、「ん?」と足を止める。
そして身を屈めると「ねぇ、健ちゃんって、今小学校何年生だっけ?」と問い掛けた。
健司が、何でそんな事と首を傾げながら「えーと、三年生だけど…」と答える。
すると鵺が「じゃ、キミ女湯へGOね!」といきなり、その腕をひっ掴んだ。
「へ?」
と目を丸くする健司。
しかし、凪砂も「そうよ…ね。 小学生だし良いのよね、 ヨシ、おいで、健司君!」と言い、水命が「頑張ってるんだもん。 背中流してあげますよ」と言えば、初瀬も「じゃ。私は髪洗ってあげます。 だって、考えてみれば一番の功労者だもの」と言う。
突然の展開に目を白黒させる健司を置いて、悠宇が初瀬に「おい! なんで、健司そっち行く事なってんだよ! 馬鹿っ!」と怒鳴り、幇禍が鵺に縋り付くようにして「止めて下さい〜。 小学生とはいえ、もう、男なんですっていうか、駄目です! お嬢さんの玉のお肌をそんな、異性に晒すわけにはいきません!」と喚いていた。
そして、幇禍はいずみに視線を向け「やですよね? 同い年の男の子と、お風呂なんて」と言えば、いずみは「別に、健司は、同い年じゃなくて、年下だもの。 子供よ。 それにね、お兄さん達がそうやって小学生相手に取り乱してるのって、格好良くないよ」と一刀両断し、その言葉が決定打となって、健司の意志関係なく、彼は女湯へと引きずられていった。


銭湯は、程良く空いていて、女性陣+健司は気兼ねなく、湯船に浸かる事が出来そうだった。
「泡風呂がある!」
そう叫んで走り出そうとする健司を抱き締めるようにして捕まえ、凪砂が「走らないの。 まず、掛け湯。 それから、もう、水命さんと初瀬さんに洗って貰いなさい」と注意する。
幇禍や、悠宇はあんな事を言っていたが、やはり健司は子供そのもので、水命に手を引かれ、いずみと一緒に物珍しげに銭湯の内装を見回し歩いている様は無邪気そのものだった。
ただ、想い人である鵺の裸だけは、直視できないようで、耳を少し赤くして、視線を逸らしている。
だが、鵺がそんな事に気付く筈もなく、「健司! 健司、凄いよ! 向こう、なんか色の違うお風呂もあるよ!」と、腕を引っ張りながら声を掛けていた。
まず、健司を腰掛けさせ、初瀬がシャンプーを手に馴染ませると、いがぐり頭に爪を立てないようにシャカシャカと洗い始める。
「良いなぁ。 気持ちよさそう」
と羨ましそうに凪砂が言えば、「痒いとこないですかー?」と、初瀬が笑いながら聞くのを「無いけど、初瀬姉ちゃんの髪の毛があたってる背中が痒い」と健司が訴える。
凪砂は、その言葉を聞いて、髪を泡立てたまま、空いている手をヒョイと伸ばして背中を掻いてやっていた。
水命も、タオルを泡立てて、優しく健司の背中を擦り始め、鵺が湯船に浸かりながら「…はぁ、何か、圧巻だよねぇ」と、言う。
結局、垢の溜まりやすい首筋の部分が気になって、泡立てたタオルで擦ってやっていた凪砂は鵺の言葉の意味が分からず「へ?」と問い返す。
三人の女性が健司を取り巻いている状況を思い、「圧巻って…、健司君をよってたかって苛めてるように見えるのかしら?」と不安になった。
すると鵺が、「健ちゃん〜? こぉーんな、上玉さん達に、体洗って貰うなんて、幾らつんでも出来ない経験よ? しっかり、心に刻んでおきなね!」と言い、いずみが鵺の隣りに浸かりながら「…確かに」と頷く。
三人、何言ってんだか…なんて、笑い合って、「ほら、水流しますよ? 目を瞑って?」と、水命が優しく健司に声を掛けた。


みんなで並んで湯に浸かる。
「ふぃ〜」なんて言いながら手足を伸ばせば、程良い温度の湯が体の芯まで染み渡り、額から流れる汗を手拭いで拭いつつも「いいですね。 夏の風呂」と呟いた。
頷き、同意を示す水命。
疲れが、すぅっと抜けていくようだ。
鵺は健司と並んで泳ぐように、湯船を移動しながら「ほーんと! 最高っ」と答える。
そして、凪砂の側まで近付てくると、しげしげと胸元を眺め、溜息混じりに呟いた。
「…いいな。 凪砂さん、胸大きくて」
その言葉に、へ?と呟き、自分の胸を見下ろす、凪砂。
「そ…うかなぁ?」
そう言えば、力一杯頷かれ、鵺を自分の胸を見下ろした。
「私、まな板みたいじゃん? なぁんか、ヤなんだよね」と言いつつ、「な? 健ちゃんだって、胸大きい方がいいよね?」と鵺が問うた。
健司は途端に顔を真っ赤にして「知るか! そんなのっ!」と答える。
水命も俯きながら「やっぱ、大きい人がいいですかね?」と、呟き、「鵺ちゃんは、まだ大きくなる可能性あるけど、私は、もう、多分無理ですよね」なんて言う。
鵺に「でも、水命さんは、形奇麗だから良いよ!」と言い初瀬も「でも、鵺ちゃんのすらっとした、スレンダーな体形も、凄く格好良いと思いますよ」と、話に参加してきて、一頻り胸談義に花が咲きだした。。
そんな三人を眺め凪砂はいずみと健司、交互に顔を見合わせると「分かんないよね? こんな話」と言う。
健司はコクンと頷けど、いずみがいつものこまっしゃくれた感じで「でも、凪砂さんは恵まれてますから良いけど、女性にとっては深刻な問題ですよ? まあ、ただ、胸が大きいからといって、それで寄ってくる男性は、頭が悪い連中ばかりでしょうし、そういう意味では、無意味な論議と言えるかもしれませんね」と冷静に答え、水命達を一瞬にして凍り付かせた。


さて、風呂上がり、ガラス張りの小さな冷蔵庫から、皆銘々に、珈琲牛乳やら、フルーツ牛乳を取り出して、番頭のお婆ちゃんに金を払い、皆で並んで飲む。
乾いた喉に冷たい珈琲牛乳が流れ込み、凪砂は夢中になって飲み干した。
「「「「「プハー!」」」」」
皆が一斉に、そう息を吐き出し、顔を見合わせて笑い合う。
「外、男性陣待ってるかも知れないから、急ぎましょうか?」
そう初瀬が提案し、皆は、志之に貸して貰った浴衣を身に纏い始めた。
悪戦苦闘している、鵺を初瀬が手伝い、同時に、どうも巧く帯が結べない凪砂を水命が手伝ってくれる。
柄は少し古い物の、落ち着いた色合いの浴衣を着て、少し心が浮き立つような気分になる。
いずみは、サイズがないのと、丁度お泊まりに来ていた事もあって、自分の着替えのTシャツなどを着ていたが、浴衣が羨ましいのだろう。
頻りに、水命や、初瀬、凪砂の来ている浴衣に触れてくる。
初瀬が微笑んで、しゃがみこむといずみに「今度は、いずみちゃんも浴衣着ようね? お姉ちゃんが手伝ってあげるから」と囁いた。
「そんな、別に、良いです。 羨ましいわけでは、ありませんし」と言いつつも、少し嬉しげな表情を見せたいずみ。
鵺も、「うん。 今度は、いずみも、浴衣ね?」と勝手に決めて、その上、勝手に番頭に皆の銭湯料金を払う。
「え? いいです。 自分達で…」
そう言えども「鵺、今回、遊んでばっかで、全然手伝えてないもん。 大丈夫、パパから銭湯代をお泊り代として出しなさいねって言われて預かってるお金だもん。 気にしないで」と告げて、一足先に出ていった。
慌てて、後を追い掛ける一同。
凪砂が「んもう。 年下に奢られるなんて、不覚!」と独り言をいえば、クスリと水命は笑って「同じくです」と答える。
健司がいずみに「気持ち良かったな」と言い、いずみが「まぁね」と答えるのを「ま、いっかぁ」と凪砂は思うと、外に出て案の定待っていた男性陣に「お待たせ致しました」と告げた。


それからも、凪砂は、出来る限り毎日志之の元に通った。
色んな、話を志之とし、健司の話や、交通事故で一緒に死んでしまった、息子夫婦の話も聞いた。
福祉事務所への手続きを弁護士を交えて全て終え、自分のすべき仕事はすべてこなしたのだが、凪砂は志之の元を訪ねるのを止めなかった。

志之の事を、それ位好きになっていた。



そして、夏も終わりかけた、されど残暑厳しい日に、志之は死んだ。



唐突な知らせに気が動転し、車を飛ばして、立花家に向かおうとすると、手が震えている事に気付く凪砂。
止む終えず、安全のためにタクシーを拾う。


よろめくように辿り着いた志之の寝所には、手伝いに来ていた者達と、健司と新庄の皆が揃っていた。
誰かが呼んだらしい、医者が志之の枕元に座っている。




静かだった。
圧倒的な迄に静かだった。



死の音とは、無音なのだと凪砂は悟った。
よろめき、武彦に支えられながら、ようやっとエマはへたり込むように腰を下ろす。
健司が、志之の右手を握り、新庄が志之の左手を握っている。




聖家族。



聖母子と聖ヨハネを指す言葉が、何故か、頭に浮かんだ。
それ位神々しく、近寄りがたい風景だった。
志之の唇が微かに動く。
新庄が、志之の唇近くまで耳を寄せ、そしてコクリと頷くと、凪砂を手招きした。
凪砂は、這うようにして、志之の側へ行く。
新庄が、囁くように行った。
「…志之さん。 何か貴女に、仰りたい事があるそうです。 どうぞ、聞いてやって下さい」
そう言われ、震えながら、耳を志之の唇の側まで近づける。



「…あり…がとうね。 色々と…。 あんたの…お陰で……私、安心して、じいさんのトコ行けるよ…」



志之の言葉に、凪砂は目を見開き、そして、両手に顔を埋めた。
涙が、指の隙間から零れ落ちる。




お願いです。 死なないでよ、志之さん。



思わず言ってもどうしようもない事を言ってしまいそうになる自分を抑え、凪砂は唇を噛みしめた。
怖かった。
淋しかった。


死なないで欲しかった。





志之が、新庄に「…健司の事、頼みます」と告げ、健司には「…幸せに…なりな」と言うのが聞こえてきた。
凪砂は、動揺を隠せないまま、それでも、見つめなければ。
最期まで、ちゃんとみつめなければと、両手を下ろし、志之の顔を見つめる。
志之の瞼がゆっくりとおり、それから、呼吸が、深く、緩やかになり始めた。
健司は、何も言わず、涙も見せず、ぐっと耐えるように志之の手を握り締め続けている。
新庄が、目を真っ赤にしながら、最期の瞬間、志之に囁いた。




「愛してます」




志之が、微かに笑って、頷いたように見えた。



泣き疲れ、憔悴した気持ちのまま、凪砂は、帰りかける武彦に玄関先で声を掛けた。
「あの…調査費用の方、幾らくらいになりました? 何処に、振り込めばいいですか? それとも、手渡しの方が…」
そう言う凪砂の言葉を途中で手を振って阻み、武彦が「いや。 今回の調査は、殆ど幇禍の功績だしいらねぇよ」と答える。
凪砂が、驚いて「いえ。 そんな訳には…」と言えば「その浮いた調査費用代分、志之さんに花、買ってやれ。 花が好きな人だったらしいからな。 奇麗な、花、たくさん買ってやれ」と言い、武彦は玄関を出ていく。
凪砂は、廊下にへたり込むように座ると、膝に顔を埋めて再び泣いた。
里親となる新庄は、志之との思い出が色濃く残るこの家を失うのは健司にも、そして自分にとっても余りにも辛いからという事で、こちらに移り住んできてくれるそうだ。

凪砂は、この家がなくならないでいてくれる事に、途方もない安堵を覚える。



そして凪砂は、泣きながら決心した。
武彦の言葉通り、季節の折々には、そして、この命日にも、必ず花を持ってきてあげようと。


「志之さん。 お花、いーっぱい、持ってくるからね」
凪砂が、そう呟けば「楽しみにしてるよ」と、志之が何処かで答えた気がした。



 終



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■          登場人物           ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
 ※受注順に掲載させて頂きました。

【0086/ シュライン・エマ  / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1847/ 雨柳・凪砂 / 女性 / 24歳 / 好事家】
【1572/ 暁・水命  / 女性 / 16歳 / 高校生兼家事手伝い】
【3604/ 諏訪・海月 / 男性 / 20歳 / ハッカーと万屋】
【3524/ 初瀬・日和 / 女性 / 16歳 / 高校生】
【3525/ 羽角・悠宇 / 男性 / 16歳 / 高校生】
【2414/ 鬼丸・鵺  / 女性 / 13歳 / 中学生】
【3342/ 魏・幇禍  / 男性 / 27歳 / 家庭教師・殺し屋】
【3356/ シオン・レ・ハイ  / 男性 / 42歳 / びんぼーにん 今日も元気?】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー兼闇の狩人】
【1271/ 飛鷹・いずみ  / 女性 / 10歳 / 小学生】

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■         ライター通信          ■
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遅くなりまして、遅くなりまして、遅くなりまして、真に申し訳御座いません!
へたれ人間失格人間ライターmomiziで御座います。(切腹)
初めましての方も、そうでない方も、この遅れっぷりには、最早怒りを越えて、呆れられているのではと、怯えるばかりなのですが、全て私が悪いので、どうぞ、三発位殴ってやって下さい。
さて、えーと、毎回、毎回、ウェブゲームのお話に、是非、個別通信をやりたいと考えているのですが、毎回毎回、時間の都合により掲載できません。
ほんま、スイマセン。
なので、ご参加下さった全ての方々に「本当に有り難う御座いました。 再びお目に掛かれましたら、僥倖に思います」というお言葉を贈らさせて下さい。
あと、非人道的な位、長くなってしまった事もお詫び申し上げます。

momiziは、ウェブゲームの小説は、全て、個別視点の作品となっております。
なので、また、別PC様のお話を御覧頂ければ、違った真実が見えるように書きました。
また、お暇な時にでも、お目通し頂ければ、ライター冥利に尽きます。

ではでは、これにて。

momiziでした。