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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


聖家族



オープニング




小さな掌が、大事にくるんでいたたくさんの小銭達を机の上にそっと置いて、不安げに揺れる目で見上げられながら「足りませんか?」と聞かれた瞬間、零は耐えきれず目頭をハンカチで抑えた。
「おこづかいと、お年玉の残りと、あと、お手伝いした時にもらったお駄賃も一緒に持って来たんです」
武彦は小さな依頼人に、いつもの少し憮然とした顔つきで「足りないね」とにべもなく答える。
「大体、ウチは興信所であって、医者ではない。 無理だね」
冷たい言葉。
その言葉に、武彦の前に座る、坊主頭の子供の目からポタポタと涙が零れ落ちた。
「お…お、お願いします。 ば……ばぁちゃん…ずっと、俺の事、一人で育ててくれたから……、俺…どうしたら……いいか…」
そのまま、グシグシと泣き崩れる姿に、零は手を伸ばし、その小さな頭を胸に抱え込む。
「そうよね。 お婆ちゃんいなくなったら、独りぼっちになっちゃうものね……」
依頼に来たこの子の名前は、健司。
まだ、小学生だという。
両親が早くに死に別れ、祖母の手によって育てられたそうだ。
だが、その祖母も、かなりの高齢でこの夏、とうとう倒れてしまったらしい。
その間、健司は一人で家の中の事を切り盛りし、祖母の世話をし、学校にも通った。
だが、そんな健司の懸命な看病にも関わらず、医者の話では、祖母はこの夏一杯の命と考えた方が良いらしい。
「お、お婆ちゃんの事助けて下さい…。 何でもします。 お、俺、何でも…何でもします…」
彼は、この興信所が、不思議な事件ばかりを解決してきているという噂を聞き、藁をも掴む思いで尋ねてきた。
「お婆ちゃんの命…助けて下さい」
しかし、武彦は首を振り、諭すような調子で言う。
「決められた命の長さを、人の手では左右できない。 例え出来てもしてはならない。 お前の婆ちゃんは、立派に生きて、やっとお役ご免の時がきたんだ。 お前は、今、婆ちゃんが生きてる内に、もう一人で立派に生きてけるって見せて、安心してあの世へ行かせてやらなきゃ駄目だ。 有りもしない、命を永らえる方法を探すより、そっちの方がずっと大事なんだ」
武彦の言葉に、健司は首をブンブンと振る。
「ひ……一人で、なんて、無理です。 だって、だって、俺、ずっと婆ちゃんと一緒に……一緒に……」
そんな健司を見て、零は、沈痛な面もちで口を開く。
「一人でなんて、無理よね。 一人は、寂しいものね。 でもね、兄さんの言う通り、無理なの。 お婆ちゃんを助ける事はね、どうしても無理なの」
その言葉に、零と武彦、交互に視線を送った健司は、「う……うぅ…」と嗚咽を漏らしながら立ち上がり「分かったよ! もう、頼まないよ!」と叫ぶと興信所から走り出ていった。
零は、その背中に「あ!」と声を掛けて手を伸ばす。
そして項垂れると、「…どうしよう」と呟いた。
そんな零に、見透かすような視線を送りながら武彦は口を開く。
「あーあー、困ったなぁ」
「え?」
驚いたように顔を上げる零。
「あいつ、金置いてっちゃったな」
そう言いながら、ヒラヒラと一枚の紙を見せる。
「これ、健司が書いてくれた連絡先と住所。 んで、忘れ物の金」
「……え?」
「届けてくれるか?」
そう首を傾げられて、零は勢い良く頷く。
すると武彦は、少し笑って、「ホイ」と紙を渡してきた。
健司の家は、下町にある、古く、今にも倒れそうな姿をしていた。
零が、そっと中を覗き込めば、開け放した畳の部屋は、荒れ放題の様相を呈している。
どれ程頑張ろうとも、小学生一人では手入れが怠ってしまうに違いない。
祖母の世話だって、大変な筈だ。
ご飯はどうしているのだろう?
そう考え出すと、もう、駄目だった。
零は、トントンとドアをノックしながら決意する。
「お節介だって言われようと、私、この一夏、この家の家事を手伝ってあげよう」と。




本編


つるりと、汗が、額から滑り落ちる。
脳味噌が沸騰しそうな位暑い。
暑い。
暑い。
しかし、海月は黙々と庭に生えている雑草を引き抜き続けていた。
心頭滅却すれば、また火も涼しではないが、何かに夢中になっていれば自然、暑さも忘れるものである。
興信所にて聞き及んだ今回の、このボランティア活動ともいうべきタダ働きに、首を突っ込む気になったのは偏に、この庭の惨状を目にしてしまったからというのがある。
頼まれた仕事の現場近くにあったものだから、覗いてみるだけ覗いてみるかと立ち寄ってみれば、真っ先に荒れ放題の庭が目に入った。
その時、この家の手伝いに参加していたのは、皆女性ばかりで、庭仕事のような体力仕事に向いている人もおらず、ついつい手を出し始めたのだが、後に男手が増えても、どうしても他人に譲れなくなり、今もこうやって夢中になって草を抜いている。
この庭には荒れ果ててはいたが花壇らしきものもちゃんとあって、そこは既に整理し、花の種を植えておいた。
それから、健司の夏休みの自由研究に使われるらしい朝顔の花も咲き始めていて、夕方になると、健司と二人で水やりをするのが日課になっている。
健司の祖母である、立花志之も荒れていた庭は気になっていたらしく「助かるよ」と笑顔で言ってくれた。
志之は、海月が想像していたよりもずっとかくしゃくとしていて、覇気があり、何というか格好良い老人だった。
されど、確実に病魔が体を蝕んでいるのだろう。
痩せ衰えた体が、痛々しく目に映ったのも否めない。
その心を少しでも癒せたらと、海月は益々、庭仕事にのめり込む。
家の屋根では、雨漏りが酷いと聞いたので、シオン・レ・ハイという端正で落ち着いた物腰の男性がトンカチを振るい、修繕にあたっていた。
仕事に熱中し続ける、海月。
昼食に滅法巧い中華料理を相伴に預かったお陰で、気分も悪くない。
汗を拭いつつ「向こうの植え込みも、刈り込んでおくか…」と、大鋏片手に、近付けば、大きな植え込みの中に、魏幇禍が潜んでいた。
思わず目を見交わし、暫しの沈黙が二人の間を満たす。
魏幇禍は、黒髪に入った銀メッシュと右目につけた眼帯が特徴的なスーツ姿の美青年で、海月と同じく、この家に手伝いに来ている健司の友人の鬼丸鵺という少女の家庭教師兼護衛兼婚約者らしい。
鬼丸鵺が遊びに来ている日は、こうやって必ず庭なり物陰なりに幇禍が隠れており、鵺の事を見守っていたりする。
正直、端から見ていてすこぶる怖い。
だが、海月にしてみれば護衛とはそういうものなのだろうか…なんて、分からない世界の事なので、納得している部分もあって、今日も幇禍に植え込みに隠れながら「お疲れ様です」と言われたので「あんたもな」と言い返しておいた。
最初に会った日に「俺の事は、庭の木の一部かなんかと思っておいて下さい」と言われていたので、海月はそれ以上気にせず、刈り込み始める。
幇禍も、海月の事は気にしないまま、じっと家の中の様子を伺っていた。
そう言えば、今日の昼食を作ってくれたのは、この幇禍では無かったか?とぼんやり思い出し「あんた、料理巧いな。 美味かった。 特に、あの、鶏肉のカシューナッツ炒めが、良かった…」と伝えれば、嬉しげに「うあ。 有り難う御座います。 じゃ、今度は、天津飯ご馳走しますよ」と答えてきた。
植え込みに潜んでいる風体は、奇妙極まりないがこうやって話していると、性質は良い人間のように感じられる。
しかし、何というか時折フッと漏れ出る、不穏な空気がカタギの人間でない事を知らせてきて、幇禍含め、この家に集ってくるバラエティー豊かな面々の顔を思い浮かべると海月は興信所に集まる人間の層の幅広さに思いを馳せた。


さて、それから暫く、庭内を転がっているゴミ拾いに熱中していると、家の中から初瀬日和が澄んだ声で「海月さん。 シオンさん。 休憩にして、アイス頂きませんか?」と呼んでくる声が聞こえた。
プロのチェリストを目指しており、声楽にも精通しているとかで、初瀬の声は良く響く。
外見も声と同じく透き通るような美しさの持ち主で、恋人の羽角悠宇などは、一緒に手伝いに来た日は、ぶっきらぼうに振る舞いながらも、丁寧に扱っておりとても大切にしている事を伺わせた。
海月は、頷いて返事し、シオンも「今、行きますね」と言いながら慎重な足取りで梯子を下る。
「お昼をまわって、益々暑くなってきましたねぇ」
そう言われ、コクンと頷く海月。
二人連れだって、台所の奥にある茶の間へと向かう。



古い家らしく、台所と畳の茶の間が襖と段差だけで区切られており、開け放って風を通しがてら皆で集まれるようにしてあった。
家自体は広く、部屋数も二人で住むには充分すぎる程ある家なので、泊まり込みで来てくれている人達も銘々の部屋があてがわれていた。
と、いっても、今回殆ど住み込みで健司と志之の世話をしている、儚げな美少女、暁水命などは心配だからって事で志之の隣で布団を敷いて寝ているし、小学生ながらも驚くべき程大人びている飛鷹いずみや鵺等は泊まりにきた時は健司と一緒に並んで寝ているようで、それぞれの部屋などあってなきが如しのようだった。
初瀬日和が、ここに来がてら差し入れとして買ってきてくれたアイスを振る舞う。
海月は、無造作にカップに入った小豆かき氷を選ぶと、ガシガシと備え付けのスプーンで削り、食べ始めた。
火照った体に、氷の冷たさが心地よく、吹き渡る風を頬に感じながら、海月は「ふぅっ」っと小さく息を吐く。
そんな風にくつろぐ海月に、いずみと健司が連れ立って側へやってきた。
「ん?」
そう低い声で聞けば、健司が「あのさ、あのさ…」と胡座をかいた海月の膝に手を掛けて「朝顔って、いつになったら咲くか、分かる?」と聞いてくる。
いずみが、肩をそびやかし「だから、もうすぐだって言ってるでしょ?」と言い、健司がむぅと頬を膨らませ「だって、気になるんだもん」と言い返した。
海月は、「…そうだな。 あの様子じゃ、あと一週間以内には咲くんじゃないか」と静かに答え、再びかき氷を口の中に放り込む。
いずみが、クレープアイスにぱくつきながら「ほらね? 私の言った通りじゃない」と得意げに言った。
すると健司は「ふーんだ。 俺も、そんなもんかなって、思ってたよ」と言い返し、それから海月の体に後頭部を凭れさせながら「早く、朝顔咲かないかなー」とつまらなそうに呟いた。
海月は怪訝に思い問い掛ける。
「どうして、そんなに朝顔に咲いて欲しいんだ?」
すると、健司は「へへへ」と照れ臭そうに笑ってそれから、海月に「あのね、お婆ちゃんああ見えて、花好きなんだよね。 そいでね、朝顔が一等好きな花なんだ。 咲いたら、見せてやるんだ」と答えた。
海月は、「そうか」と一言だけ答えて、グリグリと健司の頭を撫でる。
すると、「へへへへ」と一層笑って、健司は海月に体重を掛けてきた。
いずみが「子供ね。 甘えちゃって」と笑って言う。
そんなこまっしゃくれた態度が面白く、海月はからかうようにいずみの頭も撫でてやった。

休憩後、再び庭仕事再開。
シオンが、鵺・いずみ・健司を引きつれて歩いている。
みな銘々に道具を持たせて貰っており、シオンの後ろをついて歩く姿が、なんだかカルガモの親子を連想させる。
鵺は中学一年生という事で、まだあどけない無邪気の笑顔を見せながら、「どこら辺から直すのー?」とシオンに聞いていた。
銀髪、赤目の美少女で、幇禍が骨抜きになっているのも、分からないでもない。
海月は、微笑ましく感じながら、作業を続ける。
海月が休憩後の仕事に一層精を出し始めた時だった。
カツカツと、軽い足音を立てて、一人の日本美人な風貌の女性が家の前に現れた。
暫しの逡巡の後「あの……」と小さく声を掛けてくるので顔をあげ、無表情のまま首を傾げる。
「…誰だ?」
意識してではないのだが、端から見れば無愛想に見える口調で問いかければ、少しビビリつつも女性は、「武彦さんからお話聞いてきました。 雨柳凪砂と申します」と答えた。
ああ、新しく、手伝いに来てくれた人か。
海月は、合点がいって、一度頷くと「俺は、諏訪海月。 宜しく」とだけ言い、また、庭仕事へと戻る。
凪砂という女性は、戸惑い一瞬立ち尽くしたものの、気を取り直したように扉の前に立ち、インターフォンを押した。
(インターフォン。 確か、壊れてたよな)
静かに胸中で呟く、海月。
案の定カスッと音を立てて、「……うん、ていうか、インターフォンも壊れてるんだ」と呟いている凪砂。
何だか、凹んだ様子ではあったが、「お邪魔します」と一声掛け、家の中へと扉を開けて入っていった。


さて、それから暫く後。
海月は、庭の隅に数本、赤い美しい花が咲いているのを見付けた。
雑草として処理するのには忍びなく、一旦刈り取った後、かえすがえす眺めてみる。
健司がそんな海月に走り寄り、服の裾を引いてきた。
いずみもすぐ側に立っており「どうした? 水やりには、まだ、日が高いぞ?」と言えば、健司は首を振り、「それ、奇麗な花だな」と告げる。
海月の握る花は、大きな花弁に野生の花の力強さも感じさせ、何故か志之の顔を思い浮かべる。
「…これ、捨てるのも勿体ないし、志之さんの部屋に飾るか」
そう言えばいずみが「宜しいんじゃないでしょうか? とっても、美しい花ですし」と賛同してくれる。
健司も「婆ちゃん、花好きだから喜ぶよ」と笑顔で言い、虫が付いてないかと、確認してみたものの、茎は奇麗だったし、別段飾っても支障はないだろう。
海月は、「じゃ、花瓶を借りに行こう」と言って、二人を連れて玄関へと向かう。
「シオンさんの手伝いは済んだのか?」と、問えば、「この先は、万が一、頭に何か落としたら大変だから、離れてて下さいって言われちゃって…」と不満げに健司が口を尖らせた。


家の中に入り、最も長くこの家に滞在している水命に、花瓶を見掛けなかったかと問いに、台所へ向かう。
台所では、初瀬と水命が和やかに会話を交わしながら夕食の準備をしていた。
「あの、スイマセンが…」
そう、いずみが二人の後ろ姿に声を掛け、振り向かせる。
いずみは大きな目を瞬かせ「あの、…花瓶を探してるんですけど、どこら辺にあるかご存知ありませんか?」と、問い掛けてた。
「花瓶?」
と、首を傾る二人。
健司と海月も足を踏み入れる。
健司の手の中にある花を見掛け、
「…うわぁあ…。 奇麗な花…。 それ、志之さんに?」
初瀬が問えば、健司が頷く。
「野生の花なんだけど、奇麗だから…。 良いですよね?」
健司の言葉に「きっと、志之さん喜びます」と水命は笑顔で告げ、確か、物置を整理していた時に、古ぼけた壺を見掛けたような?と、思い出しつつ「ちょっと待って下さいね?」と声を掛けて、パタパタと二階へ走る。
暫くした後、降りてきた水命が小ぶりの壺を抱え、「これじゃ、駄目ですか?」と問うてくるので、健司がブンブンと首を振り、「ありがとうございます」と礼を言った。
水命が、何度も持ち直したりして、重そうに壺を抱えているので、海月は、ヒョイと取り上げると、埃の溜まっている壺を拭くべく「雑巾、貸してくれないか?」と言う。
「あ、拭くのでしたら、私が…」
水命がそう言うのを、海月は静かな声で「いや。 いい」と留め、考えてみれば、この少女がずっと、働きづめである事を思いだした海月。
渡して貰った雑巾を使い、壺の埃を丁寧な手付きで奇麗に拭うと、埃で黒ずんだ雑巾を健司に渡した。
「……汚れたから、洗ってくれないか?」
そう言われて、健司は張り切ったように頷くと、食べ物を扱う台所の洗い場ではいけないと思ったのだろう。
パタパタと洗面所へ走っていく。
海月は、壺を抱えたまま、「男手は使えよ? 俺も、健司もな…」と言い、水命は素直に頷くと、「あの、今から志之さんの所へ行かれるのでしたら、ご一緒しても宜しいですか?」と問い掛けてきた。
「エマさんと、凪砂さんがお話に行かれてるので、志之さんもそろそろ、喉が渇く頃だし、麦茶お持ちしようと思って」
水命の言葉に、頷く海月。
初瀬に「じゃ、スイマセン。 ちょっと、出ます」と伝えて、麦茶をグラスに注ぎながら健司が戻ってくるのを待ち、壺に水を入れると、いずみも含めて寝所へ向かう。
話の邪魔をせぬよう、足音を立てないよう、寝所へと足を踏み入れた。
寝所では、凪砂が志之に「では、健司君の御両親についてお聞きしたいのですが…」
問い掛けている所だった。
どう考えても大切な話真っ最中である。
海月は早く用事だけ済ませようと考え、花を飾る予定の床の間へと近付く。
いずみはぺこりと初対面らしい凪砂に頭を下げると、健司も慌てて頭を下げいた。
その態度に、焦ったように凪砂も頭を下げ返し、彼女は自己紹介の為に口を開く。
「雨柳凪砂です。 えーと…」
と、そこまで言って何故か言葉に詰まる凪砂。
自分の職業を巧く説明できなかったのであろう。
目を泳がせたまま、凪砂は「じ……自由人です」と、格好良いんだか、目を逸らした方が良い人なんだか良く分かんない事を言った。
海月は、思わず(自由人って…何人だ?)とぼんやり考え込んだのだが、いずみはギョッとしたような表情を見せ「…自由人?」と首を傾げつつも、淡々とした声で「初めまして。 飛鷹いずみです」と挨拶する。
大人だ。
健司も「立花健司です。 あの…、興信所の方ですか?」と自己紹介しつつも、不思議そうに凪砂に問い掛けていて、彼女はブンブンと頷いた。
しかし徹頭徹尾無表情だった海月は、無言のまま壺を殺風景な床の間に置き、どんな案配か眺めてみる。
悪くない。
一人微かに頷く。
背後では、水命が「私、自己紹介まだでしたよね? スイマセンッ! あの、暁水命です」と笑顔で告げ、それから心配になって「大事なお話の邪魔したんじゃないですか?」と問い掛けてた。
いずみも「お邪魔してすいません」と言い、「ほら。 早く、活けちゃおう」と健司の腕を引く。
凪砂は、少し笑って「そのお花どうしたの? キレイね」と健司に聞いた。
コクンと頷く健司。
「あの、か…海月さんが、お庭の掃除している時に、見付けてくれて、で、変な虫もついてないし、このまま雑草と同じ扱いにするのは勿体ないから、お婆ちゃんの部屋に活けようと思って…」
健司がそこまで言った所で、海月はポンと健司の肩を叩き、「花…、早く、水に入れてやれ…」と言う。
健司が頷いて壺の中に、花を活けるのを眺めていれば、志之が凪砂に「あんた、健司の両親について話聞きたいんだろ?」と問い掛けていた。
「あ、はい。 お願いします」
凪砂が、再び志之へと向き直る。
すると志之は、健司に声を掛けた。
「健司。 いい機会だ。 あんたも、話聞いときなさい。 それに、いずみや海月さん、あと水命も…、良かったら聞いてって」
志之の言葉に、海月は床の間の側で胡座を掻き、話を聞く体勢を整える。
志之は、「良かったら…」と言いはしたものの、どうしても聞いて欲しそうな声音をしているように海月には感じられた。
志之は、少し、目を閉じてそれから、少し言葉を選ぶように、話し始める。
「……健司の両親…、聡と恵子はね、どちらも凄く優しい子だった。 健司、あんたは、誇りに思って良い。 誰にでも好かれる、優しい、優しい、お父さんとお母さんだったんだよ…」



志之によれば、聡と恵子という人は本当に優しい人だったらしい。
誰にでも分け隔てなく接し、人への親切を惜しまず、どちらも大変働き者だったそうだ。
志之と同居しながらも、嫁の恵子とはとても仲良くできており、この古い家で、それでも慎ましく、絵に描いたように幸福な家庭を築いていたらしい。
しかし、健司が3歳になったばかりの、二人の婚約記念日。
共働きの二人の休日が、丁度重なったものだから、志之は自分が健司の面倒を見るから、羽根を伸ばしておいでと、無理矢理のように遊びに送り出した。
若くに結婚し、家の事や、仕事に励み、遊びらしい、遊びをしていない聡と恵子を不憫に思った志之からのささやかな贈り物だった。
恵子は何度も恐縮し、聡も健司の事を気にしながらも、やはり志之の申し出は嬉しかったのだろう。
二人は連れだって出掛けた。


そして、夕方頃、志之の家に二人の死を知らせる連絡が入る。


母親が目を離した隙に道路に飛び出した、聡の運転する車の前を横切った子供を避ける為、聡は慌ててにハンドルをきって、道路脇の建物に激突し、助手席に座っていた恵子もろとも二人は死亡した。


「あの子達が死んだのはね、あたしのせいなんだよ」
目を閉じて、囁くように志之が言う。
健司が、即座にその言葉を否定した。
「そんな事ない。 絶対ない。 婆ちゃんは、俺に何遍だって、そうやって言う」
健司は強い視線で、志之を睨んだ。
志之は弱々しく首を振る。
「…違うよ。 あんたの、お父ちゃんとお母ちゃん、死なせちゃったのは、婆ちゃんなんだよ。 ごめんね。 ごめんねぇ、健司」
「っ! 何で謝るんだよ!」
健司が、パッと仁王立ちになった。
「何で! いっつも、俺に…。 分かんないよ…。 俺、よく分かんないけど、でも、婆ちゃんは悪くないって、言ってんじゃん! 謝るなよ! 俺、婆ちゃんが謝ってる姿なんか、見たくないよ!」
クルリと踵を返して走り去る健司。
いずみが慌てて立ち上がり「失礼します」と頭を下げて後を追う。
一瞬の沈黙の後、水命は耐えきれないように言った。
「私も、悪くないと思います。 志之さんが、悪いだなんて、世界中の誰も言えないと思います」
心からそう良い、また黙り込む。
再びの沈黙。
蝉の声が、五月蠅く響き渡る。
そんな中で、海月は口を開いた。
「罪悪感を……」
突然の発言に、ぎょっとしたように、三人から送られる視線も気にせず、淡々と海月は言う。
「罪悪感を、感じなければ、乗り切れないような悲しみはある。 あなたも、きっと、自分のせいだと思う事で、今まで、生きてこれたのだろう。 ならばいい。 そんなあなたには、『あなたのせいではない』という言葉は苦痛でしかないのだろうから。 誰の、言葉も届かないのだろうから…。 しかし、健司は、あなたの事が好きだ」
普段無口な海月が訥々と語る言葉には、妙な説得力があり、皆、何も言わずに聞き入る。
「とても、尊敬している。 感謝している」
志之は、じっと海月の顔を見つめている。
海月も志之から目を逸らさない。
「そういう人は、詫びてはならない。 悔いる姿を見せてはならない。 せめて健司の前では誇り高く、胸を張って、最期まで生き続けいて下さい。 あいつが、これから先、貴方を誇りとして生きられるように…。 お願いします。 どうかお願いします」
それだけ言って、海月はまた、口を噤む。


心からの言葉。

志之は、健司にとって、太陽にも等しい、絶対の存在なのだ。
そんな志之に、詫びられても、健司は苦しい想いをするだけだ。
志之には、毅然としていて欲しかった。
これは、海月の我が儘もあるかもしれない。
それでも、毅然とした志之が、好きだった。


再び、蝉の声が部屋に満ちた。
志之はじっと考えるように、目を閉じ、そして囁いた。
「悪いけど、ちょっと疲れちまったよ。 少し、眠らせてくれないかい?」
志之の言葉に、まず海月が、そして凪砂と水命も立ち上がり、寝室を辞す。
水命は「さ、お料理の続き、戻らなきゃ…」と呟いて、台所へと向かって歩き始めた。
海月も、庭仕事に戻るべく、玄関に向かう。
廊下を数歩ほど歩いた時だった。
「あの…!」と、凪砂が呼び止めてくる声が耳に入った。
海月は、ゆっくりと振り返る。
視線の先には、凪砂だけでなく、彼女の向こうに硬い表情で立ち尽くす水命の姿も見えた。
どうも凪砂は、背後で立ち止まっている水命に気付いていないらしい。
どうしたんだ?と思いつつ、凪砂、水命両者共に、等分に視線を送る。
「……あの……、あ…りがとう、ございました」
凪砂が、礼を言ってきた。
少し首を傾げる海月に、凪砂は言葉を重ねる。
「私は…、何を言えばいいのか分からなかった。 それは、志之さんに対してだけじゃなく、自分に対しても言葉を持たなかった…だから…」
ぺこんと、凪砂は頭を下げた。
「有り難う御座いました」
海月は、そんな風に御礼を言われる事など想像もしておらず、内心困り果てて、頬を指で掻き、それから水命に向かって微かに笑みを浮かべる。
(どうしたもんかね…)
そういう思いを託した視線を、どう受け止めたのだろう。
少し、水命の表情が和らいだ気がした。
そして優しい声で「別に……、俺も、大した事は言えなかった…」とだけ言うと、海月は踵を返す。
日差しはまだキツイ。
熱中症には気をつけないとな…。
と、海月はのんびり考えた。


次の日。
仕事との兼ね合いもあるものの、今の所は暇な時期でもあったので、週四回ほど訪れている海月。
今日は健司に強請られて、虫取りへと付き合わされていた。
電車に乗って30分。
郊外に出れば、まだ、自然の残る山はある。
今日は、シオンに、初瀬の恋人の悠宇、そしていずみが一緒だった。
正直、いずみは虫がそれ程得意でなく、最初来るのを渋っていたのだが、健司が強力に誘ったらしい。
不機嫌そうな顔を見せながらついてきている。
虫取りの提案は、悠宇からで「子供は、外で遊ばねぇと!」などと言っていたが、同時に家の中の家事が嫌だったのだろうと海月は踏んでいた。
虫取り網を掲げて走る健司と、それを追ういずみ。
山の、木々の間を見れば、そこらかしこに虫はいて、「俺、絶対ヘラクレス見付ける!」と張り切った声で健司が宣言した。
悠宇が笑顔で「じゃ、誰が一番虫を捕るか競争だぜ?」と、提案する。
そういう提案で、子供のやる気を促進させるのだなと、海月が感心すれば、悠宇はおもっくそガチンコで、虫を探し始めた。

子供である。

シオンなどは、健司といずみの手を引き「ほら、こういう木なんかが、一杯いるんですよ? 木を蹴ったりして、上から虫を落としたりしても良いですが、木も痛いし、虫もびっくりしますからね? 私達は、手の届く範囲の虫だけ探しましょうか」教えていた。
海月も、健司達の側に行き「…あんま、俺達から離れるな? もし迷子になったら、大声で俺達を呼んで、そこから動くなよ」と言いつつ、目の前を通り過ぎようとしたクワガタをヒョイと捕まえる。
「ほい」
そう言いながら、健司の虫篭に入れてやれば、悠宇が「あーー!」と叫び、「それずりぃよ、海月さん!」と猛然と抗議してきた。
悠宇の態度を子供と思えど、逆に健司を対等の男として扱っているのだな、と感じる海月。
だからこそ、健司も友達のように心を開いて接しているのだろう。
なので、あっさり、その木の隣りにあった、大木から小さめだが、カブトムシを捕まえてやる。
そして、文句を言う悠宇の虫篭にいれてやると「これでイーブンだ」と、至って何でもない事のように言った。
目を丸くして視線を送ってくる一同。
「えーと……プロの方ですか?」
シオンに頓珍漢な事を問われる。
虫取りのプロって……将来性無ぇー…。

そう思いながら、いずみの肩を叩き、「…あっちの木の幹。 あそこに蝶がとまってる」と言い、手を引いて連れていってやった。
おっかなびっくり、蝶に手を伸ばすいずみに囁くように「強く握りすぎるなよ? 優しくな」とアドバイスする。
遠巻きに「やっぱプロだ」と言われつつ、海月は、異常なまでの勘の良さで虫を発見していった。


お昼。
悠宇が持たされたという、初瀬手作りのお弁当を皆で頬張る。
おかかや梅おにぎりと、各種おかず。
冷たい麦茶も勿論持ってきていて、丁度良い草原にシートを広げて腰掛けた。
夏の日差しは、木々に遮断され、涼やかな山の風が吹き渡っていた。
「美味しい!」
おにぎりを頬張り、そう健司が言えば「ま、日和が作ったんだし、当然だな」と、まるで我が事のように悠宇が自慢する。
確かに、かなり出来の良い弁当で、カニかまを真ん中に巻いた卵焼きも、見た目にも鮮やかで美味しい。
シオンは「健司君のお手伝いに来てから、美味しい物ばっかり食べれてて、ラッキーだなぁ。 ありがとうね」なんて御礼をいいつつ、パクパクと箸を進めていた。
午後からは、もう少し奥に虫を探しに行こうかと言い合っている。
皆の虫篭には、それぞれ、それなりの収穫はあったが、皆、もう少しと欲張る気持ちもないではなかった。


だが、それがいけなかったのか。


午後。
まだ、少し虫を怖がるいずみに、捕り方を教えてやってる時だった。
シオンも、悠宇も目を離してしまったらしく、健司が一人、蝉を追って山の奥へと入っていってしまった。
先程まで、側にいたのにと見回せど、見あたらない。
集合場所を分かり易い位置で決め、いずみと海月、シオンと悠宇の組み合わせに別れて探す。


木々の間を歩き、不安定な足下に注意しながら、視線を周囲に配り、耳を澄ませる二人。
時折、「健司ーー!」と大声で呼び、足を止める。
いずみが不安げな顔を隠せないまま「あの馬鹿」と呟いた。
全く同じ気持ちになりながらも、崖から落ちてやしないか、何処かで怪我をしてないかと、海月は自分の中に少しずつ不安が募っていくのを止められない。
健司の見に何かあったら、志之に申し開きのしようがない。
そう思い、少し唇を噛みしめる。
「…何処まで行ったんだ?」
そう呟きつつ、歩く海月の耳に、「誰かーーー!」と叫ぶ、健司の声が聞こえてきた。
いずみも聞こえたのだろう。
顔を見合わせ、慌てて、声のする方向へ走る。
途中転び掛けたいずみの体を抱き抱えるようにして、支えると、まどろっこしくなった海月はヒョイといずみを抱え上げて走った。
「ちょっ! やめっ! 降ろして下さいっ!」
そう叫ぶいずみの声を無視して、軽やかに駆ける海月。
程なく、健司のいる場所へと辿りつく。
健司は、何処にも怪我なく大きな木の下で蹲っていた。
どうやら、ズンズン先に一人で行く内に迷子になってしまったらしい。
そこで、海月の教えを思い出し、大声で助けを呼びながら、じっと誰かが来るのを待っていたのだろう。
いずみを降ろしてやり「すまない。 怖い思いをさせた」とまず詫びる。
いずみが、呆れたように海月を見上げ、それから少し頬を赤らめながら「海月さんってもてるでしょ?」と問い掛けてきた。
少し驚く海月。
首を振れば「自覚なし…か」といずみが呟く。
そうこうしている内に、泣きべそをかきながら此方へ走り寄ってくる健司を、まず、いずみが「バカ。 ほんっとーにバカ。 サイテー」とけなし、そして、海月が何も言わずに頬を叩いた。
ぎょっとしたように見上げてくるいずみ。
健司も驚いたのか、痛みに新たな涙を零しつつも、見開いた目で海月の顔を凝視する。
「自分が、どれだけの人に心配を掛けたか、反省しろ」
それだけ言うと、クルリと踵を返し歩き始める。
慌てて後をついてくる健司。
グスグスと鼻を鳴らしながら「ご…ごめ…ごめんな…さい」と嗚咽混じりに詫びてきた。
海月は何も答えず、黙々と足を進める。
シオンや悠宇も、心配してる事だろう。
早く健司の無事を伝えてやらないと。
そう気が急いて仕方ない、海月の袖をいずみが掴む。
「どうした?」
そう言いながら見下ろせば、「……海月さんは、また、健司を迷子にする気ですか」と言う。
振り返れば、うずくまった健司が「ごめ…んなさい…! ごめ…ごめん……なさい…!」と泣いており、海月は、タオル越しにガシガシと頭を掻くと、健司に近寄りその体をギュッと抱いた。


小さく、胸にスッポリ納まる子供の体。
こんな山の中で、一人ぼっちになったと気付いた時、どれくらい怖かっただろう。


「健司。 俺の言った事を覚えていて、守ったのは、偉かった。 それは、誉めてやる」
そう言えば、怖々と顔をあげてくる。
海月は、柔らかな笑顔を浮かべて「心配…したんだからな」と告げた。
途端安心したように、また泣き、何度も何度も頷く健司。
「男でしょ? ビービーと泣かないの」
そう冷静に言いつつ、いずみが健司の手を握る。
いずみに手を引かれて立ち上がる健司。
反対側の手を海月は握ると、三人は並んで歩き始めた。



「っ! 健司君! 良かった、ご無事で!」
そう言いながら、走りより健司に飛びつくシオン。
悠宇が、眉を吊り上げながら「山ん中で勝手に行動するってどういうつもりだ!」と大声で怒鳴り、それから、へたり込んで「良かったよ。 マジで…」と呟く、そんな二人に頭を深々と下げる健司。
「ごめんなさいっ!」
そう詫びる健司に、シオンは眉を下げ「心配させないで下さい。 私は確実に寿命が縮みました」と言い、そして「…怖かったでしょう? もう安心して良いですからね」と囁きポンポンと健司の肩を叩く。
悠宇も「もう、勝手な行動すんじゃねぇぞ? でなきゃ、約束の釣り、連れてってやんねぇからな?」と言って、健司の頭を軽く叩いた。



帰り道の電車の中で、夕日差す窓から外を眺めていた健司に問うた。
「…怖かっただろう?」
健司は、外を見たまま頷く。
「…一人ぼっちは怖いね」
健司の言葉に「山ん中だしな」と、答えれば、健司は外を見たまま呟いた。
「山の中じゃなくても、一人ぼっちは怖いよ」
海月は、健司の声に、何か言いたい事があるのではないかと思い、黙ったまま耳を澄ませる。
「…一人ぼっちは怖い。 なんか、婆ちゃんが倒れちゃった時の事、思い出しちゃった。 あん時も、俺、もう一人ぼっちになるんじゃないかって、そればっかりで…」
海月は、じっと健司の背中に視線を送る。
「……婆ちゃんのこと、何一つ考えてやれなかった。 駄目だね。 俺」
海月は、視線を健司の背中に据えたまま「自分で駄目だと思うんだったら、駄目だったんだろうな」と言った。
健司が、ゴツンと音を立てて窓に額を当てる。
海月は、言葉を続けた。
「だったら、俺も駄目だな」
健司がその言葉に驚いたように海月を振り返る。
海月は、しっかりと健司と視線を合わせていった。
「大事な人を失ってしまう時、俺も、その人に置いていかれる事ばっかりが怖いと思う。 だから、俺は駄目だな」
健司は、何も言わずに澄んだ瞳で、見上げてくる。
「人間は、そういうもんだよ。 健司。 一人ぼっちは怖い。 死ぬほど怖い。 だから、人に優しく出来んだよ」
そして、海月はスイと視線を正面に向け、唄うように言った。
「お前は、一人が怖いって事を身に染みて知っているから、屹度、他人に凄く優しい人間になる。 俺が保証する。 お前が駄目かどうかは知らないが、少なくとも優しい人間にはなれるよ。 優しいって事は、滅茶苦茶格好良いぞ。 だったら、何でも良くないか?」
健司が、コクンと頷く気配がした。
海月は、少し微笑んだ。



数日後。



その日は早朝から健司や、悠宇と海月、鵺といずみは、釣りへと出掛ける予定になっていた。
次の日の為に泊まり込んだ海月は、希少予定時刻よりも早めに起き、着替えるとそっと階段を降りる。
今日の釣りのために、弁当を作ってくれると言っていた、水命を手伝うために、海月は早めに起きたのだった。
洗面所でサッと顔を洗い、台所へ向かう途中で、同じく水命を手伝う為に起きてきた零と合流する。
台所へ足を踏み入れれば、何度か手伝いに来ている、F1レーサーであり、最速の貴公子の異名を持つ男装の麗人蒼王翼が、忙しい日々を過ごしているであろうに、何処から聞きつけたのか、弁当作りの手伝いに来てくれていた。
卵サンドイッチを作りながら、眠たげに頭を揺らしつつ、唐揚げを作る水命に不安げな視線を送る翼。
「水命さん。 大丈夫ですか? 連日、こちらでお手伝いに励まれているようですし、眠たいようでしたら、僕、全てやっておきますけど…」
翼の言うとおり、健司に聞けば、毎日、夜は遅くまで、この家の為に頑張っているらしい。
翼の言葉にブンブンと水命は首を振る。
「そ、…そんな、お一人だけに…任せられません。 大丈夫です。 作り終えたら…、ちょっと休みますから…」
そう言いながら、料理に励んでいる姿に「また、一人で頑張ろうとしている」と海月は歯がゆさを感じる。
同じ気持ちなのだろう。
「あの、お手伝いします」
と零が二人に声を掛けたので、「何をしたら良い?」と海月も問い掛けた。
突然の登場に驚いた素振りを見せつつも、有り難そうに、「あの、じゃあ、零さんは私が片栗粉をつけ終えた唐揚げを揚げて貰えますか? 海月さんは、リンゴを八つに切って、皮を剥いて塩水につけてって下さい」と頼んでくる。
零は言わずがものが、海月も、一人暮らしで上がった料理の腕を披露すべく、リンゴをお弁当の定番、兎リンゴの形に切り始めた。
腕利き四人の共演で瞬く間に、かなり豪華なお弁当が出来上がる。
眠たげな水命や、手伝ってくれた翼、零に向かって「弁当…、健司達も楽しみにしている。 余計な手間を掛けて済まなかった」と詫びる海月に首を振り、「大物釣ってきて下さいね?」と笑顔で告げる水命。
集合時間が近くなり、健司や、いずみ達が準備を済ませた格好で階段を降りてくるのを見て海月は手招きして二人を呼び「翼さんと、水命さん、それに零さんが弁当を作ってくれた。 御礼、言っとけ?」と言った。
二人は、海月の言葉に頭を下げると、「「ありがとうございます」」と声を揃えて礼を言う。
その余りの可愛い姿に目を細める水命。
零も、ニコニコと笑って「どういたしまして」と答えている。
そんな中、ペタペタと軽い足音を立てて、この季節に暑くないの?と思えるような恐竜の着ぐるみパジャマを着た鵺が現れた。
「ん…んー? あっれ? 健ちゃんも、いずみももう、準備済ませちゃってんの? ヤッバーイ。 起こしてよ、一緒の部屋に寝てるんだからぁ」
そう、志之を気遣っての小声で喚く鵺に、呆れたような視線を送りながら「君ね、小学生の二人に、起こして貰うだなんて情けないと思わないのかい?」と言う翼。
「むぅ。 そのいやぁみ且つ気障ったらしい声…」
そう言いながら翼に視線を送り、顔をしかめて「やっぱり、翼かぁ…」と鵺が呻く。
この二人が犬猿の仲である事は、翼と鵺がこの家で鉢合わせする度に思い知らされてきたが、まぁ、その喧嘩も、仲が良い程喧嘩するの類のやり取りで、正直見ていて微笑ましい。
「大体、この家に泊まり込んでおきながら、中学生にもなって、海月さんのように、自分達の昼食であるお弁当作りの手伝いに来ないってどういう事だい?」
そう言えば、頬を膨らませた鵺が「うっさいなぁ。 鵺、あんまりお料理が得意じゃないもん」と言い、水命が慌てて「いえ、鵺さんも色々お手伝い頑張ってくれてますもの。 気にしないでいいのよ?」とフォローに入った。
そんな水命を、翼は愛おしげに見つめ「水命さん。 貴方は、なんて心優しい人なんだ」と、水命の手を握って囁き始める。
確か、翼は女性の筈だったが、こうしていると丸っきり男性にしか見えないっていうか、そこら辺の男性がこんな台詞言っても、殺意を覚えるだけだ。
「初めて見た時から感じていたけれども、貴方は天使です。 天使そのものです」
美少年めいたその美貌に間近で囁かれ、水命が頬を赤らめている。
鵺が呆れたように「まーた、やってるよ…」と言っているが水命の耳に入らないようで、二人の間に点描が飛ぶような、思わず何劇場だよと、突っ込みたくなる時を経て、漸くコンコンと控えめに玄関をノックする音で、水命の意識は現実に戻ったようだった。
パタパタと足音を立てて、玄関へと走る水命。
悠宇が迎えに来たのだろう。
水命のその後ろ姿を見ながら「可憐だ…」と呟く翼に「は? カレンダー?」と素で鵺が問い返す。
途端、ムッとしたような表情になる翼。
「バカじゃないか? 何でカレンダー? いつ、僕が暦を知りたいなんて言った?」
「や。 でも、翼が言ったんじゃん。 カレンダーって…」
「か・れ・ん・だ! 君に、世界一似合わない言葉だよ」
そう言う翼に、「いーっ」と唇を歪めると「鵺、いっつも幇禍君に可愛い、奇麗、最高って言って貰ってるもん。 翼に何言われたって平気だね!」と言い「もうっ! 翼の作ったお弁当なんか食べなきゃいけないのが、ヤになってきちゃった。 翼ってば、本当に料理巧いの〜?」とむくれる。
そんな鵺に「お言葉だけど、君よりよっぽど上手だよ。 腕前は知らないけど、確信できる」と翼が告げ、売り言葉に買い言葉の典型的な例なんだろう。
鵺が、眉を吊り上げると「じゃあ、今日のご飯作り、鵺もする!」と宣言した。
「一緒に作って、腕前確かめてあげる」
鵺の言葉に、余裕ありげな笑みを浮かべて「良いけど、君、釣り行くんじゃなったっけ?」と言う翼。
鵺は、クルンと健司、いずみ、そして海月の順に視線を送ると「御免! そういう事だから!」と言い、次いで玄関へと走っていった。

結局、鵺は行かない事にしたらしい。
健司は大層名残惜しげだったが、「ま、本人が、そういうやる気を出したのなら、良いのでは?」といずみが言ったのを切欠に、四人は釣りへと出掛けた。



悠宇が知っているという穴場の川は水が澄みきっていて、泳ぐ魚たちの様子まできっちり見えた。
冷たい水から涼しい空気が沸き上がり、川にたどり着くまで40分近く歩いて吹き出した額の汗達を、スゥッと引っ込ませてくれる。



健司は、家にあった、父親が使っていた釣り竿を使い、いずみには海月が昔使っていた竿を貸してやった。
二人とも、釣りは初めてらしい。
悠宇がまず、餌の付け方を教えている。
川魚の釣りにはミミズが一番と、生きたミミズを大量に用意していた悠宇だったが、この前の虫取りで辛うじて昆虫には慣れたものの、流石にミミズが箱の中にのたくっている阿鼻叫喚の図には耐えきれなかったのだろう。
いずみが甲高い悲鳴をあげて、逃げていく。
海月も流石に、女の子にミミズの生き餌を釣り竿につける事は強要できず、いずみの生き餌だけはつけてやる事にした。
健司は悠宇にマンツーマンで、教えて貰っている。
最初は気持ち悪そうにしていたが、次第に慣れていったのだろう。
釣りを始めて一時間もすれば、自分でつけられるようになっていた。
海月は、釣りを初めて間もなく訪れた、クンと、釣り糸を引く感触に、焦らずリールを巻く。
大きめの見事なあまごが釣れ、海月はさして表情をかえないまま水を張ったクーラーボックスへと放り込んだ。
その後、連続して当たりがきたものだから、再び皆が、呆然とした顔で見つめてきて、悠宇が「プロかよ、あんた」と聞いてくる。


虫取りのプロで、魚釣りのプロってどんなだよ…。


と、内心突っ込みつつ、海月は釣りに没頭し始めた。


絶品の弁当を皆で食べた後、いずみは釣りに飽きたのか、パシャパシャと水飛沫を足で跳ね上げながら、男達の釣りを観察し始めた。
絵日記の宿題が出ているとかで、クレヨンを取り出しながら、ノートに何か絵を描いている。
健司は、午前中にあまごを一匹釣っており「あと、二匹は釣るんだ!」と息巻いていた。
川という事で、海月はこの中で一番の年長である事だし、健司やいずみの様子に気を配りつつも、魚を釣っていく。
悠宇の調子も良く、クーラーボックスの中は、満杯になり始めていた。
健司も新たに一匹釣り上げたようで、頃合いかなと思い「…そろそろ、帰るか」と海月は皆に声を掛ける。
すると、健司が切羽詰まったような目で「ごめん! あと、一匹! あと、一匹だけ釣らせて!」と懇願してきた。
正直日が落ちる前に帰りたかったのだが、その目は我が儘を言っているような目ではなく「どうしても釣りたいのか?」と問い掛ければ、真剣な表情で頷いてくる。
悠宇が「いいんじゃねぇ? 釣らせてやろうぜ。 健司、お前、あと二匹釣るって言ってたもんな。 男は、言った事はやり遂げないとな」と言い、どかりと大きな岩の上に腰を下ろした。
海月も、健司が釣り上げるまで待つことに決め、いずみも文句を言わず、今度は、鞄から小さな文庫本を取り出す。
悠宇が「それ、何の本だ?」と問い掛ければ「J・Dサリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』よ。 読書感想文の題材にしようと思って」とシレっと答えた。
小学生で「ライ麦畑〜」に挑むとは流石いずみと、感心する海月。
悠宇も「その年で、『ライ麦畑〜』かよ」と、呆れたように呟いた。


それから一時間。
あれ程、海月の竿には魚が掛かったというのに、健司の竿は一向に反応を見せない。
唇を噛みしめ、ぐっと堪えるように竿を握り続ける健司に、悠宇がそっと近付いて、ポンとその肩を叩いた。
「っ! ごめん。 ごめんよ。 …ずっと、待っててもらってるんだよね」
そう申し訳なさそうに言う健司に「ばぁーか。 俺はな、お前がもう一匹釣るまで、帰る気なんてサラサラねぇからな。 いざとなったら、ここで野宿してでも、お前に釣らせてやるからな。 覚悟しろ?」と笑いかけ、隣りに腰掛ける。
「いいか? 健司。 焦るな、焦るな。 今日は、ここに遊びに来てんだ。 楽しい気持ちで一杯になれ。 言っただろ? お前が元気で明るいいい笑顔を見せられるって事は、婆ちゃんが安心する為にも重要なんだ。 今日帰ったとき、婆ちゃんに笑顔で『釣り、楽しかったよ』って言えるようにしよう。 何にも、俺達は迷惑じゃない。 前みたいに、一人でいなくなる事と違うんだ。 いいか。 焦るな? な?」
そう言う悠宇の言葉にコクリと頷く健司。
それからも、悠宇は、自分の高校の話、サッカーの話と、健司の興味を引きそうな話を続け、健司が大分リラックスした時だった。
クイと傍目にも分かる程、健司の竿がしなった。
目を見開き立ち上がる健司。
いずみが、いつになく感情的な声で「落ち着いて!」と声を掛けた。
コクンと頷き、リールを巻いて魚を側まで引き寄せると、一気に健司は釣り上げる。
悠宇が予め用意して置いた網で掬ってやると、大きなニジマスがビチビチと跳ねていた。
「すっげぇ! やるな、健司!」
悠宇が手放しで誉める。
海月も、グッと親指を立てて健司に向けてやり、いずみが「やれば、出来るじゃない」と先程の興奮した様子を微塵も感じさせない口調で呟いた。



「婆ちゃん! ただいま!」
パタパタと足音をさせて、健司が部屋に飛び込み、共に部屋に入ったいずみに「うるさくしちゃ、駄目よ!」と叱られる声が聞こえてきた。
海月と悠宇は一旦台所に立ち寄り、クーラーボックスを置きにいく。
台所には、鵺と翼、それにシオンがいた。
シオンは、翼と鵺の雰囲気に耐えかねていたのだろう。
二人の姿をみとめるとパァッと表情を輝かせ「おかえりなさい。 如何でした?」と問うてくる。
海月が答えの代わりにクーラーボックスを開けて見せてやれば、シオンよりも先に鵺が歓声をあげる。
「大量だね! 凄い、凄いっ! ねぇ? 健ちゃん、何匹釣った?」
そう問い掛けられて悠宇が指を三本立て「三匹。 初心者にしては、上出来だな」と答えた。
鵺は「すっごい! 誉めてあげなきゃ」と言いながら、ビュンと台所を出ていく。
「もう、料理に飽きたみたいだな…」
呆れたようにそう呟いて、それから二人に翼が麦茶を出してくれた。
「楽しんでましたか? 健司君」
そう問われて、悠宇が自信たっぷりに頷く。
「帰り道なんか。ずーっと、釣りの話してんだぜ? 次はいつ行こうかってな」
悠宇の言葉に、「じゃ、また連れてってあげて下さいよ」と言い、それからふと顔を曇らせた。
「どうした?」
海月が問えば、翼がツと眉根を寄せ、表情を険しくし、「嫌な予感がする」と呟く。
そして、「ちょっと、今から寝所の方へ行ってきます」と言ってくるので、海月まで不安になり「俺も、挨拶がてら行こう」と言えば、シオンも同じ様な気持ちになったのだろう。
「私も、行きます」と言って、立ち上がった。


襖の前に立つ三人。
翼の肩がワナワナと震えている。
襖から漏れてくる声が、翼の肩を震わせていた。
「だってさぁ、翼が、なんか、『ふふん。 君みたいな人は、多分お料理なんて繊細の事ぁ、出来やしないだろうね。 ボンジュール。 ま、お今晩は、ミーが腕によりをかけてデリシャスディナァを振る舞うので、子供達に川遊びに出掛けるが良いさ、モナムール』って言ってきたもんだから、悔しくて…」と、そこまで言った瞬間、我慢しきれなかったのだろう。
「それは、誰の話なのかなぁ?」と襖を開け、絶対零度の声で、鵺に問い掛けた。
憤怒の表情で仁王立ちになっている翼を見上げ、あちゃーと言う表情を見せる鵺。


嫌な予感ってコレか。
いや、当たってたんだけど、そして違う意味で当たってなくて良かったんだけど…。


そう思った海月は、何故か、場違いにも寝所に大きなスイカが転がっているのに目を止めた。
「だぁーれぇーがぁー、そんなアホっぽいっていうか、アホそのもの?な、事を言ったって?」
翼が地を這うような声で問えば、鵺は背後を振り返り、ニコリと笑って「翼ってば、こんな風にいっっっっつも、気障っぽい、喋り方してるじゃない?」と、答える。
「してない! ていうか、そんな喋り方の人間はいない!」
翼は、そう一刀両断すると、既に骨抜きにされているらしい水命が大きく頷いた。
「そうですよ! 翼さんは、そんな変な喋り方しません! もっと、こう、気品溢れる感じで、御伽の国の王子様みたいで、浮世離れしてて…」
水命の微妙にフォローになってない、フォローに、翼が極上の笑みを浮かべ「ありがとう。 水命さん。 君のような人に、そんな風に言って貰えると、凄く嬉しいよ」と囁き、二人の間に少女漫画で言う所の点描のようなものが飛ぶって、二度目だな、この表現。
鵺が小声で「してんじゃん。 気障喋り…」と呟き、その呟きを耳にした翼が再び、鵺を睨み据え険悪な雰囲気が漂い始めら。
その瞬間、庭からえらく剣呑な空気と、同時にここの家に手伝いに来ている人間のものではない、見知らぬ気配を海月は感じた。
剣呑な空気は、幇禍のもので間違いないとして、もう一方の気配がよく分からない。
ただ、別段害意を感じさせる気配ではなかったので(ま、いっか…)と、海月はあっさり忘れると、再びスイカへと意識を戻す。
(冷やさねぇと、駄目なんじゃないのか?)
そう考えた海月は、そのまま、何故か、興信所ボランティア事務員兼武彦の公然の恋人である知的美人のシュライン・エマに側に転がっている大きなスイカに手を伸ばし、これまでのやり取りを全て無視して、ヒョイとスイカを抱え上げた。
「コレ…、冷やさねぇと、美味くねぇぞ?」
そうボソリと、海月が呟けば、パァッと目を輝かせたシオンが「うわ! スイカだ! スイカだ!」と嬉しげに言い、ペシペシと海月の抱えるスイカに手を伸ばして叩く。
シオンがエマにねだったのか、身の詰まった事を知らせる鈍い音を響かせながら、笑みを浮かべて、エマに「ありがとうございます」と御礼を言った。
エマは、すました顔で「いえいえ。 どういたしまして」と返事し、次いで「海月さんは、知ってる? このお家ね、裏手の庭に井戸があるんですって。 で、そこで、スイカ冷やそうかなって考えてたんだけど…」と、話の転換を計る。
井戸?
そんなもんがあったのか。
と、海月は表情に出さずに、驚いた。
すると、鵺がヒョイと立ち上がり、「案内してあげる! 凄いんだよ。 井戸!」と言ってスイカを抱えたままの海月の腕を引き、それからエマに「冷やしてくるね」と言って、そのまま、トトトと、部屋を二人で後にする。


途中、通り抜けねばならない台所に足を踏み入れれば、悠宇と凪砂が会話をしながら机の側の椅子に座っていた。
「どうしたんですか? それ?」
スイカを見た凪砂に不思議そうに問われ、「いや。 エマさんが、何か、持ってきたらしい」と答える。
続けて鵺がはしゃいだように「でね! でね! 井戸で冷やすの!」と言った。
「井戸?」
首を傾げる凪砂に、嬉しげに頷く鵺。
「この家の裏庭にあるんだよ? アレレ? 凪砂さん知らない? じゃ、鵺、案内してあげるよ」
そう申し出る。
「井戸なんてものが、都内にまだ残ってるんですね…」
夢見るように呟いて、凪砂は古い物が好きなのか、目を輝かせて「是非、案内して下さい!」と鵺にねだった。
「その…前に…」
と、言いながら、海月は机の上に置いてあるクーラーボックスから、あまごを取り出す。
こんな図体の大きな物を、放置して置くわけにはいかない。
台所の様子を見るに、夕食の準備の途中と思われるから、川魚たちの内蔵だけでも取り出してボールに氷水と一緒につけておこうと、一旦魚を大きめのボールに移し始める。
存在感のある大きさにも関わらず、全くクーラーボックスの存在に気付いていなかったらしい凪砂が、驚いて「わ! 何ですそれ?」と質問してきた。
「釣り行ったんだよ。 川にな」
黙々と魚たちを、台所にあるボールに移す海月に代わって、悠宇が答える。
「今日はかなり、入れ食いでさ、あんたも夕食食ってくんだろ? 美味い川魚が食えるぜ? 肉じゃが見る限りじゃ、料理作ってる奴の腕は信用出来るしな」
その言葉に、凪砂がみるみる笑顔になる。
悠宇の言うとおり、海月の手の中にある魚達は艶があって美味しそうで、期待しても損のない素材だった。
しかし、鵺はプンとむくれると「翼は、確かに料理上手だけどね! 性格は最悪に悪いし、気障だし、もう、チョーむかつくんだから!」と言う。
そして「大体さ! 『ミーは、女の子の味方ザンス、プロバンス! 世界中の女の子は、ミーの物でありんす〜』とか言うんだったら、私にももっと、優しくしてくれても良いよね!」と、ありもしない事を鵺は喚き、凪砂も水命と同じく翼に骨抜きにされているのだろう。
ムッとした表情で何事か言いかけた。
その瞬間、「だ〜〜かぁぁらぁぁ、それは、誰の話だ!」の怒声と共に、翼が鵺の背後に現れる。
「やっだぁぁ? また聞いてたの? もしかして、翼ちゃんってば、盗み聞きプリンス?」と問う鵺に「…やだなぁ。 そんなプリンス」とぼそっと呟いている、悠宇。
海月も、なるだけ鮮度を保つために、氷水で素早く魚を洗い、内蔵を取り出しつつ(確かに…)と、頷く。
翼は、ワナワナと震えながら「キミは、本当に、僕の神経を逆撫でる天才だね?」と言った後、黙々と魚の内蔵を取り出し、洗っている海月の姿を認めて、慌てたように走り寄ってきた。
「っと、スイマセン! 有り難う御座います。 …って、わ、凄い、手際良いですね」
感心したように言われ、内心ちょっと照れながら「一人暮らし長いから」と答える海月。
「洗うのだけやっておくから、他の料理の準備進めな」
その海月の言葉に、今度は鵺が抗議した。
「えー?!  折角、井戸に案内してあげるつもりだったのに! スイカどうすんのよ?」
そう言われて、そういえばと思い出した海月は「悪いが、サッと行ってきてくれないか?」と言う。
その言葉にむくれた表情で、「じゃ、行こ? 凪砂さん」と凪砂に声を掛ける鵺。
凪砂が頷いて、スイカを抱えようとするも「あ! それ鵺が持ちたい」と、挙手される。
「大丈夫? 重たいわよ?」
と不安げに問いつつも任せれば、細い両手を一杯に広げて、スイカを「うんしょ」の一声と共に、抱えると、鵺は小柄な体をゆらゆらさせながら、先に立って歩き始めた。



魚たちを洗い続ける海月に、翼がトントンと手慣れた仕草で包丁を扱いながら「さっき、庭で見知らぬ気配を感じませんでしたか?」と小声で翼が問い掛けてくる。
海月が静かに、整った翼の横顔に視線を送れば、翼は包丁を一旦止めて視線を返してきた。
「お一方の気配は存じ上げている方のものでしたが、もうお一方のが、どなたのかよく分からなくて。 ただ、悪意はなさそうでしたし、どちらかというと優しげな感じも伝わってきましたので、放っておいてあるのですが、あれ、誰のなんでしょう?」
そう言われ、海月は「ふむ」と呟けば、いつのまにか背後に立っていた零がヒョイと二人の間に顔を覗かせ「何のお話してるんですか?」と笑顔で問うてきた。
翼は、余計な不安を与えまいと考えたのだろう。
「魚の活きが良いですね、って話し合ってたんだ。 今晩は、零ちゃんの為にも、腕によりをかけてこの魚をお料理するからね?」と言いつつウィンクする。
悠宇が、呆れたように「ほんと、すげぇよな。 お前」と呟いた。
「女性に対しての振る舞いとしては、当然だと思うけど?」
とシレっと答える翼。
そうこうしている内に凪砂と、鵺が戻ってくる。
翼は、海月は並んで調理している体勢のまま、凪砂に問い掛けた。
「凪砂さんにお聞きしたいんですけど……」
いきなり声を掛けられて驚いたのだろう。
ビクリと身を跳ねさせ「…っ、っはい!」と、返事をした凪砂に、翼が、心から済まなさそうに「あ、すいません。 驚かせてしまって…」と詫びた後、「あの、庭に隠れてらした方、凪砂さんご存知ですか?」と、先程まで話題にのぼっていた疑問を投げかけた。
結局、隠していてもしょうがないと思ったのだろう。
それに、今日、多分幇禍と同じ時間に、この家に来ている凪砂は、幇禍が連れているらしい人間の事を知っている確率も高い。
凪砂は目をパチパチさせ、「えーと、幇禍さんの事ですか?」と聞いてきた。
すると、凪砂の隣りに立つ鵺が、深い深い、溜息を吐き「どーして、あんなトコに潜むかなぁ」と呟く。
「あ、いえ、幇禍さんじゃなくて…あの、もう一人いらっしゃったと思うんですけど…」そう翼が言えば、海月は続けて「別にどうって事はないし、害意も全く感じなかったが、見知らぬ気配があったからな…」と呟いた。
寝所に行かなかった悠宇は何が何だか分からないって顔で見回していたが、ポンと手を叩くと「幇禍なら、知ってんぜ? あいつ、まだ鵺の事、見守ってんの?」と、面白そうに言う。
その言葉に鵺が頭を抱え「ていうか、悠宇にまで知られてんの? 恥ずかしいなぁ、もう…」と呻いた。
凪砂は、少し笑みを浮かべると「じゃあ、もう一方は新庄さんですね」と答える。
「新庄さん?」
そう首を傾げる翼に、凪砂は「健司君の里親候補です」と告げた。
(里……親?)
里親などという思ってもみなかった言葉に目を剥く海月。
零が素っ頓狂な声で「里親?!」と叫んだ。
「や、ま、確かに、そりゃあ、考えなきゃいけねぇ問題だけどよぉ」
そう呟きながら悠宇が、台所にある丸椅子に腰掛け足を組むと「詳しい話、良いか?」と聞く。
海月も、こればっかりは、ぼんやり聞いていられないと、凪砂の声に耳を澄ました。
凪砂は、頷くと、口を開く。


「つまり、新庄さんは、家族になりたいんだそうです。 健司君の。 そして、志之さんの…。 これからする話はロマンスなんです。 それも、涙が出る位、純粋なロマンス」
そう口火を切った凪砂。
静けさが、また、蝉の声を運んできた。


「まず、始まりは、私が草間さんに対し、健司君の親族関係や、里親になってくれそうな人の調査、捜索依頼を行った事でした。 健司君が、志之さんの死後誰に引き取られるかというのは、重大な問題に思われましたし、放ってはおけなかったので、お節介が過ぎる事を自覚しながらも、せずにはいられなかったのです。 後に、その依頼を幇禍さんが手伝ってくれるという事になり、幇禍さんは、有力なネットワークの持ち主とお知り合いになられているようで、そういうツテも行使しつつ、探してくれたのですが、やはり、健司君には親戚と呼べる人はおらず、志之さん自体、複雑な事情があって、完全に身寄りのない身の上の方でした。 草間さんの調査も暗礁に乗り上げ、さて、どうしようかと悩み始めた時に、幇禍さんの知り合いがある情報を彼に教えてくれたのです。 どうも、健司君や、志之さんの事を、知ってる人がいるらしいと。 その情報先は、ある出版社で、その出版社にお勤めになっていらっしゃる方が、自分の担当先の作家が、もしかすると、その志之さんや、健司君達を知っているのではないかと、幇禍さんのお知り合いに教えてくれました。 幇禍さんは、慌てて、その作家さんのお家、つまり新庄さんのお家を訪ねました。 そこで、全ての事情を説明し、里親になる人を捜している事をお伝えしたところ、それならば、是非自分がという事で、本日お越し願えたという訳です」
そこまで聞いて鵺が、あっけらかんとした調子で凪砂に尋ねる。
「それで、一体、その新庄さんって人と、志之さんはどういう関係なわけ?」
鵺の問いに凪砂は、一旦唇を舌で湿らせ、再び口を開いた。
「新庄さんって方は、健司君のお父さんの学生時代の親友だったそうです。 健司君のお父さんは、随分と親切な好漢だったそうで、新庄さんは昔、大学に通う為に下宿していた家が火事にあってしまい、殆ど身の回りの物も持ち出せずに焼け出された時に、同じゼミだった健司君のお父さんに助けられ、このお家で卒業までの間、お世話になったと言っていました。 その時、既に志之さんのご主人は他界されていたらしいのですが、志之さんは、男手が増えると新庄さんの事を歓迎し、殆ど家族同然として、三人でこの家で、二年ほどの年月を過ごしたそうです。 新庄さんは、余り家庭的に恵まれてない環境で育ったそうで、余計に、その二年は、大事な思い出となったのでしょう。 だけど、新庄さんは、その二年間で、思い出以上の大事なものを見付けました」
翼が、全てを察したように、そっと囁く。
「それが、志之さんなのですね…」
翼の言葉に、息を呑む一同。
話を聞いていれば、友人の母親を好きになったという事で、随分と年も離れているはずである。
だが、同時に、海月は心の何処かで納得している自分を見付けた。
志之は、素敵だ。
若い頃は大層モテたにちがいない。
凪砂は、コクンと頷く。
「30歳近く年が離れていますから、始め新庄さんが、志之さんに想いの丈を告げても、取り合っては貰えなかったそうです。 在学中に、公募の文学賞で受賞し、卒業時には、何とか食べていける位まで新庄さんが、作家として独り立ちしても、志之さんは、新庄さんの結婚して欲しいという申し出に、首を縦に振りませんでした。 でも……、どうなんでしょうね…。 本当に嫌な相手ならば、想いを告げられた時点で、この家を出ていかせるんじゃないでしょうか? 志之さんが、新庄さんの事をどう想っていたかなんて、今となっては分かりませんが、それでも、新庄さんの事を悪しくは考えていなかったんじゃないでしょうか?」
凪砂は、一旦そこで言葉を止め、懐から一枚の写真を取り出す。
そこには、この家の前で並んで立つ、若い頃の志之と、それから健司は父親似なのだなと感じさせる、快活そうな男性、そして、優しげな目をした男性の姿が写っていた。
この男が、新庄だろう。
鵺が手を伸ばし、如何にもしっかりしてそうな、ひまわりのように力強い笑顔を見せる志之の顔を指先でそっと撫でた。
「これ、新庄さんの大事な写真を焼き増しして貰ったんです。 皆さん、御覧になりたいかと思って…」
凪砂が、そう言って笑う。
「素敵な写真ですよね……。 新庄さんが、大学を卒業して一旦地元に帰る前に、撮った写真だそうです。 新庄さんが、地元に戻る前の日、再度、志之さんに自分の気持ちを新庄さんは伝えましたが、志之さんは結局その想いを受け入れず、自分の事は、一時の気の迷いだから、忘れなさい。 もう、私に連絡を寄越してもいけない、と言って聞かせました。 新庄さんは、志之さんのその強い言葉を受け入れながら、それでも、何か困った事があったら、助けが欲しい事があれば、必ず自分を呼ぶようにと伝えて、地元に戻ったそうです」
写真の中の、新城の表情は、笑っていてもどこか憮然としていて、なのに悲しそうで、色々複雑な感情の入り混じっているように見える。
どんな気持ちだったのだろう。
親友の、母親に恋をして、恥も外聞もなく、学生の身で求婚し、その全てを気の迷いと言われて、実家に帰る身というのは、どんな気持ちになるのだろう。
淋しいのだろうか、悲しいのだろうか、憎いのだろうか……。


それでもまだ、愛おしいのだろうか。


「結果を言えば、新庄さんの想いは、一時の気の迷いなどではありませんでした。 志之さんの事が忘れられず、他に女性と付き合っても、どうしようもなかったそうです。 それから、20年近く、結婚する事無く、ずっと、ずっと、ずっと……。 志之さんの事を、想い続けていたのです。 …純愛ですね」
凪砂の言葉に、翼が、静かに答えた。
「羨ましい位の、純愛ですね」
海月は、静かな声で呟く。
「そんなに惚れた女と、漸く再会したっつうのに、それが最期の別れが近い時だというのはどんな気持ちなのだろうな…」
凪砂が、蝉の声に耳を傾けながら答えた。
「悲しいでしょう。 それは、とてもとても、悲しいでしょう。 それでも、最期に会えないまま逝ってしまわれるよりは、屹度、悲しくないのだと思います」
海月は、凪砂の言葉に静かに頷いた。


ずっと、ずっと、一途に相手を想い続ける。
年老いても、尚、相手を愛し続ける。



そういう恋もあるのだろう。



奇跡のように、あるのだろう。





夕食の為に、皆でちゃぶ台を囲む。
食卓には、10人近い人間がついていた。
賑やかな食卓風景。
新庄は、写真に写っている姿よりも太っていて、禿げていた。
年月の無情さというのを体現しているような姿だが、それでも柔和そうな雰囲気と優しい目は変わっていない。
先程も、丁寧に挨拶され、健司の事を知りたいのだろう。
釣りに連れていった話や、虫取りの時の話、朝顔を育てている事などを、無口な海月にとっては辛いほど、事細かに話を聞かれ、シオンと二人で答えていた所である。
「そっか、釣り、好きなんだ」
と嬉しげに言う新庄。
きっと、この男なら、ねだられるままに、何度でも連れていってやりそうだと、違う意味で不安になる。
今も凪砂が健司と、新庄の側に腰を下ろし、二人の会話を取り持とうしていたが、しかし、凪砂があくせくする間もなく、屹度新庄の人柄なのだろう。
健司は完全に、新庄に打ち解けていた。
「で? で? お父さん、そん時どうしたの?」
健司には新庄の事を、亡くなった父の友人とだけ伝えてある。
幇禍の言葉に従った結果らしいが、確かにその方が、打ち解け易くはあったみたいだ。
「んー? 逃げたよ? 自慢じゃないけどね、俺も、聡も喧嘩はからっきしだったんだ。 逃げるが勝ちだよ」
今も、父親と二人で不良に絡まれた時の思い出話を、流石作家と言うべき軽妙な語り口で聞かせながら、健司をカラカラと笑わせている。
健司の隣りに座るいずみも、黙ったまま聞き入っており、子供二人相手にも手を抜いた様子なく、新庄は真剣に語り続ける。
「すっげぇ! で、逃げられたの? 逃げられたの?」
「それがね、向こうも人数が居るからね、挟み撃ちに合っちゃって、で、そん時の聡が凄いんだ。 いきなり、近くにあった、家の塀をよじ登ってね…」
その口調に思わず、聞き入ってしまう海月。
「うん! うん!」
と強い相槌を打つ健司の横腹を、いずみがつつき「ちょっと、うるさい」と言って、可愛らしい言い合いが始まり掛けるも、新庄が話し始めれば、再び意識はそのお話にいくらしく、健司が懐く様に少しだけ淋しい思いをしつつも、「新庄さんになら、任せられそうだ」と海月は安堵した。
その後、健司と新庄、それに何故か鵺を水命が連れて、志之の寝所に食事の世話に向かう。
まわりでは、銘々がそれぞれに会話を交わし、食卓に並べられる料理の数々に期待の眼差しを寄せていた。
その騒がしさの中、海月はぼんやり思った。



大家族みたいだ。






料理を作った翼が照れ臭そうに手を合わせ「いただきます」と挨拶する。
それから皆が一斉に箸を動かし始めるのを眺め、思わず笑ってしまった海月は、まずは自分達で釣った美味しそうな、あまごの塩焼きに箸を伸ばした。
そっと身をほぐし、口の中へ運ぶ。
あまごの柔らかで、でも、弾力のある身がプリプリと舌の上で弾け、ほのかな塩味と共に淡泊で深い味わいが口の中に広がるのを、目を細めて楽しみ、次いで、肉じゃがを、つまんだ。
翼の腕前なのだろう。
あまごは、全く形崩れしておらず、肉じゃがも、中まで味が染みていて、幸せな気分になる。
いずみが「おいしい…」と、思わずといった調子で呟くのを、翼はニコリと微笑んで「可愛いリトルレィディに誉められて、光栄だよ」と告げた。
ああ、今、鵺がいたならば、思う存分突っ込んでいただろうななんて思いつつ、色んな意味で、鵺を連れていった水命に、平和な食卓を守ってくれてありがとうと、感謝の念を捧げる。
零も、幸せそうに箸を口に運んでおり、シオンや凪砂は言うに及ばず、皆が美味しい料理のおかげで幸福そうで、


こういうのもいいものだ…。


と、一抹の郷愁と共に、そう胸で呟く。
そんな風に浸っていた海月の耳に、エマの明るい声が聞こえてきた。
「ね? 食べ終わったらさ、花火しよ? 花火」
その言葉にいずみが、珍しく、パァッと表情を輝かせてエマを見上げた。



ヒュルヒュルッと音を立てて、空で咲く、小さめの打ち上げ花火に零や、鵺が歓声をあげている。
家の奥にあったのを外に引っぱり出した、古い木の机に、切り分けられた西瓜が並んでいる。
と、言っても、物凄い勢いで売れたので、残りはあと僅かだ。
幇禍が、鵺と一緒に、花火を振り回してはしゃいでいた。
また、何処かに潜んでいた所を見つかったのだろう。
自分よりも年上の筈なのに、まるで子供のように見える。
悠宇が呼んだらしく、初瀬が涼しげな浴衣姿を披露しながら、二人並んで、花火をしていた。
縁側には、志之を寝かせて凪砂、エマと水命にシオンと翼、そして新庄が並んで座っている。
皆、スイカ片手に花火を嬉しげに見上げており、海月は少し高揚感を覚えながら、また花火に火をつけた。
いずみと、健司は「すっげぇ!」とか「奇麗ね」等と言い合いながら、海月が打ち上げる花火を、目を煌めかせて見上げている。
海月は、次々と花火に点火しながら、何気ない様子で健司に尋ねた。
「なぁ、健司。 お前、新庄さんの事、どう思う?」
海月の問いに、首を傾げる健司。
「どうって……何?」
問い返されて「気に入るか、気に入らないかって事だ」と答えれば、健司は即座に「気に入ったよ!」と言った。
「だって、お話面白いんだもん。 それに、父ちゃんの友達だしね」
そう答え、それからいずみにも「な? いずみも、そう思うだろ?」と尋ねる。
いずみもコクリと頷くと「素敵な人だと思います。 とってもお優しいし、色んな気遣いが出来る人のように見受けられました」と言った。


子供の目から見ても分かるのか。


そう考えた海月に、いずみがサラリと言った。
「でも、健司にはもう少し時間をあげて下さい」
その言葉に、慌てて二人を振り返る海月。
「…新庄さん、僕の新しいお父さんになる人なんだよね?」
健司が何でもないように、そう言う。
呆然とする海月に、いずみが言った。
「子供だからって、舐めちゃ駄目です。 分かりました。 それに新庄さんも、作家さんなのに嘘つけない人よね。 喋ってる空気や、内容から分かっちゃった」
ペロリと舌を出すいずみの隣で、シャクリとスイカを口にし目を細めた健司が、静かな声で言う。
「正直、俺、新庄さんのこと、好きになってきてるけど、まだ、一緒に暮らせるかどうか分かんない。 本当は、この家にずっといたいけど、それは我が儘だって分かってる。 婆ちゃんは……婆ちゃんには、武彦さんや悠宇さんに言われた通り、心配かけないよう、安心して貰えるようにしっかりしなきゃって分かってるケド………」
健司が足をぶらつかせる。
「しっかりするってどういう事なのかな。 分かんないや。 俺は、ただ、今でも、婆ちゃん死なないでって思っていて、一人ぼっちは嫌で、そういう自分はしっかりしてないのかなって、そればっかり考えてる」
健司は、困ったような顔をして「だからね……」と言い、「まだ、自分の先の事、考えられないや。 新庄さんにも、来てくれてるみんなと同じように接すると思う。 それでもいいよね?」と言う健司。
海月は頷き、再び花火に点火すると、「良いさ。 好きなだけ考えろ。 釣りの時と同じだ。 焦ったってしょうがないからな」と言った。




さて、花火後、全員集合の状態になっている現状を見て「銭湯行かない?」と、鵺が明るい声で提案してきた。
花火の高揚も残っているのだろう。
何だか、帰る気にならず、ここで大人同士なら飲みに行く?となるが、未成年の多い状況で、銭湯という提案は至極素晴らしいものに思える。
「いいな、それ」
そう海月が、珍しく賛同の意を表したのも効いて、志之の世話の為に残るというエマと翼を置いて、一路銭湯へ向かう事になった。
と、言っても泊まり予定の無い凪砂含むメンバー達は、皆、着替えに女性は志之の、男性は亡くなられた志之の旦那さんの浴衣を借り、タオルや石鹸なども、出して貰う。
海月も、紺色の落ち着いた色合いの浴衣を一着借りた。
「洗濯物、大変じゃないですか?」
そう、凪砂が問えば、海月と水命が同時に首を振り、「大丈夫」と言う。
浴衣洗いならば、何度かやった事があるし、大丈夫だろうと、海月は考えていた。
「銭湯、銭湯〜v 初体験!」
楽しげに跳ねる鵺に、「お嬢さん、ちゃんと、前見て歩かなきゃ、転びます」と心配げに、幇禍が注意を促している。
「どんなんでしょうね?」と凪砂が余りにも嬉しそうな笑顔で海月に問い掛けてくるので、銭湯ならば何度も行った事のある海月は思わず「…そんな、大の大人にワクワクする程の所ではない」と無表情に一刀両断してしまう。
しかし、そう言う海月の後ろでは、スキップしそうな勢いで「みんなで、お風呂なんて、楽しみですね!」と健司と一緒になってはしゃぐシオン(しつこいけど、42歳)がおり、何ら説得力がない。
健司も、「銭湯、こんな大人数で行くなんて、すごい!」と満面の笑みで、いずみに「子供ね」と冷たく笑われていた。
ま、しかし、そのいずみも、どこか足取りは軽く、水命や初音、それに悠宇も嬉しげで、銭湯ってそんなに良いとこだっけ?と再び首を傾げてしまう海月だった。


「ここが、私のよく行く銭湯です」
そうシオンが告げたのは、古ぼけたコンクーリート作りの、いかにも銭湯っていう感じの建物で、「ゆ」と書かれたピンクと、紺色ののれんが二つの入り口にそれぞれ掛かっている。
「じゃ、あとでね?」
鵺がそう言って、女性用のピンクののれんをくぐり掛け、「ん?」と足を止めた。
そして身を屈めると「ねぇ、健ちゃんって、今小学校何年生だっけ?」と問い掛ける。
健司が、何でそんな事と首を傾げながら「えーと、三年生だけど…」と答えた。
すると鵺が「じゃ、キミ女湯へGOね!」といきなり、その腕をひっ掴む。
「へ?」
と目を丸くする健司。
しかし、凪砂も「そうよ…ね。 小学生だし良いのよね、 ヨシ、おいで、健司君!」と言い、水命が「頑張ってるんだもん。 背中流してあげますよ」と言えば、初瀬も「じゃ。私は髪洗ってあげます。 だって、考えてみれば一番の功労者だもの」と言う。
突然の展開に目を白黒させる健司を置いて、悠宇が初瀬に「おい! なんで、健司そっち行く事なってんだよ! 馬鹿っ!」と怒鳴り、幇禍が鵺に縋り付くようにして「止めて下さい〜。 小学生とはいえ、もう、男なんですっていうか、駄目です! お嬢さんの玉のお肌をそんな、異性に晒すわけにはいきません!」と喚いていた。


正直、子供相手に何を言っているんだと呆れる海月。


幇禍はいずみに視線を向け「やですよね? 同い年の男の子と、お風呂なんて」と言えば、いずみは「別に、健司は、同い年じゃなくて、年下だもの。 子供よ。 それにね、お兄さん達がそうやって小学生相手に取り乱してるのって、格好良くないよ」と見事に一刀両断し、その言葉が決定打となって、健司の意志関係なく、彼は女湯へと引きずられていった。



銭湯は、非常に空いていた。
まるで、貸し切り状態の大きな風呂に気兼ねなく入浴できることを海月は喜んだ。
「うう…う…うぅぅ」
打ちひしがれるように呻きながら幇禍が湯船で膝を抱えている。
視覚的に非常に鬱陶しいのだが「くっそう。 日和の奴。 男に警戒心なさすぎだ!」と怒りを露わにしながら、ゴシゴシと目を覆いたくなるような強さで自分の肌を泡立てたタオルで擦っている悠宇も厄介だ。
恋愛に目が眩むと、男とはかくもみっともなくなるものか…と冷静に感じつつ、長い髪をシャンプーで洗う。
そんな海月の隣で同じく髪を洗いながら、「海月さんって細身の割りに、結構良い体してますね。 何かスポーツでも?」とシオンが問いかてくるので「いや…別に…」と海月が答えた瞬間だった。
「健ちゃん〜? こぉーんな、上玉さん達に、体洗って貰うなんて、幾らつんでも出来ない経験よ? しっかり、心に刻んでおきなね!」
という、鵺の声が、壁の向こう側から聞こえてきた。
健司は女性陣に体を洗って貰っているのか…と、考える。
その瞬間、隣りに座っている悠宇が「くぅぅぅぅ!」と怨嗟の声とも、泣き声ともつかないような唸り声をあげた。
「…あの、美人揃い達に体を洗って貰うだなんて……確かに、物凄い天国ですよね。 いいな、健司君」と新庄が呟き、見れば幇禍は、完全にブクブクと湯船に沈んでいた。


その後、皆で湯船に浸かって、暫しぼんやりする。
「…疲れが取れる〜〜」とオヤジ臭い事を言うシオンに「…全くだ」と同意を示し、目を閉じる海月。
だが、くつろいでいる男性陣に追い打ちを掛けるように、再び壁向こうの鵺が、凪砂に「…いいな。 凪砂さん、胸大きくて」と言っているのが聞こえてきた。
鵺が続けて「私、まな板みたいじゃん? なぁんか、ヤなんだよね」と言うのが聞こえる。
幇禍が、目を見開き「な…なな、なんて事を…」と呟くのが聞こえた。
「な? 健司だって、胸大きい方がいいよな?」と問うている鵺。
健司が焦ったように「知るか! そんなのっ!」と答えている。
水命も「やっぱ、大きい人がいいですかね?」と、言っていた。
(や、大きさよりも、形の方が…)と、ぼんやり勝手に答える海月。
顔を真っ赤にした悠宇がザバリと立ち上がると「俺、もうあがる!」と宣言し、幇禍も「聞いていられません」と言いつつ出ていった。
流石に大人と言うべきか、動揺した様子なく苦笑を浮かべ「我々も、そろそろ上がります?」と言ってくるシオンと、それに同意する新庄。
海月も頷き立ち上がると、脱衣所へ向かった。


シオン曰わく、欠かせない定番であるらしい、フルーツ牛乳を皆で飲む。
乾いた喉に、冷たいフルーツ牛乳は確かに美味しくて、海月は一気に飲み干した。
その後、浴衣を着るのに四苦八苦している悠宇を手伝いつつ、自分も浴衣を着る。
「似合いますね」と誉めてくれたシオンも、なかなかの着こなしで、幇禍や悠宇もよく似合ってはいるのだが、如何せん丈がたりない。
新庄だけが、泊まり込み予定の為、Tシャツとジャージのズボンで、彼に借りれば良かったかと思いつつも、やはり丈は足りなかったかと諦める。
脛を覗かせつつ、「小柄な方だったんですね、志之さんの旦那さんは」と言うシオンに、悠宇が「や、俺達の図体がでかすぎんだろ」と冷静に答えた。




それからも、海月は、出来るだけ毎日健司の元に通った。
庭は、奇麗に整備され、幇禍が植えた種もポツポツと芽が出始めている。
健司の朝顔は、なかなか開花せず、健司は不安そうだったが、漸く、花が咲いたある朝。



志之が死んだ。



唐突な知らせに、珍しく動揺も露わに駆けつける海月。
志之の寝所には、武彦と手伝いに来ていた者達、健司と新庄の皆が揃っていた。
誰かが呼んだらしい、医者が志之の枕元に座っている。



静かだった。
圧倒的な迄に静かだった。



死の音とは、無音なのだと海月は悟った。
ゆっくりと、静寂を乱さぬよう腰を下ろす。
健司が、志之の右手を握り、新庄が志之の左手を握っている。




聖家族。



聖母子と聖ヨハネを指す言葉が、何故か、頭に浮かんだ。
それ位神々しく、近寄りがたい風景だった。
志之の唇が微かに動く。
新庄が、志之の唇近くまで耳を寄せ、そしてコクリと頷くと、海月を手招きした。
海月が足音を立てぬよう、志之の側へ行き座る。
新庄が、囁くように行った。
「…志之さんが、何か貴方に、仰りたい事があるそうです。 どうぞ、聞いてやって下さい」
そう言われ、耳を志之の唇の側まで近づけた。



「健司…と、仲良くして…くれてありがとう」
その言葉に、海月は微かに震えた。
「あの子……、あんたの事、本当の父親みたいに、思ってる…」
志之の目から、一筋、涙が滑り落ちる。
「……夏休み…あんたの、おかげで、楽しかったって……さ…」
そう言われて海月は、胸が詰まるような思いをし、「俺も、健司のおかげで楽しかった」と答え、「朝顔、見れましたか?」と問うた。
頷く志之。
「…きれぇだったぁ……」
そう言う志之の声が、余りにも穏やかで、海月はそれ以上何も言えなくなる。



志之が、新庄に「…健司の事、頼みます」と告げ、健司には「…幸せに…なりな」と言うのが聞こえてきた。
海月は最期まで、ちゃんとみつめなければならないと思い、じっと志之の顔を見つめる。
志之の瞼がゆっくりとおり、それから、呼吸が、深く、緩やかになり始めた。
健司は、何も言わず、涙も見せず、ぐっと耐えるように志之の手を握り締め続けている。
新庄が、目を真っ赤にしながら、最期の瞬間、志之に囁いた。




「愛してます」




志之が、微かに笑って、頷いたように見えた。







健司が、庭の朝顔を眺め立ち尽くしている。
海月は、そっと近寄った。
「海月さん」
健司は振り返らずとも、誰が来ているのか察したらしい。
名を呼ばれ、「ん?」と短く返事する。



「海月さん。 俺、泣かなかった」
「うん」
「…泣けなかった」
「うん」
健司が、じっと朝顔を見つめたまま言った。
「婆ちゃん安心してくれたかな」
海月は、「ああ。 安心してる」と、断言する。
「もう、大丈夫だなって、お前の婆ちゃんは、安心して天国へ行けた」
そうして、健司の頭にそっと手を置いた。
「偉い。 お前、偉いよ」
健司の肩が小さく震え始める。
海月は、ぐっとその肩を引き寄せた。
「だから、もう…泣いていいぞ。 婆ちゃんには、俺が内緒にしといてやる」
その瞬間ワッと声をあげて、健司が大声で泣きじゃくる。
ポンポンとその肩を叩きながら、海月は「偉い。 健司は偉かった」と囁き続けた。



健司の了承を得て、正式に里親となる事が決まった新庄は、志之との思い出が色濃く残るこの家を失うのは健司にも、そして自分にとっても余りにも辛いからという事で、こちらに移り住んできてくれるそうだ。
海月は、その言葉に、酷く安堵する自分に気付き、どれ程この家を、そして庭を自分が気に入っていたかを思い知る。




昼をまわった朝顔の花はしおれている。
だが、明日の朝になれば、また美しい花弁を広げるのだろう。


海月は、泣き続ける健司の肩をずっと抱きながら、朝顔を見つめ続けた。


ずっと、ずっと見つめ続けた。




  終



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■         登場人物            ■
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 ※受注順に掲載させて頂きました。

【0086/ シュライン・エマ  / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1847/ 雨柳・凪砂 / 女性 / 24歳 / 好事家】
【1572/ 暁・水命  / 女性 / 16歳 / 高校生兼家事手伝い】
【3604/ 諏訪・海月 / 男性 / 20歳 / ハッカーと万屋】
【3524/ 初瀬・日和 / 女性 / 16歳 / 高校生】
【3525/ 羽角・悠宇 / 男性 / 16歳 / 高校生】
【2414/ 鬼丸・鵺  / 女性 / 13歳 / 中学生】
【3342/ 魏・幇禍  / 男性 / 27歳 / 家庭教師・殺し屋】
【3356/ シオン・レ・ハイ  / 男性 / 42歳 / びんぼーにん 今日も元気?】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー兼闇の狩人】
【1271/ 飛鷹・いずみ  / 女性 / 10歳 / 小学生】

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■         ライター通信          ■
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遅くなりまして、遅くなりまして、遅くなりまして、真に申し訳御座いません!
へたれ人間失格人間ライターmomiziで御座います。(切腹)
初めましての方も、そうでない方も、この遅れっぷりには、最早怒りを越えて、呆れられているのではと、怯えるばかりなのですが、全て私が悪いので、どうぞ、三発位殴ってやって下さい。
さて、えーと、毎回、毎回、ウェブゲームのお話に、是非、個別通信をやりたいと考えているのですが、毎回毎回、時間の都合により掲載できません。
ほんま、スイマセン。
なので、ご参加下さった全ての方々に「本当に有り難う御座いました。 再びお目に掛かれましたら、僥倖に思います」というお言葉を贈らさせて下さい。
あと、非人道的な位、長くなってしまった事もお詫び申し上げます。

momiziは、ウェブゲームの小説は、全て、個別視点の作品となっております。
なので、また、別PC様のお話を御覧頂ければ、違った真実が見えるように書きました。
また、お暇な時にでも、お目通し頂ければ、ライター冥利に尽きます。

ではでは、これにて。

momiziでした。