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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


聖家族




オープニング



小さな掌が、大事にくるんでいたたくさんの小銭達を机の上にそっと置いて、不安げに揺れる目で見上げられながら「足りませんか?」と聞かれた瞬間、零は耐えきれず目頭をハンカチで抑えた。
「おこづかいと、お年玉の残りと、あと、お手伝いした時にもらったお駄賃も一緒に持って来たんです」
武彦は小さな依頼人に、いつもの少し憮然とした顔つきで「足りないね」とにべもなく答える。
「大体、ウチは興信所であって、医者ではない。 無理だね」
冷たい言葉。
その言葉に、武彦の前に座る、坊主頭の子供の目からポタポタと涙が零れ落ちた。
「お…お、お願いします。 ば……ばぁちゃん…ずっと、俺の事、一人で育ててくれたから……、俺…どうしたら……いいか…」
そのまま、グシグシと泣き崩れる姿に、零は手を伸ばし、その小さな頭を胸に抱え込む。
「そうよね。 お婆ちゃんいなくなったら、独りぼっちになっちゃうものね……」
依頼に来たこの子の名前は、健司。
まだ、小学生だという。
両親が早くに死に別れ、祖母の手によって育てられたそうだ。
だが、その祖母も、かなりの高齢でこの夏、とうとう倒れてしまったらしい。
その間、健司は一人で家の中の事を切り盛りし、祖母の世話をし、学校にも通った。
だが、そんな健司の懸命な看病にも関わらず、医者の話では、祖母はこの夏一杯の命と考えた方が良いらしい。
「お、お婆ちゃんの事助けて下さい…。 何でもします。 お、俺、何でも…何でもします…」
彼は、この興信所が、不思議な事件ばかりを解決してきているという噂を聞き、藁をも掴む思いで尋ねてきた。
「お婆ちゃんの命…助けて下さい」
しかし、武彦は首を振り、諭すような調子で言う。
「決められた命の長さを、人の手では左右できない。 例え出来てもしてはならない。 お前の婆ちゃんは、立派に生きて、やっとお役ご免の時がきたんだ。 お前は、今、婆ちゃんが生きてる内に、もう一人で立派に生きてけるって見せて、安心してあの世へ行かせてやらなきゃ駄目だ。 有りもしない、命を永らえる方法を探すより、そっちの方がずっと大事なんだ」
武彦の言葉に、健司は首をブンブンと振る。
「ひ……一人で、なんて、無理です。 だって、だって、俺、ずっと婆ちゃんと一緒に……一緒に……」
そんな健司を見て、零は、沈痛な面もちで口を開く。
「一人でなんて、無理よね。 一人は、寂しいものね。 でもね、兄さんの言う通り、無理なの。 お婆ちゃんを助ける事はね、どうしても無理なの」
その言葉に、零と武彦、交互に視線を送った健司は、「う……うぅ…」と嗚咽を漏らしながら立ち上がり「分かったよ! もう、頼まないよ!」と叫ぶと興信所から走り出ていった。
零は、その背中に「あ!」と声を掛けて手を伸ばす。
そして項垂れると、「…どうしよう」と呟いた。
そんな零に、見透かすような視線を送りながら武彦は口を開く。
「あーあー、困ったなぁ」
「え?」
驚いたように顔を上げる零。
「あいつ、金置いてっちゃったな」
そう言いながら、ヒラヒラと一枚の紙を見せる。
「これ、健司が書いてくれた連絡先と住所。 んで、忘れ物の金」
「……え?」
「届けてくれるか?」
そう首を傾げられて、零は勢い良く頷く。
すると武彦は、少し笑って、「ホイ」と紙を渡してきた。
健司の家は、下町にある、古く、今にも倒れそうな姿をしていた。
零が、そっと中を覗き込めば、開け放した畳の部屋は、荒れ放題の様相を呈している。
どれ程頑張ろうとも、小学生一人では手入れが怠ってしまうに違いない。
祖母の世話だって、大変な筈だ。
ご飯はどうしているのだろう?
そう考え出すと、もう、駄目だった。
零は、トントンとドアをノックしながら決意する。
「お節介だって言われようと、私、この一夏、この家の家事を手伝ってあげよう」と。





本編



「あっちぃー…」
言ってもどうしようもないと知りながら、悠宇はそれでも暑さを口にせずにはおれなかった。
とにかく暑い。
庭に転がる石を拾い、生い茂った雑草を刈った。
首にかけたタオルで、汗を拭うと「熱中症になりそうだぜ」と呻く。
連日猛暑を知らせるニュースがTV流れているのに、このような炎天下の労働に勤しんでいるのは、偏に可愛い、可愛い恋人の初瀬日和に頼まれたからであった。
うす茶色の大きな目に見上げられ、澄み切った美しい声で「ね? 悠宇君も一緒に頑張ろう?」などと言われてしまえば、惚れ込んでる立場からすれば、頷かざる得ないだろう。
再び庭にしゃがむ悠宇の汗でべっとりと濡れた背中に、ビュッと冷たい水が掛けられた。
「ひぁ!」と妙な声をあげて、飛び上がる悠宇。
振り返れば、水鉄砲を構えた健司が「アハハハ!」と笑い声をあげている。
その背後では、水鉄砲の貸し出し主らしい、都内にある鬼丸精神病院、院長の娘鬼丸鵺が、手を叩いて笑っていた。
水は、この家の裏手にある古井戸の水らしく、悠夕も時々頭から水を被って汗を流したりするものだから知っているが、かなり深い所から汲み上げている水故に、とても冷たい。
「てっめぇぇ、やぁったな?」
そう言いながら、いい加減仕事に飽きていたのもあって、いい機会だというばかりに、健司の事をおっかけ回す。
そして、途中で、その水鉄砲を奪い取ると、連続して水を浴びせてやった。
「ひぁぁああ!」
そう声をあげて逃げる健司。
小学生ながら、驚く程大人っぽい言動が目立つ飛鷹いずみが呆れたように眺めてくる。
そんないずみの頬に、鵺が手元に持っていた水鉄砲を撃ち、そのうち、窓枠の修繕をしていたシオン・レ・ハイも巻き込んで、皆で盛大な水の掛け合いに発展した。
掃除する筈の庭は水浸しになり、健司の祖母の志之に「あんたらは、何しにきてんだいっ!」と怒鳴られる。
普通、病床の老人というものは、もっとしおらしいもんだと思っていたのに、健司の側は体こそ寝たきりで、病魔に蝕まれてはいるものの、精神は健全且つ堅牢で、ここに来るようになってから、悠宇は事あるごとに叱られていた。
この水掛け合いも、実は今回が初めてでなく、悠宇が来た日は、毎回井戸の周りで行っている。
余りの暑さに耐えきれず、みんなで水を掛け合い、涼むのだ。
そんな様子を見た初瀬に「悠宇君も子供みたいね?」と笑われたが、井戸の水に触れる事自体滅多にない悠宇にしてみれば、とても楽しい一時で、健司と遊び回るのも楽しく、何だかんだ言って、悠宇は悠宇なりに、この生活を楽しんでいた。



さて、そんなこんなで、初瀬がレッスンに行けない日に、悠宇は健司の家を訪ねた。
初瀬曰わく、行けない日に悠宇に言って貰えると、どんな出来事があったのか教えて貰えて安心できるし、逆に自分も教えてあげられるからって事で、その他にも一緒に訪ねて行く日もあったりするし、何だかんだで悠宇は一週間の半分ほど、健司の家を訪ねている計算になる。
この日は、健司と虫取りに行く約束をしていて、健司の他に無愛想な青年諏訪海月、シオン、そしていずみも一緒に行く事になっていた。
虫取りだけでなく、後日には釣りに行く約束も交わしていて、悠宇自身充実した夏休みを送れている。
電車に乗って30分。
郊外に出れば、まだ、自然の残る山はある。
正直、いずみは虫がそれ程得意でないらしく、最初来るのを渋っていたのだが、健司が強力に誘ったらしい。
不機嫌そうな顔を見せながらついてきている。
天気は良く、絶好の虫取り日和で、連日志之の世話や、家の家事などに振り回されていたであろう健司に、楽しい夏休みをプレゼントしたいと考え、今回の虫取りは悠宇が提案していた。



初瀬に最初話を聞いた時、悠宇は愕然とするのを抑えきれなかった。
遊びたい盛り、育ち盛りの子供が、自分の事を顧みず、誰にも頼れずに祖母の世話をしていたのだ。
そんな小学生は健気すぎる。
だから、悠宇は決めていた。
出来るだけ、健司を遊ばせてやろうと。
外を走り回り、夏休みの思い出をたくさん作ってやろうと。



虫取り網を掲げて走る健司と、それを追ういずみ。
山の、木々の間を見れば、そこらかしこに虫はいて、「俺、絶対ヘラクレス見付ける!」と張り切った声で健司が宣言した。
悠宇はその健司の宣言に刺激され、「じゃ、誰が一番虫を捕るか競争だぜ?」と、提案する。
そして、幾ら子供相手とは言え、手を抜く事は、健司やいずみに失礼だと考えた悠宇は、真剣な眼差しで、虫のいそうな木の表面を凝視し始めた。


まるっきり、子供である。


シオンなどは、健司といずみの手を引き「ほら、こういう木なんかが、一杯いるんですよ? 木を蹴ったりして、上から虫を落としたりしても良いですが、木も痛いし、虫もびっくりしますからね? 私達は、手の届く範囲の虫だけ探しましょうか」教えており、海月も、健司達の側に行き「…あんま、俺達から離れるな? もし迷子になったら、大声で俺達を呼んで、そこから動くなよ」と言っている。
あの二人がいるなら、まぁ安心だなと考え、再び虫探しに熱中し始める悠宇の目の端に、
「ほい」
と、言いながら、健司の虫篭にくわがたを入れてやる海月の姿が飛び込んできた。
競争しているという状況に思わず、「あーー! それずりぃよ、海月さん!」と猛然と抗議する悠宇。
その抗議に、海月は頭に巻かれているタオルから出ている悠宇と同じ銀色の一括りにした長い髪を微かに揺らして、首を傾けると、ヒョイとまるで魔法のように、近くにあった木から、カブトムシを捕まえて、悠宇の虫篭にいれてくれた。
「これでイーブンだ」と、至って何でもない事のように言われ、目を丸くする悠宇。
どうしてそんな簡単に…と、驚いていれば、シオンも同じ気持ちなのだろう。
「えーと……プロの方ですか?」
と、頓珍漢な事を問うている。

虫取りのプロって……将来性無さそー…。

そう思っていると、また、虫を見付けたのか。
海月はいずみの肩を叩き、「…あっちの木の幹。 あそこに蝶がとまってる」と言い、手を引いて連れていってやっていた。
おっかなびっくり、蝶に手を伸ばすいずみに囁くように「強く握りすぎるなよ? 優しくな」とアドバイスしている。
その姿を遠巻きにして「やっぱプロだ」と言いつつ、海月に負けぬよう虫を探し始めた。


結局、それなりに収穫はあったものの海月の、異常なまでの勘の良さには敵わず、だが、海月は取った虫を片端から人にやっているので、色んな意味で勝負にならない。
そんなこんなで、結局競争はうやむやになってしまった。


お昼。
家を出る前に、初瀬が早起きして作り届けてくれた弁当を皆で頬張る。
おかかや梅おにぎりと、各種おかず。
冷たい麦茶も勿論持ってきていて、丁度良い草原にシートを広げて腰掛けた。
夏の日差しは、木々に遮断され、涼やかな山の風が吹き渡っている。
「美味しい!」
おにぎりを頬張り、そう健司が言うので、自分の事のように嬉しく思い「ま、日和が作ったんだし、当然だな」と、胸を張った。
健司の言うとおり、初瀬の腕前を遺憾なく披露した出来の良い弁当で、カニかまを真ん中に巻いた卵焼きも、見た目にも鮮やかで美味しかった。
シオンは「健司君のお手伝いに来てから、美味しい物ばっかり食べれてて、ラッキーだなぁ。 ありがとうね」なんて御礼を言いつつ、パクパクと箸を進めている。
皆、午後からは、もう少し奥に虫を探しに行こうかと言い合っている。
皆の虫篭には、それぞれ、それなりの収穫はあったが、悠宇も、もう少しと欲張る気持ちもないではなかった。


だが、それがいけなかったのか。


午後。
ボコボコと木の節の穴が空いているいかにも、虫のいそうな木を眺めている時だった。
海月も、シオンも目を離してしまったらしく、健司が一人、蝉を追って山の奥へと入っていってしまった。
先程まで、側にいたのにと見回せど、見あたらない。
集合場所を分かり易い位置で決め、いずみと海月、シオンと悠宇の組み合わせに別れて探す。


木々の間を歩き、不安定な足下に注意しながら、視線を周囲に配り、耳を澄ませる二人。
時折、「健司ーー!」「健司君ー!」と大声で呼び、足を止める。
「くそっ! 側を離れるなって、あれだけ言ったのに!」
そう言いながらも、不安と心配で胸が押し潰されそうになる悠宇。
虫取りに行こうと誘ったのは、自分だ。
このまま、もしもの事が健司にあったら、自分で自分を許せなくなりそうで、必死に健司を捜し回った。
シオンも、彫りが深く、端正な横顔を心配で曇らせながら「もし、健司君に何かあったら、志之さんにどうお詫びして良いか……」と、先の事まで考えた不安を口にしていた。
かなりの山の奥まで探せど、健司は見つからない。
二人、疲労を忘れて健司の名を呼びながら、歩き回る。
海月や、いずみの方はどうだろう?
健司は見つかっただろうか?
連絡を取り合いたくとも、山の中では携帯の電波が届かず、悠宇は一旦集合場所に戻ろうとシオンに提案した。
「もしかしたら、見つかっているかも知れないし、そうでなかったら、この先の事を相談しないと…」
悠宇の言葉に頷くシオン。
二人、黙りこくったまま集合場所へ向かう。
ただ、健司の無事を祈った。


集合場所に近付くにつれて、いずみが何か言っている声が聞こえてきた。
それに何か言い返すように、少年の声が聞こえてくる。
思わず顔を見合わせるシオンと悠宇。
間違いない。
健司の声だ。
まず、シオンがダッと、山の中を走っているとは思えないスピードで駆け始めた。
「っ! 健司君! 良かった、ご無事で!」
そう言いながら、走り寄り健司に飛びつくシオン。
負けじと、走りシオンに抱き締められている健司の前に立つと、眉を吊り上げながら「山ん中で勝手に行動するってどういうつもりだ!」と大声で怒鳴る。
健司の頬が、赤く腫れており、きっと海月に叩かれたのだろうと確信した。
肝心の海月は、いつも通りの無表情で立っているが、ああ見えて、叱る時はとても怖い人なのかも知れない。
じゃあ、それ以上自分が怒るのもな…と思う悠宇。
へたり込んみながら「良かったよ。 マジで…」と呟く。
そんな悠宇とシオンに健司は頭を深々と下げると、「ごめんなさいっ!」と、大声で詫びた。
シオンは眉を下げ「心配させないで下さい。 私は確実に寿命が縮みました」と言い、そして「…怖かったでしょう? もう安心して良いですからね」と囁きポンポンと健司の肩を叩く。
悠宇も「もう、勝手な行動すんじゃねぇぞ? でなきゃ、約束の釣り、連れてってやんねぇからな?」と言って、健司の頭を軽く叩いた。


帰り道、駅から健司の家まで、悠宇が送ってやる事になった。
手を繋ぎ合いながら、健司が怖々訪ねてくる。
「ね? ね? 釣り……つれてってくれるよね?」
山の中での脅し文句が効いたのか、不安げに瞳を揺らす健司をからかうつもりで「さー、どうしよっかなぁ?」と意地悪げに言った。
「健司は、勝手に迷子になるしなぁ、川だったら、溺れちまうかも知れないから、置いていこっかなぁ?」
悠宇の言葉に、みるみる目を潤ませる健司。
悠宇は慌てて、健司の頭をガシガシと撫でると「ばぁぁーっか! 連れてくよ。 っていうか、釣りはお前が行きたがって頼んできたんだろ? お前が行かなくってどうすんだよ」と言う。
みるみる笑顔になった健司に「現金だなぁ…」と呆れたように悠宇は呟いた。
そして、ちょっと厳しい顔を作ると、悠宇は健司に言い聞かせる。
「でもな、今日みたいのは駄目だ。 勝手にどっか行っちまうなんて事、今度やったら、もうどっこも連れてってやんねぇからな? さっきも言ったけど、川は本当に危ないんだ。 油断してると溺れちまう。 釣りをする時は、絶対俺の目の届く範囲にいる事。 約束、な?」
悠宇の言葉に真剣な顔で健司は頷き「分かった」と言う。
「男と男の約束破ったら、最悪だからな? 覚えとけよ?」
そう悠宇は駄目押しすると、繋いでいた手を、ブンっと振り回した。
自分の手が、凄いスピードで振られるのが楽しいのか「アハハ!」と笑い声を健司があげる。
悠宇は、その手を振り回したまま、健司に「なぁ、健司? 楽しい夏休みにしような?」と言い、笑いかけた。
「いいか健司、お前が元気がなかったりすると婆ちゃんもつられるから、お前が元気で明るい良い笑顔を見せられるって事は、婆ちゃんが安心する為にも重要なんだ。 思い切り遊んで心に栄養補給して、『楽しかったよ』って沢山婆ちゃんに話してやろうぜ? 外に出られない婆ちゃんの分までたくさんの事を見たり聞いたり体験して婆ちゃんに、どんだけ楽しかったか教えてやるんだ。 お前が楽しいと、婆ちゃんだって楽しいからな」
健司はコクンと頷くと、「悠宇も、一緒に遊んでくれる?」と聞いてくる。
「あったりまえだろ? お前だけ楽しい思いなんてさせねぇからな?」
笑いながらそう言って、悠宇と健司はブンブンと繋いだ手を振りながら夕日差す道を歩き続けた。



数日後。



健司と釣りの約束を交わした日。
電車の始発に乗るために、悠宇は途方もない早起きをする。
這うようにしてベッドを降りると、鳴り響く目覚ましを止め、何とかベッドに戻ろうとする弱い心を押しとどめた。
手早く身支度を整え、前日から準備していた釣り道具を背負って、自転車に跨る。
早朝の朝靄立ち上る街を、涼しい空気を切り裂いて一気に駆け抜けると、寝ぼけ眼のまま、健司の家に到着した。

今日の釣りに行くメンバーは、前回の虫取りに言ったメンバーからシオンを除き、鵺を加えた4名だったはずである。
シオンも釣りに行きたがっていたのだが、その日は午前中のバイトが入ったらしく、どうしても無理だった。

早朝という事で、ドアを控えめにノックする。
数秒後、パタパタと軽い足音を立てて走ってくると、暁水命が扉をあけてくれた。
水命は、毎日泊まり込んで、志之と健司の世話をしているという今時珍しい位清い心の持ち主で、暖かで優しげな雰囲気の美少女だった。
悠宇は「オハヨ…」と眠たげな声で挨拶し「用意は出来てんのか?」と、問いかける。
すうと、困ったように「えーと、まだ、鵺さんが…」と水命が言いかけ、(鵺は、まだ用意が出来てねぇのか? しょうがねぇなぁと悠宇は呆れた。
そんな中、鵺がこの季節に暑くないの?と感じてしまうような、着ぐるみ恐竜パジャマを着て駆けてると、何があったのか強情な決意を秘めた表情で「ごめん! 鵺、行けない!」と言う。
目を丸くする、二人。
「は? 行かねぇの? 鵺」
悠宇の言葉に頷き、鵺は「今日のご飯作りの手伝いがあるから行けない!」と宣言した。
「え? でも、料理苦手って…」
そう言いかける水命に「苦手だけど、頑張るもん。 っていうか、翼に言われっぱなしって、メッチャ嫌なんだよね!」と答える鵺。
翼とは、蒼王翼の事を指しているに間違いないだろう。
翼は、女性の身でありながらF1レーサーとして活躍している男装の麗人で、忙しい合間を縫ってこの家を手伝いに来てくれており、何故だか犬猿の仲である鵺とは、会う度に小競り合いを繰り広げていた。
真っ赤な眼を瞬かせ、寝癖のついた銀色の髪も直さないままに、そう宣言した鵺を呆然と見上げる悠宇。
中学一年生だそうだが、正直、無邪気な言動はもっと幼く見える。
いずみと、健司、それに海月が玄関にやってきて、靴をはき始めながら鵺の言葉に、「ま、本人が、そういうやる気を出したのなら、良いのでは?」といずみが言い、名残惜しげに鵺を振り返る健司を含む、四人は釣りへと出掛けた。



悠宇がよく釣りにくる穴場の川は、今日も水が澄みきっていて、泳ぐ魚たちの様子まできっちり見えた。
冷たい水から涼しい空気が沸き上がり、川にたどり着くまで40分近く歩いて吹き出した額の汗達を、スゥッと引っ込ませてくれる。



健司は、家にあった、父親が使っていた釣り竿を使い、いずみには海月が昔使っていた竿を借りていた。
二人とも、釣りは初めてらしい。
悠宇がまず、餌の付け方を教えてやる。
川魚の釣りにはミミズが一番と、生きたミミズを昨日のうちに大量に用意していた悠宇だったが、この前の虫取りで辛うじて昆虫には慣れたものの、流石にミミズが箱の中にのたくっている阿鼻叫喚の図には耐えきれなかったのだろう。
いずみが甲高い悲鳴をあげて、逃げていく。
悠宇も流石に、女の子にミミズの生き餌を釣り竿につける事は強要できず、いずみの生き餌だけはつけてやる事にした。
健司には悠宇がマンツーマンで、教えてやる。
最初は気持ち悪そうにしていたが、次第に慣れていったのだろう。
釣りを始めて一時間もすれば、自分でつけられるようになっていた。
悠宇も、釣り餌をつけた竿を、ヒュンとしならせ川へと投げ込む。
そして、手頃な石に腰を下ろすと、当たりがくるのをじっと待った。
海月はといえば、釣りを始めて間もなく、大きめの見事なあまごを釣りあげている。
そして、さして表情をかえないまま水を張ったクーラーボックスへと魚を放り込んでいた。
(あいつ、何もんだよ…)と、呆れる悠宇。
その後、海月には連続して当たりがきたものだから、再び皆で、呆然とした顔で見つめ、悠宇は「プロかよ、あんた」と呟いておいた。


虫取りのプロで、魚釣りのプロって…わぁ、そんなマルチな…。


とにかく、シレっとした顔で、成果をあげる海月に、ちょっとした対抗心を燃やし始めた悠宇は、じっと水面に意識を集中し、釣りにのめり込み始める。


絶品の弁当を皆で食べた後、いずみは釣りに飽きたのか、パシャパシャと水飛沫を足で跳ね上げながら、男達の釣りを観察し始めた。
絵日記の宿題が出ているとかで、クレヨンを取り出しながら、ノートに何か絵を描いている。
健司は、午前中にあまごを一匹釣っており「あと、二匹は釣るんだ!」と息巻いていた。


段々と悠宇の調子が上がってきている。
何匹か、連続で釣り上げると、かなり気分が良くなって、鼻歌の一つでも出て来そうだった。
海月も、相変わらずの絶好調で、クーラーボックスの中は、満杯になり始めている。
健司も新たに一匹釣り上げたようで、「…そろそろ、帰るか」と海月が皆に声を掛けてくる。
悠宇も、そろそろ頃合いかな?と考えていたところだったので、竿を上げ、帰り支度を始めた。
すると、健司が切羽詰まったような目で海月に「ごめん! あと、一匹! あと、一匹だけ釣らせて!」と懇願した。
驚く悠宇。
正直日が落ちる前に帰りたかったのだが、健司の目は我が儘を言っているような目ではなく「どうしても釣りたいのか?」と海月が問い掛ければ、真剣な表情で頷いてくる。
悠宇はその様子に、「いいんじゃねぇ? 釣らせてやろうぜ。 健司、お前、あと二匹釣るって言ってたもんな。 男は、言った事はやり遂げないとな」と言い、どかりと大きな岩の上に腰を下ろした。
海月も、健司が釣り上げるまで待つことに決めたらしいし、いずみも文句を言わず、今度は、鞄から小さな文庫本を取り出す。
悠宇が気になって「それ、何の本だ?」と問い掛ければ「J・Dサリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』よ。 読書感想文の題材にしようと思って」とシレっと答えてきた。
小学生で「ライ麦畑〜」に挑むとは末恐ろしい小学生である。
思わず「その年で、『ライ麦畑〜』かよ」と、呆れたように呟いた。




それから一時間。
あれ程、海月の竿には魚が掛かったというのに、健司の竿は一向に反応を見せない。
唇を噛みしめ、ぐっと堪えるように竿を握り続ける健司に、悠宇はそっと近付いて、ポンとその肩を叩いた。
「っ! ごめん。 ごめんよ。 …ずっと、待っててもらってるんだよね」
そう申し訳なさそうに言う健司に「ばぁーか。 俺はな、お前がもう一匹釣るまで、帰る気なんてサラサラねぇからな。 いざとなったら、ここで野宿してでも、お前に釣らせてやるからな。 覚悟しろ?」と笑いかけ、隣りに腰掛ける。
「いいか? 健司。 焦るな、焦るな。 今日は、ここに遊びに来てんだ。 楽しい気持ちで一杯になれ。 言っただろ? お前が元気で明るい良い笑顔を見せられるって事は、婆ちゃんが安心する為にも重要なんだ。 今日帰ったとき、婆ちゃんに笑顔で『釣り、楽しかったよ』って言えるようにしよう。 何にも、俺達は迷惑じゃない。 前みたいに、一人でいなくなる事とは違うんだ。 いいか。 焦るな? な?」
そう言う悠宇の言葉にコクリと頷く健司。
それからも、悠宇は、自分の高校の話、サッカーの話と、健司の興味を引きそうな話を続け、健司が大分リラックスした時だった。
クイと傍目にも分かる程、健司の竿がしなった。
目を見開き立ち上がる健司。
いずみが、いつになく感情的な声で「落ち着いて!」と声を掛けた。
コクンと頷き、リールを巻いて魚を側まで引き寄せると、一気に健司は釣り上げる。
悠宇は予め用意して置いた網で掬ってやると、ずしりと重い感触が手に伝わり、大きなニジマスがビチビチと跳ねていた。
「すっげぇ! やるな、健司!」
悠宇は手放しで誉めてやる。
海月も、グッと親指を立てて健司に向け、いずみが「やれば、出来るじゃない」と先程の興奮した様子を微塵も感じさせない口調で呟いた。



「婆ちゃん! ただいま!」
パタパタと足音をさせて、健司が部屋に飛び込み、共に部屋に入ったいずみに「うるさくしちゃ、駄目よ!」と叱られる声が聞こえてきた。
海月と悠宇は一旦台所に立ち寄り、クーラーボックスを置きにいく。
台所には、鵺と翼、それにシオンがいた。
シオンは、翼と鵺の雰囲気に耐えかねていたのだろう。
二人の姿をみとめるとパァッと表情を輝かせ「おかえりなさい。 如何でした?」と問うてくる。
海月が答えの代わりにクーラーボックスを開けて見せてやれば、シオンよりも先に鵺が歓声をあげる。
「大量だね! 凄い、凄いっ! ねぇ? 健ちゃん、何匹釣った?」
そう問い掛けられて悠宇は指を三本立て「三匹。 初心者にしては、上出来だな」と答えた。
鵺は「すっごい! 誉めてあげなきゃ」と言いながら、ビュンと台所を出ていく。
「もう、料理に飽きたみたいだな…」
呆れたようにそう呟いて、それから二人に翼が麦茶を出してくれた。
「楽しんでましたか? 健司君」
そう問われて、悠宇は自信たっぷりに頷く。
「帰り道なんか。ずーっと、釣りの話してんだぜ? 次はいつ行こうかってな」
悠宇の言葉に、「じゃ、また連れてってあげて下さいよ」と言い、それからふと顔を曇らせた。
「どうした?」
海月が問えば、翼がツと眉根を寄せ、表情を険しくし、「嫌な予感がする」と呟く。
どうせ、鵺が、翼の悪口を言ってるとかそんなんだろうと、確信していた悠宇は(そして、大正解)全く気にも止めなかったが、翼が「ちょっと、今から寝所の方へ行ってきます」と言うのを聞いて、海月が「俺も、挨拶がてら行こう」と言い、シオンが不安げに「私も、行きます」と言って、立ち上がった。


誰もいなくなった台所で一人佇む。
鍋からは、出来上がっているらしい肉じゃがの良い香りがプーンと漂ってきた。
釣りから帰って、お腹は最高に空いている。
「…一口くらいなら、良いかな?」
そう一人呟いて、ヒョイと鍋からジャガイモをつまむ。
口の中に放り込めば、ほっこりとした食感に、甘く柔らかな味が口の中に広がって「くぅっ!」と意味の分からない喜びの声をあげた。
次は、人参に手を伸ばしてみる。
これも良く味が滲みていて、甘く、美味しい。
もう一つ、もう一つだけ…と思い、再びジャガイモに手を伸ばしかけた時だった。
「…こら!」
誰かにそう怒鳴られ、びくっと体を跳ねさせる。
(は…初瀬?!)
何故か、叱られると反射的に脳裏に浮かんでくる恋人の顔を思いながら、恐る恐る硬直した視線を、声がした方向に送った。
「つまみ食いは、駄目ですよ?」
見知らぬ日本美人な女性が、腰に手を当てていってくる。
初瀬じゃない事に安堵して、硬直していた体を弛緩させる悠宇。
「ビビッた〜。 初瀬だと思ったじゃねぇかって、まぁ、今日はまだ、来てねぇんだけどな」
そう言いながら、頭を掻き「この肉じゃが食った?」と問い掛けた。
フルフルと首を振るので、悠宇はニカッと笑って、「じゃ、食ってみろよ。 すんげぇ、美味いぜ?」と言う。
一瞬、鍋に手を伸ばし掛けた女性は、ハッと気付いたように手を止めると「って! そうじゃなくて、駄目ですよ? つまみ食いは。 えーと……」と、そこまで言って、困ったように眉を下げた。
初対面だから当然だが、名前を呼ぼうとして知らない事に気付いたのだろう。
悠宇は快活な声で「あ、俺は羽角悠宇。 あんたは?」と、自己紹介し、相手の名も問う。女性は「雨柳凪砂です」と答え、それから、先程の言葉のせいだろう。
「初瀬さんとお知り合いなんですか?」と聞いてきた。
どうやら、この女性も、この家に手伝いに来ている人々の内の一人で初瀬にも、既に会っているらしい。
凪砂の言葉に、どう返して良いのか一瞬悩み、顔が真っ赤になるのを止められないまま「や、し……知り合い? 知り合いっつーか、なんつぅか…」と、口ごもり、悠宇は俯いた。
その態度から全て察したらしい。
「お付き合いされているんですね?」
と、凪砂に確信を持って問われ、顔を真っ赤にしたまま、悠宇は小さく頷く。
凪砂は、そんな悠宇の様子を見てクスリと笑うと、それ以上は突っ込んでこず、「お若いのに、ボランティアのお手伝い参加なされるなんて感心です」と、話題を変えてくれた。
だが、今度は誉められた事に照れ「や、俺がっつうか、初音に言われて来てるんだけどな…」と言いつつ、悠宇は鼻の下を擦る。


そんな会話をしている時に、パタパタと慌ただしい足音を立てて、鵺と海月が現れた。
何故か海月は、大きな大きなスイカを抱えている。
「どうしたんですか? それ?」
凪砂が不思議そうに問えば、海月が「いや。 エマさんが、何か、持ってきたらしい」と言い、鵺がはしゃいだように「でね! でね! 井戸で冷やすの!」と言った。
「井戸?」
井戸の存在を知らないのだろう。
凪砂が首を傾げれば、鵺が嬉しげに頷く。
「この家の裏庭にあるんだよ? アレレ? 凪砂さん知らない? じゃ、鵺、案内してあげるよ」
そう鵺が申し出る。
「井戸なんてものが、都内にまだ残ってるんですね…」
と、夢見るように呟いて、凪砂は古い物が好きなのか、目を輝かせて「是非、案内して下さい!」と鵺にねだった。
「その…前に…」
そう言いながら、机の上に置いてあるクーラーボックスから、あまごを取り出す海月。
存在感のある大きさにも関わらず、全くクーラーボックスの存在に気付いていなかったらしい凪砂が、驚いて「わ! 何ですそれ?」と質問してきた。
「釣り行ったんだよ。 川にな」
黙々と魚たちを、台所にあるボールに移す海月に代わって、悠宇が答えてやった。
「今日はかなり、入れ食いでさ、あんたも夕食食ってくんだろ? 美味い川魚が食えるぜ? 肉じゃが見る限りじゃ、料理作ってる奴の腕は信用出来るしな」
その言葉に、凪砂がみるみる笑顔になる。
悠宇の言うとおり、海月の手の中にある魚達は艶があって美味しそうで、期待しても損のない素材だった。
しかし、鵺はプンとむくれると「翼は、確かに料理上手だけどね! 性格は最悪に悪いし、気障だし、もう、チョーむかつくんだから!」と言う。。
そして「大体さ! 『ミーは、女の子の味方ザンス、プロバンス! 世界中の女の子は、ミーの物でありんす〜』とか言うんだったら、私にももっと、優しくしてくれても良いよね!」と、ありもしない事を鵺は喚き、その瞬間、「だ〜〜かぁぁらぁぁ、それは、誰の話だ!」の怒声と共に、いつのまにか鵺の背後に立っていた翼に冷たい瞳で睨み降ろされていた。
「やっだぁぁ? また聞いてたの? もしかして、翼ちゃんってば、盗み聞きプリンス?」と問う鵺に「…やだなぁ。 そんなプリンス」と思わずぼそっと呟いてみる、悠宇。
翼は、ワナワナと震えながら「キミは、本当に、僕の神経を逆撫でる天才だね?」と言った後、黙々と魚の内蔵を取り出し、洗っている海月の姿を認めて、慌てたように走り寄る。
「っと、スイマセン! 有り難う御座います。 …って、わ、凄い、手際良いですね」
感心したように言われ、「一人暮らし長いから」と、素っ気なく答える海月。
「洗うのだけやっておくから、他の料理の準備進めな」
その海月の言葉に、今度は鵺が抗議した。
「えー?!  折角、井戸に案内してあげるつもりだったのに! スイカどうすんのよ?」
そう言われて海月は「悪いが、サッと行ってきてくれないか?」と言う。
むくれた表情で、「じゃ、行こ? 凪砂さん」と凪砂に声をかける鵺。
凪砂が頷いて、スイカを抱えようとするも「あ! それ鵺が持ちたい」と、手を挙げた。
「大丈夫? 重たいわよ?」
と、凪砂が不安げに問いつつも任せれば、細い両手を一杯に広げて、スイカを「うんしょ」の一声と共に、抱えると、小柄な体をゆらゆらさせながら、先に立って歩き始めた。


悠宇は、台所に並んで立つ翼と海月の後ろ姿を見ながら、早朝からの釣りの疲れが出たのか、ウトウトし始めた。
カクリと首を落としかける悠宇の耳に小さな声で「わっ!」と誰かが声を掛けてくる。
驚き、声もなく飛び上がって目を向ければ「くくく」と笑って、零が立っていた。
「悠宇さん、釣りご苦労様でした。 でも、ここで寝ちゃったら、後ろに倒れちゃうと思いますよ?」
そう言われて、収まらない動悸を抑えつつ「だってら、もっと優しく起こせよ」と言う、零は「はーい」と笑って答えると、今度は翼と海月が何事か話している間へと首を突っ込んだ。
「何のお話してるんですか?」と、問う零に、翼が笑顔で「魚の活きが良いですね、って話し合ってたんだ。 今晩は、零ちゃんの為にも、腕によりをかけてこの魚をお料理するからね?」と言いつつウィンクする。
悠宇は、此処に来て度々見られる翼の女性を口説く姿を思い浮かべながら、心底呆れたように「ほんと、すげぇよな。 お前」と呟いた。
「女性に対しての振る舞いとしては、当然だと思うけど?」
とシレっと答える翼。
そうこうしている内に凪砂と、鵺が戻ってくる。
翼は、海月は並んで調理している体勢のまま、凪砂に問い掛けた。
「凪砂さんにお聞きしたいんですけど……」
いきなり声を掛けられて驚いたのだろう。
ビクリと身を跳ねさせ「…っ、っはい!」と、返事をした凪砂に、翼が、心から済まなさそうに「あ、すいません。 驚かせてしまって…」と詫びた後、「あの、庭に隠れてらした方、凪砂さんご存知ですか?」と、意味の分からない疑問を投げかけた。
凪砂が目をパチパチさせ、「えーと、幇禍さんの事ですか?」と聞いている。
幇禍ならば知っている。
鵺の家庭教師兼婚約者兼護衛だそうで、黒髪に銀メッシュの入った、右目に眼帯をしたスーツ姿の男前なのだが、鵺の事となるとどうも挙動が不審で、鵺がこの家にいる時は、大体庭でその様子を伺っていたりする。
悠宇が庭掃除をやっている時などに、よく会話を交わすのだが、好青年風の喋り方をしながらも、何処か危険な匂いのする男性だった。
凪砂の言葉に、鵺が、深い深い、溜息を吐き「どーして、あんなトコに潜むかなぁ」と呟く。
「あ、いえ、幇禍さんじゃなくて…あの、もう一人いらっしゃったと思うんですけど…」そう翼が言えば、海月は続けて「別にどうって事はないし、害意も全く感じなかったが、見知らぬ気配があったからな…」と呟いた。
悠宇は益々何が何だか分からなくなり、混乱した顔で周りを見回していたが、ポンと手を叩くと「幇禍なら、知ってんぜ? あいつ、まだ鵺の事、見守ってんの?」と、面白そうに言う。
その言葉に鵺が頭を抱え「ていうか、悠宇にまで知られてんの? 恥ずかしいなぁ、もう…」と呻いた。
どうも、これまでの会話から推察するに、先程まで皆で行っていた寝所にて、翼と海月が見知らぬ気配を庭から感じたらしい。
で、その気配が誰かを、この様子を見る限りじゃ凪砂は知っているのだろう。
凪砂は、少し笑みを浮かべると「じゃあ、もう一方は新庄さんですね」と答える。
「新庄さん?」
そう首を傾げる翼に、凪砂は「健司君の里親候補です」と告げた。
(里……親?)
里親などという思ってもみなかった言葉に目を剥く悠宇。
零が素っ頓狂な声で「里親?!」と叫んだ。
だが、考えてみれば、志之の死後、健司の面倒を見ていく人は確かに必要なのである。
「や、ま、確かに、そりゃあ、考えなきゃいけねぇ問題だけどよぉ」
そう呟きながら悠宇は、台所にある丸椅子に腰掛け足を組むと「詳しい話、良いか?」と凪砂に聞いた。
凪砂は、頷くと、口を開く。


「つまり、新庄さんは、家族になりたいんだそうです。 健司君の。 そして、志之さんの…。 これからする話はロマンスなんです。 それも、涙が出る位、純粋なロマンス」
そう口火を切った凪砂。
静けさが、また、蝉の声を運んできた。


「まず、始まりは、私が草間さんに対し、健司君の親族関係や、里親になってくれそうな人の調査、捜索依頼を行った事でした。 健司君が、志之さんの死後誰に引き取られるかというのは、重大な問題に思われましたし、放ってはおけなかったので、お節介が過ぎる事を自覚しながらも、せずにはいられなかったのです。 後に、その依頼を幇禍さんが手伝ってくれるという事になり、幇禍さんは、有力なネットワークの持ち主とお知り合いになられているようで、そういうツテも行使しつつ、探してくれたのですが、やはり、健司君には親戚と呼べる人はおらず、志之さん自体、複雑な事情があって、完全に身寄りのない身の上の方でした。 草間さんの調査も暗礁に乗り上げ、さて、どうしようかと悩み始めた時に、幇禍さんの知り合いがある情報を彼に教えてくれたのです。 どうも、健司君や、志之さんの事を、知ってる人がいるらしいと。 その情報先は、ある出版社で、その出版社にお勤めになっていらっしゃる方が、自分の担当先の作家が、もしかすると、その志之さんや、健司君達を知っているのではないかと、幇禍さんのお知り合いに教えてくれました。 幇禍さんは、慌てて、その作家さんのお家、つまり新庄さんのお家を訪ねました。 そこで、全ての事情を説明し、里親になる人を捜している事をお伝えしたところ、それならば、是非自分がという事で、本日お越し願えたという訳です」
そこまで聞いて鵺が、あっけらかんとした調子で凪砂に尋ねる。
「それで、一体、その新庄さんって人と、志之さんはどういう関係なわけ?」
鵺の問いに凪砂は、一旦唇を舌で湿らせ、再び口を開いた。
「新庄さんって方は、健司君のお父さんの学生時代の親友だったそうです。 健司君のお父さんは、随分と親切な好漢だったそうで、新庄さんは昔、大学に通う為に下宿していた家が火事にあってしまい、殆ど身の回りの物も持ち出せずに焼け出された時に、同じゼミだった健司君のお父さんに助けられ、このお家で卒業までの間、お世話になったと言っていました。 その時、既に志之さんのご主人は他界されていたらしいのですが、志之さんは、男手が増えると新庄さんの事を歓迎し、殆ど家族同然として、三人でこの家で、二年ほどの年月を過ごしたそうです。 新庄さんは、余り家庭的に恵まれてない環境で育ったそうで、余計に、その二年は、大事な思い出となったのでしょう。 だけど、新庄さんは、その二年間で、思い出以上の大事なものを見付けました」
翼が、全てを察したように、そっと囁く。
「それが、志之さんなのですね…」
翼の言葉に、息を呑む一同。
話を聞いていれば、友人の母親を好きになったという事で、随分と年も離れているはずである。
だが、同時に、悠宇は心の何処かで納得している自分を見付けた。
志之は、素敵だ。
若い頃は大層モテたにちがいない。
凪砂は、コクンと頷く。
「30歳近く年が離れていますから、始め新庄さんが、志之さんに想いの丈を告げても、取り合っては貰えなかったそうです。 在学中に、公募の文学賞で受賞し、卒業時には、何とか食べていける位まで新庄さんが、作家として独り立ちしても、志之さんは、新庄さんの結婚して欲しいという申し出に、首を縦に振りませんでした。 でも……、どうなんでしょうね…。 本当に嫌な相手ならば、想いを告げられた時点で、この家を出ていかせるんじゃないでしょうか? 志之さんが、新庄さんの事をどう想っていたかなんて、今となっては分かりませんが、それでも、新庄さんの事を悪しくは考えていなかったんじゃないでしょうか?」
凪砂は、一旦そこで言葉を止め、懐から一枚の写真を取り出す。
そこには、この家の前で並んで立つ、若い頃の志之と、それから健司は父親似なのだなと感じさせる、快活そうな男性、そして、優しげな目をした男性の姿が写っていた。
この男が、新庄だろう。
鵺が手を伸ばし、如何にもしっかりしてそうな、ひまわりのように力強い笑顔を見せる志之の顔を指先でそっと撫でた。
「これ、新庄さんの大事な写真を焼き増しして貰ったんです。 皆さん、御覧になりたいかと思って…」
凪砂が、そう言って笑う。
「素敵な写真ですよね……。 新庄さんが、大学を卒業して一旦地元に帰る前に、撮った写真だそうです。 新庄さんが、地元に戻る前の日、再度、志之さんに自分の気持ちを新庄さんは伝えましたが、志之さんは結局その想いを受け入れず、自分の事は、一時の気の迷いだから、忘れなさい。 もう、私に連絡を寄越してもいけない、と言って聞かせました。 新庄さんは、志之さんのその強い言葉を受け入れながら、それでも、何か困った事があったら、助けが欲しい事があれば、必ず自分を呼ぶようにと伝えて、地元に戻ったそうです」
写真の中の、新庄の表情は、笑っていてもどこか憮然としていて、なのに悲しそうで、色々複雑な感情の入り混じっているように見える。
どんな気持ちだったのだろう。
親友の、母親に恋をして、恥も外聞もなく、学生の身で求婚し、その全てを気の迷いと言われて、実家に帰る身というのは、どんな気持ちになるのだろう。
淋しいのだろうか、悲しいのだろうか、憎いのだろうか……。


それでもまだ、愛おしいのだろうか。


「結果を言えば、新庄さんの想いは、一時の気の迷いなどではありませんでした。 志之さんの事が忘れられず、他に女性と付き合っても、どうしようもなかったそうです。 それから、20年近く、結婚する事無く、ずっと、ずっと、ずっと……。 志之さんの事を、想い続けていたのです。 …純愛ですね」
凪砂の言葉に、翼が、静かに答えた。
「羨ましい位の、純愛ですね」
海月は、静かな声で呟く。
「そんなに惚れた女と、漸く再会したっつうのに、それが最期の別れが近い時だというのはどんな気持ちなのだろうな…」
凪砂が、蝉の声に耳を傾けながら答えた。
「悲しいでしょう。 それは、とてもとても、悲しいでしょう。 それでも、最期に会えないまま逝ってしまわれるよりは、屹度、悲しくないのだと思います」
悠宇は、凪砂の言葉に、微かに頷いた。


そして、自分を顧みた。


そういう恋でありたいと。

自分の、初瀬への想いはそういうものでありたいと。





夕食のテーブルに、皆でちゃぶ台を囲む。
食卓には、10人近い人間がついていた。
賑やかな食卓風景。
新庄は、写真に写っている姿よりも太っていて、禿げていた。
年月の無情さというのを体現しているような姿だが、それでも柔和そうな雰囲気と優しい目は変わっていない。
先程も、丁寧に挨拶され、健司の事を知りたいのだろう。
釣りに連れていった話や、虫取りの時の話な。どを、、事細かに話を聞かれた。
「そっか、釣り、好きなんだ」
と嬉しげに言う新庄。
きっと、この男なら、ねだられるままに、何度でも連れていってやりそうだと、違う意味で不安になる。
今も凪砂が健司と、新庄の側に腰を下ろし、二人の会話を取り持とうしていたが、しかし、凪砂があくせくする間もなく、屹度新庄の人柄なのだろう。
健司は完全に、新庄に打ち解けている。
「で? で? お父さん、そん時どうしたの?」
健司には新庄の事を、亡くなった父の友人とだけ伝えてある。
幇禍の言葉に従った結果らしいが、確かにその方が、打ち解け易くはあったみたいだ。
「んー? 逃げたよ? 自慢じゃないけどね、俺も、聡も喧嘩はからっきしだったんだ。 逃げるが勝ちだよ」
今も、父親と二人で不良に絡まれた時の思い出話を、流石作家と言うべき軽妙な語り口で聞かせながら、健司をカラカラと笑わせている。
健司の隣りに座るいずみも、黙ったまま聞き入っており、子供二人相手にも手を抜いた様子なく、新庄は真剣に語り続ける。
「すっげぇ! で、逃げられたの? 逃げられたの?」
「それがね、向こうも人数が居るからね、挟み撃ちに合っちゃって、で、そん時の聡が凄いんだ。 いきなり、近くにあった、家の塀をよじ登ってね…」
その口調に思わず、聞き入ってしまう悠宇。
「うん! うん!」
と強い相槌を打つ健司の横腹を、いずみがつつき「ちょっと、うるさい」と言って、可愛らしい言い合いが始まり掛けるも、新庄が話し始めれば、再び意識はそのお話にいくらしく、健司が懐く様に少しだけ淋しい思いをしつつも、「新庄さんになら、任せられそうだ」と悠宇は安堵した。
その後、健司と新庄、それに何故か鵺を水命が連れて、志之の寝所に食事の世話に向かう。
(何で鵺が?)と、首を傾げつつも新庄と健司を連れていくのはナイス判断だと、悠宇は思った。
まわりでは、銘々がそれぞれに会話を交わし、食卓に並べられる料理の数々に期待の眼差しを寄せている。
その騒がしさの中、悠宇はぼんやり思った。



大家族みたいだ。






料理を作った翼が照れ臭そうに手を合わせ「いただきます」と挨拶する。
それから皆が一斉に箸を動かし始めるのを眺め、思わず笑ってしまった悠宇は、まずは自分達で釣った美味しそうな、あまごの塩焼きに箸を伸ばした。
そっと身をほぐし、口の中へ運ぶ。
あまごの柔らかで、でも、弾力のある身がプリプリと舌の上で弾け、ほのかな塩味と共に淡泊で深い味わいが口の中に広がるのを、目を細めて楽しみ、次いで、マスの甘露煮をつまんだ翼の腕前なのだろう。
あまごは、全く形崩れしておらず、甘露煮も、中まで味が染みていて、幸せな気分になる。
いずみが「おいしい…」と、思わずといった調子で呟くのを、翼はニコリと微笑んで「可愛いリトルレィディに誉められて、光栄だよ」と告げた。
ああ、今、鵺がいたならば、思う存分突っ込んでいただろうななんて思いつつ、色んな意味で、鵺を連れていった水命に、平和な食卓を守ってくれてありがとうと、感謝の念を捧げる。
海月が、表情には出さないが柔らかな空気を纏いながら食事をしていた。
零も、幸せそうに箸を口に運んでおり、シオンや凪砂は言うに及ばず、皆が美味しい料理のおかげで幸福そうで、


こういうのもいいものだ…。


と、一抹の郷愁と共に、そう胸で呟く。
そんな風に浸っていた悠宇の耳に、エマの明るい声が聞こえてきた。
「ね? 食べ終わったらさ、花火しよ? 花火」
その言葉にいずみが、珍しく、パァッと表情を輝かせてエマを見上げた。



花火の準備を手伝い終え、悠宇は携帯電話を鞄から引っぱり出す。
初瀬の携帯に電話を入れると、「はいっ!」と勢い込んだような声で、初瀬が出た。
志之に何かあったと思ったのだろう。
(焦らせて悪いことしたなぁ…)と思いながら「今から、来れるか?」と、問い掛けた。
明らかに脱力したなという気配が伝わってきた後、「えーと、大丈夫だけど、どうして?」と、問い返される。
悠宇は、エマが買ってきた花火を子供達が嬉しげに広げているのを眺めながら、「エマさんが、大量に花火買ってきてくれてさ、庭で花火をみんなでやるんだ。 お前、花火好きだろ? 折角だし、来いよ」と伝える。
すると、途端にウキウキとしたような声で「うん。 今すぐ、行く」と初瀬は答え、電話を切った。
「すっげぇ、変わり身…」
そう呆れたように言えど、嬉しげな初瀬の声を聞いて、自分の気分も盛り上がってくるのを感じる。
それに、初瀬には、新庄の事も伝えておかなければ…と、悠宇は考えていた。


初瀬は言葉通り、電話を切ってから30分もしない内に現れた。
それも、浴衣姿を披露してくれて、悠宇は思わず見とれて絶句する。
悠宇は初瀬の朝顔の柄があしらわれた、可愛らしい浴衣姿に、鼻の頭を少し掻くと「あー、うー、に、似合うんじゃねぇの?」と顔を真っ赤にして告げた。


ヒュルヒュルッと音を立てて、空で咲く、小さめの打ち上げ花火に零や、鵺が歓声をあげている。
家の奥にあったのを外に引っぱり出した、古い木の机に、切り分けられた西瓜が並んでいた。
と、言っても、物凄い勢いで売れたので、残りはあと僅かだ。
幇禍が、鵺と一緒に、花火を振り回してはしゃいでいた。
また、何処かに潜んでいた所を見つかったのだろう。
自分よりも年上の筈なのに、まるで子供のように見える。
いずみと、健司は何事か言い合いながら、海月が打ち上げる花火を、目を煌めかせて見上げていた。
縁側には、志之を寝かせて凪砂、エマと水命にシオンと翼、そして新庄が並んで座っている。
新庄が、スイカを志之に食べさせているらしく、凪砂に新庄の志之への気持ちを聞いたからか、その姿は年の離れた夫婦に見えた。
悠宇と初瀬は並んでしゃがみ、手持ちの花火に日をつけると、シューと炎吐き出す姿を目を細めて楽しむ。
「奇麗だね」
そう初瀬が呟くので「…だな」と悠宇が短く答え、それから、「……あのさ、縁側にいる優しそうなオッサンいるだろ?」と問うた。
初瀬は、内心気になっていたらしい。
「うん。 今日、初めてお見かけするんだけど、どなたか知ってる?」と問い掛けてくる。
悠宇は、「今日な凪砂さんに聞いたんだけど、あの人健司の里親候補らしい」と答えた。
突然の台詞に目を見開く、初瀬。
「さ…とおやって……え?」
と呟いてくるんので、「俺も驚いたっつうの」と、悠宇はぶっきらぼうに答える。
「ど、どういう事なの?」
健司のこれからに深く関わってくる事だからだろう。
初瀬にしては珍しく、問いつめるような口調で、聞いてきた。


「つまり、凪砂曰わく、新庄のおっさんは……って、あのおっさんの事だけどよ。 おっさんは家族になりたいんだとさ。 健司の。 そして、志之さんの…」
そう口火を切った悠宇。
手元の花火が、フッと燃え尽きた。


悠宇の話を聞き終えた後、初瀬はじっと黙り込んだ。
何かを考え込むかのように、俯き、花火の炎を見つめ続ける。
その横顔が、余りに儚くて、美しくて、今にも消えてしまいそうで、思わず悠宇は手を伸ばし掛け、そして怖くなって手を止めた。

触れられなかった。

触ったら、消えてしまいそうだったから。


だが、そんな悠宇の臆病を見透かしたように、初瀬が急に手を伸ばし、悠宇の手をギュッと握りしめてきた。
そんな事を初瀬からしてくるのは滅多になくて、驚きの眼差しで初瀬を見つめる。
初瀬は、キラキラと火花を散らすような美しい瞳で悠宇を見つめ「ずっと、好きだよ」と小さく呟いた。
悠宇は、場所も弁えず、初瀬の体を強く抱き締めたい衝動に襲われる。


握り締められたままの手は、熱く、目に映る初瀬の儚げな様子からは想像できない程に、力強く生きている鼓動を、感じさせた。




さて、花火後、全員集合の状態になっている現状を見て「銭湯行かない?」と、鵺が明るい声で提案してきた。
花火の高揚も残っているのだろう。
何だか、帰る気にならず、ここで大人同士なら飲みに行く?となるが、未成年の多い状況で、銭湯という提案は至極素晴らしいものに思える。
「いいな、それ」
そう海月が、珍しく賛同の意を表したのも効いて、志之の世話の為に残るというエマと翼を置いて一路銭湯へ向かう事になった。
と、言っても泊まり予定の無い凪砂含むメンバー達は、皆、着替えに女性は志之の、男性は亡くなられた志之の旦那さんの浴衣を借り、タオルや石鹸なども、出して貰う。
悠宇も、灰色の落ち着いた色合いの浴衣を一着借りた。
「洗濯物、大変じゃないですか?」
そう、凪砂が問えば、海月と水命が同時に首を振り、「大丈夫」と答えた。
「銭湯、銭湯〜v 初体験!」
楽しげに跳ねる鵺に、「お嬢さん、ちゃんと、前見て歩かなきゃ、転びます」と心配げに、幇禍が注意を促している。
凪砂は、銭湯は初めてらしく、「どんなんでしょうね?」と笑顔で海月に問い掛けて「…そんな、大の大人にワクワクする程の所ではない」と無表情に一刀両断されていた。
しかし、そう言う海月の後ろでは、スキップしそうな勢いで「みんなで、お風呂なんて、楽しみですね!」と健司と一緒になってはしゃぐシオン(42歳)がおり、何ら説得力がない。
健司も、「銭湯、こんな大人数で行くなんて、すごい!」と満面の笑みで、いずみに「こどもね」と冷たく笑われていた。
ま、しかし、そのいずみも、どこか足取りは軽く、悠宇は、「こういうのも、いいものだ」と再び感じる。
初瀬も嬉しげで、跳ねるように歩いていた。



「ここが、私のよく行く銭湯です」
そうシオンが告げたのは、古ぼけたコンクーリート作りの、いかにも銭湯っていう感じの建物で、「ゆ」と書かれたピンクと、紺色ののれんが二つの入り口にそれぞれ掛かっている。
「じゃ、あとでね?」
鵺がそう言って、女性用のピンクののれんをくぐり掛け、「ん?」と足を止めた。
そして身を屈めると「ねぇ、健ちゃんって、今小学校何年生だっけ?」と問い掛ける。
健司が、何でそんな事と首を傾げながら「えーと、三年生だけど…」と答えた。
すると鵺が「じゃ、キミ女湯へGOね!」といきなりとんでもない事を言いだし、その腕をひっ掴む。
「へ?」
と目を丸くする健司。
しかし、凪砂も「そうよ…ね。 小学生だし良いのよね、 ヨシ、おいで、健司君!」と言い、水命が「頑張ってるんだもん。 背中流してあげますよ」と言えば、初瀬も「じゃ。私は髪洗ってあげます。 だって、考えてみれば一番の功労者だもの」なんて言っている。
突然の展開に目を白黒させる健司を置いて、悠宇は怒りの余り初瀬を「おい! なんで、健司そっち行く事なってんだよ! 馬鹿っ!」と怒鳴りつけた。


野郎と一緒に風呂入るなんざ、絶対ぇ許せねぇ!


子供相手に、本気でそう思う悠宇。
幇禍も鵺に縋り付くようにして「止めて下さい〜。 小学生とはいえ、もう、男なんですっていうか、駄目です! お嬢さんの玉のお肌をそんな、異性に晒すわけにはいきません!」と喚いていた。
そして、幇禍はいずみに視線を向け「やですよね? 同い年の男の子と、お風呂なんて」と問い掛ける。
だが、いずみは「別に、健司は、同い年じゃなくて、年下だもの。 子供よ。 それにね、お兄さん達がそうやって小学生相手に取り乱してるのって、格好良くないよ」と見事に一刀両断し、その言葉が決定打となって、健司の意志関係なく、彼は女湯へと引きずられていった。



銭湯は、非常に空いていた。
だが、先程のいずみの言葉のダメージもあって、悠宇は憂鬱な気持ちで、洗面台の前に腰掛ける。
「うう…う…うぅぅ」
打ちひしがれるように呻きながら幇禍が湯船で膝を抱えていた。
視覚的に非常に鬱陶しいのだが「くっそう。 日和の奴。 男に警戒心なさすぎだ!」と怒りを露わにしながら、ゴシゴシとヒリヒリ痛む程の強さで自分の肌を泡立てたタオルで擦っている自分も傍目には厄介な存在なのだろう。
(絶対後で叱ってやる。 あと、健司は、アレだ、この前覚えたプロレス技の実験台の刑だ)
大人げなくそう考えた瞬間だった。
「健ちゃん〜? こぉーんな、上玉さん達に、体洗って貰うなんて、幾らつんでも出来ない経験よ? しっかり、心に刻んでおきなね!」
という、鵺の声が、壁の向こう側から聞こえてきた。
その瞬間、裸の初瀬に体を洗って貰っている健司の姿が思い浮かび「くぅぅぅぅ!」と怨嗟の声とも、泣き声ともつかないような唸り声をあげてしまう。
「…あの、美人揃い達に体を洗って貰うだなんて……確かに、物凄い天国ですよね。 いいな、健司君」と新庄が呟き、見れば幇禍は、完全にブクブクと湯船に沈んでいた。


その後、皆で湯船に浸かって、暫しぼんやりする。
「…疲れが取れる〜〜」とオヤジ臭い事を言うシオンに「…全くだ」と同意を示し、海月が目を閉じる。
だが、くつろいでいる男性陣に追い打ちを掛けるように、再び壁向こうの鵺が、凪砂に「…いいな。 凪砂さん、胸大きくて」と言っているのが聞こえてきた。
鵺が続けて「私、まな板みたいじゃん? なぁんか、ヤなんだよね」と言うのが聞こえる。
(と……と、隣りに、俺達がいるって事、忘れてんじゃねぇか?)
そう思いながら、悠宇は余りにそのあけすけな会話に硬直した。
幇禍が、目を見開き「な…なな、なんて事を…」と呟くのが聞こえる。
「な? 健司だって、胸大きい方がいいよな?」と問うている鵺。
健司が焦ったように「知るか! そんなのっ!」と答えている。
水命も「やっぱ、大きい人がいいですかね?」と、言っていた。
(ひ、日和、日和は話加わんな? 加わるなよ?)と、悠宇は祈る。
そして顔を真っ赤にしてザバリと立ち上がると「俺、もうあがる!」と宣言し、風呂を出た。



程なく上がってきた男性陣と揃って、シオン曰わく、欠かせない定番であるらしい、フルーツ牛乳を飲む。
乾いた喉に、冷たいフルーツ牛乳は確かに美味しくて、海月は一気に飲み干した。
その後、浴衣を着るのに四苦八苦して、海月に手伝って貰いつつ、何とか身に纏う。
皆、なかなかの着こなしで、シオン、幇禍、共に似合ってはいるのだが、如何せん丈が足りない。
新庄だけが、泊まり込み予定の為、Tシャツとジャージのズボンで、彼に借りれば良かったかと思いつつも、やはり丈は足りなかったかと諦める。
脛を覗かせつつ、「小柄な方だったんですね、志之さんの旦那さんは」と言うシオンに、悠宇は「や、俺達の図体がでかすぎんだろ」と冷静に答えた。




それからも、悠宇は頻繁に健司の元に通った。
虫取りで捕まえてきた虫たちも、順調に成長しており、二人で眺めてはほくそ笑む。
水遊びも、サッカーも、キャッチボールも、外で遊ぶ遊びの殆どを一緒にこなし、自転車の後ろに乗せてやって、色んな場所にも出掛けた。


次は、一緒に海に行こうと約束をした次の日だった。





志之が死んだ。







悠宇は、健司を想い、志之に懐いていた凪砂を想い、動揺する気持ちを抑えきれない。
初瀬の動揺は、悠宇の比較にならない程、凄まじいものだった。
呂律の廻らない声で「どうしよう…。 どうしよう…」と泣き続けている。
そんな初瀬を支えるようにして、悠宇は健司の家に向かった。


志之の寝所には、武彦と手伝いに来ていた者達、健司と新庄の皆が揃っていた。
誰かが呼んだらしい、医者が志之の枕元に座っている。







静かだった。
圧倒的な迄に静かだった。



死の音とは、無音なのだと悠宇は悟った。
健司が、志之の右手を握り、新庄が志之の左手を握っている。




聖家族。



聖母子と聖ヨハネを指す言葉が、何故か、頭に浮かんだ。
それ位神々しく、近寄りがたい風景だった。
志之の唇が微かに動く。
新庄が、志之の唇近くまで耳を寄せ、そしてコクリと頷くと、悠宇を手招きした。
悠宇は、静寂を乱さぬよう、静かに志之の側へ行く。
新庄が、囁くように行った。
「…志之さん。 何か貴方に、仰りたい事があるそうです。 どうぞ、聞いてやって下さい」
そう言われ、耳を志之の唇の側まで近づける。

「…健司と、仲良くして…くれてありがとうね…。 健司、お兄ちゃんが出来たみたいって……大層喜んでいたから……また、遊んでやってね…」
そう告げられ、何も言えずに頷く悠宇。
志之の手を握っている健司が、健気にも涙を零すまいと耐えているのを見て、悠宇が泣いてしまいそうになった。


一人置いていかれる健司を思うと、不憫で、不憫で胸が詰まった。
どんな気持ちなのだろう。
ずうっと、一緒に暮らしてきた、大事な大事な存在が今、死に逝こうとしている。



志之が、新庄に「…健司の事、頼みます」と告げ、健司には「…幸せに…なりな」と言うのが聞こえてきた。
悠宇は、動揺をしながら、それでも、見つめなければ。
最期まで、ちゃんとみつめなければと、志之の顔を見つめる。
志之の瞼がゆっくりとおり、それから、呼吸が、深く、緩やかになり始めた。
健司は、何も言わず、涙も見せず、ぐっと耐えるように志之の手を握り締め続けている。
新庄が、目を真っ赤にしながら、最期の瞬間、志之に囁いた。




「愛してます」




志之が、微かに笑って、頷いたように見えた。








誰もいない部屋で初瀬を抱き締めながら、二人、一緒に固く抱き合いながらじっと、泣き続ける初瀬の背中を撫でる。
「え…偉いね…。 健司君……偉いね…。 自分が泣いたりしたら、し、志之さんが、安心できない……と、思って泣かなかったんだ……ね。 駄目だな。 私。 ほんと、駄目…」
どう嗚咽混じりに呟く初瀬を、尚一層強く抱き締め悠宇は言う。
「いいよ。 泣こう? な、今日は泣こう。 俺も、少し泣くから…」
そう言って、悠宇は初瀬の肩に顔を埋めた。


海に連れていこう。


悠宇はそう決心する。

海は涙と同じ成分で出来ているのだから、あそこでなら健司は誰にも気兼ねなく泣けるだろう。


海へ行こうな? 健司。



そう心の中で呼びかける。


じんわりと、暖かな液体が悠宇の目から零れ落ち、初瀬の肩を濡らした。





  終




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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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 ※受注順に掲載させて頂きました。

【0086/ シュライン・エマ  / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1847/ 雨柳・凪砂 / 女性 / 24歳 / 好事家】
【1572/ 暁・水命  / 女性 / 16歳 / 高校生兼家事手伝い】
【3604/ 諏訪・海月 / 男性 / 20歳 / ハッカーと万屋】
【3524/ 初瀬・日和 / 女性 / 16歳 / 高校生】
【3525/ 羽角・悠宇 / 男性 / 16歳 / 高校生】
【2414/ 鬼丸・鵺  / 女性 / 13歳 / 中学生】
【3342/ 魏・幇禍  / 男性 / 27歳 / 家庭教師・殺し屋】
【3356/ シオン・レ・ハイ  / 男性 / 42歳 / びんぼーにん 今日も元気?】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー兼闇の狩人】
【1271/ 飛鷹・いずみ  / 女性 / 10歳 / 小学生】

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■         ライター通信          ■
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遅くなりまして、遅くなりまして、遅くなりまして、真に申し訳御座いません!
へたれ人間失格人間ライターmomiziで御座います。(切腹)
初めましての方も、そうでない方も、この遅れっぷりには、最早怒りを越えて、呆れられているのではと、怯えるばかりなのですが、全て私が悪いので、どうぞ、三発位殴ってやって下さい。
さて、えーと、毎回、毎回、ウェブゲームのお話に、是非、個別通信をやりたいと考えているのですが、毎回毎回、時間の都合により掲載できません。
ほんま、スイマセン。
なので、ご参加下さった全ての方々に「本当に有り難う御座いました。 再びお目に掛かれましたら、僥倖に思います」というお言葉を贈らさせて下さい。
あと、非人道的な位、長くなってしまった事もお詫び申し上げます。

momiziは、ウェブゲームの小説は、全て、個別視点の作品となっております。
なので、また、別PC様のお話を御覧頂ければ、違った真実が見えるように書きました。
また、お暇な時にでも、お目通し頂ければ、ライター冥利に尽きます。

ではでは、これにて。

momiziでした。