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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


聖家族



オープニング


小さな掌が、大事にくるんでいたたくさんの小銭達を机の上にそっと置いて、不安げに揺れる目で見上げられながら「足りませんか?」と聞かれた瞬間、零は耐えきれず目頭をハンカチで抑えた。
「おこづかいと、お年玉の残りと、あと、お手伝いした時にもらったお駄賃も一緒に持って来たんです」
武彦は小さな依頼人に、いつもの少し憮然とした顔つきで「足りないね」とにべもなく答える。
「大体、ウチは興信所であって、医者ではない。 無理だね」
冷たい言葉。
その言葉に、武彦の前に座る、坊主頭の子供の目からポタポタと涙が零れ落ちた。
「お…お、お願いします。 ば……ばぁちゃん…ずっと、俺の事、一人で育ててくれたから……、俺…どうしたら……いいか…」
そのまま、グシグシと泣き崩れる姿に、零は手を伸ばし、その小さな頭を胸に抱え込む。
「そうよね。 お婆ちゃんいなくなったら、独りぼっちになっちゃうものね……」
依頼に来たこの子の名前は、健司。
まだ、小学生だという。
両親が早くに死に別れ、祖母の手によって育てられたそうだ。
だが、その祖母も、かなりの高齢でこの夏、とうとう倒れてしまったらしい。
その間、健司は一人で家の中の事を切り盛りし、祖母の世話をし、学校にも通った。
だが、そんな健司の懸命な看病にも関わらず、医者の話では、祖母はこの夏一杯の命と考えた方が良いらしい。
「お、お婆ちゃんの事助けて下さい…。 何でもします。 お、俺、何でも…何でもします…」
彼は、この興信所が、不思議な事件ばかりを解決してきているという噂を聞き、藁をも掴む思いで尋ねてきた。
「お婆ちゃんの命…助けて下さい」
しかし、武彦は首を振り、諭すような調子で言う。
「決められた命の長さを、人の手では左右できない。 例え出来てもしてはならない。 お前の婆ちゃんは、立派に生きて、やっとお役ご免の時がきたんだ。 お前は、今、婆ちゃんが生きてる内に、もう一人で立派に生きてけるって見せて、安心してあの世へ行かせてやらなきゃ駄目だ。 有りもしない、命を永らえる方法を探すより、そっちの方がずっと大事なんだ」
武彦の言葉に、健司は首をブンブンと振る。
「ひ……一人で、なんて、無理です。 だって、だって、俺、ずっと婆ちゃんと一緒に……一緒に……」
そんな健司を見て、零は、沈痛な面もちで口を開く。
「一人でなんて、無理よね。 一人は、寂しいものね。 でもね、兄さんの言う通り、無理なの。 お婆ちゃんを助ける事はね、どうしても無理なの」
その言葉に、零と武彦、交互に視線を送った健司は、「う……うぅ…」と嗚咽を漏らしながら立ち上がり「分かったよ! もう、頼まないよ!」と叫ぶと興信所から走り出ていった。
零は、その背中に「あ!」と声を掛けて手を伸ばす。
そして項垂れると、「…どうしよう」と呟いた。
そんな零に、見透かすような視線を送りながら武彦は口を開く。
「あーあー、困ったなぁ」
「え?」
驚いたように顔を上げる零。
「あいつ、金置いてっちゃったな」
そう言いながら、ヒラヒラと一枚の紙を見せる。
「これ、健司が書いてくれた連絡先と住所。 んで、忘れ物の金」
「……え?」
「届けてくれるか?」
そう首を傾げられて、零は勢い良く頷く。
すると武彦は、少し笑って、「ホイ」と紙を渡してきた。
健司の家は、下町にある、古く、今にも倒れそうな姿をしていた。
零が、そっと中を覗き込めば、開け放した畳の部屋は、荒れ放題の様相を呈している。
どれ程頑張ろうとも、小学生一人では手入れが怠ってしまうに違いない。
祖母の世話だって、大変な筈だ。
ご飯はどうしているのだろう?
そう考え出すと、もう、駄目だった。
零は、トントンとドアをノックしながら決意する。
「お節介だって言われようと、私、この一夏、この家の家事を手伝ってあげよう」と。




本編





卵を箸で素早く割りほぐす。
翼が、気に入って通信販売で農場から直接送って貰っている卵は、新鮮故に黄身が割れにくく、なかなか混ざらない。
少し生クリームを入れて滑らかにすると、箸を踊らせて、卵をとく。
熱したフライパンに流し込み、固まり始めた所で、予め炒めておいた、ベーコン、茸、玉葱を入れ、上からチーズを散らし、卵でくるんだ。
そのまま、火を切って暫し。
余熱で卵が溶けたと思われる頃に皿に開ける。
「翼さん。 サラダってこんな感じで良いですか」
そう言いながら零が、奇麗に皿に盛りつけたブレッドサラダを見せてきた。
「このバケッド凄くいい匂い。 美味しそうですね」
そう告げられて、早朝、パン屋で焼きたてを買ってきた甲斐があったと翼は喜ぶ。
生ハムと、トーストしたバゲッド。
それにレタスと、ルッコラ、クレソンを散らしたサラダに、翼特製の檸檬ドレッングを添えて、食卓へと運ぶ。
そこには、夏休みの宿題である、自由研究の朝顔の観察日記の為に起きてきた健司が居た。
朝食の後、ラジオ体操に送り出してやらなきゃならない。
「しっかり食べなよ?」
そう言いながら、食事を出してやると、オムレツから漂ういい香りに、健司は歓声をあげた。
「日記出来た?」
そう言いながら、健司の絵日記を覗きむ。
クーピーで描かれた、つぼみの絵に少し笑い「この、つぼみの絵続いてるねぇ。  早く、咲くと良いね」と言うと、健司がコクンと頷いた。
健司がラジオ体操に行っている間に、健司の祖母・志之の為に卵うどんを作る。
食事の世話をした後は、トレーニングへ。
レース間近の翼のスケジュールは、非常にタイトで、慌ただしい。
それでも、この家に手伝いに来ずにはいられないのは、偏に翼の性格と、手伝いにいっている人達に女性が多いからという理由に他ならなかった。


毎日泊まり込んで、志之や健司の世話をしているという今時、珍しい位の清い心を持っている美少女、暁・水命や、プロチェリストの卵で、奏でる音色と同じく自身も透き通った美貌をしている初瀬・日和、それに興信所事務員兼武彦の公然の恋人シュライン・エマ等々、他にも数名の女性が皆、二人のために自分の事のように働き、介護の手伝いも行っており、その様子を一度見てしまった翼としては、どうしたって、ここに来ずにはいられなかった。


それに、志之だ。


布団の中から、「へぇ…。 あんた、料理上手だね。 美味しいよ、凄く」と誉められた時の、志之の表情が脳裏に浮かぶ。
翼にとっては、志之も当然美しいレィディで、そのレィディにあんな風に誉めて貰えるのは、光栄だし、何より、「お祖母ちゃんって、こんな感じなんだな」という感慨も引き起こしてくれた。
「さて、明日は何作ろうかな?」
そう翼は考える。
それに健司は、F1にも多大な興味を持っていて、色んな話を聞かせてやると、キラキラと目を輝かせるのが大層可愛く、また今度、レースを観戦させてあげると約束していた。


夜。


「健司君。 ここの漢字間違ってるよ?」
健司の国語の宿題に目を通しながら、間違いを指摘してあげる。
「『関係』って漢字はね…」
そう言いながら、近くにあったメモ用紙に書いてあげ、健司に見せた。
「分かった?」
確認をとれば「うん!」と元気に答えて、書き始める。
今日は、夕食作りに訪れて、ウナギの卵綴じ丼を皆に振る舞った。
評判は大層よく、特に健司が奇麗に平らげてくれたのが嬉しい。
翼はレーサーであるものだから、ついつい、レーサーの体作りに適したメニューで考えてしまいそうになるのだが、健司や他のお手伝いに来ている人達には、スタミナがあり、栄養バランスを考えた食事にしなければならない。
翼は、炭水化物を余りとらず、タンパク質中心の生活を送っているのだが、健司のような育ち盛り、遊び盛りの子供にはすぐにエネルギーに代わる炭水化物は必要だろう。
野菜だって、たくさん食べさせなきゃいけないし、当然肉や魚なども食べて欲しい。
「健司君。 僕、次来る時、何作ろう?」
そう問えば、パァッと顔を輝かせて「あのね、あれが良い! あの、カレー!」と告げてきた。
多分、先日翼が、午後に空いたわずかな時間を塗って、ここに訪れ作っておいた、「夏野菜とチキンのカレー」を指しているのだろう。
なすやピーマンをいれ、健司や、ここに時折泊まり込みで来ている大人びた小学生飛鷹・いずみなどの食べるのは甘めに、他大人達の分は辛目に仕上げた、翼のカレーである。
「アレ、美味しかった?」
そう問えば、凄い勢いで頷いてくるので、翼は小さく微笑んで「じゃ、また、作ってあげるね?」と約束した。


そんなこんなで、トレーニングを欠かさず、時間の許す限り健司の家を訪れていた翼はある日、「明日、健司達が釣りに行く」という話を聞いた。
しかも、その釣りに行く人達の為に、ここの所健司達の為にずっと働きづめな水命が早朝から弁当を作るという。
翼は、そんな話を聞いて放っておける筈もなく、自分も明日は丁度オフだし、明日は一日この家の事をするとして、朝から弁当作りを手伝おうと、その日は泊まり込む事にした。



翌日、早朝。

翼は卵サンドイッチを作りながら、眠たげに頭を揺らしつつ、唐揚げを作る水命に不安げな視線を送る。
「水命さん。 大丈夫ですか? 連日、こちらでお手伝いに励まれているようですし、眠たいようでしたら、僕、全てやっておきますけど…」
言えば、ブンブンと水命は首を振り、「そ、…そんな、お一人だけに…任せられません。 大丈夫です。 作り終えたら…、ちょっと休みますから…」と、答えた。
だが、明らかに眠そうだし、辛そうだ。
この弁当作りが終わったら即刻、抱き抱えてでも布団に強制送還しようと翼は決心した。
卵サンドを作り終え、今度はハムサンドを作ろうと、取り掛かり始めた時である。
パタパタと微かな足音を立てて、零とそれから、今日釣りに行く予定の、銀髪の長髪を一括りにまとめ、頭にタオルを巻いている無愛想な青年諏訪海月が現れた。
「あの、お手伝いします」
そう言う零と、「何をしたら良い?」と問い掛けてくる、海月。
正直、その申し出は有り難く、水命も助かったという風に、「あの、じゃあ、零さんは私が片栗粉をつけ終えた唐揚げを揚げて貰えますか? 海月さんは、リンゴを八つに切って、皮を剥いて塩水につけてって下さい」と頼む。
零は言わずがものが、海月も、奇麗な手付きでリンゴをお弁当の定番。
兎リンゴの形に切り始め、瞬く間にかなり豪華なお弁当が出来上がった。
「弁当…、健司達も楽しみにしている。 余計な手間を掛けて済まなかった」
そう詫びる海月に首を振り、「大物釣ってきて下さいね?」と笑顔で告げる水命。
健司や、いずみ達が準備を済ませた格好で階段を降りてくるのを見て海月が手招きして二人を呼び「翼さんと、水命さん、それに零さんが弁当を作ってくれた。 御礼、言っとけ?」と言う。
二人は、海月の言葉に頭を下げると、「「ありがとうございます」」と声を揃えて言った。
その余りの可愛い姿に目を細める翼。
零も、ニコニコと笑って「どういたしまして」と答えている。
そんななか、ペタペタと軽い足音を立てて、この季節に暑くないの?と思えるような恐竜の着ぐるみパジャマを着た鬼丸鵺が現れた。
銀髪の寝癖がついた髪が、フラフラと足取りと同じく揺れている。
真っ赤な眼を眠たげに擦りつつ鵺が言った。
「ん…んー? あっれ? 健ちゃんも、いずみももう、準備済ませちゃってんの? ヤッバーイ。 起こしてよ、一緒の部屋に寝てるんだからぁ」
そう、志之を気遣っての小声で喚く鵺に、子供達と一緒の部屋に寝ているのかと思いつつ、呆れたような視線を送りながら「君ね、小学生の二人に、起こして貰うだなんて情けないと思わないのかい?」と言う翼。
「むぅ。 そのいやぁみ且つ気障ったらしい声…」
そう言いながら翼に視線を送り、顔をしかめて「やっぱり、翼かぁ…」と鵺が呻く。
鵺は、前からの健司の友達らしく今回も、泊まり込みでの手伝いというか、健司の遊び相手専門で参加していた。
翼と、鵺が犬猿の仲である事は、ここで何度か会う度に、小競り合いを起こしているので皆には周知の事実となっているのか、みんな、「またか…」というような呆れた視線で、二人を見てくる。
「大体、この家に泊まり込んでおきながら、中学生にもなって、海月さんのように、自分達の昼食であるお弁当作りの手伝いに来ないってどういう事だい?」
そう言えば、頬を膨らませた鵺が「うっさいなぁ。 鵺、あんまりお料理が得意じゃないもん」と言い、水命が慌てて「いえ、鵺さんも色々お手伝い頑張ってくれてますもの。 気にしないでいいのよ?」とフォローに入った。
その言葉、表情、声音に心打たれる翼。
水命を愛おしげに見つめながら、まるで天使のようだと感じる。
翼は「水命さん。 貴方は、なんて心優しい人なんだ」と、水命の手を握って囁いた。
「初めて見た時から感じていたけれども、貴方は天使です。 天使そのものです」
翼に間近で囁かれ、水命が頬を赤らめる。
鵺が呆れたように「まーた、やってるよ…」と言ってくるが全く二人の耳には入らない。
二人の間に点描が飛ぶような、思わず何劇場だよと、突っ込みたくなる時を経て、漸くコンコンと控えめに玄関をノックする音で、水命の意識は現実に戻ったようだった。
一緒に釣りに行くという、初瀬日和の恋人、羽角悠宇が迎えに来たのだろう。
パタパタと足音を立てて、玄関へと走る水命。
その後ろ姿を見ながら「可憐だ…」と呟く翼に「は? カレンダー?」と鵺が問い返してくる。
余りに、余りな聞き間違いに翼はムッとし、口を開く。
「バカじゃないか? 何でカレンダー? いつ、僕が暦を知りたいなんて言った?」
「や。 でも、翼が言ったんじゃん。 カレンダーって…」
「か・れ・ん・だ! 君に、世界一似合わない言葉だよ」
そう言う翼に、「いーっ」と鵺が唇を歪めると「鵺、いっつも幇禍君に可愛い、奇麗、最高って言って貰ってるもん。 翼に何言われたって平気だね!」と言い「もうっ! 翼の作ったお弁当なんか食べなきゃいけないのが、ヤになってきちゃった。 翼ってば、本当に料理巧いの〜?」とむくれてみせた。
そんな鵺に「お言葉だけど、君よりよっぽど上手だよ。 腕前は知らないけど、確信できる」と翼は告げ、売り言葉に買い言葉の典型的な例なんだろう。
鵺が、眉を吊り上げると「じゃあ、今日のご飯作り、鵺もする!」と宣言した。
「一緒に作って、腕前確かめてあげる」
鵺の言葉に、(確かめる? 言ってくれるじゃないか)と感じ、余裕の笑みを浮かべて「良いけど、君、釣り行くんじゃなったっけ?」と言う翼。
鵺は、クルンと健司、いずみ、そして海月の順に視線を送ると「御免! そういう事だから!」と言い、次いで玄関へと走っていった。

結局、鵺は行かない事にしたらしい。

玄関口で騒ぐ鵺の「今日のご飯作りの手伝いがあるから行けない!」という声を耳にしながら「ま、別にいいけどね」と翼は苦笑する。
そして、朝ご飯の支度に取り掛かるために、まず、冷蔵庫から昨日のうちに用意して置いた材料を取り出そうとして、見慣れぬビニール袋が目に入った。
「ん?」
そう呟き、ちょっと中を覗いてみる。
すると、そこには、肉屋やたくさんの野菜。
それに自家製らしい、調味料の瓶なども入っていて、(水命さん辺りのかな?)と翼は考える。
皆、自分の作る料理の材料は持ち込んでる人なども多かったので、余り気にせず、大根、油揚げ、アジの開き等を取り出すと、翼は調理を始めた。
今日の朝ご飯は、健司もいない事だし志之向けに、味噌汁、アジの開き、卵焼き、それにエマの特製漬け物をご飯(志之には、雑炊)に添えて出すつもりだった。
油揚げの余分な油を摂るための湯と、味噌汁用の湯を沸かし始めた時だった。
「と、いう訳で、水命さんは、今日は台所仕事お休みっ! さ、寝て寝て」という鵺に、水命が「でも、朝ご飯だけは作っちゃわないと…」と答えながら現れた。
そして、朝食準備を始めている翼に、目を見開く。
「あれ? 水命さん、約束したよね? お弁当作りが終わったら、休むって。 頼りないけど、助手も出来た事だし、朝食が出来れば呼びますので、どうぞお休み下さい」
そう翼はそう極上の笑みを浮かべ、水命に抵抗させないまま、泊まり込みの為にあてがわれている水命の自室へと、半強制的に向かわせた。
水命が立ち去るのを眺め、「さて…」と翼が、鵺に視線を据て、「何が出来るの?」と、問い掛ける。
鵺は、キョトンと何を問われているか、理解出来ていなさそうな表情を見せた。


「違う。 その持ち方だと指切る。 あと、大きすぎる。 ちゃんと短冊切りにして」
翼の注意に不満そうな顔を見せつつも、鵺が、必死になって包丁を動かしている。
翼は、辛抱強く、鵺が包丁をモタモタと動かすのを眺めながら、卵焼き用の卵に出汁を割り入れた。
既にアジは焼き始めており、お味噌汁の具もあらかた用意し終えて、鵺が自分のノルマを終えるのを待っている状態だった。
翼は、肩眉を上げ、少し発破をかけるつもりで言う。
「早くしないと志之さんを待たせる事になるよ?」
翼の言葉に鵺は一層、躍起になって包丁を動かした。
何とか、味噌汁の具である大根を切り終えたときには、ガクリと鵺は崩れ落ちそうなほどに疲労していた。
だが翼は、そんな鵺に、早速次の仕事として「じゃ、今度は、卵焼き焼いてみる?」と、言ってみる。
別に意地悪をしている訳じゃない。
鵺がやる気を出したのなら、その熱意に出来るだけ応えてやりたくなっただけだ。
実際、自分一人でやった方が、ずっと、早く出来上がってはいるだろうが、どうしても鵺に料理の一つでも覚えて帰って欲しかった。
志之用の雑炊を作りながら、平行して味噌汁に大根を入れた翼は、「…作り方分かるかい?」と聞いてみる。
小さくフルフルと首を振る鵺に、「はぁっ…」と溜息を吐く翼。
「むむむぅ…。 何よ! しょうがないじゃん。 作った事ないんだし」
反論する鵺に(確かに…)と納得し、「ま、そうだよね…」と答えた翼は「じゃ、見本見せるから見てて?」と声を掛け、卵焼き器を火に掛けると油を丁寧に敷いて、よく熱した後、まず割りほぐした卵を1/4ほど流し込んだ。
表面が盛り上がってきた場所を掻き回し、まんべんなく半熟状にすると、卵焼き器の向こう側から手前に向かって卵焼きを折り返していく。
卵焼きを巻いたら、その巻いた卵焼きを手前から向こう側にスライドさせ、 手前の空いたスペースに残った卵を流し込む。 それを何度か繰り返し、翼は見事な卵焼きを作り上げた。
「ね? 簡単だろ? やってみなよ」
そう言って、コンロの前からどく。
鵺は恐る恐る卵焼き器を手にした。
翼は再び、雑炊作りに戻るが、暫くすると何だか焦げ臭い匂いが漂ってくる。
不安に思って横を見れば、卵焼き器からモクモクと黒い煙を上げながら「ねぇ、ねぇ、モクモクってなってるケド、良いの?」と、鵺に問い掛けられた。
黙って溜息を吐き、濡れた布を卵焼き器に被せる。
「少し待って、温度を下げてから、卵を流し込んで? いい? 煙がたってくるのは、熱しすぎ」
そう言えば、鵺は素直にコクンと頷く。
(大丈夫かなぁ…?)
そう思いながら、雑炊の具材を鍋の中に入れると、ゆっくりと箸で掻き回した。
鰹出汁の良い匂いが鼻先に漂う。
「さて…次は…」
と、呟きながら、ふと鵺を見れば、彼女は何だか落ち込んでいた。
卵焼き器の中にある、卵焼きは、スクランブルエッグのなれの果てのような姿になっている。
しかも、油が少なかったのか、卵焼き器の底に焦げた卵がこびり付いていた。
俯く鵺を横目で眺め、(確かに、初心者に卵焼きは難しかったかな?)と考える翼。
だが、翼は、一度、こうやって失敗して日頃水命達が、どれだけ難しい事をやっているのか悟って欲しいとも思っており、そういう意味では予想通りの結果とも言える。
まぁ、そうはいっても、翼は流石に可哀想に思い、ヒョイとその卵焼きをつまんだ。
「…まぁ、見た目はアレだけど、でも美味しいよ?」
そう慰めれば、鵺が不思議そうに「どうしたの? 鵺のこと、慰めるなんて?」と問い掛けてきた。
その問いに翼は首を振り、少し唇の端を持ち上げると「僕はね、女の子が作った料理は、どんな事があっても、絶対に誉めることにしてるんだ」と答えた。



志之に、雑炊とほぐしたアジの開き。
それに、翼が作った方の卵焼きを持っていく。
「あれ? 今日は、翼と鵺がたべさせてくれるのかい?」
そう志之に笑顔で言われ「あのね、頼りないだろうけど、我慢してね?」と鵺が言った。
翼は、そっと優しい手付きで志之の体を抱え起こす。
「痛い所はないですか? 大丈夫ですか?」
そう翼が聞くと、志之は笑顔で頷いて「ああ、良い案配だよ」と答えた。
鵺も、「志之さん、この位の量で良い?」と聞きながら、雑炊を掬った木杓子を志之の口元に運ぶ。
志之は「ほんと、美味しいね。 翼、やるもんだねぇ」と言いながら、かなりの量を平らげてくれると「ありがとう。 もうお腹一杯。 美味しかったよ。 ありがとうね。 翼も、鵺も」と礼を言ってくれた。
鵺が頬を掻きつつ「エヘへ。 でも鵺、殆ど作ってないし…」と言えば、志之は首を振り「あんたの切った大根、丁度良い大きさで食べやすかった」と笑顔で誉める。
翼は、その気遣いを素敵だなと感じれば、鵺も、嬉しそうに、「そう? やったぁ」と小さく手を叩いた。


その後、零を交えて朝食を取る。
洗濯物を干してくれていた零は、「美味しそうーv」と言いながら、パクパクと料理を平らげてくれた。
翼も、早朝から動いて、お腹が空いていたので、美味しく料理を食べる。。
零と、志之は翼の作った卵焼きを、鵺と翼は鵺の作った卵焼きを食べた。
卵焼きに手を伸ばそうとしない鵺に、翼はパクパクと卵焼きを食べながら、「落ち込むんなら、精進すれば良いだろ? それにね、美味しいって、本当に」と鵺に言う。
嘘でなく、ちょっと焦げてはいるが、それも香ばしいアクセントになって、味は悪くない。
鵺が渋々卵焼きに箸をつけ、口に運ぶ。
そして、「ふぅ…」小さく溜息を吐いた鵺に、翼は横目で視線を送って、それから何も言わずに味噌汁を啜った。



その後、洗い物、洗濯畳み、掃除、庭の草木への水やりとやる事は幾らでもある。
翼は、テキパキと順序立てて、一つ一つ確実にこなしていった。
零の手伝いもあって、それ程苦にならずに仕上げる事が出来、お昼までに掃除等済ませようと考えていた事は全て完了した。
鵺は、チョコチョコ失敗しつつも、真剣に手伝ってくれていて、翼は何も言わずに、フォローした。


だが、本人は、どうも、自分で自分を責めているらしい。
昼食を作らねばならない時間になって、台所へ向かうのだが俯いたまま歩いている。
いつも生意気な子が、こうやって落ち込んでるのは張り合いがないし、何だか淋しい。
「何を作ろうかな?」
と、翼は言いつつ、鵺を元気付けようと、「とびきりのものを作るよ。 だから、俯かない!」と鵺の背中を叩いた。


台所に足を踏み入れると、机の上に見事な中華料理が並んでいた。
八宝菜に、餃子、天津飯に中華スープ。
志之の為にだろう。
柔らかな、中華そばまで用意してある。
先程の、冷蔵庫で見掛けたビニール袋。
あのビニール袋に入っていた材料で作られているようだった。
今、この家の中にいる料理を作れる人々の内、水命は眠っているし、零は先程まで一緒に洗濯物を畳んでいた。
と、いう事は……。

幇禍さんだな…。

翼は、確信する。
魏幇禍。
翼の家庭教師をしている男性だ。
聞いた話だと、何だか婚約までしたらしい。
そういう関係だとは気付いていなかったが、言われてみれば少々年の差はあれど、お似合いの二人だ。
今回、何故だか、鵺の側にはいないが、何処かから見守っているらしい気配は感じていた。
きっと、彼が、頑張っている鵺の為に昼食の準備をしてくれたのだろう。
しかし、此程の腕前とは……。
素直に感嘆する翼。
そして、ちょっと感激しているらしい鵺に「良いなぁ。 君には素敵な、フィアンセがいて」とウィンクした。



そろそろ、いいかな?と、思い、水命を起こしに行く。
疲れは、よっぽど溜まっていたらしい。
昏々と眠り続けていた水命を、忍びなく思いながらも、翼はそっと起こした。
「あ…ね、寝過ごしてしまいました! せ、洗濯物…」
そう言いながら起きようとする水命に、翼は笑顔で「大丈夫です。 僕と鵺で済ませて起きました」告げる。
安心の余りだろう。
目に見えて、水命は全身の力が抜ける。
そんな風に気を張っている水命に、翼は心から言った。
「…水命さん。 ねぇ、肩の力抜いて、どんどん他人頼って下さい。 ね?」
翼の言葉に、水命はコクリと頷く。
そして「私、そんなに、張り切ってますか?」と不安げに聞かれたので、「そんな貴方が素敵なんですけどね?」と翼は微笑んだ。
「僕、水命さんに呼ばれたら、何処にいたって駆けつけますから…だから、頼って下さい…」
そう耳元で囁けば、顔を真っ赤にしながら、「…はい」と水命は夢見る瞳で答える。
そして、そのまま、顔を伏せて「あの、寝顔、変じゃなかったですか?」と、可愛らしく問われたので、「眠り姫みたいでしたよ?」と、また、何劇場の、何台詞だよ?という言葉を返し二人の間に再び点描を飛ばした。


志之の昼食のお世話をした後、零とそれから、先程「志之さん、散歩に連れてってあげようと思って」と言いながら、何処かから車椅子を持ってきたシオン、それに起きてきた水命を交えて昼食を取る。
幇禍の中華料理は完璧といって良いほど美味しいのだが、如何せん本人が食卓についてくれていないので、誉めようがない。
何か理由合っての別行動なのだろうが、正直、物陰で見守られてる位なら、色んな意味で側にいてもらった方が良いのでは?と思う翼。
今もシオンや、水命、零が、庭か、何処かから中を窺って居るであろう幇禍に聞こえるように大きな声で「美味しい! 凄い美味しい!」とか「絶品! この、八宝菜最高!」と料理を誉めた。


翼、うっかり言い損ねてしまったが、今は幇禍の気配が全くしない。
ちょっと何処かへ出ているのだろう。
翼はいない人に対する誉め言葉を大声で言い続ける、優しすぎる三人を居たたまれない思いで眺める。
鵺が恥ずかしげに顔を伏せたので「ま、君も大変だね」と、同情した。


午後、水命とシオンが志之を連れて散歩に出るのを見送り、また、家事に励む。


鵺も、幇禍の中華料理のおかげか、元気を取り戻していて、タタタと雑巾を駆けながら走り回っている。

ま、あの子はああじゃなくっちゃね…なんて、考えながら翼は、庭木の水やりにとりかかった。



志之達も帰宅し、さて、夕食の準備のため、再び台所へ入る翼。
鵺にジャガイモを渡し、「じゃがいもの皮を剥いた後、一口大に切って?」と頼む。
危なっかしい手付きで皮むきに没頭し始めた鵺に注意を向けつつも、翼は、ほうれん草を湯がき、お浸しにする用意を始めた。
今日の夕食は、釣りの成果を期待しつつ、肉じゃがとほうれん草のお浸しだけ作っておこうと考えていた。
後は、川魚を塩焼きなどにすれば良い。
湯がいたほうれん草を、出汁、胡麻と醤油に和え始めた時だった。
突然玄関口で「シオンさーん?」と、シオンの名を呼ぶエマの声が聞こえてきた。
顔を見合わせる翼と鵺。
「シオンさんって、車椅子何処かへ返しに行ってたよね?」
そう鵺が言い、そういえばと翼も思い出す。
とにかく、出迎えに行かねばと考えて、「あー、じゃあ、ちょっと出迎えに行ってくるから、皮むきサボらない事」と鵺に告げ、翼は台所から玄関へと向かった。


玄関でへたり込みながら、シオンの名を呼んでいたエマの元へ駆けつけた翼。
「シオンさんなら先程、出掛けましたよ」と、告げると何故か、エマはがくりと、項垂れる。
足下には、大きなスイカと、大量の花火。
きっと、差し入れなのだろうが、どう考えてもエマの細腕には重すぎる。
「うふふふ。 男って、…男って……」
そう呟くエマを、(な? 何が? っていうか、シオンさん、何した?)と不安に思いつつも「エマさん?」と翼は、優しく声を掛ける。
そして、そっとその肩に手を置くと「どうなさったんですか? 美しい顔を曇らせて…。 憂い顔の貴方も素敵ですが、やはりエマさんには僕…笑っていて欲しいな」と、心から(ここが、ポイント!)告げて、微笑み掛けた。
その瞬間、真顔で「結婚して下さい」とエマが求婚してくる。
「へ?」
思わず気圧され、キョトンとした声を漏らしてしまった翼の手を握り締め、「もう、今、一瞬、翼ちゃんに何もかも捧げようかと思いました。 と、いう事で、結婚してください」とエマが言い募ってくる。
翼は(どうなさったんだろう。 こんなに、混乱されて可哀想に)と思いながら、「エマさんのような人、僕には勿体ないです。 世の中に男に恨まれちゃう。 それに、ほら。 武彦に、殺されたくないですからね」なんて、やんわりと何処で覚えてきたんだよそのテクというような台詞をかまし、エマの荷物を全て抱えると「冷たい麦茶、おいれします」と微笑んだ。



エマは憔悴しきった表情で、台所の椅子に座り込んだ。
翼は、棚からグラスを出しながら、鵺の手元を見て眉を上げる。
「君ね、もうちょっと、ちゃんとじゃがいもを支えなよ。 それから、皮を剥いているのに、どうしてそんなに身を抉るんだい?」
そううんざりしたような声で言えば「うーるーさーいぃぃ」と鵺は唇を横にひん曲げてそう言い返してきた。
クスリと、エマが笑う。
その声に安堵して翼は、コトリと冷たい麦茶をいれたグラスをエマに差し出しつつ「ご機嫌麗しくなられたようで、良かったです」と囁く。
「んふふ。 まぁね…」と答え、エマはよっぽど喉が渇いていたのだろう。
麦茶を喉に流し込んだ。
それから大きなスイカを横目で眺め「コレってさ、みんなで食べようと思って買ってきたんだけど…、入らないよね? 冷蔵庫」と、聞いてくる。
大きなスイカを眺め、「うーん、これはねぇ…」と眉を顰める翼の肩をポンと叩き、「ま、こーいう時は、先人の知恵よね」と言って、「じゃ! 夕食楽しみにしてるわ」なんてちゃっかり告げると、エマはスイカを再び抱えて台所から立ち去り、志之の寝所に向かっていった。



その後、何度言っても、間違いを改めようとしない鵺にとうとう焦れて、「っ! 何度言ったら分かるんだ! そんな風に包丁を使わない!」
と、怒鳴る翼。
鵺も負けじと怒鳴り返してくる。。
「コレで良いの! だって、翼の言うとおりやってたら、指切っちゃうよ!」
「分かんない子だなぁ! それにね、顔近づけすぎ。 そんな距離で喋ったら、具材に唾が掛かる」
「うっさいなぁ。 洗えば良いジャン。 後で」
「そういう問題じゃなくて!」
そう激しく言い合う翼と鵺を、タイミング悪く、車椅子を返却して帰ってきて、休憩のために台所に来たシオンがオロオロと眺めていた。
二人の喧嘩をシオンは止めようという素振りを見せるのだが、どうも間に入れないらしい。
そんな中、釣りから帰ってきた悠宇と海月がクーラーボックスを抱えて台所に足を踏み入れた。
助かったとばかりにパァッと表情を輝かせ「おかえりなさい。 如何でした?」と問い掛けるシオン。
海月が答えの代わりにクーラーボックスを開けて見せてくる。
中には大量の魚達が水を張ったクーラーボックスに詰まっていた。
鵺が歓声をあげる。
(これは、美味しい夕食が作れそうだ)
と翼は内心喜んだ。
「大量だね! 凄い、凄いっ! ねぇ? 健ちゃん、何匹釣った?」
鵺にそう問い掛けられて悠宇が指を三本立て「三匹。 初心者にしては、上出来だな」と答える。
鵺は「すっごい! 誉めてあげなきゃ」と言いながら、ビュンと台所を出ていった。
「もう、料理に飽きたみたいだな…」
呆れたようにそう呟いて、それから二人に翼は麦茶を出す。
「楽しんでましたか? 健司君」
そう問えば、悠宇は自信たっぷりに頷いて「帰り道なんか。ずーっと、釣りの話してんだぜ? 次はいつ行こうかってな」と答えた。
悠宇の言葉に、「じゃ、また連れてってあげて下さいよ」と言った瞬間、何やら悪寒が翼の背筋を走る抜ける。
どうも不安が表情に出ていたらしい。
「どうした?」
海月が問うてくるので、翼はツと眉根を寄せ、表情を険しくし、「嫌な予感がする」と呟いた。
こういう勘が外れた事のない翼が「ちょっと、今から寝所の方へ行ってきます」と言えば、海月が「俺も、挨拶がてら行こう」と言い、シオンも不安げに「私も、行きます」と言って、立ち上がった。


志之の寝所の襖の前に立つ三人。
翼の肩がワナワナと震える。
(やっぱりな!)
そう胸の内で喚く翼。
襖から漏れてくる声が、翼の肩を震わせていた。
「だってさぁ、翼が、なんか、『ふふん。 君みたいな人は、多分お料理なんて繊細の事ぁ、出来やしないだろうね。 ボンジュール。 ま、お今晩は、ミーが腕によりをかけてデリシャスディナァを振る舞うので、子供達に川遊びに出掛けるが良いさ、モナムール』って言ってきたもんだから、悔しくて…」
鵺が、いい加減な事をベラベラと喋っている。
(勝手な事ばかり、言って! 大体、釣りにだって、勝手に君が行かなかっただけだろ!)と、怒りつつ、とうとう我慢のならなくなった翼は「それは、誰の話なのかなぁ?」と言いながら襖を開け、絶対零度の声で、鵺に問い掛けた。
憤怒の表情で仁王立ちになっている翼を見上げ、あちゃーと言う表情を見せる鵺。
海月と、シオンが何処か脱力したような視線で見てくるが、正直構っちゃいられない。
「だぁーれぇーがぁー、そんなアホっぽいっていうか、アホそのもの?な、事を言ったって?」
翼が地を這うような声で問えば、鵺は背後を振り返り、ニコリと笑って「翼ってば、こんな風にいっっっっつも、気障っぽい、喋り方してるじゃない?」と、答えてきた。
「してない! ていうか、そんな喋り方の人間はいない!」
翼は、そう一刀両断すると、水命が大きく頷いてくれた。
「そうですよ! 翼さんは、そんな変な喋り方しません! もっと、こう、気品溢れる感じで、御伽の国の王子様みたいで、浮世離れしてて…」
水命の微妙にフォローになってない、フォローに、翼は感激し、極上の笑みを浮かべながら「ありがとう。 水命さん。 君のような人に、そんな風に言って貰えると、凄く嬉しいよ」と囁き、二人の間に少女漫画で言う所の点描のようなものが飛ぶって、何劇場だ、コレは。(この表現、いい加減しつこい)
鵺が小声で「してんじゃん。 気障喋り…」と呟いてきて、ムッとした翼が再び、鵺を睨み据え険悪な雰囲気が漂い始める。
しかし、海月がそれまでの状況が目に入っていないのか、鵺とエマの間を通り抜けて、ヒョイとエマの側に転がっている大きなスイカを持ち上げた。
「コレ…、冷やさねぇと、美味くねぇぞ?」
シオンが目を輝かせながら「うわ! スイカだ! スイカだ!」と嬉しげに言い、ペシペシと海月の抱えるスイカに手を伸ばして叩く。
身の詰まった事を知らせる鈍い音を響かせながら、シオンは満面の笑みを浮かべ、エマに「ありがとうございます」と言った。
どうも、シオンがエマにねだったらしい。
だから、シオンが居なくてあれ程、脱力したのか。
エマは、玄関での狂乱を微塵も感じさせない態度でシレッと「いえいえ。 どういたしまして」と返事し、次いで「海月さんは、知ってる? このお家ね、裏手の庭に井戸があるんですって。 で、そこで、スイカ冷やそうかなって考えてたんだけど…」と、海月に声を掛けた。
井戸がある事など知らなかった翼は「へぇ…珍しいな…」と感想を抱く。
す鵺がヒョイと立ち上がり、「案内してあげる! 凄いんだよ。 井戸!」と言いながらスイカを抱えたままの海月の腕を引き、それからエマに「冷やしてくるね」と声を掛けた。
そのまま、トトトと、部屋を出る二人を見送り、鵺に対して「…ったく」と呟く。
その瞬間、翼の鋭敏な神経が、庭先の方から見知らぬ気配を捉えた。
一つは、不穏な、しかし良く知っている気配。
そう、魏幇禍のものだ。
きっと、また、庭に潜んで鵺の事を見守っていたのだろう。
そして、もう一つ。
柔らかで、暖かな、だが、見知らぬ気配が庭にいる。
多分心配入らないだろうが、一応、念の為に身を守る術のない、健司や志之、エマの間、水命の側へと移動し、柔らかく微笑みながら健司に喋りかけた。
「たくさん釣ってきてくれて、ありがとうね。 今晩は、塩焼きと甘露煮にして、夕飯に出すよ」
そう翼が言えば、健司は、何故かモジモジとした調子で、まず志之の顔を見上げ、次にいずみの顔を見、そして、漸く翼の顔を見上げると、小声で呟いた。
「あの…」
「ん?」
「あの…、えと…」
「うん」
何かを言いかけては止まる健司の様子に、苛立ったように志之が口を開く。
「何なんだい? 早く言いなよ」
いずみも、クールな眼差しのまま「ほら、ちゃんと頼まないと」と、脇腹をつついて促し、健司は漸く決心をつけたように、「あの、お、俺の釣った三匹の魚のうち、一匹は婆ちゃんに、で、もう一匹は、ぬ、鵺に食べさせてやって下さい」と、言った。
思わず目を見開いて固まる翼。
まさか、健司が、鵺をだなんて、全然気付かなかった。
「ち、ち、違うんです! あの、鵺と、約束してて、俺が釣った魚食わせてやるって…」顔を真っ赤にして言い訳しているが、健司の鵺への感情は一目瞭然である。
(へぇ、そうなんだ)
翼は、心の中でそう呟き、海月も、「ああ、だから、自分の釣った魚と、俺達の釣った魚を別にして持って来たのか…」と言うと、シオンは楽しげに「喜びますよ。 鵺ちゃん。 それに、志之さんも…ね?」と志之に視線を向けた。
志之は、ニッと笑って、健司の頭に手を伸ばす。
「ま、あたしは、鵺のおまけだろうけどね、有り難くご相伴に預かろうかねぇ」
そういってグリグリと撫でてくるのを「おまけじゃないよ。 婆ちゃんに、食って欲しいんだ」と答えつつも、照れたように目を伏せた健司を見て、翼は明るく笑うと「了解。 じゃ、台所に一緒に来てくれるかな? どれが、君の釣った魚か教えて欲しいからね?」と言い、いずみも「私、お手伝いさせて下さい」と言いながら立ち上がった。


三人連れだって、志之の寝所を出て台所へ向かう。
しかし、その途中で「あ!」と健司が声を上げ「ごめん! 俺、朝顔に水やりしなきゃ!」と言った。
いずみが、腰に手を当てて「ほんと、忘れっぽいんだから」と言うと、「いいわ。 一緒に行ってあげる」と言って先に立って歩き始める。
健司は翼の袖を引くと「あの、俺の釣った魚を教えるのって後でも良い?」と聞いてくるので、まだ、魚を調理し始めるには時間帯も早かったし「構わないよ。 でも、ちゃんと教えてね?」と答えた。
健司はコクンと頷くと、それから背伸びをして、健司に目線を合わせるために身を屈めている翼の耳に口を近づける。
内緒話がしたいのだと気が付いた翼が、耳を向けてやると「俺が釣った、三匹の魚の内の最後の一匹は、いずみにあげてね。 友達の印にするんだ」と健司が言った。
翼は、『友達の印』という言葉が可愛くて、おかしくて、綻ぶように笑うと「了解」と答える。
健司は安心したように「お願いします」と言って踵を返すと、タタタタといずみを追っていった。
その後ろ姿を見送りながら「かーわいいなぁ…」と呟く翼。
暫く、ほんわかとした気分に浸っていたのだが、唐突に、ゾゾゾとするような、先程感じたばかりの悪寒を再び感じる。
「まさか……」と呟いた翼。
慌てて、台所へと向かった。


台所の中では、案の定、鵺が大声で喚いていた。
「大体さ! 『ミーは、女の子の味方ザンス、プロバンス! 世界中の女の子は、ミーの物でありんす〜』とか言うんだったら、私にももっと、優しくしてくれても良いよね!」と、ありもしない事言われ、翼は「だ〜〜かぁぁらぁぁ、それは、誰の話だ!」の怒声と共に、鵺を冷たい瞳で睨みおろした。
「やっだぁぁ? また聞いてたの? もしかして、翼ちゃんってば、盗み聞きプリンス?」と問われ、ブツッと何処かの線が切れるような感触を覚えた翼。
ワナワナと震えながら「キミは、本当に、僕の神経を逆撫でる天才だね?」と言い、それから、洗い場にて黙々と魚の内蔵を取り出し、洗っている海月の姿を見留め、目を見開く。
慌てたように走り寄ると「っと、スイマセン! 有り難う御座います」と、礼を言い、朝の弁当作りの時にも感じたが男性にはあるまじき程の手際の良さに驚いた。
「わ、凄い、手際良いですね」
感心したように言えば、「一人暮らし長いから」と、素っ気なく答えられる。
「洗うのだけやっておくから、他の料理の準備進めな」
そう言ってくれる海月の言葉に、鵺が抗議した。
「えー?!  折角、井戸に案内してあげるつもりだったのに! スイカどうすんのよ?」
そう言われて海月は「悪いが、サッと行ってきてくれないか?」と言う。
むくれた表情で、「じゃ、行こ? 凪砂さん」と、翼が台所を離れている間に、訪ねてきてくれたらしい雨柳凪砂に声をかける鵺。
雨柳凪砂とは、何度か彼女が志之のお見舞いに来た時に、会っているのだが、如何にも日本美人と言った風貌の、おっとりとした女性で、翼は大和撫子とはこういう人のことを言うのだと感じていた。
凪砂も、井戸の事を知らなくて、鵺に案内して貰うのだろう。
凪砂が頷いて、スイカを抱えようとするも「あ! それ鵺が持ちたい」と、手を挙げる。
「大丈夫? 重たいわよ?」
と、凪砂が不安げに問いつつも任せれば、細い両手を一杯に広げて、スイカを「うんしょ」の一声と共に、抱えると、小柄な体をゆらゆらさせながら、先に立って歩き始めた。


魚たちを洗い続ける海月に、手慣れた仕草で包丁を扱いながら「さっき、庭で見知らぬ気配を感じませんでしたか?」と小声で翼は問い掛けた。
海月が静かに、視線を送ってくるので、翼は包丁を一旦止めて視線を返す。
この男なら、何となくだが、感じてそうな気がした。
身のこなしを見ても、一通りの武術は齧ってそうな印象がある。
「お一方の気配は存じ上げている方のものでしたが、もうお一方のが、どなたのかよく分からなくて。 ただ、悪意はなさそうでしたし、どちらかというと優しげな感じも伝わってきましたので、放っておいてあるのですが、あれ、誰のなんでしょう?」
そう問えば、海月もやはり感じていたのだろう、「ふむ」と呟く。
すると、いつのまにか背後に立っていた零がヒョイと二人の間に顔を覗かせ「何のお話してるんですか?」と笑顔で問うてきた。
翼は、この可愛い少女に余計な不安を与えまいと考え、「魚の活きが良いですね、って話し合ってたんだ。 今晩は、零ちゃんの為にも、腕によりをかけてこの魚をお料理するからね?」と言いつつウィンクする。
背後の椅子に座っている悠宇が、呆れたように「ほんと、すげぇよな。 お前」と呟いた。
「女性に対しての振る舞いとしては、当然だと思うけど?」
とシレっと答える翼。
そうこうしている内に凪砂と、鵺が戻ってくる。
翼は、海月は並んで調理している体勢のまま、凪砂に問い掛けた。
「凪砂さんにお聞きしたいんですけど……」
いきなり声を掛けられて驚いたのだろう。
ビクリと身を跳ねさせ「…っ、っはい!」と、返事をした凪砂に、翼は、不用意に凪砂を驚かせてしまった事を、心から済まなく思い、「あ、すいません。 驚かせてしまって…」と詫びた後、「あの、庭に隠れてらした方、凪砂さんご存知ですか?」と、先程まで話題にのぼっていた疑問を投げかけた。
まぁ、あの気配から察するに、どうしても危険な存在とは思えなかったし、隠していてもしょうがないだろう。
それに、今日、多分幇禍と同じ時間に、この家に来ている凪砂は、幇禍が連れているらしい人間の事を知っている確率も高い。
凪砂は目をパチパチさせ、「えーと、幇禍さんの事ですか?」と聞いてきた。
すると、凪砂の隣りに立つ鵺が、深い深い、溜息を吐き「どーして、あんなトコに潜むかなぁ」と呟く。
「あ、いえ、幇禍さんじゃなくて…あの、もう一人いらっしゃったと思うんですけど…」そう翼が言えば、海月は続けて「別にどうって事はないし、害意も全く感じなかったが、見知らぬ気配があったからな…」と呟いた。
寝所に行かなかった悠宇は何が何だか分からないって顔で見回していたが、ポンと手を叩くと「幇禍なら、知ってんぜ? あいつ、まだ鵺の事、見守ってんの?」と、面白そうに言う。
その言葉に鵺が頭を抱え「ていうか、悠宇にまで知られてんの? 恥ずかしいなぁ、もう…」と呻いた。
凪砂は、少し笑みを浮かべると「じゃあ、もう一方は新庄さんですね」と答える。
「新庄さん?」
そう首を傾げる翼に、凪砂は「健司君の里親候補です」と告げた。
(里……親?)
里親などという思ってもみなかった言葉に驚く翼。
零が素っ頓狂な声で「里親?!」と叫んだ。
「や、ま、確かに、そりゃあ、考えなきゃいけねぇ問題だけどよぉ」
そう呟きながら悠宇が、台所にある丸椅子に腰掛け足を組むと「詳しい話、良いか?」と聞く。
翼も、健司に関わる大事な話という事で、息を詰め凪砂の声に耳を澄ました。
凪砂は、頷くと、口を開く。


「つまり、新庄さんは、家族になりたいんだそうです。 健司君の。 そして、志之さんの…。 これからする話はロマンスなんです。 それも、涙が出る位、純粋なロマンス」
そう口火を切った凪砂。
静けさが、また、蝉の声を運んできた。


「まず、始まりは、私が草間さんに対し、健司君の親族関係や、里親になってくれそうな人の調査、捜索依頼を行った事でした。 健司君が、志之さんの死後誰に引き取られるかというのは、重大な問題に思われましたし、放ってはおけなかったので、お節介が過ぎる事を自覚しながらも、せずにはいられなかったのです。 後に、その依頼を幇禍さんが手伝ってくれるという事になり、幇禍さんは、有力なネットワークの持ち主とお知り合いになられているようで、そういうツテも行使しつつ、探してくれたのですが、やはり、健司君には親戚と呼べる人はおらず、志之さん自体、複雑な事情があって、完全に身寄りのない身の上の方でした。 草間さんの調査も暗礁に乗り上げ、さて、どうしようかと悩み始めた時に、幇禍さんの知り合いがある情報を彼に教えてくれたのです。 どうも、健司君や、志之さんの事を、知ってる人がいるらしいと。 その情報先は、ある出版社で、その出版社にお勤めになっていらっしゃる方が、自分の担当先の作家が、もしかすると、その志之さんや、健司君達を知っているのではないかと、幇禍さんのお知り合いに教えてくれました。 幇禍さんは、慌てて、その作家さんのお家、つまり新庄さんのお家を訪ねました。 そこで、全ての事情を説明し、里親になる人を捜している事をお伝えしたところ、それならば、是非自分がという事で、本日お越し願えたという訳です」
そこまで聞いて鵺が、あっけらかんとした調子で凪砂に尋ねる。
「それで、一体、その新庄さんって人と、志之さんはどういう関係なわけ?」
鵺の問いに凪砂は、一旦唇を舌で湿らせ、再び口を開いた。
「新庄さんって方は、健司君のお父さんの学生時代の親友だったそうです。 健司君のお父さんは、随分と親切な好漢だったそうで、新庄さんは昔、大学に通う為に下宿していた家が火事にあってしまい、殆ど身の回りの物も持ち出せずに焼け出された時に、同じゼミだった健司君のお父さんに助けられ、このお家で卒業までの間、お世話になったと言っていました。 その時、既に志之さんのご主人は他界されていたらしいのですが、志之さんは、男手が増えると新庄さんの事を歓迎し、殆ど家族同然として、三人でこの家で、二年ほどの年月を過ごしたそうです。 新庄さんは、余り家庭的に恵まれてない環境で育ったそうで、余計に、その二年は、大事な思い出となったのでしょう。 だけど、新庄さんは、その二年間で、思い出以上の大事なものを見付けました」
翼は、全てを察し、そっと囁く。
「それが、志之さんなのですね…」
翼の言葉に、息を呑む一同。
話を聞いていれば、友人の母親を好きになったという事で、随分と年も離れているはずである。
だが、同時に、翼は何も疑問を感じなかった。
志之は、素敵だ。
今だって、あれ程魅力的なのだもの、若い頃にモテない筈がない。
凪砂は、コクンと頷く。
「30歳近く年が離れていますから、始め新庄さんが、志之さんに想いの丈を告げても、取り合っては貰えなかったそうです。 在学中に、公募の文学賞で受賞し、卒業時には、何とか食べていける位まで新庄さんが、作家として独り立ちしても、志之さんは、新庄さんの結婚して欲しいという申し出に、首を縦に振りませんでした。 でも……、どうなんでしょうね…。 本当に嫌な相手ならば、想いを告げられた時点で、この家を出ていかせるんじゃないでしょうか? 志之さんが、新庄さんの事をどう想っていたかなんて、今となっては分かりませんが、それでも、新庄さんの事を悪しくは考えていなかったんじゃないでしょうか?」
凪砂は、一旦そこで言葉を止め、懐から一枚の写真を取り出す。
そこには、この家の前で並んで立つ、若い頃の志之と、それから健司は父親似なのだなと感じさせる、快活そうな男性、そして、優しげな目をした男性の姿が写っていた。
この男が、新庄だろう。
鵺が手を伸ばし、如何にもしっかりしてそうな、ひまわりのように力強い笑顔を見せる志之の顔を指先でそっと撫でた。
「これ、新庄さんの大事な写真を焼き増しして貰ったんです。 皆さん、御覧になりたいかと思って…」
凪砂が、そう言って笑う。
「素敵な写真ですよね……。 新庄さんが、大学を卒業して一旦地元に帰る前に、撮った写真だそうです。 新庄さんが、地元に戻る前の日、再度、志之さんに自分の気持ちを新庄さんは伝えましたが、志之さんは結局その想いを受け入れず、自分の事は、一時の気の迷いだから、忘れなさい。 もう、私に連絡を寄越してもいけない、と言って聞かせました。 新庄さんは、志之さんのその強い言葉を受け入れながら、それでも、何か困った事があったら、助けが欲しい事があれば、必ず自分を呼ぶようにと伝えて、地元に戻ったそうです」
写真の中の、新庄の表情は、笑っていてもどこか憮然としていて、なのに悲しそうで、色々複雑な感情の入り混じっているように見える。
どんな気持ちだったのだろう。
親友の、母親に恋をして、恥も外聞もなく、学生の身で求婚し、その全てを気の迷いと言われて、実家に帰る身というのは、どんな気持ちになるのだろう。
淋しいのだろうか、悲しいのだろうか、憎いのだろうか……。


それでもまだ、愛おしいのだろうか。


「結果を言えば、新庄さんの想いは、一時の気の迷いなどではありませんでした。 志之さんの事が忘れられず、他に女性と付き合っても、どうしようもなかったそうです。 それから、20年近く、結婚する事無く、ずっと、ずっと、ずっと……。 志之さんの事を、想い続けていたのです。 …純愛ですね」
凪砂の言葉に、翼は静かに答えた。
「羨ましい位の、純愛ですね」
海月が、静かな声で呟く。
「そんなに惚れた女と、漸く再会したっつうのに、それが最期の別れが近い時だというのはどんな気持ちなのだろうな…」
凪砂が、蝉の声に耳を傾けながら答えた。
「悲しいでしょう。 それは、とてもとても、悲しいでしょう。 それでも、最期に会えないまま逝ってしまわれるよりは、屹度、悲しくないのだと思います」




誰かを、そんな風に、20年間想い続ける。
それは、奇跡だろうか?
それとも、人とは皆、そのような純粋性を有しているのだろうか。


人の20年は余りにも長い。


再会の果てに、想い人に死なれようとも、やはり、やはり、そのような恋は幸福な恋であると、翼は思いたかった。





夕食の為に、皆でちゃぶ台を囲む。
食卓には、10人近い人間がついていた。
賑やかな食卓風景。
新庄は、写真に写っている姿よりも太っていて、禿げていた。
年月の無情さというのを体現しているような姿だが、それでも柔和そうな雰囲気と優しい目は変わっていない。
先程も、丁寧に挨拶され、健司の事を知りたいのだろう。
どんな食べ物が好きか、毎日どんな風に過ごしているか、事細かに話を聞かれて、答えていた所である。
「そっか、カレーが、好きなんだ」
と嬉しげに言う新庄。
きっと、この男なら、ねだられるままに、好きなものばかり食べさせてしまいそうだと、違う意味で不安になる。
今も凪砂が健司と、新庄の側に腰を下ろし、二人の会話を取り持とうしていたが、しかし、凪砂があくせくする間もなく、屹度新庄の人柄なのだろう。
健司は完全に、新庄に打ち解けていた。
「で? で? お父さん、そん時どうしたの?」
健司には新庄の事を、亡くなった父の友人とだけ伝えてある。
幇禍の言葉に従った結果らしいが、確かにその方が、打ち解け易くはあったみたいだ。
「んー? 逃げたよ? 自慢じゃないけどね、俺も、聡も喧嘩はからっきしだったんだ。 逃げるが勝ちだよ」
今も、父親と二人で不良に絡まれた時の思い出話を、流石作家と言うべき軽妙な語り口で聞かせながら、健司をカラカラと笑わせている。
健司の隣りに座るいずみも、黙ったまま聞き入っており、子供二人相手にも手を抜いた様子なく、新庄は真剣に語り続ける。
「すっげぇ! で、逃げられたの? 逃げられたの?」
「それがね、向こうも人数が居るからね、挟み撃ちに合っちゃって、で、そん時の聡が凄いんだ。 いきなり、近くにあった、家の塀をよじ登ってね…」
その口調に思わず、聞き入ってしまう翼。
「うん! うん!」
と強い相槌を打つ健司の横腹を、いずみがつつき「ちょっと、うるさい」と言って、可愛らしい言い合いが始まり掛けるも、新庄が話し始めれば、再び意識はそのお話にいくらしく、健司が懐く様に少しだけ淋しい思いをしつつも、「新庄さんになら、任せられそうだ」と翼は安堵した。
その後、健司と新庄、それに何故か鵺を水命が連れて、志之の寝所に食事の世話に向かう。
まわりでは、銘々がそれぞれに会話を交わし、食卓に並べられる料理の数々に期待の眼差しを寄せていた。
自分が作ったものを、一度にこんな大人数の人間に食べて貰う機会なんて、なかなかなくて、なんだか気恥ずかしいような気持ちになる。
その騒がしさの中、翼はぼんやり思った。



大家族みたいだ。






料理を作ったという事で、皆を代表して翼は照れ臭そうに手を合わせ「いただきます」と挨拶する。
それから皆が一斉に箸を動かし始めるのを眺め、思わず笑ってしまった翼は、まずは美味しそうな、あまごの塩焼きに箸を伸ばした。
そっと身をほぐし、口の中へ運ぶ。
あまごの柔らかで、でも、弾力のある身がプリプリと舌の上で弾け、ほのかな塩味と共に淡泊で深い味わいが口の中に広がるのを、目を細めて楽しみ、次いで、肉じゃがを、つまんだ。
素材が良いせいもあるし、翼も今日は調子が良かったものだから、あまごは、全く形崩れしておらず、肉じゃがも、中まで味が染みていて、幸せな気分になる。
いずみが「おいしい…」と、思わずといった調子で呟くのを聞いて嬉しくなった翼はニコリと微笑んで「可愛いリトルレィディに誉められて、光栄だよ」と告げた。
零も、幸せそうに箸を口に運んでおり、シオンや凪砂は言うに及ばず、皆が自分の料理を食べて幸福そうで、


こういうのもいいものだ…。


と、一抹の郷愁と共に、そう胸で呟く。
そんな風に浸っていた翼の耳に、エマの明るい声が聞こえてきた。
「ね? 食べ終わったらさ、花火しよ? 花火」
その言葉にいずみが、珍しく、パァッと表情を輝かせてエマを見上げた。


ヒュルヒュルッと音を立てて、空で咲く、小さめの打ち上げ花火に零や、鵺が歓声をあげている。
家の奥にあったのを外に引っぱり出した、古い木の机に、切り分けられたスイカが並んでいる。
と、言っても、物凄い勢いで売れたので、残りはあと僅かだ。
幇禍が、鵺と一緒に、花火を振り回してはしゃいでいた。
また、何処かに潜んでいた所を見つかったのだろう。
まるで子供のように見えた。
悠宇が呼んだのらしい日和が涼しげな浴衣姿を披露しながら、二人並んで、花火をしていた。
いずみと、健司は何事か言い合いながら、海月が打ち上げる花火を、目を煌めかせて見上げている。
キラキラキラと、頭上に咲く火の花に、シオンが運んで縁側に寝かせた志之が感嘆の溜息をついた。
シャクリと口にした、スイカは井戸のおかげで歯に染みるほど冷たく、そして滴り落ちる程の甘い果汁を秘めた一品で、エマが「私の目に狂いはなかったわ」と、勝利の笑みを漏らした。
翼は、その言葉にクスリと笑って「確かに、これは見事なスイカです」と言い、自分も、小さくかぶりつく。
志之も新庄が、スプーンで果肉を掬って差し出せば、一瞬照れた様子で躊躇しながらも一口、口にして頷く。
「これは、美味しいスイカだねぇ」
健司が、大きく手を振って、新庄の事を呼んでいる。
新庄は、頷くと、スプーンを翼に託し、健司の元へと走り寄っていった。
蚊取り線香は匂いがキツイだろうとシオンが、用意した蚊連草(蚊を寄せ付けなくするらしい)を置き、横たわって花火を眺めている志之をそっと団扇で仰ぐ。
「…キレイですね」
シオンが、花火を見上げうっとりとした表情で呟いた。
「エマさん、感謝します。 スイカも、花火も…」
シオンの感謝の言葉にエマは、「いえ。 こっちこそ、ありがとう。 シオンさんに言われなきゃ、こんな事思い付かなかった。 良かった。 健司君も、みんなも喜んでるんだもの。 本当に良かった」と笑顔で答えている。
至る所で、咲いている小さな火の花達。
その火の花が照らし出す表情は、皆笑顔で、心が満たされていくのを感じる。
凪砂が、縁側から降り、線香花火に火をつけて、パチパチと弾けさせながら、何気ない調子で志之に問い掛けた。
「…志之さんは…、新庄さんの事、どう思ってたんですか?」
いきなりの質問に、息を止める一同。
なんて直球勝負!と、思いつつ、自分も正直とても気になっていた事なので、好奇心を抑えきれずに耳を澄ませる。
「どうって…どういう意味だい?」
飄々と問い返す志之。
凪砂も、淡々とした調子で問いを重ねる。
「新庄さんの事、好きじゃなかったんですか?」
すると志之は、「好きだったよ。 ウチの息子の、大事な友達だったからね」と答えた。
凪砂は、じっと線香花火を見下ろしたまま、首を振る。
「そういうのじゃなくて…」
「そういうのだよ。 そういうのだけさ。 何、聞いたかしんないけどね、あの子とあたしには、20以上も年の開きがあって、あの子は、ここに住んでる時は、ほんの子供で、そういう子供に対してどうこうってぇのは、ないんだよ。 それにあたしは、死んだ旦那一筋なのさ」
「……ほんと、ですか?」
「本当だよ」
凪砂はチリチリと散る花火を見ながら、優しい声で囁く。
「………新庄さん、ずっと、志之さんの事、想ってたそうです。 ずっと、ずっと、志之さんの事好きだったそうです。 いえ、今も想ってます」
凪砂は、ポトリと落ちた線香花火の芯を淋しげに見下ろして言った。
「…純愛ですね」
志之は、微かに笑った。
淋しい、憐憫に満ちた笑みだった。
「嗚呼。 あの子に、あたしは引導を渡してあげたかったのにねぇ…」
翼は、疑問を感じ、怪訝な声で「引導?」と問う。
志之は、頷いた。
「若いあんたらには、ピンと来んだろうけどね、あたしは、旦那に先に死なれてから、ずっと、死っつうのを、見据えて生きてきた。 あたしは、あの子より先に死ぬ。 どう生きようとも、あたしに先にお迎えが来るのは確かだ。 あの子に、結婚しようと言われた時から、ずっと分かりきっていた。 好きになった人にね、先に死なれるっつうのは、淋しいよ。 堪らないもんだよ。 そんな思いはね、出来るだけ誰にもさせたくなかったんだ」
志之は、そっと目を閉じる。
「20年間、あの子に辛い思いをさせてたんだね。 嗚呼、あの時、もっとちゃんと引導を渡してあげれば良かった」
花火の火が、また一瞬、志之の横顔を照らした。


深い皺。
浮いた染み。
目立つ頬骨。


だけど、美しいと翼は感じた。
見惚れるほどに、その瞬間の志之の横顔は美しかった。



こんな人を、20年も想い続けられるだなんて、幸福に決まってるのに…。



翼は、そう心の中で呟いた。




その後、こんなに大人数だしという事で、皆で銭湯に向かう事になった。
翼は、エマが毎日、帰る前に必ず志之の体を清める世話をしていると聞き、一人では大変だろうからと一緒に家に残る。
夏の間は、どうしても汗をかいて不衛生になりがちだからと、エマはいつも一度石鹸をつけた手拭いで志之の体を拭き、その後に、湯で濡らしたタオルで志之の体を拭っていたらしく、髪の毛だって、大きなタライに湯を張り、畳には防水シートを張って、優しく頭皮まで洗ってあげていた。
女性の体に触れるという事で、翼は志之を驚かせない為にも「志之さん、失礼するね?」と、一声掛けて、優しく着物をはだけ、エマは痛みがないように、何度も、何度も確認をとりながら背中と、首の部分に、折り畳んだ座布団を滑り込ませ、高さを作ると、その下に大きなタライから湯を汲んだ小さめの洗面器を置いた。
エマが志之の髪を洗い始めるのを見て、自分も肋の浮いた痩せた体に、エマの言う通り石鹸をつけた手拭いを滑らせる。
ゆっくりと力を入れて、擦ってやると「あー、気持ち良いね」と志之が、目を細め、翼は、少し安心した。
骨の目立ち。乳房の垂れた裸体を眺めながら、翼は、それでも志之は美しいと感じる。
どんな宝石よりも大事に、大事に、翼はその体を拭い続けた。
静けさが部屋を満たす。
蝉の声が、鳴り響いていた。
あらかた、志之の体を拭い終え、エマも、髪に仕上げの椿油を塗り始めている時だった。


エマが、ポツリと呟いた。





「……志之さん。 死なないで」




その唐突な台詞に驚き、翼はエマに視線を向ける。



「死なないでよ……」
椿油を塗った、髪を梳りながら、エマは言い募る。
「お願いだから」


志之が、優しく笑ってエマに言った。






「分かった。 死なないよ」







その瞬間、エマの目から涙がボロボロボロと零れ落ちた。
翼は、ぎゅっと、激痛のようなものが胸を切り裂くのを感じる。


エマが、どれ程、志之を大事に思っているのか悟った。
そして、志之も、どれ程エマを大事に思っているのか悟った。




「う…うぅう…うっ…うぅーー…」



エマが、あの、沈着冷静なエマが唇を噛み、子供のように唸りながら泣く。



翼は、どうしようもない事というものの存在を、此程までに感じた事はなかった。



志之は、死ぬ。



どれだけ、願おうと死ぬ。




それは、逃れようのない事実。





「ごめんねぇ。 あたしが死ぬ時、誰も泣かせたくなかったのにねぇ…」
志之が詫び、エマは首をぶんぶんと振って、ボトボトと涙を落とす。




志之がエマの為についた悲しい嘘が、辛くて、切なくて仕方がない。






やけに、蝉の声が耳につき、翼はそっと、終わりの近付いた夏を想った。








それからも、翼は、暇を見ては志之の元へ通った。
翼に出来る限りの事はした。
色んな、話を志之とし、健司の話や、交通事故で一緒に死んでしまった、息子夫婦の話も聞いた。
新庄の話は…、志之は、しなかった。

志之は、一度もしなかった。



そして、夏も終わりかけた、されど残暑厳しい日に、志之は死んだ。



突然の知らせに、動揺し、慌てふためいて、健司の家に駆けつけた。

志之の寝所には、既に手伝いに来ていた者達と、健司と新庄の皆が揃っていた。
誰かが呼んだらしい、医者が志之の枕元に座っている。



静かだった。
圧倒的な迄に静かだった。



死の音とは、無音なのだと翼は悟った。
健司が、志之の右手を握り、新庄が志之の左手を握っている。




聖家族。



聖母子と聖ヨハネを指す言葉が、何故か、頭に浮かんだ。
それ位神々しく、近寄りがたい風景だった。
志之の唇が微かに動く。
新庄が、志之の唇近くまで耳を寄せ、そしてコクリと頷くと、翼を手招きした。
翼は、静寂を乱さぬよう、静かに志之の側へ行く。
新庄が、囁くように行った。
「…志之さん。 何か貴女に、仰りたい事があるそうです。 どうぞ、聞いてやって下さい」
そう言われ、震えながら、耳を志之の唇の側まで近づける。



「……レース……頑張ってね。 …見てるから。 あたし、見てるからね…」



志之の言葉に、翼は何度も頷いた。
これから先、みっともないレースは出来ない。
この人が、見ているのだからと、決心する。



志之が、新庄に「…健司の事、頼みます」と告げ、健司には「…幸せに…なりな」と言うのが聞こえてきた。
翼は、動揺を隠せないまま、それでも、見つめなければ。
最期まで、ちゃんとみつめなければと、志之の顔を見つめる。
志之の瞼がゆっくりとおり、それから、呼吸が、深く、緩やかになり始めた。
健司は、何も言わず、涙も見せず、ぐっと耐えるように志之の手を握り締め続けている。
新庄が、目を真っ赤にしながら、最期の瞬間、志之に囁いた。




「愛してます」




志之が、微かに笑って、頷いたように見えた。





翼は、志之の家からの帰り道、静かに泣き続けた。


淋しい。

とても、淋しい。



だが、見事な往生だった。
格好良く、潔く、思い残すことがないように、死に逝く志之を、心から素敵だと翼は思った。
健司は新庄に正式に引き取られる事になったらしい。
新庄は、志之の思い出の残る家を処分する気などなく、移り住んできてくれるそうだ。


翼は、新庄のその決断に、多大な感謝を捧げる。






そして、志之への誓いを守る為にも、尚一層トレーニングに励み、レースに挑もうと心に決めた。





    
   終





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■         登場人物            ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
 ※受注順に掲載させて頂きました。

【0086/ シュライン・エマ  / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1847/ 雨柳・凪砂 / 女性 / 24歳 / 好事家】
【1572/ 暁・水命  / 女性 / 16歳 / 高校生兼家事手伝い】
【3604/ 諏訪・海月 / 男性 / 20歳 / ハッカーと万屋】
【3524/ 初瀬・日和 / 女性 / 16歳 / 高校生】
【3525/ 羽角・悠宇 / 男性 / 16歳 / 高校生】
【2414/ 鬼丸・鵺  / 女性 / 13歳 / 中学生】
【3342/ 魏・幇禍  / 男性 / 27歳 / 家庭教師・殺し屋】
【3356/ シオン・レ・ハイ  / 男性 / 42歳 / びんぼーにん 今日も元気?】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー兼闇の狩人】
【1271/ 飛鷹・いずみ  / 女性 / 10歳 / 小学生】

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■         ライター通信          ■
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遅くなりまして、遅くなりまして、遅くなりまして、真に申し訳御座いません!
へたれ人間失格人間ライターmomiziで御座います。(切腹)
初めましての方も、そうでない方も、この遅れっぷりには、最早怒りを越えて、呆れられているのではと、怯えるばかりなのですが、全て私が悪いので、どうぞ、三発位殴ってやって下さい。
さて、えーと、毎回、毎回、ウェブゲームのお話に、是非、個別通信をやりたいと考えているのですが、毎回毎回、時間の都合により掲載できません。
ほんま、スイマセン。
なので、ご参加下さった全ての方々に「本当に有り難う御座いました。 再びお目に掛かれましたら、僥倖に思います」というお言葉を贈らさせて下さい。
あと、非人道的な位、長くなってしまった事もお詫び申し上げます。

momiziは、ウェブゲームの小説は、全て、個別視点の作品となっております。
なので、また、別PC様のお話を御覧頂ければ、違った真実が見えるように書きました。
また、お暇な時にでも、お目通し頂ければ、ライター冥利に尽きます。

ではでは、これにて。

momiziでした。