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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


聖家族



オープニング


小さな掌が、大事にくるんでいたたくさんの小銭達を机の上にそっと置いて、不安げに揺れる目で見上げられながら「足りませんか?」と聞かれた瞬間、零は耐えきれず目頭をハンカチで抑えた。
「おこづかいと、お年玉の残りと、あと、お手伝いした時にもらったお駄賃も一緒に持って来たんです」
武彦は小さな依頼人に、いつもの少し憮然とした顔つきで「足りないね」とにべもなく答える。
「大体、ウチは興信所であって、医者ではない。 無理だね」
冷たい言葉。
その言葉に、武彦の前に座る、坊主頭の子供の目からポタポタと涙が零れ落ちた。
「お…お、お願いします。 ば……ばぁちゃん…ずっと、俺の事、一人で育ててくれたから……、俺…どうしたら……いいか…」
そのまま、グシグシと泣き崩れる姿に、零は手を伸ばし、その小さな頭を胸に抱え込む。
「そうよね。 お婆ちゃんいなくなったら、独りぼっちになっちゃうものね……」
依頼に来たこの子の名前は、健司。
まだ、小学生だという。
両親が早くに死に別れ、祖母の手によって育てられたそうだ。
だが、その祖母も、かなりの高齢でこの夏、とうとう倒れてしまったらしい。
その間、健司は一人で家の中の事を切り盛りし、祖母の世話をし、学校にも通った。
だが、そんな健司の懸命な看病にも関わらず、医者の話では、祖母はこの夏一杯の命と考えた方が良いらしい。
「お、お婆ちゃんの事助けて下さい…。 何でもします。 お、俺、何でも…何でもします…」
彼は、この興信所が、不思議な事件ばかりを解決してきているという噂を聞き、藁をも掴む思いで尋ねてきた。
「お婆ちゃんの命…助けて下さい」
しかし、武彦は首を振り、諭すような調子で言う。
「決められた命の長さを、人の手では左右できない。 例え出来てもしてはならない。 お前の婆ちゃんは、立派に生きて、やっとお役ご免の時がきたんだ。 お前は、今、婆ちゃんが生きてる内に、もう一人で立派に生きてけるって見せて、安心してあの世へ行かせてやらなきゃ駄目だ。 有りもしない、命を永らえる方法を探すより、そっちの方がずっと大事なんだ」
武彦の言葉に、健司は首をブンブンと振る。
「ひ……一人で、なんて、無理です。 だって、だって、俺、ずっと婆ちゃんと一緒に……一緒に……」
そんな健司を見て、零は、沈痛な面もちで口を開く。
「一人でなんて、無理よね。 一人は、寂しいものね。 でもね、兄さんの言う通り、無理なの。 お婆ちゃんを助ける事はね、どうしても無理なの」
その言葉に、零と武彦、交互に視線を送った健司は、「う……うぅ…」と嗚咽を漏らしながら立ち上がり「分かったよ! もう、頼まないよ!」と叫ぶと興信所から走り出ていった。
零は、その背中に「あ!」と声を掛けて手を伸ばす。
そして項垂れると、「…どうしよう」と呟いた。
そんな零に、見透かすような視線を送りながら武彦は口を開く。
「あーあー、困ったなぁ」
「え?」
驚いたように顔を上げる零。
「あいつ、金置いてっちゃったな」
そう言いながら、ヒラヒラと一枚の紙を見せる。
「これ、健司が書いてくれた連絡先と住所。 んで、忘れ物の金」
「……え?」
「届けてくれるか?」
そう首を傾げられて、零は勢い良く頷く。
すると武彦は、少し笑って、「ホイ」と紙を渡してきた。
健司の家は、下町にある、古く、今にも倒れそうな姿をしていた。
零が、そっと中を覗き込めば、開け放した畳の部屋は、荒れ放題の様相を呈している。
どれ程頑張ろうとも、小学生一人では手入れが怠ってしまうに違いない。
祖母の世話だって、大変な筈だ。
ご飯はどうしているのだろう?
そう考え出すと、もう、駄目だった。
零は、トントンとドアをノックしながら決意する。
「お節介だって言われようと、私、この一夏、この家の家事を手伝ってあげよう」と。




本編









お祖母さんが死んでしまうというのは、どういう気持ちになるのだろう。

飛鷹いずみは考える。

たった、一人の大事な肉親が、死んでいくという事の感慨を、健司のような子供がどう受け止めてるというのか。
いずみは、自分の手を見る。
小さな手。
幼き手。


私ならば、どうなるのだろう。
いずみは自分の身にも置き換えてみた。



どれ程考えても分からなかった。




「んーと、んーーーと…」
と、優柔不断な様子で悩む健司の肩を叩き、いずみは「ほら、早くしないと、他の人待ってるじゃない。 それに日和さんも重いでしょ?」と大人っぽい口調で注意する。
プロチェリストの卵だという初瀬日和が微笑んで「大丈夫よ。 健司君、焦んなくてもね? あと、いずみちゃんは、どれがいいかな?」と、問うてきた。
異常気象だと言われるほどに、暑い夏。
健司の家の手伝いに来てくれる人達は、そんな中でも文句一つ言わずに動いてくれていた。
休憩時間に初瀬が、ここに手伝いに来がてら買ってきてくれたアイスを、配ってまわってくれている。
細く、白魚のように美しい初瀬の手に食い込むビニール袋が痛々しくて、いずみはあまりここで長引かせては行けないと、殆ど悩まずに「コレ、頂きます」とクレープアイスを引っぱり出し「ご馳走になります」と頭を下げる。
続いて、「じゃ、コレ!」そう言ってチョコレート味のアイスを選んだ健司。
ニカッとした笑みで「ありがとうっ!」と、言う姿を見て「子供だな」といずみは感じた。


いずみは、ここの所、ほぼ毎日のようにこの家を訪ねてきていた。
大体、夕方までここで、過ごし、夕食前には帰る。
いずみは、ここに来だした最初の頃、志之の食事の世話や、掃除など、わざと健司に見せつけるように行い、健司の敵愾心を煽るように、行動していた。
そうする事で、健司に積極的に志之の世話をさせようと考えたからだ。
健司にとって、志之がかけがいのない存在であるように、志之にとっても健司はかけがいのない存在だ。
出来るだけ、二人の時間、二人の思い出を増やしてあげたかった。
いずみの思惑は当たった。
健司はいずみの行動に触発され、積極的に志之に接し、世話をし、色んな話を毎日するようになった。
だが、いずみの計算違いは、いずみが積極的に志之の世話を行い、健司も積極的に志之の世話を行うという事は、二人は一緒に行動しているという事になるのだ。


いつしか、周囲からも、「やっぱり、年が近いから、仲良いね」と言われてしまう位、健司といずみは一緒に過ごす時間が長くなっていた。


「なぁ、いずみはさ、あの朝顔、いつ位に咲くか分かる?」
アイスを舐めながら、ここの所健司に毎日聞かれる質問にうんざりと答える。
「さぁ? 見てる限りじゃ、もうつぼみになってるし、あと一週間以内には咲くんじゃないの」
健司は、夏休みの宿題である自由研究のために、朝顔の観察日記を付けていた。
朝顔の花にしたのは、それが自由研究の定番だからではなく志之が好きな花だかららしい。
故に、健司は朝顔を大事に育て、欠かさずに水をやっていた。
「ホントかよ? なーんか、いまいち信用できないんだよなー」
健司の言葉にいずみは、片眉をあげて「私が、間違ってる事、言った事あったっけ?」と問う。
すると健司、何度も宿題を教わっているせいか、「う…」と言葉に詰まり、それから「じゃ、海月さんに聞いてみようぜ?」と提案してきた。
海月とは、諏訪海月の事で、銀髪の長髪を一括りにし、頭に巻いたタオルが特徴の青年である。
無口で、無愛想なのだが、それが逆に信用できるというか、頼りがいがある雰囲気を醸し出していて、健司は、まるで父親に対するように懐いていた。
いずみは「止めなさいよ。 折角の休憩時間なのに、ご迷惑よ」と言えども、健司は海月の所へ一目散に駆けていく。
いずみは、一度溜息を吐くと、その後を追った。。
胡座をかき、小豆氷のアイスを食べていた海月が此方に気付いて、「ん?」と、低い声で問い掛けてきた。
健司が「あのさ、あのさ…」と胡座をかいた海月の膝に手を掛けて「朝顔って、いつになったら咲くか、分かる?」と聞く。
いずみは、肩をそびやかし「だから、もうすぐだって言ってるでしょ?」と言い、健司がむぅと頬を膨らませ「だって、気になるんだもん」と言い返してきた。
海月は、「…そうだな。 あの様子じゃ、あと一週間以内には咲くんじゃないか」と静かに答え、再びかき氷を口の中に放り込む。
いずみは、クレープアイスにぱくつきながら「ほらね? 私の言った通りじゃない」と得意げに言った。
すると健司は「ふーんだ。 俺も、そんなもんかなって、思ってたよ」と、今になって言い返し、それから海月の体に後頭部を凭れさせながら「早く、朝顔咲かないかなー」とつまらなそうに呟いた。
海月が怪訝そうに健司に思い問い掛ける。
「どうして、そんなに朝顔に咲いて欲しいんだ?」
すると、健司は「へへへ」と照れ臭そうに笑ってそれから、海月に「あのね、お婆ちゃんああ見えて、花好きなんだよね。 そいでね、朝顔が一等好きな花なんだ。 咲いたら、見せてやるんだ」と答えた。
海月は、「そうか」と一言だけ答えて、グリグリと健司の頭を撫でる。
すると、「へへへへ」と一層笑って、健司は海月に体重を掛けた。
本当に、親子みたいだ。
無防備に、海月に体を預ける健司を見て、ぼんやりいずみは考える。
あんな風に、人に甘える事なんて、自分には出来ない。
何だか、それが悔しくていずみは「子供ね。 甘えちゃって」と笑って言ってやる。
すると、海月が無表情のまま、それでも優しい手付きでいずみの頭を撫でてくれた。
途端、子供扱いをされているという状況に、凄く恥ずかしくなってくるいずみ。
健司が不思議そうに、いずみを見て「顔赤いぞ?」と心配そうに言ってきた。



アイスを食べた後、健司といずみ、それに都内にある鬼丸精神病院の養女、鬼丸鵺は、朝から屋根の修繕を行い、今からは雨どいの修繕を行うと言っていたシオン・レ・ハイの手伝いをする事にした。
鵺は、中学一年生の、銀髪赤目の美少女で、いずみよりも三歳年上の筈なのだが、どうにも言動が無邪気が過ぎるというか、喋っていると年下にしか思えない。
だけど、腹の探り合いの必要のない、あっけらかんとした物の言いが何だか気に入っていた。
シオン・レ・ハイは、40過ぎ程の、落ち着いた物腰の端正な男性で、今回貴重な男手として、家の修繕などを一手に引き受けていてくれる。
暑い中でも、トントントンとシオンによって規則正しく振るわれるトンカチの音は乱れる事が無くて、いずみは何度か、その心地よいリズムのせいで、眠たくなったこともあった。
シオンの後ろを、三人並んでついて歩く。
「カルガモの親子みたい」と、随所で思われている事にも気付かず、演劇用語で言う所のガチ袋(トンカチや、釘など、大道具やセット作成の為の道具が入っている袋のこと)を提げたシオンに「じゃ、いずみと健司で、私が打つとこ抑えて、鵺は私に道具を渡して下さい」と言われ、三人揃って、真剣な表情で頷いた。
修繕箇所に脚立を立て、いずみと健司が、ぐっと力を込めてその足を押さえる。
「ちゃんとしろよー?」
そう言ってくる健司に「あなたこそね?」といずみは言い返す。
最初、対抗意識を駆り立てるように行動したせいか、健司は事あるごとに、いずみに挑むような発言をする。
この年頃の男の子の、女の子に対する態度は、大体こんなものだとは知っているが、健司の発言は如何にも生意気で、いずもは再び「こどもね」と胸中で呟いた。
「鵺、釘を下さい」
シオンに言われて、鵺がヒョイと渡す。
コンコンコンと、軽快なリズムでトンカチを振るうシオンに、健司が憧れるような視線を送っていた。

確かに格好良い。

将来は、トンカチの似合う男と結婚したいものだ、なんて、いずみは想像したりした。
それから暫くの間、シオンは、トンカチを振るい続けたが、その箇所の修繕が済んだのだろう、脚立から降りると、三人に向かって「ご苦労様でした」と笑顔で告げてくる。
皆で顔を見合わせ「えー? もう、終わり?」と言えば「他の箇所は、足場は安定してますし、今の部分よりも高いところの修繕ですので、万が一トンカチや、釘を落とすと大変危険ですから、もう良いですよ」とシオンは言った。
「いいよ。 大丈夫だよ。 手伝うよー」とごねる健司の腕を引っ張って「もう、良いって言ってるのに、そんな風にゴネルのは我が儘よ?」といずみが言う。
では、二人今度は、庭仕事をしている海月の手伝いをしようと、一緒に駆けていった。


海月は、数本の赤い花を手に持っていた。
どうやら野生の花らしい。
荒れ放題だった庭に自生したのだろう。
美しい花だ。
健司がいずみに「ねぇ、あの花、凄く奇麗だな」と言った。
いずみも、興味を持ったので「そうね…。 ね、近くで見せて貰おう」と答えた。
健司はいずみの答えを聞くや否や、そんな海月に走り寄り、服の裾を引く。
いずみも慌てて走り寄ると「どうした? 水やりには、まだ、日が高いぞ?」と、海月が健司に聞いた。
庭仕事を主にやってくれている海月は、健司の朝顔の世話に対して、色々アドバイスをしているようで、夕方過ぎ頃には、並んで水やり姿が見られる事もある。
今日は、いずみは前から、鵺や健司にせがまれていたのもあって、お泊まりをしていく予定だったので、水やりのお手伝いもしたいな、と考えていた。
健司が赤い花を指し、「それ、奇麗な花だな」と告げる。
「…これ、捨てるのも勿体ないし、志之さんの部屋に飾るか」
そう言えばいずみが、実は少し、自分もそういう花の使い道を考えていた所だったので、「宜しいんじゃないでしょうか? とっても、美しい花ですし」と賛同した。
健司も「婆ちゃん、花好きだから喜ぶよ」と笑顔で言い、三人で虫が付いてないかと、確認してみたものの、茎は奇麗だったし、別段飾っても支障はないだろう。
海月は、「じゃ、花瓶を借りに行こう」と言って、二人を連れて玄関へと向かう。
「シオンさんの手伝いは済んだのか?」と、問われたので、「この先は、万が一、頭に何か落としたら大変だから、離れてて下さいって言われちゃって…」と不満げに健司が口を尖らせた。


家の中に入り、最も長くこの家に滞在している、今や健司よりも内部に詳しいだろう暁・水命に、花瓶を見掛けなかったかと問いに、台所へ向かう。
毎日泊まり込みで、献身的に志之の世話をし、健司の面倒を見ている、今時珍しい位心の清い水命を、いずみは密かに尊敬していた。
台所では、初瀬と水命が和やかに会話を交わしながら夕食の準備をしていた。
「あの、スイマセンが…」
そう、いずみが二人の後ろ姿に声を掛け、振り向かせる。
いずみは大きな目を瞬かせ「あの、…花瓶を探してるんですけど、どこら辺にあるかご存知ありませんか?」と、問い掛けた。
「花瓶?」
と、首を傾る二人。
健司と海月も足を踏み入れる。
健司の手の中にある花を見掛け、
「…うわぁあ…。 奇麗な花…。 それ、志之さんに?」
初瀬が問えば、健司が頷く。
「野生の花なんだけど、奇麗だから…。 良いですよね?」
健司の言葉に「きっと、志之さん喜びます」と水命は、こちらの気持ちをほっこりさせるような柔らかな笑顔で告げ、「ちょっと待って下さいね?」と声を掛けて、パタパタと二階へ走る。
暫くした後、降りてきた水命は小ぶりの壺を抱えていて、「これじゃ、駄目ですか?」と問うてくるので、健司がブンブンと首を振り、「ありがとうございます」と礼を言った。
水命が、何度も持ち直したりして、重そうに壺を抱えているので、海月が、ヒョイと取り上げると、埃の溜まっている壺を拭くべく「雑巾、貸してくれないか?」と言う。
「あ、拭くのでしたら、私が…」
水命がそう言うのを、海月は静かな声で「いや。 いい」と留め、渡して貰った雑巾を使い、壺の埃を丁寧な手付きで奇麗に拭うと、埃で黒ずんだ雑巾を健司に渡した。
「……汚れたから、洗ってくれないか?」
そう言われて、健司は張り切ったように頷くと、食べ物を扱う台所の洗い場ではいけないと思ったのだろう。
パタパタと洗面所へ走っていく。
(健司にしては、なかなか気が利くわね)
といずみが感心していると、海月は、壺を抱えたまま、「男手は使えよ? 俺も、健司もな…」と言った。
確かに、水命はその優しさ故に、全てを抱え込もうとしすぎに見えた。
いずみも、何度か、やきもきした事はある。
だが、海月の言葉は、実際に頼りになる人間だからこそ説得力のある言葉に思えて、自分のような子供が言った所で、お笑い種だなと、感じた。
水命は素直に頷くと、「あの、今から志之さんの所へ行かれるのでしたら、ご一緒しても宜しいですか?」と問い掛けてきた。
「エマさんと、凪砂さんがお話に行かれてるので、志之さんもそろそろ、喉が渇く頃だし、麦茶お持ちしようと思って」
水命の言葉に、頷く海月。
エマは、ここに毎日来てくれている、興信所のボランティア事務員もやっているシュライン・エマの事だろうが、凪砂という名前は初めて聞く。
新しく、お手伝いに来てくれる人だろうか?
そんな事を考えている内に健司が戻ってきたので、水命が初瀬に「じゃ、スイマセン。 ちょっと、出ます」と伝えて、麦茶をグラスに注ぎ、海月が壺に水を入れると、いずみも一緒に寝所へ向かう。
何か話をしているらしく邪魔をせぬよう、足音を立てないよう、寝所へと足を踏み入れた。


寝所では、エマの姿はなく、凪砂という人だと思われる、日本美人な女性が志之に「では、健司君の御両親についてお聞きしたいのですが…」
問い掛けている所だった。
どう考えても大切な話真っ最中である。
水命と、顔を思わず見合わせ、それから、これは、早めに立ち去らねば、といずみは考えた。
だが、挨拶だけは、礼儀として、しっかりしておかねばと思い、いずみはぺこりと凪砂に頭を下げると、つられたように隣の健司も慌てて頭を下げいた。
その態度に、焦ったように凪砂も頭を下げ返し、彼女は自己紹介の為に口を開く。
「雨柳凪砂です。 えーと…」
と、そこまで言って何故か言葉に詰まる凪砂。
自分の職業を巧く説明できなかったのであろう。
目を泳がせたまま、凪砂は「じ……自由人です」と、格好良いんだか、目を逸らした方が良い人なんだか良く分かんない事を言った。
そんな自己紹介にいずみはギョッし、「…自由人?」と首を傾げつつも、淡々とした声で「初めまして。 飛鷹いずみです」と挨拶する。
健司も「立花健司です。 あの…、興信所の方ですか?」と自己紹介しつつも、不思議そうに凪砂に問い掛けていて、彼女はブンブンと頷いていた。
(自由人なんて、意味の分からない事を言わずに、普通に『興信所の紹介で来ました』って言えば良いのに)と考えるいずみ。
水命も、凪砂には今日初めて会うらしい。
「私、自己紹介まだでしたよね? スイマセンッ! あの、暁水命です」と笑顔で告げ、それから心配になって「大事なお話の邪魔したんじゃないですか?」と問い掛けてた。
いずみも、そうだ、早めに出ていかないとと思い、「お邪魔してすいません」と言い、「ほら。 早く、活けちゃおう」と健司の腕を引く。
凪砂は、少し笑って「そのお花どうしたの? キレイね」と健司に聞いた。
コクンと頷く健司。
「あの、か…海月さんが、お庭の掃除している時に、見付けてくれて、で、変な虫もついてないし、このまま雑草と同じ扱いにするのは勿体ないから、お婆ちゃんの部屋に活けようと思って…」
健司がそこまで言った所で、海月がポンと健司の肩を叩き、「花…、早く、水に入れてやれ…」と言う。
健司が頷いて壺の中に、花を活けるのを眺めていれば、志之が凪砂に「あんた、健司の両親について話聞きたいんだろ?」と問い掛けていた。
「あ、はい。 お願いします」
凪砂が、再び志之へと向き直る。
すると志之は、健司に声を掛けた。
「健司。 いい機会だ。 あんたも、話聞いときなさい。 それに、いずみや海月さん、あと水命も…、良かったら聞いてって」
いずみはそんな大事な話を聞かせて貰って良いのだろうか?と、思いつつも腰を下ろす。
志之は、「良かったら…」と言いはしたものの、どうしても聞いて欲しそうな声音をしているようにいずみには感じられた。
志之は、少し、目を閉じてそれから、少し言葉を選ぶように、話し始める。
「……健司の両親…、聡と恵子はね、どちらも凄く優しい子だった。 健司、あんたは、誇りに思って良い。 誰にでも好かれる、優しい、優しい、お父さんとお母さんだったんだよ…」



志之によれば、聡と恵子という人は本当に優しい人だったらしい。
誰にでも分け隔てなく接し、人への親切を惜しまず、どちらも大変働き者だったそうだ。
志之と同居しながらも、嫁の恵子とはとても仲良くできており、この古い家で、それでも慎ましく、絵に描いたように幸福な家庭を築いていたらしい。
しかし、健司が3歳になったばかりの、二人の婚約記念日。
共働きの二人の休日が、丁度重なったものだから、志之は自分が健司の面倒を見るから、羽根を伸ばしておいでと、無理矢理のように遊びに送り出した。
若くに結婚し、家の事や、仕事に励み、遊びらしい、遊びをしていない聡と恵子を不憫に思った志之からのささやかな贈り物だった。
恵子は何度も恐縮し、聡も健司の事を気にしながらも、やはり志之の申し出は嬉しかったのだろう。
二人は連れだって出掛けた。


そして、夕方頃、志之の家に連絡が入る。


母親が目を離した隙に道路に飛び出した、聡の運転する車の前を横切った子供を避ける為、聡は慌ててにハンドルをきって、道路脇の建物に激突し、助手席に座っていた恵子もろとも二人は死亡した。


「あの子達が死んだのはね、あたしのせいなんだよ」
目を閉じて、囁くように志之が言う。
健司が、即座にその言葉を否定した。
「そんな事ない。 絶対ない。 婆ちゃんは、俺に何遍だって、そうやって言う」
健司は強い視線で、志之を睨んだ。
志之は弱々しく首を振る。
「…違うよ。 あんたの、お父ちゃんとお母ちゃん、死なせちゃったのは、婆ちゃんなんだよ。 ごめんね。 ごめんねぇ、健司」
「っ! 何で謝るんだよ!」
健司が、パッと仁王立ちになった。
「何で! いっつも、俺に…。 分かんないよ…。 俺、よく分かんないけど、でも、婆ちゃんは悪くないって、言ってんじゃん! 謝るなよ! 俺、婆ちゃんが謝ってる姿なんか、見たくないよ!」
クルリと踵を返して走り去る健司。
いずみは慌てて立ち上がり「失礼します」と頭を下げて後を追った。


健司が、バタバタバタっと、足音を立てて台所に走り込んでいく。
次いで台所に飛び込んだいずみは健司の腕をハシッと掴んだ。
「お婆ちゃんを怒鳴るって、そんな事していいと思ってるの!」
いずみが、きっぱりとした声で健司にそう叫ぶ。
健司は、首を振ると「うるさい! 何で追っかけてくるんだよ!」と、いずみに叫び返した。
「だって、あなた、あんな風に逃げ出して、それで良いと思ってるの?」
先程より幾分冷静な諭すような声で、いずみは言う。
「私も、あなたの言葉は正しいと思う。 でも、正しい言葉は、正しく伝えなきゃ、相手に届かないのよ?」
志之の思いは間違ってる。
絶対に、志之は悪くない。
けど、健司の態度はいけない。
あんな風に、怒鳴るだけ怒鳴って逃げ出すなんて、卑怯者のする事だといずみは思った。
「何があったの?」と澄んだ声が問い掛けてくる。
視線を向ければ、驚いたように此方を見ている初瀬がいて、そういえば台所には彼女がいたのだといずみは思い出した。
涙を目に一杯溜めた健司が、恥ずかしげに顔を伏せた。
気まずげに、視線を瞬かせた後、いずみは初瀬なら、何と言うだろうと思い、健司に「言ってもいい?」と問い掛ける。
すると健司はコクンと頷いて「初瀬さんにも聞いて貰った方が良いと思う」と答えた。


初瀬に、志之から聞いた、健司の両親の話をする。


話の後、「志之さんが、自分のせいだって言うんです」と、いずみは囁く。
健司が、「違うよね? 婆ちゃんのせいなんかじゃ、ないよね?」と初瀬に問うた。
初瀬は、苦しげに目を伏せ、口を噤む。
いずみは、どうして、「悪くない」と断言してくれないのだろうと、不思議に思った。
「婆ちゃんは、いつも俺に謝るんだ。 自分のせいで、俺を一人にしてしまうって…。 何で、そんな事言うんだろうって、俺…俺……」
そのまま俯き、言葉も尻窄みになった健司に、初瀬はそれでも何も言わなかった。

何を迷っているのだろう。
志之さんが悪いんじゃない。
絶対に、志之さんが悪い筈ないのに…。

初瀬は、逡巡しながら口を開いた。
「お婆ちゃんはね、悪くないって、思うよ。 私だって、それは思います。 でもね、そういう風にお婆ちゃん自身が思ってないというのは、お婆ちゃんがそれだけ、健司君の両親の事が大好きだったという証なんだよ」
初瀬の言葉に、理解出来ないと言う視線を向けるいずみ。
大好きの証が、そんなに苦しいものだなんて、そんな筈ない。
「…難しいお話になるけど、いいかな?」
初瀬の問いに、健司と揃って頷く。
初瀬は、考え、考えしながら語りだした。
「…人と、人との間には、仲良くなると絆というものが生まれるの。 例えば、それは、友達同士の絆だったり、恋人同士の絆だったり、家族の絆だったり……色々…ね? 勿論、私と健司君の間にも絆はもう出来てるし、健司君といずみちゃんの間にも、いずみちゃんと私の間にも、絆っていうのは出来てると思う。 その絆って言うのは、会う度に、心が暖かくなったり、優しい気持ちになったりして、その度に『ああ、この人と、自分の間には絆があるんだな』って確認できるけど、相手にもう一生会えなくなってしまったら、健司君の御両親みたいに、亡くなってしまわれていたら、絆ってもう消えちゃうのかな? ね? どう思う」
その問いに、フルフルと首を振る。
そんなものじゃない。
絆って、そういうものじゃないと信じたかった。
初瀬は頷く。
「うん。 そうだね。 私も、そう信じてる。 例え、ずぅぅっっと、相手に会えなくて、一生会えなくて、それでも絆が生まれた人同士っていうのは、例えもう片方の人が、亡くなっても絆があるって、そうやって信じたいよね? それはね、志之さんも一緒なの。 志之さんも、健司君の御両親との間に、まだ、絆があるって信じたいの。 でもね、それは、凄く難しい事。 本当に難しいこと。 だから、お婆ちゃんは、自分のせいで、御両親が死んじゃったって、思うのよ」
健司が混乱した表情で「どうして?」と聞いた。
当然の問い掛けに初瀬は優しく答えた。
「自分が悪いって思い続ける事で、お婆ちゃんはずっと、健司君の御両親への気持ちを忘れないでいようとしてるの。 人はね、難しいんだよ。 好きだって気持ちだけでは、立っていられない事があるの。 お婆ちゃんは自分が悪いんだって思う事で、御両親と自分の間に、絆を作っているのよ。 そういうね、悲しい絆もあるの」
いずみは、初瀬の言いたい事は全て理解しながらも、でも、やはり分からなかった。
ただ、初瀬は、大人で、やっぱり自分は子供なのだと思い知らされるだけだった。
初瀬を見上げ、ポツンと健司が呟いた。
「よく…分かんないや。 だってさ、だってさ、それでも、やっぱり、お婆ちゃんは悪くないって思うもん」
初瀬は小さく微笑み、ポンと健司の頭に手を置く。
「そうね。 よく分かんないね。 私も、志之さん悪くないって思うね」
健司が、小さく困ったように問い掛けてくる。
「俺、どうしたらいいのかな?」
初瀬は、優しく答えた。
「どうもしなくて良いよ。 お婆ちゃんが、自分が悪いと言ったらね、何も言わないであげるのが良いのよ。 『うん。 そうだね』っていうのも『そんな事無いよ』っていうのも、どちらも正解で、どちらも外れだから、健司君は、何もしなくて良いのよ。 でもね、いずみちゃんがさっき言ってたけど、志之さんに怒鳴ったってホント?」
健司が、コクンと頷く。
初瀬は腰に手を当てると「それは駄目。 絶対駄目。 謝ってきなさい」と、怖い顔を作って健司に言う。
健司は、素直に頷くといずみに「一緒に来てくれる?」と怖々問い掛けてきた。
「しょうがないわねぇ」
と、こまっしゃくれた仕草で頷くいずみ。
二人揃って台所を出たのだが、いずみは初瀬に言いたい事があり、健司に「あ、ごめん。 ちょっと忘れ物した」と告げて、台所へと戻る。
そしてぺこんと初瀬に頭を下げると「ありがとうございました」と告げた。
いきなりのいずみの言葉に驚く初瀬。
「え? ええ?」
と、戸惑ったように、目を泳がせる。
「私、何を言えばいいのか分からなかったんです。 それは、健司に対してだけじゃなく、自分に対しても言葉を持たなかった…だから…」
そこまで言って、再び、いずみは頭を下げる。
「有り難う御座いました」
そして、パッと踵を返し、パタパタと台所を走り出て、健司の元へと行く。
「さ、行こうか」
そう言うと、健司が「忘れ物見つかった?」と聞いてきた。
「うん」と、いずみは頷いた。



その後、無事志之に健司を謝らせ、水命や初瀬、エマの力作の美味しい夕食を食べる。
お泊まりは今日が始めてで、夜を過ぎても友達と一緒にいられるという事に、いずみは軽い興奮を覚えた。
鵺や健司と並んで宿題をし、いつもは「くっだらない」と馬鹿にしている、お笑い番組を三人で見て、不覚にも笑ってしまった。
お風呂も、鵺や水命と一緒に入り、寝る時は、鵺と健司のお部屋にお邪魔する。
昼間、健司とお使いに行った際に買ってきたという、駄菓子を鵺が床に広げ、ついでに冷蔵庫でこっそり冷やして置いたという、炭酸缶ジュースも持ってきてくれた。
「そんな添加物一杯のお菓子を夜中に食べるなんて信じられない!」と言いつつも、色とりどりのお菓子の数々にちょっとときめいてしまういずみ。
見た事もないようなお菓子も数々あって、好奇心に負けてついつい手を伸ばしてしまう。
中には、食べ方すら見当のつかないようなものもあった。
「コレは、何?」「これは、どうやって食べるの?」と聞きつつ、健司と一緒にお菓子に手を伸ばす。
健司と鵺は、こういう駄菓子をよく食べているのだろう。
いつもは、物知りで、二人に物事を教えているいずみに物を聞かれるのが嬉しいらしく、乞われるままに教えてくれる。
夜中、子供達だけで、こんな宴会をしているなんて、ちょっと緊張する。
こんなトコ見られたら、確実に叱られると思うと、加えて何だかワクワクまでしてきて、いずみは着色料の色に染められたグミを口の中に放り込んだ。
炭酸ジュースも程良く冷えていて、三人は如何にも体に悪そうな美味しさに舌鼓を打ち、文句を言っていたいずみもいつしか「ねぇ、鵺。 そのチョコは、美味しいの?」なんて聞きながら、手を伸ばすようになっていた。
こういうのを美味しいと思えるうちに、たくさん食べておかなきゃ損よ?と、鵺が言ってくる。
大人達が、三食バランスの取れた食事を考えてくれているというのに、こんなものを食べちゃって、良いのかな?なんて、思いながらも、いずみは手を止められなかった。
そんな中で、健司がぽつんと呟く。
「婆ちゃん倒れたっていうのに、こんなに楽しくって良いのかな…」
すると鵺、「エイ」の一声と共に健司の頭を軽くぽかりと殴り「好きな人が、楽しい気分でいる事は、自分にとっても楽しいことでしょうが。 いいの、いいの。 夏休みだもん」と言い、いずみも「馬鹿ね。 貴方が楽しくなくても、楽しくても、現状は変わらないわ。 だったら楽しい日々を過ごして、そのお話を志之さんにしてあげられた方がよっぽどステキじゃない」と言った。
健司は二人の言葉に頷くと、目の前にあるお菓子を一気に口に詰め込む。
そして、喉に詰まったのだろう。
「うっ! ゴフッ! ゲフゲフッ!」
とむせ、それをなんとかする為に、炭酸ジュースを喉に流し込み、当然余計に酷い状態に陥ったのをいずみは驚き心配して「馬鹿ね?! 大丈夫?」と聞き、鵺が「アハハハ!」と手を叩いて笑いながら眺めた。



次の日。
いずみは健司に強請られて、虫取りへと付き合わされていた。
電車に乗って30分。
郊外に出れば、まだ、自然の残る山はある。
今日はシオンに、初瀬の恋人の悠宇、そして海月が一緒だった。
正直、いずみは虫がそれ程得意でなく、最初行く気なんて全然無かったのだが、「お前が来ないと楽しくないよ」だの「虫なんかがコワイのかよ、ガキだな」とか「ヘラクレス一緒に見付けようぜ」とか、健司に強力に誘われて、しょうがなく付き合う事になった。
虫取りの提案は、悠宇からで「子供は、外で遊ばねぇと!」などと言っていたが、同時に家の中の家事が嫌だったのだろうといずみは踏んでいた。
虫取り網を掲げて走る健司と、それを追ういずみ。
山の、木々の間を見れば、そこらかしこに虫はいて、「俺、絶対ヘラクレス見付ける!」と張り切った声で健司が宣言し、いずみは一刻も早く帰りたいと願った。
悠宇が笑顔で「じゃ、誰が一番虫を捕るか競争だぜ?」と、提案する。
そういう提案で、健司のやる気を促進させるのだなと、いずみが感心すれば、悠宇はおもっくそガチンコで、虫を探し始めた。

子供である。

シオンなどは、健司といずみの手を引きながら「ほら、こういう木なんかが、一杯いるんですよ? 木を蹴ったりして、上から虫を落としたりしても良いですが、木も痛いし、虫もびっくりしますからね? 私達は、手の届く範囲の虫だけ探しましょうか」と教えてくれた。
海月も、いずみ達の側に来て「…あんま、俺達から離れるな? もし迷子になったら、大声で俺達を呼んで、そこから動くなよ」と言いつつ、魔法のように何処かからクワガタをヒョイと捕まえる。
「ほい」
そう言いながら、健司の虫篭に入れる海月に、悠宇が「あーー!」と叫び、「それずりぃよ、海月さん!」と猛然と抗議した。
悠宇の態度を子供と思えど、逆に健司を対等の男として扱っているのだな、と感じるいずみ。
だからこそ、健司も友達のように心を開いて接しているのだろう。
海月もそう感じたのか、あっさり再びカブトムシを捕まえて、文句を言う悠宇の虫篭にいれてやると「これでイーブンだ」と、至って何でもない事のように言った。

天才だ。

思わず胸中で、そう呟く。
皆も目を丸くして海月に視線を送った。
「えーと……プロの方ですか?」
と、頓珍漢な事を問うている。

虫取りのプロって……プロなのに、駄目な感じよね…。

そう思っていると、また、虫を見付けたのか。
海月はいずみの肩を叩き、「…あっちの木の幹。 あそこに蝶がとまってる」と言い、手を引いて連れていってくれた。
確かに木の幹に、美しい模様の蝶々が一羽止まっている。
こういう虫ならば、触れるかも知れない。
そう考えて、おっかなびっくり、蝶に手を伸ばすいずみに囁くように「強く握りすぎるなよ? 優しくな」と海月はアドバイスしてくれた。
いずみは内心「ほんとにプロなんじゃない? 虫プロよ、虫プロ」と思いつつも、そっと羽根を掴む。
程なく蝶は虫篭に収まった。



お昼。
悠宇が持たされたという、初瀬手作りのお弁当を皆で頬張る。
おかかや梅おにぎりと、各種おかず。
冷たい麦茶も勿論持ってきていて、丁度良い草原にシートを広げて腰掛けた。
夏の日差しは、木々に遮断され、涼やかな山の風が吹き渡っていた。
「美味しい!」
おにぎりを頬張り、そう健司が言えば「ま、日和が作ったんだし、当然だな」と、まるで我が事のように悠宇が自慢する。
確かに、かなり出来の良い弁当で、カニかまを真ん中に巻いた卵焼きも、見た目にも鮮やかで美味しい。
シオンが「健司君のお手伝いに来てから、美味しい物ばっかり食べれてて、ラッキーだなぁ。 ありがとうね」なんて御礼をいいつつ、パクパクと箸を進めていた。
午後からは、もう少し奥に虫を探しに行こうかと言い合っている。
皆の虫篭には、それぞれ、それなりの収穫はあったが、皆、もう少しと欲張る気持ちもないではなかった。


だが、それがいけなかったのか。


午後。
まだ、少し虫が怖いいずみが、海月に虫の捕り方を教えて貰っている時だった。
シオンも、悠宇も目を離してしまったらしく、健司が一人、蝉を追って山の奥へと入っていってしまった。
先程まで、側にいたのにと見回せど、見あたらない。
集合場所を分かり易い位置で決め、いずみと海月、シオンと悠宇の組み合わせに別れて探す。


木々の間を歩き、不安定な足下に注意しながら、視線を周囲に配り、耳を澄ませる二人。
時折、「健司ーー!」と大声で呼び、足を止める。
いずみは不安げな顔を隠せないまま「あの馬鹿」と呟いた。
海月も、いつになく険しい表情をしている。
崖から落ちてやしないか、何処かで怪我をしてないかと、いずみは自分の中に少しずつ不安が募っていくのを止められない。
健司の身に何かあったら、志之に申し開きのしようがない。
そう思い、少し唇を噛みしめる。
「…何処まで行ったんだ?」
そう海月が呟いた瞬間だった。
「誰かーーー!」と叫ぶ、健司の声がいずみの耳に聞こえてきた。
海月も聞こえたのだろう。
顔を見合わせ、慌てて、声のする方向へ走る。
しかし、足下の木の根に躓き、いずみは転びそうになる。
間一髪。
抱き抱えるようにして海月は、いずみを支えてくれると、そのまま、ヒョイと抱え上げてきた。
「ちょっ! やめっ! 降ろして下さいっ!」
驚き、恥ずかしくなり、そう叫ぶいずみの声を無視して、軽やかに駆ける海月。
程なく、健司のいる場所へと辿りつく。
健司は、何処にも怪我なく大きな木の下で蹲っていた。
どうやら、ズンズン先に一人で行く内に迷子になってしまったらしい。
そこで、海月の教えを思い出し、大声で助けを呼びながら、じっと誰かが来るのを待っていたのだろう。
いずみを降ろしてやり「すまない。 怖い思いをさせた」と、まず海月が詫びてくる。

あんな風に、いきなり女の子を抱え上げるなんて、どんな思いをさせるか分かっているのだろうか?

いずみは、呆れたように海月を見上げ、それから少し頬を赤らめながら「海月さんってもてるでしょ?」と問い掛けた。
驚いたように、少し目を見開く海月。
首を振りながら「自覚なし…か」といずみは呟く。
そうこうしている内に、泣きべそをかきながら此方へ走り寄ってくる健司を、まず、いずみは「バカ。 ほんっとーにバカ。 サイテー」とけなした。
心から、そう思う。
だが、同時に、無事で良かったと安堵する自分もいて、さっき抱えられて走られた動揺の余韻もあるのだろう。
少しへたり込みそうになった。
突然、海月が何も言わずに健司の頬を叩いた。
日頃、殆ど感情表現をしない海月の、そんな行動にぎょっとするいずみ。
健司も驚いたのか、痛みに新たな涙を零しつつも、見開いた目で海月の顔を凝視する。
「自分が、どれだけの人に心配を掛けたか、反省しろ」
それだけ言うと、海月はクルリと踵を返し歩き始める。
いずみは、慌ててその後を追い、健司も必死で、海月の後ろをついて歩いた。
グスグスと鼻を鳴らしながら「ご…ごめ…ごめんな…さい」と嗚咽混じりに詫びている。
海月に嫌われたと思っているのだろう。
不安そうに、健司の瞳は揺れている。
海月は何も答えず、黙々と足を進めた。
そのうち、健司は足を止め、うずくまるとグスグスと泣き始めた。
だが、そんな健司の様子に気付かないらしく、海月は足を止めない。
慌てて、海月に走り寄り、服の袖をいずみは掴んだ。
「どうした?」
そう言いながら見下ろしてくるので、「……海月さんは、また、健司を迷子にする気ですか」と言う。
うずくまった健司は「ごめ…んなさい…! ごめ…ごめん……なさい…!」と泣いていていた。
海月は、タオル越しにガシガシと頭を掻くと、健司に近寄りその体をギュッと抱く。

まるで、本当に、親子みたいだ。

「健司。 俺の言った事を覚えていて、守ったのは、偉かった。 それは、誉めてやる」
そう海月が言えば、健司は怖々と顔をあげた。
海月は、柔らかな笑顔を浮かべて「心配…したんだからな」と告げた。
途端安心したように、また泣き、何度も何度も頷く健司。
「男でしょ? ビービーと泣かないの」
そう冷静に言いつつ、いずみは健司の手を握る。
いずみに手を引かれて立ち上がる健司。
反対側の手を海月が握ると、三人は並んで歩き始めた。



「っ! 健司君! 良かった、ご無事で!」
そう言いながら、走りより健司に飛びつくシオン。
悠宇が、眉を吊り上げながら「山ん中で勝手に行動するってどういうつもりだ!」と大声で怒鳴り、それから、へたり込んで「良かったよ。 マジで…」と呟く、そんな二人に頭を深々と下げる健司。
「ごめんなさいっ!」
そう詫びる健司に、シオンは眉を下げ「心配させないで下さい。 私は確実に寿命が縮みました」と言い、そして「…怖かったでしょう? もう安心して良いですからね」と囁きポンポンと健司の肩を叩く。
悠宇も「もう、勝手な行動すんじゃねぇぞ? でなきゃ、約束の釣り、連れてってやんねぇからな?」と言って、健司の頭を軽く叩いた。



「ほーんと、バッカよねぇ。 どうして、あんな山奥まで行っちゃったの?」
山を下りながらいずみは、健司に問う。
いずみの、海月に手伝って貰っての唯一の収穫の蝶々は、結局放してやっていた。
きちんと飼育できるか心配だったし、何より、蝶は空を飛んでいる姿の方が奇麗だと思ったからだ。
健司は「だって、さ。 ヘラクレス欲しかったんだもん」と、口を尖らせる。
「その、何? ヘラクレスとかいうカブトムシ捕まえたら凄いの?」
いずみが聞けば、健司は大きく頷いた。
「スゴクね、高く買って貰えるんだ」
健司の言葉に驚いて「貴方、お金の為にヘラクレスとかいうの、探してたの?」といずみは聞く。
健司は、頭を掻くと「どうしても、欲しい物があるんだ」と、答えた。
いずみが首を傾げて、「ソレ何よ?」と聞く。
健司は、前を歩く海月達とは充分距離があることを確かめるとコソっと小声でいずみに言った。
「内緒だぞ?」
「うん」
「俺、お前が、友達だと思うから言うんだからな」
「分かってるって。 で、何?」
「ぬ…鵺に、鞄を買ってあげるんだ。 前、お使いに行った時、雑貨屋さんで、凄く欲しそうに見てたから……」
そう顔を真っ赤にして言う健司に驚き、そして、小声で問い返す。
「え? 嘘。 健司って、鵺さんの事好きなの?」
すると健司は、小さくコクンと頷いた。
何て、無謀な……イヤイヤ、それにしたって、己を知らないというか、なんというか…。
いずみは、そう思いつつも、何だか健司が健気に思えて「そっか、そうなんだ……」と言う。
「絶対内緒だかんな?! 約束だぞ!」
そう念を押されて、いずみは「勿論」と言いながら頷いた。



数日後。



その日は早朝から健司や、悠宇と海月、鵺といずみは、釣りへと出掛ける予定になっていた。
次の日の為に泊まり込んいずみは、健司に起こされて目が覚める。
「んー? どうしたの?」
目を擦りながら起きれば「何か、海月ってば、もう起きて下に行ってるみたい」と言われ、二人は身支度を整えると、まだ、起床予定時刻ではないので、寝ている鵺を起こさぬように、静かに階下へ向かった。
海月が二人の姿を見て、台所の中から手招きをしてきた。
健司と顔を見合わせ、トコトコと台所に足を踏み入れると、海月が「翼さんと、水命さん、それに零さんが弁当を作ってくれた。 御礼、言っとけ?」と言ってくる。
海月の言葉通り、女性F1レーサー蒼王・翼も手伝いに来てくれていたし、連日の手伝いで疲れているだろう、零や水命もこんな朝早くから弁当を作ってくれていた訳で、いずみは、心から感謝して健司と二人で、「「ありがとうございます」」と声を揃えて礼を言う。
零が、ニコニコと笑って「どういたしまして」と答えてくれた。
そんな中、ペタペタと軽い足音を立てて、この季節に暑くないの?と思えるような恐竜の着ぐるみパジャマを着た鵺が現れた。
「ん…んー? あっれ? 健ちゃんも、いずみももう、準備済ませちゃってんの? ヤッバーイ。 起こしてよ、一緒の部屋に寝てるんだからぁ」
そう、志之を気遣っての小声で喚く鵺に、呆れたような視線を送りながら「君ね、小学生の二人に、起こして貰うだなんて情けないと思わないのかい?」と言う翼。
「むぅ。 そのいやぁみ且つ気障ったらしい声…」
そう言いながら翼に視線を送り、顔をしかめて「やっぱり、翼かぁ…」と鵺が呻く。
この二人が犬猿の仲である事は、翼と鵺がこの家で鉢合わせする度に思い知らされてきたが、まぁ、その喧嘩も、仲が良い程喧嘩するの類のやり取りで、正直見ていて微笑ましい。
「大体、この家に泊まり込んでおきながら、中学生にもなって、海月さんのように、自分達の昼食であるお弁当作りの手伝いに来ないってどういう事だい?」
そう言えば、頬を膨らませた鵺が「うっさいなぁ。 鵺、あんまりお料理が得意じゃないもん」と言い、水命が慌てて「いえ、鵺さんも色々お手伝い頑張ってくれてますもの。 気にしないでいいのよ?」とフォローに入った。
そんな水命を、翼は愛おしげに見つめ「水命さん。 貴方は、なんて心優しい人なんだ」と、水命の手を握って囁き始める。
確か、翼は女性の筈だったが、こうしていると丸っきり男性にしか見えないっていうか、そこら辺の男性がこんな台詞言っても、殺意を覚えるだけだ。
「初めて見た時から感じていたけれども、貴方は天使です。 天使そのものです」
美少年めいたその美貌に間近で囁かれ、水命が頬を赤らめている。
鵺が呆れたように「まーた、やってるよ…」と言っているが水命の耳に入らないようで、二人の間に点描が飛ぶような、思わず何劇場だよと、突っ込みたくなる時を経て、漸くコンコンと控えめに玄関をノックする音で、水命の意識は現実に戻ったようだった。
パタパタと足音を立てて、玄関へと走る水命。
悠宇が迎えに来たのだろう。
水命のその後ろ姿を見ながら「可憐だ…」と呟く翼に「は? カレンダー?」と素で鵺が問い返す。
途端、ムッとしたような表情になる翼。
「バカじゃないか? 何でカレンダー? いつ、僕が暦を知りたいなんて言った?」
「や。 でも、翼が言ったんじゃん。 カレンダーって…」
「か・れ・ん・だ! 君に、世界一似合わない言葉だよ」
そう言う翼に、「いーっ」と唇を歪めると「鵺、いっつも幇禍君に可愛い、奇麗、最高って言って貰ってるもん。 翼に何言われたって平気だね!」と言い「もうっ! 翼の作ったお弁当なんか食べなきゃいけないのが、ヤになってきちゃった。 翼ってば、本当に料理巧いの〜?」とむくれる。
幇禍とは、鵺の家庭教師の魏幇禍の事で、時々、庭や物陰から、鵺のことを見守っている姿を見掛けるのだが、せっかくモデル張りの美形だというのに、そうやっている姿は、星飛馬のお姉さんというかストーカーというか、変質者というか、まぁ、そんな感じで色んな意味で勿体ないと、いずみは感じていた。
幇禍の名前が、鵺の口から出て、健司の表情が曇る。
どうも、健司は、幇禍が鵺に惚れているのではないかと警戒しているらしい。
と、いっても、幇禍は鵺の二倍近くの年だろうし、そんな心配する事無いのに…と、いずみは考える。
鵺に「お言葉だけど、君よりよっぽど上手だよ。 腕前は知らないけど、確信できる」と翼が告げ、売り言葉に買い言葉の典型的な例なんだろう。
鵺が、眉を吊り上げると「じゃあ、今日のご飯作り、鵺もする!」と宣言した。
「一緒に作って、腕前確かめてあげる」
鵺の言葉に、余裕ありげな笑みを浮かべて「良いけど、君、釣り行くんじゃなったっけ?」と言う翼。
鵺は、クルンと健司、いずみ、そして海月の順に視線を送ると「御免! そういう事だから!」と言い、次いで玄関へと走っていった。

結局、鵺は行かない事にしたらしい。
健司は大層名残惜しげだったが、鵺は一度言い出したら梃子でも動かない事を、短い付き合いでも悟っていたいずみが「ま、本人が、そういうやる気を出したのなら、良いのでは?」と言ったのを切欠に、四人は釣りへと出掛けた。



悠宇が知っているという穴場の川は水が澄みきっていて、泳ぐ魚たちの様子まできっちり見えた。
冷たい水から涼しい空気が沸き上がり、川にたどり着くまで40分近く歩いて吹き出した額の汗達を、スゥッと引っ込ませてくれる。



健司は、家にあった、父親が使っていた釣り竿を使い、いずみは海月が昔使っていた竿を貸して貰った。
いずみも健司も、釣りは初めてで、悠宇がまず、餌の付け方から教えてくれる。
川魚の釣りにはミミズが一番と、生きたミミズを大量に用意していた悠宇だったが、この前の虫取りで辛うじて昆虫には慣れたものの、流石にミミズが箱の中にのたくっている阿鼻叫喚の図には耐えきれず、いずみは甲高い悲鳴をあげて、逃げた。
あの、ヌタヌタとミミズ同時が絡み合う光景は暫く夢に出て来そうだ。
結局いずみは、生餌付けを放免して貰い、悠宇と海月がつけてくれる事になった。
健司は悠宇にマンツーマンで、教えて貰っている。
最初は気持ち悪そうにしていたが、次第に慣れていったのだろう。
釣りを始めて一時間もすれば、自分でつけられるようになっていて、(信じられない!)といずみを驚かせた。
海月はといえば、釣りを始めて間もなく、大きめの見事なあまごを釣りあげている。
そして、さして表情をかえないまま水を張ったクーラーボックスへと魚を放り込んでいた。(ていうか、もっと感激してよ、海月さん…)と、呆れるいずみ。
その後、海月には連続して当たりがきたものだから、再び皆で、呆然とした顔で見つめ、悠宇は「プロかよ、あんた」と呟いていた。


虫取りのプロで、魚釣りのプロって、わぁ、なんてマルチな才能…。


とにかく、一匹くらいは釣り上げたいと、思いながらいずみは釣り糸を川の中に垂らした。


昼に絶品の弁当を皆で食べた後、いずみは全く釣れない釣りに飽き、パシャパシャと水飛沫を足で跳ね上げながら、男達の釣りを観察し始めた。
宿題の絵日記を片付けようと、クレヨンを取り出しながら、ノートに三人の釣り風景を描き始める。
健司は、午前中にあまごを一匹釣っており「あと、二匹は釣るんだ!」と息巻いていた。
悠宇の調子も良く、クーラーボックスの中は、満杯になり始めていた。
健司も新たに一匹釣り上げたようで、「…そろそろ、帰るか」と海月が皆に声を掛ける。
すると、健司が切羽詰まったような目で「ごめん! あと、一匹! あと、一匹だけ釣らせて!」と懇願した。
驚くいずみ。
二匹も成果をあげているのに、まだ、魚が釣り足りないのかと考えるが、健司の目は我が儘を言っているような目ではなく海月が「どうしても釣りたいのか?」と問い掛ければ、真剣な表情で頷いている。
悠宇が「いいんじゃねぇ? 釣らせてやろうぜ。 健司、お前、あと二匹釣るって言ってたもんな。 男は、言った事はやり遂げないとな」と言い、どかりと大きな岩の上に腰を下ろした。
いずみも健司が本気なのだと思うと文句を言わず、鞄から小さな文庫本を取り出す。
悠宇が「それ、何の本だ?」と問い掛けてきたので「J・Dサリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』よ。 読書感想文の題材にしようと思って」とシレっと答えた。
悠宇が「その年で、『ライ麦畑〜』かよ」と、呆れたように呟いた。




それから一時間。
あれ程、海月の竿には魚が掛かったというのに、健司の竿は一向に反応を見せない。
唇を噛みしめ、ぐっと堪えるように竿を握り続ける健司に、悠宇がそっと近付いて、ポンとその肩を叩いた。
「っ! ごめん。 ごめんよ。 …ずっと、待っててもらってるんだよね」
そう申し訳なさそうに言う健司に「ばぁーか。 俺はな、お前がもう一匹釣るまで、帰る気なんてサラサラねぇからな。 いざとなったら、ここで野宿してでも、お前に釣らせてやるからな。 覚悟しろ?」と笑いかけ、隣りに腰掛ける。
「いいか? 健司。 焦るな、焦るな。 今日は、ここに遊びに来てんだ。 楽しい気持ちで一杯になれ。 言っただろ? お前が元気で明るいいい笑顔を見せられるって事は、婆ちゃんが安心する為にも重要なんだ。 今日帰ったとき、婆ちゃんに笑顔で『釣り、楽しかったよ』って言えるようにしよう。 何にも、俺達は迷惑じゃない。 前みたいに、一人でいなくなる事と違うんだ。 いいか。 焦るな? な?」
そう言う悠宇の言葉にコクリと頷く健司。
それからも、悠宇は、自分の高校の話、サッカーの話と、健司の興味を引きそうな話を続け、健司が大分リラックスした時だった。
クイと傍目にも分かる程、健司の竿がしなった。
目を見開き立ち上がる健司。
いずみは、いつになく興奮し、感情的な声で「落ち着いて!」と声を掛ける。
健司はいずみの言葉にコクンと頷き、リールを巻いて魚を側まで引き寄せると、一気に健司は釣り上げた。
悠宇が予め用意して置いた網で掬ってやると、大きなニジマスがビチビチと跳ねている。
「すっげぇ! やるな、健司!」
悠宇が手放しで誉めた。
海月も、グッと親指を立てて健司に向けてやり、いずみは「やれば、出来るじゃない」と先程さらけ出してしまった興奮を押し隠した口調で呟いた。


帰り道、健司がはしゃいだ声でいずみに言う。
「俺、鵺と約束したんだ。 俺の釣った魚食わせるって! 良かった! 約束守れるよ」
健司の言葉に、だから、海月達の魚とは分けて持って帰ってきているのかと、いずみは納得すると、「じゃ、料理作る人にも、健司が釣った魚を、鵺さんの皿に盛りつけてくれるように頼まないとね」と言った。


「婆ちゃん! ただいま!」
パタパタと足音をさせて、健司は部屋に飛び込んだ。
健司に続いて、いずみは「うるさくしちゃ駄目よ」と、大人びた声で言いながら室内に足を踏み入れ「失礼します」と頭を下げる。
そして、まず、何故かエマの隣りに転がっているスイカに注目した。
何故、ここにスイカが?
首を傾げても答えは出そうになく、とりあえずは放置しておく事にする。
「あのね、魚! たくさん魚釣ったんだ!」
はしゃいだ声で言う健司の隣で、いずみはクールに「マスと、あまごでしょ? 諏訪さんに教えて貰ったのに、もう忘れたの?」と言い、健司に「いずみなんか、一匹も釣れてねぇじゃん!」と言い返される。
「へぇ。 じゃぁ、健司は何匹釣ったんだい?」
ニコニコ笑う志之に問い掛けられて、健司は胸を張ると指を三本立てて突き出し「三匹! その内の一匹は、ニジマスだぜ?」と答えた。
エマが、パチパチと手を叩き「凄いわ。 健司君」とにっこり笑えば、健司が照れたように、頭を掻いた。
(調子に乗っちゃって…)と、いずみはむくれる。
だが、確かに、釣りに行ったのに一匹も釣れなかったというのは、ちょっと情けない。
もう、釣りなんか行くもんかと思っていると、「おっかえり! 健ちゃん。 君、三匹釣ったんだって?」と、明るい声をさせながら鵺が部屋に入り、健司に飛びついた。
「いいなー! 鵺も、行けば良かったぁ」
健司を後ろから羽交い締めするように、抱きつきながら口を尖らせる鵺。
エマが、「そういえば、鵺ちゃんは、どうして行かなかったの?」と、鵺に聞く。
鵺が、ニコリと笑い「だってさぁ、翼が、なんか、『ふふん。 君みたいな人は、多分お料理なんて繊細の事ぁ、出来やしないだろうね。 ボンジュール。 ま、お今晩は、ミーが腕によりをかけてデリシャスディナァを振る舞うので、子供達に川遊びに出掛けるが良いさ、モナムール』って言ってきたもんだから、悔しくて…」と、そこまで言った瞬間、「それは、誰の話なのかなぁ?」と絶対零度の声が、背後から聞こえてきた。
後方には、憤怒の表情で仁王立ちになっている翼と、その後ろから怖々部屋の中を覗くシオンに、クーラーボックスを台所に置きにいった何が起こってるのか全く理解して無さそうな、無表情の海月がいる。
「だぁーれぇーがぁー、そんなアホっぽいっていうか、アホそのもの?な、事を言ったって?」
翼が地を這うような声で言えば、鵺は背後を振り返り、ニコリと笑って「翼ってば、こんな風にいっっっっつも、気障っぽい、喋り方してるじゃない?」と、答えた。
「してない! ていうか、そんな喋り方の人間はいない!」
翼は、そう一刀両断すると、既に骨抜きにされているらしい水命が大きく頷いた。
「そうですよ! 翼さんは、そんな変な喋り方しません! もっと、こう、気品溢れる感じで、御伽の国の王子様みたいで、浮世離れしてて…」
水命の微妙にフォローになってない、フォローに、翼が極上の笑みを浮かべ「ありがとう。 水命さん。 君のような人に、そんな風に言って貰えると、凄く嬉しいよ」と囁き、二人の間に少女漫画で言う所の点描のようなものが飛ぶって、何劇場だ、コレは。(二回目)
鵺が小声で「してんじゃん。 気障喋り…」と呟き、いずみは思わず同意しそうになったものの、その呟きを耳にした翼が再び、鵺を睨み据え険悪な雰囲気が漂い始めるのを感じ、(ほんと、仲良いな、この二人)といずみは呆れた。
しかし、これまでのやり取りを全て無視し、海月がヒョイとスイカを抱え上げた。
「コレ…、冷やさねぇと、美味くねぇぞ?」
そうボソリと、海月が呟けば、パァッと目を輝かせたシオンが「うわ! スイカだ! スイカだ!」と嬉しげに言い、ペシペシと海月の抱えるスイカに手を伸ばして叩く。
身の詰まった事を知らせる鈍い音を響かせながら、シオンがエマにねだったのか、彼は見惚れてしまいそうな程、素敵な笑みを浮かべ、エマに「ありがとうございます」と御礼を言った。
エマは、すました顔で「いえいえ。 どういたしまして」と返事し、次いで「海月さんは、知ってる? このお家ね、裏手の庭に井戸があるんですって。 で、そこで、スイカ冷やそうかなって考えてたんだけど…」と、話の転換を計る。
すると、鵺がヒョイと立ち上がり、「案内してあげる! 凄いんだよ。 井戸!」と言いながらスイカを抱えたままの海月の腕を引き、それからエマに「冷やしてくるね」と言って、そのまま、トトトと、部屋を二人で出ていった。
鵺がいなくなり、一気に表情が和む翼。
水命の隣りにいつの間にか移動し、柔らかく微笑みながら健司に喋りかける。
「たくさん釣ってきてくれて、ありがとうね。 今晩は、塩焼きと甘露煮にして、夕飯に出すよ」
そう翼が言えば、健司は、途端にモジモジとした調子で、まず志之の顔を見上げ、次にいずみの顔を見、そして、漸く翼の顔を見上げると、小声で呟いた。
「あの…」
「ん?」
「あの…、えと…」
「うん」
翼が今日の料理を作ってくれる人だと知って、健司は、鵺の皿に自分の釣った魚を盛りつけてくれるよう頼もうとしているのだろう。
言いかけては止まる健司の様子に、苛立ったように志之が口を開く。
「何なんだい? 早く言いなよ」
いずみも、クールな眼差しのまま「ほら、ちゃんと頼まないと」と、脇腹をつついて促し、健司は漸く決心をつけたように、「あの、お、俺の釣った三匹の魚のうち、一匹は婆ちゃんに、で、もう一匹は、ぬ、鵺に食べさせてやって下さい」と、言った。
エマが手を口に当てて「アラアラアラ」と言う。
皆も、驚きながらも、微笑ましげな視線を健司に送っていた。。
「ち、ち、違うんです! あの、鵺と、約束してて、俺が釣った魚食わせてやるって…」顔を真っ赤にして言い訳しているが、健司の鵺への感情は一目瞭然である。
(あーあー、自分の態度でバラしちゃってるよ)
そう呆れるいずみ。
海月が、「だから、自分の釣った魚と、俺達の釣った魚を別にして持って来たのか…」と言えば、シオンが「喜びますよ。 鵺ちゃん。 それに、志之さんも…ね?」と志之に視線を向けた。
志之は、ニッと笑って、健司の頭に手を伸ばす。
「ま、あたしは、鵺のおまけだろうけどね、有り難くご相伴に預かろうかねぇ」
そういってグリグリと撫でてくるのを「おまけじゃないよ。 婆ちゃんに、食って欲しいんだ」と答えつつも、照れたように目を伏せた健司を見て翼が明るく笑うと「了解。 じゃ、台所に一緒に来てくれるかな? どれが、君の釣った魚か教えて欲しいからね?」と言い、いずみも「私、お手伝いさせて下さい」と言いながら立ち上がる。



三人連れだって、志之の寝所を出て台所へ向かう。
しかし、その途中で「あ!」と健司が声を上げ「ごめん! 俺、朝顔に水やりしなきゃ!」と言った。
日課にしている、朝顔の水やり。
確かに、健司がいつも水をやっている時間帯だ。
いずみは、腰に手を当てて「ほんと、忘れっぽいんだから」と言うと、「いいわ。 一緒に行ってあげる」と言って先に立って歩き始める。
健司は、何事か翼と話していたが、慌てて後を追ってきた。


じょうろに水を入れて、健司が水をやっている。
その姿をぼーっと眺めながら、いずみはずっと疑問に思っていた事を尋ねた。
「…ねぇ、健司、川でさ、三匹釣るまで帰れないって、最後の一匹凄くねばったじゃない?」
「うん」
「なんで? だって、食べて貰いたいのは、志之さんでしょ、鵺さんでしょ…?」
「それに、いずみもいるじゃん」
健司の言葉に驚くいずみ。
「え?」
そう絶句すると、何でもないことのように健司は言った。
「ほんとはさー、いずみも釣ってくれれば、交換して食べれたのに、お前途中で釣り止めちゃうんだもん。 ま、いいけどさ。 友達の印。 ちゃんと、残さず食えよ?」
そう言われて、コクンといずみは頷く。
ほわんと自分の心が温かくなるのを感じたいずみは「…じゃ、次行った時は、釣れる迄頑張る。 で、健司にあげる」と健司に告げた。
健司はニカッと、笑って「ホントーだな? 約束だぞ?」と聞いてくる。
いずみは頷くと「絶対、約束」と健司に言った。




「で? で? お父さん、そん時どうしたの?」
健司がワクワクした表情で問う。
いずみも、固唾を呑んで言葉を待った。
二人を現在虜にしているのは、志之が倒れた事を知って駆けつけてくれた、健司の父親の親友だったという、新庄という男性だった。
柔和な雰囲気。
小太りで優しげな風貌。
職業作家らしくて、穏やかな声音から紡がれる話が、とても面白く、新庄の言葉を一言一句聞き逃すまいといずみは耳を澄ます。
今、新庄が話してくれているのは、健司の父親の思い出話。
二人が、不良に絡まれてしまった時の話だった。
健司の問いに、新庄が答える。
「んー? 逃げたよ? 自慢じゃないけどね、俺も、聡も喧嘩はからっきしだったんだ。 逃げるが勝ちだよ」
「すっげぇ! で、逃げられたの? 逃げられたの?」
「それがね、向こうも人数が居るからね、挟み撃ちに合っちゃって、で、そん時の聡が凄いんだ。 いきなり、近くにあった、家の塀をよじ登ってね…」
「うん! うん!」
そんな風に強い相槌を打つ健司の横腹を、いずみはつつき「ちょっと、うるさい」と言う。
「なんだよ! いいじゃん。 俺のお父ちゃんの話なんだし…」
「何よ、その屁理屈。 私だって話を聞いてるんだもの。 邪魔しないでよ」
と、言い合いが始まり掛けるも、新庄が話し始めれば、再び意識はそのお話にいってしまう。
その後、水命が、新庄の話が終わるのを待って、健司と新庄、それに鵺を志之の食事の世話手伝いへと連れていった。
ちょっと淋しい気もするが、しょうがない。


新庄は、きっと、健司の里親になるために来ている人なのだろう。


いずみはそう確信する。
言動のはしばしや、態度にそれが現れていた。
皆が健司に黙っているのは、その方が良いと判断したからだろうし、いずみも健司にばらす気はないが、子供だからといって、こういう事実を知らせて貰えないのしゃくだった。
エマが、全員分のごはんをよそったあと、自分の席についた。
目の前には、美味しそうな料理の数々。
料理を作った翼が照れ臭そうに手を合わせ「いただきます」と言うのを聞くや、まずは健司が釣ったという美味しそうなあまごの塩焼きに箸を伸ばした。
そっと身をほぐし、口の中へ運ぶ。
あまごの柔らかで、でも、弾力のある身がプリプリと舌の上で弾け、ほのかな塩味と共に淡泊で深い味わいが口の中に広がるのを、何だか泣きたいような気持ちになりながら味わう。

「友達の印」の味だ。

釣りなんて二度と行きたくないと思っていたが、約束してしまったからには、また行ってしかも今度は、魚を釣ってこなければならない。
生き餌だって、自分でつけられなければ、自分の力で釣ったとは言えないのだろう。
(厄介だなぁ)と思いながらも、自分の新たな目標が、それ程悪いものでもない事に満足する。
次に肉じゃがをつまみ「おいしい…」と、思わず呟けば、翼はニコリと微笑んで「可愛いリトルレィディに誉められて、光栄だよ」と告げてきた。
その微笑みに、女の子達が骨抜きにされるの分かるなぁ…と納得するいずみ。
ああ、今、鵺がいたならば、思う存分突っ込んでいただろうななんて思いつつ、色んな意味で、鵺を連れていった水命に、平和な食卓を守ってくれてありがとうと、感謝の念を捧げる。
突然エマが明るい声で「ね? 食べ終わったらさ、花火しよ? 花火」と提案した。
いずみは、その言葉に不覚にもパァッと表情を輝かせてエマを見上げてしまった。



台所への、汚れた洗い物運びに勤しむ。
健司も同じように、志之の部屋から皆の皿を運んできていた。
「気が利くじゃない?」
そう誉めれば、健司が「まぁね!」と言いつつ、それから「なぁ…いずみ…」と声を駆けてきた。
「ん?」
洗い物をする人が苦労しないようにと、水でサッと皿を流し始めたいずみに健司が言う。

「新庄さんって、俺の新しいお父さんになる人なんだな…」

少し驚くいずみ。
「新庄さんがそう言ってたの?」
と問えば、健司はフルフルと首を振る。
「でもさ、分かるよ。 うん。 何か、俺に対する態度とか、みんなが俺と新庄さんを仲良くさせようとしたりだとか、婆ちゃんに対する態度で分かった」
健司の言葉に、確かにアカの他人のいずみでもピンとキたのだ。
当の本人が、分かるのも当然と言えば当然なのだろう。
「みんなさ、優しいから、正直なのかな…」
健司がそう言う。
いずみは笑って「そうね。 嘘つけない人達ばかりね」
と答えた。




ヒュルヒュルッと音を立てて、空で咲く、小さめの打ち上げ花火に零や、鵺が歓声をあげている。
家の奥にあったのを外に引っぱり出した、古い木の机に、切り分けられた西瓜が並んでいる。
と、言っても、物凄い勢いで売れたので、残りはあと僅かだ。
幇禍が、鵺と一緒に、花火を振り回してはしゃいでいた。
まるで子供のようだ。。
悠宇が呼んだらしく、初瀬が涼しげな浴衣姿を披露しながら、二人並んで、花火をしていた。
縁側には、志之を寝かせて凪砂、エマと水命にシオンと翼、そして新庄が並んで座っている。
海月のあげてくれる花火を見上げ、健司と二人で「すっげぇ!」とか「奇麗ね」等と言い合いながら、目を煌めかせて見上げた。
海月が、次々と花火に点火しながら、何気ない様子で健司に尋ねた。
「なぁ、健司。 お前、新庄さんの事、どう思う?」
海月の問いに、首を傾げる健司。
「どうって……何?」
問い返されて「気に入るか、気に入らないかって事だ」と答えれば、健司は即座に「気に入ったよ!」と言った。
「だって、お話面白いんだもん。 それに、父ちゃんの友達だしね」
そう答え、それからいずみにも「な? いずみも、そう思うだろ?」と尋ねてくる。
海月は、きっとこれからの事を考えて、健司の気持ちを聞いてくれているのだと思い、正直に答えた。
「素敵な人だと思います。 とってもお優しいし、色んな気遣いが出来る人のように見受けられました」
海月は、少し頷いている。
二人では顔を見合わせクスリと笑うと、いずみはサラリと言った。
「でも、健司にはもう少し時間をあげて下さい」
その言葉に、慌てて二人を振り返る海月。
「…新庄さん、僕の新しいお父さんになる人なんだよね?」
健司が何でもないように、そう言う。
呆然とする海月に、いずみが追い打ちをかけた。
「子供だからって、舐めちゃ駄目です。 分かりました。 それに新庄さんも、作家さんなのに嘘つけない人よね。 喋ってる空気や、内容から分かっちゃった」
ペロリと舌を出すいずみの隣で、シャクリとスイカを口にし目を細めた健司が、静かな声で言う。
「正直、俺、新庄さんのこと、好きになってきてるけど、まだ、一緒に暮らせるかどうか分かんない。 本当は、この家にずっといたいけど、それは我が儘だって分かってる。 婆ちゃんは……婆ちゃんには、武彦さんや悠宇さんに言われた通り、心配かけないよう、安心して貰えるようにしっかりしなきゃって分かってるケド………」
健司が足をぶらつかせる。
「しっかりするってどういう事なのかな。 分かんないや。 俺は、ただ、今でも、婆ちゃん死なないでって思っていて、一人ぼっちは嫌で、そういう自分はしっかりしてないのかなって、そればっかり考えてる」
健司は、困ったような顔をして「だからね……」と言い、「まだ、自分の先の事、考えられないや。 新庄さんにも、来てくれてるみんなと同じように接すると思う。 それでもいいよね?」と言う健司。
海月は頷き、再び花火に点火すると、「良いさ。 好きなだけ考えろ。 釣りの時と同じだ。 焦ったってしょうがないからな」と言った。



さて、花火後、全員集合の状態になっている現状を見て「銭湯行かない?」と、鵺が明るい声で提案してきた。
花火の高揚も残っているのだろう。
何だか、帰る気にならず、ここで大人同士なら飲みに行く?となるが、未成年の多い状況で、銭湯という提案は至極素晴らしいものに思える。
「いいな、それ」
そう海月が、珍しく賛同の意を表したのも効いて、志之の世話の為に残るというエマと翼を置いて、一路銭湯へ向かう事になった。
と、言っても泊まり予定の無い凪砂含むメンバー達は、皆、着替えに女性は志之の、男性は亡くなられた志之の旦那さんの浴衣を借り、タオルや石鹸なども、出して貰う。
いずみは前日から泊まりこんでいたので、着替えはちゃんと用意していた。。
「洗濯物、大変じゃないですか?」
そう、凪砂が問えば、海月と水命が同時に首を振り、「大丈夫」と言う。
「銭湯、銭湯〜v 初体験!」
楽しげに跳ねる鵺に、「お嬢さん、ちゃんと、前見て歩かなきゃ、転びます」と心配げに、幇禍が注意を促している。
凪砂はいずみと同じく、銭湯は初めてらしく、「どんなんでしょうね?」と笑顔で海月に問い掛けて「…そんな、大の大人にワクワクする程の所ではない」と無表情に一刀両断されていた。
しかし、そう言う海月の後ろでは、スキップしそうな勢いで「みんなで、お風呂なんて、楽しみですね!」と健司と一緒になってはしゃぐシオン(42歳)がおり、何ら説得力がない。
健司も、「銭湯、こんな大人数で行くなんて、すごい!」と満面の笑みで、いずみは「こどもね」と冷たく笑った。
ま、しかし、いずみも、どこか足取りは軽くなってしまい、ああ、楽しんでいるのだなと感じる。
いずみはなんだか、そんな自分が、少し可愛くなった。


「ここが、私のよく行く銭湯です」
そうシオンが告げたのは、古ぼけたコンクーリート作りの、いかにも銭湯っていう感じの建物で、「ゆ」と書かれたピンクと、紺色ののれんが二つの入り口にそれぞれ掛かっている。
「じゃ、あとでね?」
鵺がそう言って、女性用のピンクののれんをくぐり掛け、「ん?」と足を止めた。
そして身を屈めると「ねぇ、健ちゃんって、今小学校何年生だっけ?」と問い掛ける。
健司が、何でそんな事と首を傾げながら「えーと、三年生だけど…」と答えた。
すると鵺が「じゃ、キミ女湯へGOね!」といきなり、その腕をひっ掴む。
「へ?」
と目を丸くする健司。
しかし、凪砂も「そうよ…ね。 小学生だし良いのよね、 ヨシ、おいで、健司君!」と言い、水命が「頑張ってるんだもん。 背中流してあげますよ」と言えば、初瀬も「じゃ。私は髪洗ってあげます。 だって、考えてみれば一番の功労者だもの」と言う。
突然の展開に目を白黒させる健司を置いて、悠宇が初瀬に「おい! なんで、健司そっち行く事なってんだよ! 馬鹿っ!」と怒鳴り、幇禍が鵺に縋り付くようにして「止めて下さい〜。 小学生とはいえ、もう、男なんですっていうか、駄目です! お嬢さんの玉のお肌をそんな、異性に晒すわけにはいきません!」と喚いていた。


わー、なんて、余裕のない人達。


幇禍がいずみに視線を向け「やですよね? 同い年の男の子と、お風呂なんて」と言ってくるので、いずみは「別に、健司は、同い年じゃなくて、年下だもの。 子供よ。 それにね、お兄さん達がそうやって小学生相手に取り乱してるのって、格好良くないよ」と見事に一刀両断し、その言葉が決定打となって、健司の意志関係なく、彼は女湯へと引きずられていった。




銭湯は、程良く空いていて、女性陣+健司は気兼ねなく、湯船に浸かる事が出来そうだった。
「泡風呂がある!」
そう叫んで走り出そうとする健司を抱き締めるようにして捕まえ、凪砂が「まず、掛け湯。 それから、もう、水命さんと初瀬さんに洗って貰いなさい」と言っている。
水命と、初瀬が四つ並びで空いている洗面所の前を確保すると、健司の手を引いて腰掛けの前に連れていった。
健司が天井を見上げ「高いー!」と言ったので、いずみは「銭湯だから当然でしょ?」と言う。
だが、いずみにとってもここは物珍しいものばかりで「ね、ね。 あとで、あの電気風呂とかいう奴一緒に行こうね」と健司言われて、コクリと頷いた。
(電気風呂って、痺れるのかしら?)
と不思議に思いながら掛け湯して湯船に浸かるいずみ。
幇禍や悠宇はあんな事を言っていたが健司はやっぱり子供で、でも、想い人の鵺の裸だけは、直視できないようで、耳を少し赤くして、視線を逸らしている。
だが、鵺はそんな事に気付く筈もなく、「健司! 健司、凄いよ! 向こう、なんか色の違うお風呂もあるよ!」と、腕を引っ張りながら声を掛けた。
湯船からぼーっと眺めていると、まず、水命達は健司を腰掛けさせ、初瀬はシャンプーを手に馴染ませると、いがぐり頭に爪を立てないようにシャカシャカと洗い始めた。
「良いなぁ。 気持ちよさそう」
と羨ましそうに凪砂が言い、「痒いとこないですかー?」と、巫山戯て初瀬は笑いながら聞く。
すると、健司は「無いけど、初瀬姉ちゃんの髪の毛があたってる背中が痒い」と訴えていた。
初瀬が、掻いてやる前に凪砂がヒョイと手を伸ばして掻いている。
水命も、タオルを泡立てて、優しく健司の背中を擦り始め、その一連の動作全て眺めながら鵺が「…はぁ、何か、圧巻だよねぇ」と、呟いた。
言葉の意味が分からないのだろう。
「へ?」と問い返してくる凪砂。
鵺は、「健ちゃん〜? こぉーんな、上玉さん達に、体洗って貰うなんて、幾らつんでも出来ない経験よ? しっかり、心に刻んでおきなね!」と心から言った。
いずみは鵺の隣りに浸かりながら「…確かに」と頷く。
健司がもう少し大きくなれば、どんな天国を味わったか、懐かしくも勿体ないという感情と共に思い出すだろう。
三人、何言ってんだか…なんて、笑い合って、「ほら、水流しますよ? 目を瞑って?」と、水命が優しく健司に声を掛けていた。



みんなで並んで湯に浸かる。
のんびり浸かっていると程良い温度の湯が体の芯まで染み渡り、額から流れる汗を手拭いで拭いつつも凪砂が「いいですね。 夏の風呂」と呟いた。
疲れが、すぅっと抜けていくようだ。
鵺は健司と並んで泳ぐように、湯船を移動しながら「ほーんと! 最高っ」と答える。
そして、凪砂の側まで近付くと、しげしげとその服を着ている姿からは想像できない程、豊かな胸元を眺め、溜息混じりに呟いた。
「…いいな。 凪砂さん、胸大きくて」
その言葉に、へ?と呟き、自分の胸を見下ろす、凪砂。
「そ…うかなぁ?」
自覚がないのか。
そう不思議そうに言われて、力一杯頷き、鵺は自分の胸を見下ろした。
「私、まな板みたいじゃん? なぁんか、ヤなんだよね」と言いつつ、「ね? 健ちゃんだって、胸大きい方がいいよね?」と鵺は健司に問うた。
健司は途端に顔を真っ赤にして「知るか! そんなのっ!」と答えている。
あんな質問、好きな子にされたら堪ったもんじゃないだろうと、いずみは笑いそうになった。
そんなやり取りを見ていた、水命が俯きながら「やっぱ、大きい人がいいですかね?」と、呟いた。
「鵺ちゃんは、まだ大きくなる可能性あるけど、私は、もう、多分無理ですよね」なんて水命が言えば、鵺は「でも、水命さんは、形奇麗だから良いよ!」と力強く答えた。
初瀬も「だけど、鵺ちゃんのすらっとした、スレンダーな体形も、凄く格好良いと思いますよ」と、話に参加してきて、一頻り胸談義に花が咲く。
そんな三人を眺め凪砂がいずみと健司、交互に顔を見合わせると「分かんないよね? こんな話」と言った。
健司はコクンと頷けど、いずみはいつものこまっしゃくれた感じで「でも、凪砂さんは恵まれてますから良いけど、女性にとっては深刻な問題ですよ? まあ、ただ、胸が大きいからといって、それで寄ってくる男性は、頭が悪い連中ばかりでしょうし、そういう意味では、無意味な論議と言えるかもしれませんね」と冷静に答え、鵺達を一瞬にして凍り付かせた。


さて、風呂上がり、ガラス張りの小さな冷蔵庫から、皆銘々に、珈琲牛乳やら、フルーツ牛乳を取り出して、番頭のお婆ちゃんに金を払い、皆で並んで飲む。
乾いた喉に冷たいフルーツ牛乳が流れ込み、いずみは夢中になって飲み干した。
「「「「「プハー!」」」」」
皆が一斉に、そう息を吐き出し、顔を見合わせて笑い合う。
「外、男性陣待ってるかも知れないから、急ぎましょうか?」
そう初瀬は提案し、皆は、志之に貸して貰った浴衣を身に纏い始めた。
悪戦苦闘している、鵺を初瀬が手伝っている。
同時に、どうも巧く帯が結べない凪砂を水命が手伝っていた。
柄は少し古い物の、落ち着いた色合いの浴衣を着ると、皆一段と女っぷりが上がったように見える。
健司が、鵺に見とれていた。
少し、皆が羨ましくなり、頻りに、水命や、初瀬、凪砂の来ている浴衣に触れる。
初瀬が微笑んで、しゃがみこむといずみに「今度は、いずみちゃんも浴衣着ようね? お姉ちゃんが手伝ってあげるから」と囁いた。
見透かされた事が恥ずかしくなり、「そんな、別に、良いです。 羨ましいわけでは、ありませんし」と言いつつも、少し嬉しげな表情を見せたいずみ。
鵺も、「うん。 今度は、いずみも、浴衣ね?」と勝手に決めて、その上、勝手に番頭に皆の銭湯料金を払う。
「え? いいです。 自分達で…」
皆にそう言われども「鵺、今回、遊んでばっかで、全然手伝えてないもん。 大丈夫、パパから銭湯代をお泊り代として出しなさいねって言われて預かってるお金だもん。 気にしないで」と告げて、一足先に外に出た。
その後を追いながら健司と二人で「気持ち良かったな」「まぁね」と言い合った。




いずみは、それからも健司や志之の元へ通い続けた。
楽しかった。
健司と遊ぶのも、志之と話すのも。
志之からは、健司にとってはお袋の味ともいうべき料理のレシピを教わり、健司に手伝って貰いながら台所で並んで作ったりもした。
志之に大層誉められて、いずみは「飛び上がって喜びたい」なんていう自分らしくない感情を抑えたりもした。
毎日、手伝いもし、そしてよく遊んだ。
井戸の水での水掛け合い。
自転車に乗って、鵺と健司の行きつけの駄菓子屋へも連れてって貰った。





夏休みだった。

とても、夏休みらしい夏休みをいずみは経験していた。



そんなある日、志之が死んだ。


その日は、いずみはたまたま、かすみ草を抱えて志之の家を訪ねていた。
健司と飾った、あの赤い花に、かすみ草が合うような気がしたからだ。
かなり長持ちしている、あの花は、今も志之の部屋を訪れる度に、いずみの目を楽しませてくれていて、あの花を引き立てるために、かすみ草は有効だろうと考えたのだ。



知らせを聞いた瞬間、崩れ落ちそうな程のショックを受け、かすみ草達は玄関に散らばった。
いずみは震える足取りで寝所へ向かう。


志之の寝所には、既に手伝いに来ていた者達と、健司と新庄の皆が揃っていた。
誰かが呼んだらしい、医者が志之の枕元に座っている。



静かだった。
圧倒的な迄に静かだった。



死の音とは、無音なのだといずみは悟った。
健司が、志之の右手を握り、新庄が志之の左手を握っている。




聖家族。



聖母子と聖ヨハネを指す言葉が、何故か、頭に浮かんだ。
それ位神々しく、近寄りがたい風景だった。
志之の唇が微かに動く。
新庄が、志之の唇近くまで耳を寄せ、そしてコクリと頷くと、いずみを手招きした。
いずみは、静寂を乱さぬよう、静かに志之の側へ行く。
健司は、じっと唇を噛み、何かに耐えるように佇んでいた。
新庄が、囁くように行った。
「…志之さん。 何かいずみちゃんにね、何か言いたい事があるんだって。 どうぞ、聞いてあげて…」
そう言われ、震えながら、耳を志之の唇の側まで近づける。



「いずみ…いずみ…ありがとうね。 健司と仲良くしてくれてありがとうね。 あたし、嬉しかったぁ…。 いずみと一緒にいる健司は、本当に楽しそうで……あたしね、いずみのおかげで、こんなに安らかにお天道さんのトコ行けるんだよ…」



志之の言葉に、いずみは涙が零れ落ちそうになった。
駄目だ。
泣いてはいけない。
泣いてはいけない。


だって、健司が我慢している。
友達が我慢してるんだ。
私も頑張らなくちゃ。


「お願いだよ。 お願い。 お願いね。 これからも、健司と仲良くしてやってね。 お願いします。 お願い…」


志之の言葉に、コクコクといずみは何度も黙って頷く。
口を開けばみっともない泣き声をあげてしまいそうで、いずみは健司と同じように唇を噛みしめた。





志之が、新庄に「…健司の事、頼みます」と告げ、健司には「…幸せに…なりな」と言うのが聞こえてきた。
いずみは、動揺を隠せないまま、それでも、見つめなければ。
最期まで、ちゃんとみつめなければと、志之の顔を見つめる。
志之の瞼がゆっくりとおり、それから、呼吸が、深く、緩やかになり始めた。
健司は、何も言わず、涙も見せず、ぐっと耐えるように志之の手を握り締め続けている。
新庄が、目を真っ赤にしながら、最期の瞬間、志之に囁いた。




「愛してます」




その言葉は、いずみを驚かせる事はなかった。



ただ、ああそうだったのか、といずみに感じさせ、健司、この人だったら、大丈夫だよ…と、心の内で語りかけた。


なんだか、そんな気がした。



志之が、微かに笑って、頷いたように見えた。




誰もいない、井戸の側でいずみは泣いた。
「うぅっ……うぇえ、……ううあああん…!」
声をあげ、情けないと想いながらも泣き続ける。
志之の死を受け入れるのに時間が掛かりそうな自分がいた。



健司の話を聞いたときの自分の疑問が思い浮かぶ。



お祖母さんが死んでしまうというのは、どういう気持ちになるのだろう。

いずみは考える。

そしていずみは、自分の手を見る。
小さな手。
幼き手。


受け止めきれない。

こんな悲しみ、子の小さな手では抱えきれない。



健司を想う。


泣かなかった健司。
きっと、お祖母ちゃんを安心させて上げるために我慢したのだ。



支えなければと、いずみは思った。



この悲しみに崩れ落ちて仕舞わぬよう、健司を私が支えなければと、いずみは決心した。



だって、友達だもの。


友達の印が、いずみの血と肉となり、突き動かしている。




健司は、正式に新庄に引き取って貰う事になった。
新庄は志之の思い出の色濃く残るこの家を処分せずに、移り住んできてくれるらしい。
いずみはその知らせに、安堵した。



そして……。


「どうだった?」
いずみは、駆けるように戻ってきた健司に玄関口で訪ねた。
健司の手には、可愛らしい、鞄。
(ああ、受け取って貰えなかったのか)
そう全てを悟れば健司が言う。
「…大事な人が、いるんだって」



鵺が欲しがっていた鞄を、健司はお小遣いをかき集めて買った。
足りない分は、いずみがカンパしてあげた。
嫌がる健司に「貸すだけよ? ちゃんと返してね」と答え、お金を押し付けて、鞄を買いに行かせたのだ。
鵺が家に帰る前に、健司には気持ちを伝えて欲しかった。
結局玉砕だったのだが、健司はなんだか晴れ晴れとした顔をしている。
「ま、しょうがないよね」
と笑う健司が、少し大人びて見え「そうね」といずみも答えて、それから「お昼、焼きそばだって。 新庄さんが作ってくれるみたい。 手伝いにいこ?」と、健司の手を引き、二人は一緒に台所に駆け出した。




  終




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■         登場人物            ■
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 ※受注順に掲載させて頂きました。

【0086/ シュライン・エマ  / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1847/ 雨柳・凪砂 / 女性 / 24歳 / 好事家】
【1572/ 暁・水命  / 女性 / 16歳 / 高校生兼家事手伝い】
【3604/ 諏訪・海月 / 男性 / 20歳 / ハッカーと万屋】
【3524/ 初瀬・日和 / 女性 / 16歳 / 高校生】
【3525/ 羽角・悠宇 / 男性 / 16歳 / 高校生】
【2414/ 鬼丸・鵺  / 女性 / 13歳 / 中学生】
【3342/ 魏・幇禍  / 男性 / 27歳 / 家庭教師・殺し屋】
【3356/ シオン・レ・ハイ  / 男性 / 42歳 / びんぼーにん 今日も元気?】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー兼闇の狩人】
【1271/ 飛鷹・いずみ  / 女性 / 10歳 / 小学生】

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■         ライター通信          ■
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遅くなりまして、遅くなりまして、遅くなりまして、真に申し訳御座いません!
へたれ人間失格人間ライターmomiziで御座います。(切腹)
初めましての方も、そうでない方も、この遅れっぷりには、最早怒りを越えて、呆れられているのではと、怯えるばかりなのですが、全て私が悪いので、どうぞ、三発位殴ってやって下さい。
さて、えーと、毎回、毎回、ウェブゲームのお話に、是非、個別通信をやりたいと考えているのですが、毎回毎回、時間の都合により掲載できません。
ほんま、スイマセン。
なので、ご参加下さった全ての方々に「本当に有り難う御座いました。 再びお目に掛かれましたら、僥倖に思います」というお言葉を贈らさせて下さい。
あと、非人道的な位、長くなってしまった事もお詫び申し上げます。

momiziは、ウェブゲームの小説は、全て、個別視点の作品となっております。
なので、また、別PC様のお話を御覧頂ければ、違った真実が見えるように書きました。
また、お暇な時にでも、お目通し頂ければ、ライター冥利に尽きます。

ではでは、これにて。

momiziでした。