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無知
冬のロンドンです、クリスマスを数日後に控え、信心の濃さともかくとして、この場所の多くの心にその日への思いが芽生える時期、
肉体の井戸から臓腑が這い上がる感覚。
目前、霧の如く霞み、紅に焼け、仕舞いは純白という名の絶望が広がり。記憶は一銭にも成らず、四肢が醜い枝のように震え、呻きは無意味であって、
呻きは、
――例えそれが実の兄の名であろうと
無意味であって。
、
落下、した。
膨れた顔、寝台の骨組みにぶつかる、皮に包まれた顎の骨、皿のように割れる。血がこんこんと溢れ、臭気ごと白いシーツを染めて。
けれどもう呻きは無い。
それは死体だった。
死後でも少しは髪は伸びる、気付けないくらい爪も伸びる。けれどもう意思は無い、何か不規則な叫びが部屋に満ちても、死体は指も動かさない。
ならば、見ている私は、上から全てを見ている私は、
上から私が絞め殺される全てを見ている私は、
誰だ――
カーラと、聞こえた。
聞こえぬはずなのに聞こえたのだ。
◇◆◇
倫敦の冬季。
カーラ・ギリアムの耳は不自由だった、ゆえに彼女の勉学は、家庭教師によった。特殊学級に通うよりも――というのは両親の選択であった。
スロウな彼女、窓の外を見る。暖かい部屋から眺める冬の空気、透明な癖に、とても綺麗に思えて、微笑む彼女はそれが嬉しかったのだろうか。それとも、数日後に控えたクリスマスで心が躍ってるのか、
だが、それは、否であろう。
クリスマスの本来が恋人達の為だけでなく、何よりもあの者の生誕を尊ぶであるのなら、
カーラ・ギリアムはそれを切欠に、兄を思い出すであろう。影が顔に落ちる訳。
だけど今の彼女は唯ひたすらに冬の空気に憩いを寄せていた、此の侭一日を終えそうな流れを、椅子に座りながら作り出していた。
けれど、ふと思い出す。今日は家庭教師の来る日で、そして時間は、もうすぐだ。
予習はしているし、部屋も汚れてない。慌てる必要は何も無いはずだったのだが、カーラ・ギリアムの性格は少し抜けていて、時計の針がきちりと約束に差し掛かるまで気付かなかった、補聴器を付け忘れている事。だから慌てて人の優しさで、あるいは単純な欲望で捻り出された私を助ける器具を装着した途端、
両親が殺される音。
……でもカーラには解らない、付けた直後に響いた所為か、余りにその音が非日常な所為か、
階下からの銃声は、彼女の性質もあって、風のように過ぎ去っていく。
人間が、殺された。
けどカーラはそれを知らない。
肉親が、絶命した。
けどカーラはそれを知らない。
ノックの音が、した。
扉を開けるのは当たり前で知らないカーラは何時ものように微笑んだ両親を殺した家庭教師にけれど視覚で今日の様子が過去の様子とズレているのに気付いたのは直後ああと彼の声が出た直後金の為に家庭教師をやってる大学生の言動、
猿とワイン。
例えるならそれくらいの異常が、声として、虫のようにカーラへ。
猿とワイン、元気してたんだろうなぁ、いいよなぁ、素敵だよ、きっと、アアアッ!
猿とワイン、ああごめんなさいごめんなさい謝らせろよッ! なんで許してくれないんだよみんな! 苦しいのって、苦しいって。
猿とワイン、お前らおかしいのはな、ああそうだ、俺が犬だったらなぁ。なぁそうでしょカーラちゃん、ねぇ、僕って凄い人なんだ。好き? ……嫌い、嫌い嫌いきらいきライキライキラ
猿とワイン、おおおぉぉぉ!おお!オオォッォッ! …だ、いたい、さぁ知ってるんだっろ、あああれだ、あれだよ! なんなんだよ、誰だよそれッ! 嫌、だ、来るな、離れるな、忘れ、や、ああそうかな訳ねぇうあ痛いんだよ! 止めろ、ああサイコーデス、僕たちは俺様でさよならで、
猿とワイン――
人に麻薬の方が、まだ存在する言葉なのに。
その語源である家庭教師は、ワインを飲んだ猿よりも壊れて乱れているのです。知らないカーラ、解らないカーラ、知らない、カーラは、近寄った、大丈夫ですかって、声かけようとして、けど、拳銃、拳銃、拳銃、怖い、逃げようと、したけど、捕まって、怖い、ベッドに、押し付けられて、助けてって、抵抗して、奮えて、助けてって、助けてってッ!
泣き叫びながら、家庭教師は、
爆笑しながら、拳銃よりもロープを手にして、
激怒しながら、激怒しながら、
、
無表情で。
冬の、ロンドン。
◇◆◇
冬のロンドン、
肉体の井戸から臓腑が這い上がる感覚、そこから意識は遠くなった。
けどそれは一瞬である、約束の時間からは、針はセンチも進んでない。勿論カーラは時計を見る訳が無く、ただ自分の身体に圧しかかる家庭教師を見下ろして、圧しかかれる自分の死体を見下ろして、戦慄しているのだけど。
恐怖という感情すら殺める恐怖。
それがこの時点でのカーラ・ギリアムで、何故こんな状況になってるか、理解できなくて、今ある周囲全てが世界となり、彫刻のように過去も未来も硬直する、そう沈みそうになった彼女。
カーラと、聞こえた。
聞こえぬはずなのに聞こえた、方向は、頭上、
光だった。とても眩しく、全てを無に連れ去りそうな眩い光だった。そしてそれは事実である、彼女の肉の色も、血の色も、目下の景色ごと白の波に巻き込まれていく。
だがカーラはそこに居る。凄惨が去ったのは光の行い、何故、どうして、私を助けたというのか。一体誰の仕業。
ああそうか、と思う。
名前を呼んだのは、いや、名前という音は、あれは、
福音。
何も知らないカーラ・ギリアム――
だけど、信じていた。
神様がこの世に居る事、それを、今自分の魂が救われているという事で確信に変える。真に救いと言うかは解らないけど、天上へ昇る魂という名。
冬の倫敦で起きた事、
七年前。
◇◆◇
首を絞められた時、脳裏に浮かんだのは家族だった。とりわけ像が強かったのは、反キリストで、家族から浮いていた兄だった。
何故、死に際に思う? 仮定として、
私の兄だから。
それは七年前のギリアム一家殺害事件について、渦中に居た所為、何も知れるはずが無かったカーラ・ギリアムが、知っていた事である。
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