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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


サンセット

 まだあちこちに水たまりが残っていた。空気はすっきりといつもより綺麗に感じられる。頭上にかかった枝葉から垂れるしずくがきらきらと光っていた。
「涼しくなったわね、なずな」
 笹川璃生の独白ともつかぬ言葉を受けて、足元で白い犬がぱたぱたと尾を振った。
「私、夕立の後って好きよ。雨上がりの空気ってすごくいい匂い。なずなはどう?」
 くうん。
(もちろん、大好きに決まってるわ)
 なずなが鼻を鳴らして見上げてきたのがそういう意味だと璃生にはわかる。自分に都合よく解釈しているのではなくて、日頃から璃生にはなんとなくなずなの言いたいことが、ふしぎと理解できていた。だからついつい人目のないところでは、こうして人間相手にするみたいに話しかけてしまう。
 日中のむせ返るような熱気に耐えかねたように、一面の土砂降りが見舞ったのはついさっきのことだ。ごうごうと地面を叩いていた雨は、三十分ほど降り続いたあと嘘のように空から退き、それを待っていた璃生はなずなと散歩に出てきたのである。
 雨上がりで人気の少ない道を曲がって、なじみの散歩コースを歩く。今日はリードなしだった。
「あ、なずな」
 なずなの後ろについて歩きながら、いつもよりも緑の匂いの濃い空気を楽しんでいた璃生がふと足を止める。数歩先を行っていたなずなも歩みを止めて、璃生の足元に近寄ってきた。
「ほら、なずな、見て」
 指さした先は、普段ならばこどもたちでいっぱいの児童公園。の、空。
 ――西の空でゆっくりと雲が切れていく。
 時刻はもう六時を回っていて、夏だということを差し引いてもすでに夕方だといえる。綿雲というのだろうか、かすかな風に流されて動く雲のかたまりたちの切れ目から、太陽の光が見えた。
 璃生もなずなも顔をそらせないまま眩しさに目を細める。
 まだ青いままだと思っていた空はいつのまにか西から暗い色にかわりはじめていた。公園の向こう側、住宅街の屋根の上空は濃紺から紫、紫から紅への不思議なグラデーションを見せている。屋根も木々も、天上も地上も赤い日がすべて一色に染めており、まだ太陽を半分隠している雲すらも向こうがわから照らされて、まるで紫色に輝いているようだった。
「すごい夕日……」
(散歩に来てよかったわね)
「そうね」
 なずなの思惟がつたわってくるようで、璃生は微笑する。まるで、この夕日をなずなと一緒に独占しているような錯覚すらあった。
 誘われるようにして公園に踏み込むと、花壇で咲き乱れるオシロイバナが、まだみずみずしいピンクの花の上に雫を残している。璃生は花が好きだ。咲いているときはもちろん、つぼみや芽の段階も、懸命に生きているようでひどくいとおしいと思う。
「ねえ、なずな。見て、いい匂いよ?」
 ふと思いついて顔を上げると、さっきまで足元にいた白い犬が、いつのまにか姿を消していた。
「なずな?」



「おばあちゃん、ありがとうねー」
「はいはい。お粗末様でした」
 垣根ごしに庭に向かって水鈴が手を振ると、縁側に座ったおばあちゃんが軽く手を振り返してきた。かたわらに置かれた涼しげな色のお皿も、硝子のコップも空になっている。またおいでなさいとしわだらけの顔で笑うので、ごちそうさまでしたとあらためてお礼を言っておく。水羊羹、おいしかったよ。
 急な夕立に降られ軒先で雨宿りしていた水鈴を発見して、おばあちゃんはタオルを貸して縁側でおやつを振舞ってくれたのだった。ひとり暮らしだから、遠慮しなくていいのよ。そう言ってくれたので、水鈴ももちろん遠慮しなかった。でも、おばあちゃんの分までもらっちゃったのは、さすがに図々しかったかな?
 ま、いいか。
 夕立に降られたばかりで閑静な町並みを水鈴は歩く。どこからかあまい匂いがした。
 すぐに雨が上がってくれて助かった。今着ているのは、ひそかに地上へのお出かけ用にしているワンピースだ。これをひどく濡らして帰ったら、またパパやママの目を盗んで陸へ上がったのがばれてしまうだろう。
 運命のひとを探し出す道はまだまだ険しい。
「珍しく、近くにいるような気がするんだけどなあ……」
 溜息した水鈴の鼻先を、またふとかすかな香りがくすぐった。
 食べ物のにおいではなかった。どこかなつかしいような甘い香り。
「……いい匂い」
 雨上がりの空気はなにもかもの匂いを常よりも一層濃厚にしている。ふらふらと誘われるように、いつのまにか水鈴は歩を進めていた。このあたりの道などまったく知らないのに、なにかに導かれるようにして電柱の立った角を曲がる。
 頭上では濃い緑の葉がさやさやと揺れている。木々の落とす昏い影とその間からさしこむ木洩れ日が、水鈴の肌をまだらに染めていた。私、どこへ行こうとしてるの? ようやく我に返ってそのことに疑問を持った瞬間、おだやかな声が耳に届いてどきりとする。
「なずな」
 鼓動が唐突に跳ね上がる。
 車道をはさんだ向こう側、小さな公園の入り口に少女が立っている。背格好からして、水鈴よりも年上だろう。短めの黒い髪が、夕立のあとの風にかすかに揺れていた。顔は向こうを向いていてよく見えない。あれは。
「あの……」
 呼びかけようとすると、折悪しく目の前を車が通り過ぎた。身を乗り出すようにして反対側の歩道を見ていた水鈴は、あわてて体をひっこめる。水鈴の普段住む場所には自動車なんてものはないので、ときどき忘れてこういう危なっかしい目に合う。ガードレールを乗り越えようとして、続くその人の声に動きが止まる。

「ほら、なずな、見て」

 それほど大きな声でもないのに、その人の声はなぜか水鈴の耳によく響いた。
 なずなというのは、足元でしきりに尾を振っている白い犬のことらしい。その犬の体も、そのひとの後ろ姿も、落日の逆光で赤く染まっていた。先ほど通り過ぎていった車のエンジン音が遠ざかっていき、あたりは水を打ったように静かになっていく。
 夕日を受けた細身のからだはまるで内側から光を発しているようだった。
「あ、あのっ」
 今度こそ声をかけようとして走り出しかけ、何かにつまずいた。すでに明かりをともしている街灯に頭からつっこんで、まともに額を強打する。目から火花が出るとはこのことだ。
「あ……あれ?」
 さっきまでこんなところに、石なんてあったっけ?
 水鈴がつまずいたこぶし大の石は当然のごとく何も語らない。顔を上げると、その人は公園内へと入っていくところだった。なんだかおかしい気がしたが、気にしている暇はない。今度はちゃんと左右を確認して、ひらひらのワンピースの裾をからげてよいしょとガードレールを乗り越える。
 ようやく、と車道を渡りながら水鈴は思う。
 ようやく会えたんだ。やっと。何から話そうか。なんて声をかければいいんだろう?
 声をかけたら、まず自己紹介して、名前を聞いて。突然あなたが運命の人なんだって言ったら、びっくりさせてしまうだろうか? ううん、それよりも、どんな人なのかな?
 無事車道を渡りきってぎくりと足を止める。
 公園の入り口で、なずなと呼ばれていたあの白い犬が、番犬のように気をつけの姿勢で座っていた。水鈴の姿を認めたらしく、首をめぐらせてこちらを見る。気のせいか、睨まれているような気がした。
「お……」
 恐る恐る一歩近づいてみる。「お邪魔しまーす……」
 わんっ!
 いきなり吠えられて飛び上がった。
 吠えるといってもなずなにしてみればちょっと脅かしたという程度なのかもしれないが、犬という生き物に慣れていない水鈴にしてみれば思い切り威嚇されたに等しい。じっと睨まれて、物言わぬ視線の圧力におされ一歩下がった。
「な……なんで?」
 やっと会えたのに、声のひとつもかけられない。顔もまだ見ていない。わかるのは女の人だということと、髪が黒くてまっすぐで、さらさらのショートカットだということだけだ。私の運命の人なのに、もっと近くに行っちゃいけないの?
 もう本当にいっそ泣いてしまおうかと思ったとき、するりと耳元を風が吹きぬけた。
(まだ待ってて)
「え?」
 不思議な声だった。声、と思った。だけど、誰が?
 公園のほうを見ると、白やピンクの花たちが花壇で揺れていた。夕日に赤く染まった噴水が水を噴き上げ続けている。さっきの人はどこにいるんだろう? でもこの犬がここにいるということは、決してひとりで帰ってしまったのではないと水鈴は思う。犬を置いていってしまうような人じゃない。そう自分が考える理由はよくわからない。でも、そんな気がした。
「負けないもん」
 前向きに考えよう。この辺りに住んでいるのはわかったんだもの。背筋がまっすぐで、穏やかで落ち着いた声をしていて、白い犬と友達なことも今日知った。今までゼロだったことに比べれば、これはもうとんでもない前進だ。
 瞼に焼きついた夕日を見る後ろ姿もたぶん一生忘れない。
 まだそのときじゃないというのならそれでもいい。だって、まだ見つけたばかりなんだもの。遠くから見つめて、見守って、彼女についていろんなことを知ればいい。そうして『そのとき』が来たら、彼女の前に立って軽く挨拶をしよう。本当はずっと前から見てたんだって、今日という日のことを話して聞かせよう。
 ずっと会いたかったんだよって、そう言って驚かせる楽しみができたんだって思えばいい。

「わかった。また来るね」
 まっすぐ見つめ返してそういうと、わん、ともう一度犬は鳴いた。落ち着いて聞いてみれば、今度はそれほど怖い鳴き声ではないとわかった。えへへと照れ笑いして、さっきおばあちゃんにそうしたように軽く手を振る。
「じゃあね、なずな」
 返事のかわりに犬はぱたぱたと尾を振った。
 くるりとそれに背を向けて歩き出すと、西からさしこんでくる夕日が目にまぶしい。



「なずな。こんな所にいたの?」
 なずなは、さっき璃生が夕日を見ていた公園の入り口に座っていた。この公園には何度も来ているので、迷子ということはないだろうと思っていたが、見つかるとやっぱりほっとする。
「どこにいるのかと思ったわ。公園の反対側まで探しちゃった」
 かがみこんでなずなの顔を覗きこみ、子供にするようにめっ、とやる。もっとも迫力は皆無だったらしく、なずなは膝に前肢を乗り上げ、ぺろりと顔をなめた。もう、しょうがない子ね、と笑う。
 なずなの毛皮はおひさまの匂いがする。軽くその体を抱きしめて立ち上がろうとした璃生の鼻先を、ふわりと別の何かの香りがかすめたような気がした。なんだろう?
「なずな。さっき、ここに誰かいた?」
 どうして? となずなが首をかしげる。
 街灯が明るく照らし始めた歩道には人気がない。
「なんだか……そんな気がしたの」
 夏の雨の名残とは明らかに違う、まるで深いしずかな井戸の底のような、冷たく清澄な水の匂いだった。水に匂いがあるなんて璃生自身も気にしたことはなかったけれど、他にあの感じを言い表す言葉などあるだろうか。
(今は気にしなくていいのよ)
 璃生の顔を見上げて、なずなはその足元に耳のあたりをこすりつけた。
 だって、まだ、しばらくは璃生のことは私が守るんだから。
「え? なずな、何か言った?」
 聞き返した璃生のことを放って、なずなは璃生の膝から降りて、さっさと家の方向に歩き始める。

 耳朶をそよいでいった風になにかを聞き取ったように思えて、璃生はふと振り向いた。茜空の下で、歩道を吹きぬける微風は、さわさわと枝葉を揺らしていた。考えすぎだろうかと璃生は首をかしげる。
 ――今、誰かに名を呼ばれたような気がする。