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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


たとえばこんな日曜日。



 たとえばきみに出逢わなければ、
 たとえば貴方に出逢わなければ、

 知らなかった今日のすべて。


SCENE-[1] こんなヴァイオリンの音色。【 Sunday Afternoon 】


 弓が、軽やかに弦に乗る。
 左肩と顎の間に挟まれているヴァイオリンは、香坂蓮曰く肩で支えているわけではなく、体の中心に乗せているようなものだと言う。いや、もう一歩踏み込んで言えば、演奏しているそのときはヴァイオリンと身体とが一体になっているのだろう。身体と心、そしてヴァイオリンが継ぎ目なく一つに組み合わされ、協調協和し、奏者の内なる想いやイメージを響きとして奏で出す。
 今、蓮が弾いているのは、J・S・バッハ作曲「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番ニ短調」、終楽章「シャコンヌ」。バッハの最高傑作の一つであり、歴代音楽作品の最高峰に君臨するとも言われる、荘厳なスケールと高い完成度を有した難曲である。
 三重音、四重音が当たり前に登場し、ひたすら高度な演奏技術を要求されるこのシャコンヌだが、
 (……さすがと言うか、何と言うか……)
 ソファに浅く腰を下ろした雲切千駿は、一心にシャコンヌを奏する蓮の姿に、眼を細めた。
 かつて譜を完璧に再現するばかりの機械的な演奏をしていた、否、そうするより他にヴァイオリンを人前で弾き奏でられなかった蓮が、今は切実に浮き沈みを繰り返す曲の情感を超絶技巧によって最大限に抽き出し、さらにそれを己の心で練り上げ美しく歌い上げている。
 感情の何たるかを知らなかった青年が、恋を知り、心を得、自分の音楽に魂を据えた。その変化に感傷を覚える余裕さえ胸の裡に創り出せないほど、心身に深く射し入り隅々まで響き拡がる蓮の音色。
 千駿は、ぞくりと背筋を震わせ指先を痺れさせるような音楽の導く快感に、身を委ねた。どこまでも蓮の音に浸されて、心ごと絡め取られるのも心地好い。そして何より、蓮自身が「俺の想いを紡ぐもう一つの声」だと言い切るヴァイオリンの音色から、彼の気持ちの在り方を感じられることが嬉しい。時にこれ以上ないほど強く打ち寄せ、時に引き潮のようにすっと息を潜める感情の流れが、その根底にいつも変わることなく横たわる一つの想いのかたちが、愛しい。
 (……蓮のヴァイオリンを全身で聴くことは、蓮の魂を裸のまま受けとめるようなものだな)
 ヴァイオリンの音がフッと止んだ瞬間、千駿はそんなことを思い、微笑み乍らソファを立って、シャコンヌの奏者に拍手を贈った。
 一曲弾き終えて肩からヴァイオリンを下ろした蓮は、千駿に向かって丁寧に一礼し、顔を上げると同時、頬に柔らかな笑みを浮かべた。ヴァイオリニストとしての香坂蓮は一種ストイックで、繊細乍ら克己復礼の人であるのだが、いったんステージを降りれば、恋しい人の前に立つ安堵の表情に還る。実際にはここは特別室と呼ばれる雲切病院内の一室で、演奏家のために用意された舞台ではないが、蓮にとっては確かにかけがえのないステージに違いない。
「……安心しろ、千駿。いきなりこんな曲を弾けとは言わないから」
 蓮は少し頸を傾げてそう言うや、悪戯っぽく笑った。
 千駿は、
「それは有り難い」
 蓮に歩み寄り、わざとらしく溜息を織り交ぜて笑い返し、その手にあるヴァイオリンとボウを眺め遣った。
 今日これから、千駿は蓮にヴァイオリンを習う予定なのである。
 数ヶ月前、蓮に「ヴァイオリンを弾いてみないか」という話を持ちかけられ、突然の提案に驚きつつも心動かされた千駿だったが、なかなかその機会を作ることができずにいた。そして、ようやく巡ってきた今日という日。手始めに蓮がシャコンヌを弾いて見せてくれたわけだが、彼の演奏に深く感動はしても、直接的な参考にはできない気がする。目標にするには如何にも遠すぎるからだ。
 何しろ二歳の頃からヴァイオリンと伴に生きてきた蓮と、二八歳の今になって初めてヴァイオリンに触れようという千駿の間には、それこそ雲泥どころではない差がある。千駿が今まで慣れ親しんできた楽器と言えば、ギターやアコーディオンくらいのもので、いずれも趣味の範疇で楽しんでいたに過ぎない。そこへきて、ヴァイオリン。しかも、練習に使うのは蓮の愛器、ジュゼッペ・アントニオ・ロッカ。今更その価値云々をあれこれ論ずるまでもない銘器である。
 以前、千駿が蓮のために作詞作曲した歌をアコースティックギターで弾き語りしたときには、弦を押さえる左手指の動きを見た蓮が、「ヴァイオリンを教えるのが楽しくなりそうだ」と微笑んだものだったが――――当の千駿の心中を表現するなら、ヴァイオリンに対する純粋な興味三分の一、そこはかとない不安三分の一、それから。
 (ヴァイオリン教師としての蓮の姿を見たい気持ち、三分の一)
「……千駿?」
 じっと蓮をみつめたままの千駿を見て、困惑げに眉根を寄せかけたその頬に軽く手を触れ、千駿は「何でもないよ」と言うように軽く頭を左右に振った。
 頬に手を伸ばされた蓮は数度瞬きし、ふと、自分も同じように腕を伸ばした。ヴァイオリンを持った左腕を、千駿に向かって。
 そうして、千駿の顔の横にヴァイオリンを並べ翳し、嬉しそうに笑った。
「……やっぱり、よく似ているな」
「え?」
「千駿の眸の色と、ロッカの色」
 優しい光を孕む、枯れた金茶の色合い。落ち着いた風合い。
 ロッカの表板のなめらかな色艶と、蓮の笑顔を映し込んで穏やかに微笑う千駿の双眸は、同じ彩を有しているように見える。そのことが、蓮をいつも何となく幸せな気分にさせてくれるのだ。
 (……このヴァイオリンを奏でていると、千駿と一緒にいるような気がするから)
 どこにいても。
 どんなときも。
 千駿と離れているとは思わない。
 左手薬指に嵌めた指輪に刻まれた千駿からのメッセージを、体現するかの如く。
 ――――within call.
 呼べば聞えるところに。
 名を呼んだそのときに、必ず、この声の届く距離にいてくれる人。
 必ず、応えてくれる人。
 (その腕に、俺を、……抱きしめてくれる人)
「……蓮?」
 今度は千駿が、自分をみつめたまま身動がぬ蓮に、頸を傾げる番だった。
「あ……、いや、何でもない」
 蓮は少し慌て、淡く染めた眼許を隠すように俯くと、手に持ったヴァイオリンを一度ケースに戻した。
「……とりあえず、ヴァイオリンのレッスンは、姿勢と構えからだな」
 言い乍ら、すっと千駿の脇に移動した蓮は、手を千駿の腰骨に添えた。
「弓道をやっていただけはあって、千駿も姿勢はいい方だと思うが……、ヴァイオリンはまた少し特殊だから。演奏の八割はポジションで決まるとも言われているし、バランスの悪い姿勢で弾くと千駿の身体に負担がかかることになる」
 先ず、両脚は軽く肩幅に開いて。
 脚、腰、肩の線が捻れないように。
 背筋を通し、自分の身体全体を意識して。
 呼吸を止めたりせず、飽くまでも自然に、余計な力を排除する。
「……よし、そんな感じで、……ヴァイオリンを」
 蓮は、千駿の肩から背骨へと確認するように手を滑らせて肯き、ケースに置いたヴァイオリンを再び手に取った。
 と、
「何だか新鮮だな」
 千駿が眼許に微笑を載せて蓮を見た。
「え? 新鮮? ……何がだ?」
「蓮に触れられるのが」
「触れられるのがって……、あ……、だ、だってそれは」
「分かってる。僕の姿勢を正すために、ね。……でも、よく考えたら、手以外のところに蓮から触れてくれるのはすごく珍しいことのような気がして」
 千駿はそう言ってにこやかに笑ったが、一方の蓮は一気にかあっと頬を赧らめた。
「……蓮、何もそんなに真っ赤にならなくても」
「ち……千駿がそういうことを言うからだ! だ、大体……レッスン中だぞ、いいから、ヴァイオリンを」
 蓮にヴァイオリンを差し出されて、千駿は「はい、先生」と応じ、それを受け取った。
 蓮は気を取り直そうと軽く咳払いをし、千駿の手を導きつつヴァイオリンを構えさせた。
「……楽器は鎖骨の付け根に……、そう、そのあたりだな。左手は、人差し指の第三関節で――――」
「第三関節……」
「ああ、そこでネックを支える。……顎あてはサポート程度だと思え。頸で強く押さえ込む必要はない。それから」
 そこまで説明して、千駿の顎先に眼を向けた蓮は、何気なく唇から鼻筋、眼から額にかかる前髪までを視線でなぞり上げ、言葉を止めた。
「……、……蓮?」
 千駿は、急に押し黙った蓮に不審を感じ、肩先のヴァイオリンをみつめるように伏せていた眼を僅かに上げた。
 その鳶色の眸に、蓮の端整な容貌が間近く映る。
 近くで見ると、本当にきれいな肌をしていると思う。
 肌理細やかで、白磁のようにすべらかな肌膚。
 うっすらと朱が差しているのは、先刻の赤面の名残か。
 このところの暑さで溶けてしまいそうだと真剣に夏の終焉を心待ちにしている蓮だが、その頸筋を滑る汗のひとしずくでさえ、眼で追いたい気分にさせられる。
 (……そんなことを本人に言おうものなら、また頬を染めて顔を背けられるんだろうけど)
 千駿は静かに微笑んで、ヴァイオリンから逸れかけた意識を引き戻し、蓮と視線を合わせた。紫を孕んだ蓮の印象深い青眸が、微かに揺れているように見える。
「蓮? ……どうした?」
「……あ……」 
 何でもない、と動くかに感じられた蓮の唇はしかしそのまま閉ざされ、やがてそこに苦笑が滲んだ。
「……何だか、今日はダメだ」
「駄目?」
「ああ。……レッスンに集中できない」
「どうして」
「どうしてって、それは……」
 答えかけて、蓮は軽く握った手を口許にあてた。
「……どうしても」
「蓮……?」
「どうしてもだ。生徒は素直に従ってくれ」
 困ったように笑った蓮は、ヴァイオリンを構えた姿勢の千駿から数歩離れた。
「……構えた姿はなかなかサマになっているから、心配するな」
「心配というか……、僕は少し感動してるんだけど」
「え? 感動?」
 蓮が、千駿の右手に持たせるつもりだったボウを片付けようとテーブルに向かい乍ら、頸を傾げた。
「そう。感動」
 千駿は自分の身体に乗るヴァイオリンの感触を慈しむように深くゆっくり呼吸し、眼を瞑った。
「蓮はいつもこうやってこのヴァイオリンを弾いているんだな、と思うと、何だか……、……巧く言葉では言い表せないような感動が」
「……それは感動するようなことなのか?」
 あっさり切り返され、それもまあ予想されたことと千駿は小さく笑い、瞼を上げて肩からヴァイオリンを下ろした。
 ロッカの重みが、左手に伝わる。
 長い間、蓮が命を懸けて追い求めていたそれとは異なる、このヴァイオリン。
 グァルネリ・デル・ジェスを求める意味を喪い、代わりに彼が手に入れたのはG・A・ロッカと――――自分の居場所と、新たな音。
「……レッスン中、千駿が耳障りなギコギコ音でも鳴らしてくれたら、俺も不快さのあまり千駿の顔や仕種に気を取られずに済むんだろうか」
 ぽつり、蓮が呟いた。
 その呟きが耳に届いたか届かなかったか、千駿はすいと蓮の背後から身を寄せると、
「ヴァイオリンの手入れの仕方も教えて、蓮」
 声をかけて、肩越しに彼の表情を窺った。
 諾の返辞を与えようと、頸を回して千駿を振り返りかけた蓮は、その途中で柔らかな温度に出逢った。
「……、ん」
 おもむろに触れ合った唇に、青の眸が一度大きく見開かれ、それから緩やかに視界を閉じた。揃い伏せられた睫の先が微かに震え、片手がきゅっと千駿のシャツを掴んだ。

 ――――この場所で蓮が手に入れたものはと言うならそれはきっと、……何より、きっと。

「……千駿」


SCENE-[2] こんな食事の時間。【 Sunday Evening 】


 鶏肉の黒酢炒め、南瓜のそぼろあんかけ、枝豆となすの冷やし鉢、冷製あさりスープ。
 炊きたてのご飯と漬物の他にこれだけの料理を眼の前に並べられると、丁寧に手を合わせて「いただきます」と言った上、もう一言、笑顔で「ありがとう」と添えたくなる本日、日曜夜七時半。

 千駿の仕事が一段落し、落ち着いて食卓につくことのできる時刻というのは、本当に日々区々である。今日のような急患も入らない休日はともかく、平日は、毎日同じ時間に食事を摂るということが難しい。よって、蓮が夕食を準備する時間帯も、自然、流動的且つ変動的になる。まさか患者が部屋を訪れているときに音高く揚げ物をするわけにはいかないし、製薬会社の某が深刻な面持ちで何か頼み込んでいる最中に味噌汁を運んでいくわけにもいかない。
 二人の暮らすこの部屋が同時に千駿の医者としての仕事場でもあるという現状を考えれば、無理からんことではあるのだが――――千駿にしてみれば生活リズムをすべて自分の都合に合わせてもらっているようで、心苦しくもある。無論、蓮自身はそのことに全く不愉快など感じてはおらず、ただ、忙しい主の邪魔にならぬよう気遣いつつ、美味しい食事を饗したいと思っているだけなのだが。
「……今夜は、本当なら伊佐幾のグリルにする予定だったんだ」
 蓮がエプロンを外し乍ら、溜息交じりに言った。
「イサキ?」
「ああ。伊佐幾。初夏が旬なんだ。姉さんにハーブを……ローズマリーとタイムをもらったから、それを併せて焼こうかと思っていて」
 そう言って、折り畳んだエプロンをソファの背に掛け、蓮はテーブルについた千駿をちらと見遣った。
「……思ってはいたんだが、……買い物、行かせてもらえなかったし」
 語尾が心なしか意味深な響きを帯びて床に落ちた。
 その理由は、今から四時間ほど前に遡る。

 ヴァイオリンのレッスンを中断し、食材の買い出しに行ってくる、と蓮が出掛ける準備をし始めたとき、突然大粒の雨が天から激しく降り落ちてきた。
 窓外の唐突な雨景色を眺め乍ら、千駿はドアへ向かおうとする蓮の手を取った。
「蓮、遣らずの雨って知ってる?」
「え? やらずの……雨?」
「そう。恋人が帰る刻限になって、それを引き止めるかのように強く降り出す雨のこと」
「……恋人が帰る刻限……」
 そう繰り返した蓮の華奢な体に、千駿の腕が回された。
「この雨も、遣らずの雨。蓮を引き止める雨」
「……それは……、でも、俺はただ買い物に」
「同じこと」
 微笑んで、千駿は蓮を抱き寄せた。途端、蓮の頸筋に仄かな熱が昇る。
「……行かないで」
 耳許で囁かれて、蓮は赧然と肌を染め、千駿の腕の中でこくんと小さく肯いた。

 ――――その、結果。
 今夜のメインディッシュは、イサキのグリルから鶏肉の黒酢炒めに変更を余儀なくされた。
 時々、こういうことがある。
 千駿当人にも、何が引き金になっているのかは分からないのだが、どうしても蓮の背中を見たくないときというのがある。この部屋に軟禁されて早四年、誰かの背中など厭と言うほど見送ってきた。当然、部屋を出ていく蓮の背を見ることにも慣れている筈で――――けれど行くなと引き止めてしまうのは、恐らく、引き止めていいのだと気が付いたから。引き止めないことこそが、蓮に不安を与えるのだと知ったから。
 己の存在ゆえに、大切な人に枷など付けたくはない。
 この部屋から出られない現実に、大切な人を巻き込みたくはない。
 そう思い続けて、蓮を自らの手で引き止めることを恐れた日々は、もう過去のこと。
 だからと言って、何もスーパーまで買い物に出る蓮を引き止めずとも、という気はする。が、夕食のメニューを脳内で慌ただしく再構築し乍らも、抱きしめられて安心したような表情を見せる蓮の姿に、たまにはこういう我儘も言ってみるものだと思う。
 遣らずの雨のせいにして。
 可愛い恋人を終日独り占めにするのも、幸せな休日の過ごし方だ。
「……蓮もちゃんと食べるように」
 一人分の膳の用意をするだけして、あとは冷えた麦茶片手に千駿のそばに坐っていることに決め込んでいるかのような蓮の態度を見咎めた千駿は、冷やし鉢に飾られた胡瓜を指先に抓んで、その口にあてがった。
「んん」
「食べなさい」
「……ん……」
 苦笑と伴に諦めたように開かれた両唇の裡へ胡瓜を入れ、それでよしとばかり引きかけた千駿の指を、ぱくりと蓮の口が捕らえた。
「……僕の指までご所望で?」
 千駿の笑顔に蓮も眼だけで笑ってみせると、指を放して胡瓜を咀嚼嚥下し、少し肩を竦めた。
「千駿が無理矢理食わせようとするからだ」
「蓮が何も食べようとしないからだ」
「……夏は食欲が湧かないんだ」
「放っておいたら基本的に食べないじゃないか」
「……無理に食べると、胃が痛くなったりするし……」
「夏バテするぞ」
「……、……いざと言うときは、医者がそばにいるし……」
 上眼遣いに千駿の反応を窺う蓮に、南瓜のそぼろあんかけを盛った青磁の器がずいと差し出された。
「カロチンが豊富で、粘膜を丈夫にする働きを有し、風邪に対する抵抗力を高める効能がある緑黄色野菜です。きみのかかりつけ医のお勧め」
 言うなり、千駿は器から一口大の南瓜をひとつ、箸で挟んで自分の口へ運び、嬉しそうに食べた。
「ん。旨い」
「……旨いなら、それでいい。よかった」
 蓮がほっと安堵の笑みを洩らした。
「だから、蓮も一口」
「え……」
 胡瓜に引き続き、今度は南瓜を口許にあてがわれる羽目になりそうだった。

 今年の夏の食卓は、きっとこうして、結果の見えた駆け引きと鬩ぎ合いを繰り返し、繰り返し、笑顔の中で暮れてゆく。

 いただきます。
 召し上がれ。
 ごちそうさま。
 お粗末さま。

 ありがとう。
 おいしかったよ。
 すごく。


SCENE-[3] こんな未来。【 Sunday Sleep 】


 りいぃぃん……、

 硬質な余韻を曳いて、南部鉄器の風鈴が夜風を澄んだ響きに変える。
 昼、一時間ほどの間にまとめて降った雨が空中の塵を押し流したのか、涼風の手触りもどこか優しい。
 電気を消し、窓を網戸にし、室内に流れ込んでくる風音と月光とを感じ乍ら、ソファに深く腰掛けた千駿は静かに息を吐いた。
 右肩に、蓮の体温を感じる。
 千駿の肩にトンと頭を預け、無防備に寝入っているその黒髪を手指で梳くと、気持ち良いのかくすぐったいのか、蓮は「ん、ん」と鼻に抜けるような吐息をこぼした。千駿は思わず手を止めたが、蓮が眼醒める様子はない。そうと知って、穏やかな微笑を蓮の横顔に注いだ。

 この、指を。
 こぼれ落ちる髪の、ひとすじまで。
 愛しいと思う――――。

 出逢ってから、約七ヶ月。
 その間に、驚くほどたくさんの出来事があって、今こうしてここに二人で肩を寄せ合っている。
 出逢った頃には、
 仕事で疲れ切って帰り、半ば気絶するかのように倒れ込むのが一番よく眠れる方法だと言い切って憚らなかった蓮が、
 寝ている間に一人置いて行かれることを無意識に恐れる心のせいで、誰かのそばでは眠ることなどできなかった蓮が、
 今はこんな風に、眠りの裡へ無理なく意識を委ねることができるようになった。
 最近では、日中、ソファでうたた寝している姿を見かけることもよくある。
 同じ部屋にいて、いつでも互いを感じられる距離にいて、ようやく得られた安心感。
 (……蓮)
 千駿は胸の中で名を呼び、蓮の髪にそっと接吻けた。
 すると、その一瞬を待っていたかのように、風鈴の音がリンと一際高く鳴り、ぴくんと蓮の肩が揺れた。
「……あ……、……ちはや……?」
 束の間の眠りから引き上げられ、微睡の色に塗られた蓮の声が、千駿の肩先に触れた。
「寝ていていいよ」
 そう言葉をかけ、千駿が軽く手を握ると、蓮はほんのり甘い睡気に身を包み込まれたまま、ゆっくり口を開いた。
「……夢を、みていた」
「夢?」
「ああ……、夢。……おかしいんだ、どこかの舞台で俺がヴァイオリンを弾こうとした瞬間、場面が急に切り替わって……、気付いたらこの部屋にいて。眼の前には、千駿がいて……もう一曲弾いてほしいって、微笑み乍ら俺に言っていて……。でも俺は、今度は千駿の番だから、って――――千駿にヴァイオリンを渡すんだ」
「僕の番? ……ああ、今日から蓮にヴァイオリンを教えてもらい始めたから、それが夢に影響したかな」
「多分……そうだと思う。夢の中で千駿が弾いた曲、シャコンヌだったし……」
「それはまた」
 千駿は微かに笑い、蓮は「なかなか上手かったぞ」と笑み返した。
「……それで、千駿が弾いている横で、俺はなぜかピッキングをしていた。千駿が用意してくれた金庫を開けようと、真剣に」
「ピッキング? ……蓮、願望が反映されすぎた夢をみたんだな」
 蓮は以前、ヴァイオリニストとして活動する傍ら、金銭を効率よく稼ぐために便利屋をも生業としていた。金額に拘れば、自然、実入りのいい危険な仕事に手を染めることになり、その頃役立てていたピッキング、ハッキングといった技術は今も蓮の得意とするところである。
 ピッキングに至っては半ば趣味と言っていいくらいのもので、便利屋を廃業した現在ではさすがに犯罪行為としてのそれを行使するわけにはいかないが、その代わりに千駿が蓮にピッキング用の金庫を用意しようと申し出た。
 蓮が素直に喜んだのは、言うまでもない。
 しかも、夢にまでみたとなると、余程その金庫の到来を心待ちにしているらしい。
「……、本当に……俺の望みが反映されすぎた夢を、みたんだ」
 蓮は呟くように言い、千駿の右腕に抱き付いた。
 千駿はそんな蓮を見遣り、笑った。
「蓮が望んでいる金庫、明後日届く予定だから」
「あ……、いや、……今言った望みというのは……」
 望みというのは、金庫の話ではなくて。
 舞台に立ってヴァイオリンを弾こうとした瞬間、この部屋に帰ってきたこと。
 千駿のそばに、帰ってきたこと。
 どこにいてもロッカと一緒なら、千駿と一緒にいるようなもの。
 けれど、いるようなもの、以上に、本当に一緒にいる方がいい。
 ずっといい。
 こうやって、寄り添っていられる方が、ずっと幸せだから――――。
「……千駿」
 どこか嬉しげな声音を残して、蓮はまた睡夢の底へと誘われていった。

 この世でただ一人、繋いだ手を決して放すことなく伴に歩んで行く大切な人。
 一緒に、ヴァイオリンを。
 一緒に、食事を。
 一緒に、夢を。
 一緒に、未来を。
 出逢わなければ得られなかった、夢想することすらなかった、こんなにも幸福な未来を。
 こんなにも笑顔に彩られた毎日を。

 ……ありがとう。

「おやすみ、蓮……」
 蓮の夢見を守る千駿の声に、風宿る鈴の響きが応えた。

 りぃん、りん。



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