|
足早の夢の最後に
――エピソード
あの人は私が少し思案に暮れたような、顎に手を当てたポーズを取ると決まって言ったものだ。
「個人的に君のその仕草は好きなんだ。だけど、なんで悩んでるの」
少女は笑う。
「もうすぐ完成するんです、ホムンクルス」
「クロイツモーント。それは錬金術師の領域じゃないのか」
少し驚いたような、けれど微笑を絶やさないあの人の顔。その顔に名前を呼ばれたクロイツモーントはあけっぴろげに、あまりにも嬉しそうに微笑んだ。
銀色の髪が揺れたので、あの人がそっと髪に触れる。こそばゆそうに笑うクロイツモーント。ただそこにはひどく開け放たれた素敵な空間が広がっていて、きっと二人はいつまでもそこにいられるのだと、彼女クロイツモーントは思っている。
あの人は窓の外のどこまでも高い空を見上げながら、眩しそうに目を細める。
クロイツモーントは同じようにしてから、静かにそっと目を閉じる。まぶたの裏の赤い光がチラチラしている。そこへそっとあの人が額にキスをしたので、とても満ち足りて幸福な気持ちになった。
満ち足りた気分になるということは、あの人が欠けてしまったらクロイツモーントは足りなくなってしまうということだろうか。
恐ろしいことを考えてしまったから、あの人の細い身体を抱き締めた。
あやすように手を頭に載せ、撫でるあの人。目を開けると、クロイツモーントの手にはしっかりとあの人の気配が残っているというのに、そこには誰もいない。
驚いて辺りを見回す。
学術書の広がっているテーブル、試験管を照らしている西日。朝買ってきて食べていないパン屋さんの焼き立てであったパン。それから、フラスコとそこら辺に散らばっている紙と羽ペン。インクがないような気がして、慌てて探すと紙の下敷きになっていて出てきた。
ほ……とするにはまだ早い。
あの人が足りない。あの人はいつもここにいるわけではないけれど、あの人が足りない。
日本からきたあの人は、あまりにも物を知らなすぎる。
医学を学ぶのならば、オープンでもいいかもしれない。けれど、魔術を学ぶにはそれは問題だ。確かに一般的に魔術も認知はされているけれど、あまり好意的な認知ではない。
だから魔術を使って、人の前で使うのはよした方がいい。いつか言わなければと思っていたけれど、お人よしのあの人には言えなかった。
あの人はそれできっと満ち足りている。あの人は、井戸に落ちた子供を魔術で救うことをやめないだろう。お腹をすかせている人にパンを与えるのと同じように。寒いと嘆く人に自分の着ているローブを渡してしまうように、あの人は魔術で誰かを助ける。
黒猫がニャアと鳴く。
さっきまではいなかったのに、とクロイツモーントはびっくりする。
猫の頭を撫でてやろうと近付いていくと、黒猫はつつつと素知らぬ顔で歩いて行ってしまった。
「もし、なにかあったら黒猫を頼む」
あの人が突然言ったので、私は困ってしまった。
何かってなに? どうしてどうにかなるの? あなたはいなくなるの? 朝の紅茶の角砂糖と共に一緒にいるんじゃなかったの? それともあなたはどこへ行くの? 私を置いていくの?
零れそうになる陳腐な言葉達は、ただそこにあるだけで出てはこなかった。
クロイツモーントはそうして日々を生きている。あの人を拘束することなく。あの人をただやわらかい眼差しで見つめることにしている。
あの人がいつでも、クロイツモーントに「助けが欲しい」と言えるようにしている。
その助けは、朝食にクロワッサンが食べたいから焼いてくれというものでも聞くつもりだ。
微笑んで、「そうね」とそれだけ言って。あの人がどうしてそうして欲しいのか、聞くこともしないで。
あの時あの人がクロイツモーントに助けを求めなかったのは、求める暇がなかったのか、その気がなかったのか。
ふいに浮かんできた、あの人だった知らない人にクロイツモーントは小さく戦慄する。
落ちている首を抱くのに抵抗がなかったわけではない。けれど、落ちている首を拾って大事に抱えた。あの人は最後まで何も望まなかったと、クロイツモーントは考える。命乞いさえしなかったと、悲しくなる。一緒に行こうと逃げようともしなかったと、心の中でつぶやく。
そしてクロイツモーントの足元でニャアと猫が鳴いたので、クロイツモーントはその黒猫を見た。黒猫はあの人の血にまみれていたが、あの人が逝ってしまったことを知らないようだった。
魔女狩りという習慣がある。
首を落とされるか、川に沈められるかどちらかだった。果たしてどちらがよかったかなどわからない。
ねえ黒猫さん、あなたのご主人は今日から私よと、クロイツモーントは小さく微笑む。
首を抱きながらそっとあの人の身体を撫でると、その手にリボンが握られていた。「君はリボンがよく似合う」そう言って目を細めるあの人は、もういない。その形のいい手で、クロイツモーントの銀色の髪にリボンを巻きつけることもない。
「赤いわ」
リボンはいつも白だったのに、どうしてだろう赤かった。
あの人の血で赤くなったのだと気付くまで時間がかかった。笑ってしまう。白いリボンが赤くなってしまった。あの人は死んでしまった。死んでしまったのよ、と黒猫に言い聞かせる。黒猫はあの人の上でニャアニャア鳴いている。
泣いているのだろうか。
目頭が熱くなったとき、あの人は言った。
「俺の猫は元気にしているか?」
ああこれは全て夢だったのだと、クロイツモーントである葵は気が付いた。そして少しだけ身体を起こして、葵を覗き込んでいるあの人をそっと見上げる。あの人はいつも通り少し急いた様子で、早く葵の言葉を聞きたがった。
「ええ、そろそろお腹をすかせて私を起こしにくると思います」
満足気にあの人は笑った。
かすかに雨の匂いがして、少しだけ開いた窓を葵は見上げる。あの人に目をやる前に、右手に握っているリボンを見た。それは白ではなく、赤かった。
発作的に、パタンと全てのドアと窓を閉める。全てを閉ざしてしまいたい衝動に駆られる。
あの人を見上げてみるも、そこには誰もいない。
魔女狩りのあの時、私も共にいたらと考える。けれど、もうそれは叶わない。
そしてうっすらと目を開けると、涙がマクラに滑り落ちた。
全ては夢だった。遠い昔の、霞むような夢だった。
――end
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【3003/綾月・葵(あやつき・あおい)/女性/18/古物商/魔術学者】
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
はじめまして、綾月・葵さま。
この度はご依頼ありがとうございました。
夢という設定の中、どうやってなにを描写すればいいのか悩みましたが、ご満足いただけたでしょうか。もしそうなら、幸いです。
またの機会があることを願って。
文ふやか
|
|
|