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<東京怪談ノベル(シングル)>


いそがないで

 散歩用のリードを取って表に出ると、なずなはいつもちぎれんばかりに尻尾を振って璃生を出迎える。
 昨日は璃生たちの帰りが遅くて散歩へ連れていけなかったので、なおのこと待ち遠しかったのだろう。璃生の顔を見上げ首輪にリードをつけてくれるのを待ちながら、はっはっと期待に満ちた弾んだ息遣い。左右に激しく振れている尻尾を見て、璃生は笑いながら愛犬の前に膝をついた。
 ――そろそろ残暑見舞いの季節である。
 日はようやく傾きかけていて、肌を刺すような陽光もようやく和らぎつつあった。もっとも昼のあいだの太陽が残した熱の余韻はいまだ湿度の高い大気にくすぶっており、植木や鉢植えの多い笹川家の庭は緑の匂いがむっと濃い。
「今日も暑かったわね、なずな」
 わん!
 ここのところの暑さにも負けずなずなは毎日元気である。さすがに日差しの厳しい昼間は木陰でじっとしているが、夕方璃生と散歩に出る頃にはいつもこの調子だ。まだ子犬のころに食べすぎで一度、軽い風邪で一度。璃生の記憶の限りでは、なずなが獣医にかかった経験といえばそのぐらいではないだろうか。
 首輪の金具にリードをつけると、待ってましたとばかりになずなが門へと突進した。
「きゃ、待って待って、なずな!」
 まだ門を開けていない。ぴんと張られた紐にひっぱられながらも、璃生は家の門の掛け金に手をかけた。
 かすかな軋みとともに門が開いたところで、「おや」と聞きなれた声がして顔を上げた。つつじの生垣の向こうからこちらを見つめているのは、璃生の父親だ。
「璃生、なずなと散歩かい?」
「ええ。父さんも?」
「はは。時計の電池が切れてるっていうから、ちょっと買ってきた」
 片手に携えた近所のディスカウントストアの袋を軽くかかげて、父は笑う。
「ちょっと待ってなさい。父さんも久しぶりになずなに付き合おう」
「え? でも父さん、さっき出てきたばかりでしょう?」
「いいからいいから。電池を換えたらすぐ来るからね」
 戸惑う娘をよそに、父はさっさと家の中に戻っていく。
 待っていなさいと言われた以上は置いていくわけにもいかず、璃生はなずなと所在なく顔を見合わせた。散歩がだいすきな白い犬は、璃生の顔を見上げ、出発はまだ? と首をかしげる。
「今日は父さんも一緒に行ってくれるって」
 くうん。
「まだ暗くなるには間があるから、急がないでゆっくり行きましょう。ね?」
 璃生の科白を受けて、なずなはうなずくかわりにその場にちょこんとおすわりをした。早く来い早く来い、と念じるみたいに、尻尾がぱたぱたと地面を掃除している。近所のどこかで、ヒグラシがしきりに合唱しているのが聞こえてきていた。



 土手に上がるためのゆるやかな坂を登ると、そこは散歩のための遊歩道になっている。
 お盆休みもすでに終わりに近づいたとはいえ、璃生をはじめとする学生らはいまだ夏休みの時期だ。まだ日は長い。すでに六時を回ったはずだが、あたりはじゅうぶんに明るかった。土手の上から見下ろす川の水面を、夕方の光が乱反射している。
「このあたりに来るのもずいぶん久しぶりな気がするよ」
 草むらに鼻先を突っ込んでいるなずなに付き合って足を止めると、父がふいにそんなことを言い出した。
「なずなはこの河原がお気に入りで、よく来るのよ」
「そうらしいね」
 人目がある以上散歩にはリードをつけなければならないが、璃生はどこを歩くか基本的になずなに任せていた。まだ子犬のころから、すぐそこに自動車が迫っていたりしない限りは無理にリードを引っ張らないようにしていたし、大きくなって散歩に慣れてからのなずなは、自分で周囲の危険に目を配るようになっている。
 家の近くのこの川べりは、なずなが特に好きな散歩コースだった。
「確かに悪くないロケーションだ。いい風も吹いてくるし」
 河原を渡ってくる微風が汗ばんだ肌に涼しい。
「ああ、煙草が吸いたくなるなあ」
「そういえば父さん、ここしばらく家で吸わないのね。本家にいる間も吸ってなかったし‥‥」
「禁煙中」
 初耳である。
「じゃあ、お盆は辛かったんじゃない? 本家の大伯父さんたち、すごく吸うもの」
 昨日まで田舎にある笹川の本家に滞在していた一家は、本家の人々のヘビースモーカーぶりを身をもって体験している。
「そうだなあ。何度も勧められたよ、煙草。禁煙してるのは言っといたんだけど、やっぱり去年までは結構吸ってたからね。ここ二週間ぐらいは煙草がなくても落ち着いていられたんだけど、本家にいた間はもう吸いたくて吸いたくてしょうがなかったよ」
「でも吸わなかったのね?」
「半分意地になってね」
 冗談めかしたことばに、璃生はふと表情を曇らせる。父は黙って前方に視線を向け「璃生」と娘の名を呼びかけた。
「さっきから、なずなが先に行きたくて頑張ってるよ」
「え? あ、ごめんなさい」
 なずなが立ち止まったふたりをじっと見つめていた。
 リードは限界ぎりぎりまでぴんと引っ張られているが、無理やりに璃生を引きずっていったりはしないのがなずなである。あわてて歩を勧めると、なずなは満足そうに人間たちの先を歩きはじめた。
 どこかで遊んできた帰りらしい小学生たちとすれ違い、けたたましい笑い声がゆき過ぎる。
「……もしかして、怒ってた?」
「ん?」おだやかな低い声がとぼけるふりをした。
「大伯父さんたちのこと」
 父を見上げた璃生の瞳は、普段つけている黒のカラーコンタクトに覆われてはいない。金色に染まりかけた日差しの中でも双眸は本来の色のまま、ただまっすぐ父親を見ている。
 夏の高い空の色合い。深い海の底のような、濁りのない澄んだ色彩。
 ――瑠璃色だと両親が呼ぶ瞳の色だ。
 日本人には決して見られないはずのこの特徴は、家族の、それどころか親戚の誰にも似てはいなかった。
「そんな風に見えたかい?」
「ううん。見えなかったから気になるの」
 笹川の家の中であきらかな異端であるこの瞳の色が、親戚たちのあいだでどのように見られているか璃生も知っている。そのことによって両親や兄弟らがどんなふうに思われているかも、薄々ではあるが感づいていた。お盆や正月で親戚が集まる機会が設けられても、璃生たち家族だけはいつもどことなく身の置き所がないのはそのせいなのだろう。
 親戚の誰かに話しかけられたり、遊んでもらえたりした記憶はほとんどなかった。言葉を交わすことすら稀だった。
 本家は田舎にあるので田畑や林が多く、小さい頃は帰省のあいだそういった植物たちに囲まれてひとりで過ごすことが多かったように思う。意図的に璃生を遠ざけようとする親族らの態度に、ことさら兄や弟は腹を立てることも多かったが、両親は今も毎年璃生を連れていっている。
 でも。
「目の色のことなら、私、本当に気にしていないのよ」
 そう言うことは決して嘘ではない。親戚の皆の璃生に対する態度は、決して悪意から来るばかりのものではないことも、彼女は承知しているつもりだった。人の心というのは、そんなに単純ではない。それが憎しみであるのなら、璃生はたとえ両親のすすめであっても、こう毎年本家については行かなかっただろう。
 未知のものに対する畏れと不安。
 自分に向けられる視線にそれが混じっていることを、璃生はかなり幼いころから理解していた気がする。
「親戚の家に行くのにカラコンなんておかしいし……学校には一応つけて行ってるけど、中学のころに比べると全然言われないの。
友達も気にしてないし、なずなも私の目の色が、綺麗で大好きだって言ってくれるのよ」
「うん」
「それにね」
 言葉が足りないと思ったのか、それとも自分の科白がいいわけめいて響くと感じたものか。璃生は空いているほうの手で目元に触れて、一番大事なことを口にする。自分の瞳は見ることができないが、どんな色をしているかは鏡で見てよく知っていた。
「私もこの目が好き。父さんと母さんのくれた色だから」
 そうか、と父が言って、しばらくふたりとも無言のまま川べりを歩く。後ろから走ってきた自転車が、軽やかなベルを鳴らしながら二人と一匹を追い越していった。

「怒ってはいないよ」
 歩きながらじっと見つめられて、父はぽつりと、先ほどの問いに対する否定を口にした。
「本当に?」
「本当に。ただ、なかなか難しいなとは思う」
「難しい?」
「璃生は優しい子に育っているのに、それを知ってもらえない」
 本家に行くたびにね……そう言った父の指先がポケットを探る。無意識に煙草を探していたことに気づいて苦笑を浮かべ、照れ隠しのようにズボンの埃を払うふりをして言葉を続けた。
「本当は親戚のみんなに教えたいんだよ。大声で自慢して回りたい。うちの璃生は花の世話が上手で、うちの軒先をいつも鉢植えやプランターで一杯にしてるんだって。飼い犬のなずなとは一番の仲良しで、毎日なずなを散歩に連れて行って、こんなふうに河原を歩くのが好きなんだって……」
 淡々とした声音のまま、ただ目を伏せて、遊歩道に落ちるふたりの影法師に視線を落とす。リードがまっすぐに張らない程度の距離を保ったまま、先を行くなずながちらりとこちらを振り返った。
「今のところ成果は上がってないけどね」
 ポケットに手を入れたまま歩く父は、飼い犬のようすに口角をゆるめる。
「本家の人たちが璃生のことを理解しない、わかろうとしないからといって、ならこっちも理解してもらうことを放棄していいんだとは、父さんは思わない。
 璃生を毎年本家に連れていくのは、まあ、父さんたちの意地もちょっとはあるんだが……でも、それ以上に」
 それ以上に……。
 父はその先を言わなかった。沈黙したふたりの頭上の橋を電車が通り過ぎる。
 足元から忍び寄ってくる熱帯夜の気配を感じとったように、土手から見る家並みにすこしずつ灯火が見えはじめていた。どこかの家から夕飯の匂いが漂ってくる。璃生が父親を見上げると、するりと勝手に呼びかけが口をついて出た。
「ねえ、父さん」
「ん?」
「久しぶりに今夜は、私がビール注いであげる」
「なんだい、急に」
「なんていうか……お父さんと一緒にお酒飲めるの、まだ先だから。その代わりに」
「はは。璃生はもう十六じゃないか」
 四年なんてあっという間だよと、父は娘のつたない思いやりに目を細めてそう返す。
「四年ってけっこう長いと思うけど」
「父さんぐらいの歳になると、一年はほんとうに短いよ。璃生のことだって、ついこの間まで赤ちゃんだったような気がしてるぐらいなんだから」
「まさか」
 大げさな物言いに笑いをもらすと、父もまた笑顔でそれに答える。
「よーし、じゃあ帰ろうか。なずなもお腹がすいたろう?」
 わん!
 父の呼びかけに、白い飼い犬は一声吠えた。街灯に照らされはじめた夕方の道の中で、璃生は笑ってリードを父親に預ける。昼と夜の境目の中で、町並みも草木も一緒くたに染めていた色彩はすこしずつ暗くなりはじめていた。また今日も、一日が終わるのだ。
 今のような時間が永遠ではないとわかっているけれど、それでもなお璃生は、この帰路がすこしでも長く続けばいいと願う。
 なずなの先導に従って、一緒にいられる時間が過ぎるのを惜しむみたいにゆっくり、急がないように。