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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


 ■結びの夜■


 ひっそりと静まり返った板張りの長い廊下の上を歩く人影がひとつある。
 武家屋敷の長い廊下は、夜半ともなるとその果てが見えない。広い割には人が少なく、傍らの障子からも灯りなど射し込んでは来ない為に、必然的に廊下を歩く手立ては月の光だけとなる。
 今宵は見目良い満月だったが、時折雲がいたずらにその輝きを覆い隠し、そのたびに廊下には光と影が交互に落ちた。月が隠されている今は、闇。それでも人影は危なげなく板の上を歩いていく。ひっそりと、けれど出来るだけ早足で。
 人影が何度目かの障子の前を通り過ぎようとした時、風が吹いた。紫陽花の季節の温い空気をかき混ぜるだけのそれは、ついでのように月にかかっていた雲もまた空の向こうへと運ぶ。

「あ」

 厚い雲が取り去られ、輝きは地に、そして廊下にも等しく降り注ぐ。
 突然の眩しさに、人影は廊下を歩む足を止める。いや、もうそれは影ではなく、ひとりの少年の姿を形作っていた。両手に抱えた洗面器にはなみなみと水がはられ、少年の微かな動きにも反応するかのようにちゃぷんと揺れている。
 神嗚 雅人という名のその少年は、何度か瞬きをしながら唐突に現れた光に目を慣らした。

「……満月、か」

 ようやく慣れた目で空を見上げれば、煌々と輝く白い円が雅人の目を打つ。

「珍しいな」

 勿論、満月自体が珍しいわけではなく、雅人が指したのはその輝きの眩さだった。東京という街は夜でさえ決して光が落ちる事はなく、それ故に星の光はおろか、月光もまた決して眩しいと感じられるようなものではない。地上の幾万もの灯りに遮られた天上の星々はいつもひっそりとネオンに混じって輝いているのが常だった。
 だが、この月はどうだろうか。その光はあまりにも白く、そして強い。
 熱のない太陽のように照らすそれを立ち止まり見上げていると、覆い尽くされそうな感覚が雅人の身体を支配する。全てが白く染まり、瞬きも目を瞑る事さえも何の意味もありはしない、そんな白い白い世界。

 けれど雅人は飲み込まれるのを避けるかのように月から目を逸らし、明るくなった廊下を再び歩き出した。ぎぃ、ぎぃと板が軋む音さえ聞こえるのは、静かな証拠。この家も間違いなく東京にあるというのに、不思議なまでの静寂がここにはある。
 雅人は歩きながらそっと視線を横にやった。広い庭で青々と茂る木々や草や花々、隣家の屋根がようやく見える程に緑に埋め尽くされたこの武家屋敷は、それそのものが異界のようでもあった。
 そう考えて、ふと少年はこくりと少し唾を飲み込む。
 異界。

「……『緋羽』…………か」

 それは、この先の部屋で眠る少女の名だった。
 異界の住人と呼ぶに相応しいであろう赤く輝く蝶の羽を背にする、少女だった。 
 
 



 そっと障子を開けて中に滑り込むと、雅人にとって慣れすぎた光景が目に飛び込む。
 畳敷きの十畳間の奥には本棚と机が鎮座し、そして壁につけられたフックには武術の胴着や学生服等がぶら下がっているという特徴という特徴のない部屋だが、雅人自身飾りを好む方ではない為に自然とこうなってしまったのだ。だが彼はこの部屋を好いていた。日の光が射せばとっくに焼けた畳が光を薄く反射し、部屋全体が柔らかな輝きに包まれるのが気に入っていたからだ。
 しかし今は夜中であり障子もたてきってしまった為、中の灯りはこの家にはやや不似合いな蛍光灯だけになった。
 そんな白々とした灯りの下に敷かれた布団が微かに盛り上がっているのを確認して、雅人はほっと息をついた。水を汲んでいる間に夢のようにいなくなってしまうのではないかと、そんな風にも思っていたからだ。
 布団の傍らに膝をつき、洗面器を置いてそっと覗き込めば、そこには静かな寝顔があった。

 夕闇が訪れる赤の時に出会った少女。
 ただただ無色に雅人を見ていたその瞳は今はしっかりと閉じられており、小さく開かれた唇からは規則正しく呼吸する音が聞こえていた。こうしていると本当にただの少女にしか見えないというのに、そんな彼女が自分の命を救ったなどと誰がどうして信じるだろうか。
 『緋羽』と名乗る少女を追いかけていくうちに怪物のようなものに襲われ、あわやという所で飛来した一振りの刀の紅色は、数時間を経てもなお雅人の瞳に焼きついている。雅人自身まだよく事態がどういうものなのか飲み込めてはいなかったが、けれど事実は事実として転がっている。自分は襲われ、『緋羽』に助けられ、そして少女は気を失った。ただひとつ、自身の名前だけを呟いて。
 意識がない少女を放っておくなど出来る筈もなく、雅人はそれからひっそりと彼女を自室へと運び込んだ。こういう時は広い家独特の隙間というものに感謝せずにはいられない。叔父に見つからないルートを辿り、部屋に少女を寝かせた後にすぐ門へと回っていつものような顔をして帰るのは意外と骨が折れるものだったが、どうにかうまくやり遂げた。叔父に隠し事をしているという罪悪感は確かに残るが、けれど説明をするだけの余裕が今の雅人にはない。
 
 すみません、叔父さん。
 
 雅人はそう心の中で謝罪しながら、洗面器へと手を突っ込んだ。
 じゃぷ、という微かな水音が部屋に響くのと同時に、水中から引き上げられた雅人の手の中には、濡れたタオルが握られている。
 倒れたのを見た時はてっきり怪我をしていると思った雅人だがしかし特にどこにも外傷というものはなく、だからといって病気かといえば、彼女のような不思議な存在がかかる病気など雅人には知る由もない。なので当面出来る事といえば、こうやって額を冷やす事ぐらいしかなかった。
 冷たさが保てる程度に絞って折り畳み、そっと小さな額へと乗せる。こんな作業をもう何度も繰り返し取り替えた水も結構な量になるが、未だに『緋羽』の目が開く兆候は訪れなかった。
 あまり長く続くようでは、叔父に診てもらう事も考えなくてはならない。そう考え、雅人は息をつく。説明をするのが大変そうではあるが、しかし少女の命に代えられるものではない。

「………………」

 少女の傍らで正座しながら、雅人は飽きもせずにただ目の前の存在を見つめ続ける。
 不思議で、不可思議な存在。昔から自分が見えていたモノたちの中でひときわ眩かった赤色の少女。それがここにいるなどと、改めて見ても夢のようにしか思えなかった。ここに来るまでの間にずっと背負ってきて、その身体に温もりがある事をもうこの手は知っているというのに、それでもなお、信じられない。
 だから雅人はそんな自分に少女がここにいるのだと確かめさせる為に、水を替えに行く時タオルを額から取るついでのようにそっと滑らかな額に指先で触れていた。冷やされてはいるものの、触れていれば自然と伝わる温もりに安堵して、水を替えに行く。それを何度も繰り返す。
 あれから大分時間が経っているというのに、雅人の指は少女の温もりを確かめる事を止めようとはしなかった。生きて、そして、ここにいる。その事実を感じてからではないとその場を立てなかったのだ。

 温くなったタオルを何度か水につけているうちに、冷たかった水は温度を上げていく。『緋羽』自身の熱も吸い取った上に、今の季節は一年の中で最も暑さが厳しい季節であるという事実が重なり、温くなるのも驚く程に速い。
 何度目かに水につけた雅人の手のひらには、もうろくに冷たさが伝わって来なくなってしまった。

「……行くか」

 少女の額からタオルを外し、指先で額に触れる。
 温もりがあるのを確認して雅人はそっと額から手を遠ざけると、洗面器を抱えて再び廊下へと消えていった。





 瞳を開いた緋羽の視界に真っ先に映ったのは、どこか懐かしさを感じさせる木の天井だった。
 首をくるりと横に向ければ、見慣れない服が壁にかけられているのが見えるのと同時に、自身の頬に触れているのが柔らかな布団であるのを知り、緋羽はぼんやりと瞬きを繰り返した。身体はまだ本調子ではなく、たったそれだけの行動にも視界がぼやけてしまうけれども、それでもここがどこかを確かめなければならない。

「……此処は…………」 

 呟きながら再び天井を見上げると、ひどく眩しかった。
 人工の灯りが無遠慮な程に白々と真下へと降り注いでくるのに閉口し、緋羽はそっと白い腕をかざして光を遮ると、目が慣れてくるのを待って上半身を起こす。掛け布団が落ちたそこから見えたのは、いつもの自分の着物だった。随分長い時を眠ってしまったのか所々に皺がよって、いつものひらひらとした独特の布の柔らかさは見る影もない。
 他に異常はないだろうか。そう思いながら緋羽は外から内から自身の身体を確かめていったが、けれど異常は割とすぐに見つかった。何も変わっていない姿の中で、たったひとつ足りないものがあった。
 赤い懐紙が、たった一枚なくなっていた。
 そこで緋羽はようやく、自分がどうして意識を失っていたのかを思い出す。
 
「………………」

 懐紙が足りないのは、放ったからだ。どうして? それは、あの少年が襲われていたから。そこまでは覚えている。だがどうしてここにいるのかというのまでは、まだ分からない。 
 新たな情報を求めて再びぐるりと首を巡らせれば、かけられていた服の一番端にある黒いズボンが見え、緋羽はそこで視線を止める。気になるのは、それに見覚えがあるからだ。しかし何故覚えがあるのだろう、そう考え、ふと緋羽は脳裏に甦る映像と眼前のそれが一致するのに気付く。
 ああ、これはあの少年の――――
 事態がようやく緋羽の喉の奥に呑み込まれそうになった、その瞬間。

「……気がついた?」

 突然かけられた声にも動じずに、緋羽はゆっくりと声の方へと顔を向ける。 
 そこには洗面器を片手で抱えながら、もう片方の手で障子を開け放っている真っ最中の少年の姿があった。
 誠実そうな顔をどこか不安げにこちらに見せながら障子を閉めた彼は、洗面器を抱えたまま緋羽の座る布団までやってきて、傍らに腰かける。動作は静かで、淀みがなかった。

「『緋羽』さん……でいいのかな、僕はまだ名乗ってなかったよね。僕、神嗚雅人です。あの後君、倒れたからここに運んで来たんだ」
「…………」
「あの、どこか痛い所とか気持ち悪いとか、そういうのないかな。もしあるんだったら言ってくれないか。うち、叔父が診療所やってるからそう重いものでなかったら診てくれると思うし」
「……………………」
「えっと、さ。ええと……そうだ、お腹空いてたりとかはないかな。僕のぶん、半分冷蔵庫に取ってあるから、お腹空いてたら持ってくるけど」
「………………………………………」
「え、……えーと……」
 
 焦ったように眉を寄せる少年の姿を、緋羽は何も言わずじっと見つめる。少年もどこか困ったようにその瞳を緋羽へと向けてきた。
 合わさる視線。そこに何も通じるものはないが、緋羽はそんな事を期待していたわけではなかった。ただ記憶の中の少年の瞳と今の少年の瞳を照らし合わせようとしているだけだった。
 机の上に置かれた時計の秒針の音だけが、二人の間に静寂を紡いでいく。緋羽はただ静かに真っ直ぐ少年の瞳を見据え、そこに眠るものを探した。
 
 少年の瞳の奥深く、それこそ眼球より遙か奥に、ちらりと力のひかりが過ぎるのを少女は見逃さなかった。人工の灯りが点る昼のように明るいこの場所ですら判断できるそれは、まるで海のように少年の中を寄せては返す。診ているだけで胸の中に何かが生まれるような、独特の波がそこにあった。
 それは今ゆらゆらと、少年の心を表すかのように少しだけ不安定に揺れている。
 緋羽は確信し、ゆっくりと口を開いた。
 永い間探し求めてきた可能性が、ここにあるのかもしれない。

「……吾が前に座す君よ、緋の名において問う」

 雅人が息を呑むのにも構わず、緋羽は常よりも白くなってしまった指先をそっと伸ばし、瞳に触れる寸前でゆっくりと止めた。

「其の奥にて揺らぐ力、緋羽の旧き日々に在った主たる者のそれのよう。永き時経て吾が求めて止まぬもの、吾が主。君よ、資格を有せし者よ、吾が力を求めるか?」
「……………え?」

 何を言われたのか分からないように、雅人は睫毛すら触れそうな位置にある指を見つめながら、幾度となく瞬きを繰り返す。
 だが緋羽は更に続けた。

「君よ、吾が力を求めるか。緋の守護を求めるか。主として」
「……っ!!!!」

 キン、と。
 雅人の瞳に緋羽の指に、痛みが走る。それは一瞬の事でしかなかったが、雅人はびくりと頭を揺らし、緋羽もまた痛みを訴えた指を静かに離し胸へと抱いた。
 
「今のは……?」
 
 呆然としたように呟く雅人へ、けれどその時緋羽は何も言わなかった。いや、言えなかった。これは久方ぶりの感覚だった、主に相応しい者と通じる感覚。いつも平静を崩さない小さな心の奥が、ほんの少しだけ速度を速める。
 可能性は、現実へと移行し始めている。
 痛みを退けるようにそっと頭を振り動かしている雅人へと緋羽は目を向け、すぐには答えられなかった問いの回答を口にした。

「力の流れは円の川、主と緋羽を巡る流れ。行き戻る水、循環の輪、例えしものは数あれど基は同じ。君と吾を結ぶ川」
「円の川……っていう事は、僕と君の力が通い合ったというか、そんな感じの現象だったのか?」

 緋羽が頷き、少年は戸惑ったように自身の頭を片手で抑える。

「だからかな。今、僕の中に君が出てくる映像みたいなものが入ってきた。……君がその、『主』って人を探しているんだって事も、分かる。でも、なんでそれを僕に」
「……緋羽には分かる、ただそれだけ。そして」

 つい、とまた指が伸ばされ、けれど今度は雅人をただ遠くから指差す。
 少女は感情の宿らない瞳のまま口を開いた。

「……力を持つ者、けれど抗う術を持たぬ者。汝には仇為す者へ揮う刃が要る。緋羽は盾と刃、主となる者を守護する為息を続ける者。吾はちから、それだけのもの。故に主を守護するだけの為、刃を持つ。汝、吾の刃を必要とする者か?」
「それって、僕に『主』になれっていう事なのか」
「否、否。緋羽は主を選ばず、主こそが吾を選ぶ。汝は選び、契約を結びし者」

 主。
 この言葉を最後に口にしたのは、もう何年昔だろうか。最後の主の命が途絶えてから決して口に出さなかった、たったひとつの言葉。緋羽が生きる意味を背負う者の呼び名。
 再び唇でその言葉を唱えるだけで、緋羽の瞳が誰にも気付かれない程僅かに優しくなっていた。

 雅人はそんな少女の変化などには気付かずにただ眉間に皺を寄せていたが、やがて苦しげに長い息を吐きながら、ふらりと立ち上がる。

「ごめん、頭が混乱してる。『主』云々とか色々起こりすぎてどうしたらいいか分からない。……ちょっと、ひとりで考えてくる」
「…………………」

 緋羽がこくりと頷いたのに「ありがとう」と返すと、雅人はそのまま幽霊のように障子の向こうへと歩いていく。
 その後ろ姿を見送ると、緋羽はふと視線を傍らに置かれたままの洗面器へと向ける。透明な水の中に沈むのは、白いタオル。そういえば、と緋羽は自身の額に手をやった。気を失っている間、どことなく額が冷たかったのを思い出す。きっとずっと少年はついていてくれたのだろう。
 視線を戻し、障子を見る。
 去ってゆく少年のそう大きくない背が明るすぎる月の光に浮かび上がったかと思うと、眩しく緋羽の目を打ち、そして消えていった。




 部屋から僅かに離れた縁側に腰掛け、夏の夜の温い空気を肌に感じながら、雅人はぴんと背筋を伸ばして遠くを見ていた。
 月に照らされた幻想的な庭も、今の少年にとってはただ視界を占める一部に過ぎない。いや、景色などもうほとんど目に入ってなどいなかった。視界すら狭めてしまう程に、少年の頭の中は混乱しきっていたのだ。

 不思議に過ぎる少女は言った、主となる者を護る者だと。自分が刃であり盾であるのだと、あの小さな身体で淡々と、そう言った。
 普通ならば無茶だと笑い飛ばすだろう、子供のつまらない冗談だと。
 しかし雅人にはそれを冗談とも無茶とも言えなかった。彼はその身をもって少女の、緋羽の力を知ってしまっていたからだ。
 突如現れた怪物にも眉ひとつ動かさずただ冷静に緋羽は対処し、喚びだした赤い剣によって文字通り両断した。その力はもう疑うべくもないだろう、少女の姿をしていたとしても、緋羽は守護する者として確かな実力を備えているように雅人には見える。
 次にもしあの怪物が現れた場合、緋羽の主となって彼女に護ってもらえばきっと難を逃れられるだろうという事は、先を読む力がなくともあまりに簡単に予測できるだろう未来だ。

 だが、それでも緋羽は少女だ。

「できるわけ、ないだろ…………」 

 この腕の中で崩れ落ちた緋羽の身体は驚く程に軽く、柔らかく、そしてほんのりと暖かかった。
 どんなに凄い力をその身に宿しているとはいえ、緋羽は少女だ。自分よりも小さな、少し力を入れれば壊れてしまいそうな程に白く華奢な腕。
 分かっている、少女は異形だ。少女の姿をとってはいてもただそれだけの話。だが雅人はそう知ってはいても、割り切る事は出来なかった。護ってもらう事が今の自分にとってきっと最善の事であるにも関わらず、それでもなお脳が拒否を続けている。

 自分の為に少女を戦わせる。
  
「そんな事、しない。僕は」

 だが拒否したところで何もあてがあるわけでもなく、むしろこれは降って湧いた幸運のようなものとも取れた。実際、緋羽に出会わずにあの怪物に出くわしていた場合、今頃自分はここに生きてはいなかっただろう。
 自分ではどうにも出来ない事象、それが雅人の胸の中をぎりぎりと締め付ける。
 
 一度恐怖を体験してしまえば、人はその再来を恐れるものだ。
 雅人とて例外ではなく、恐怖は今もここにある。
 だが脳裏に過ぎった気を失った少女の面影を思い出し、雅人は腹を決めた。


「……断ろう」

 
 そう口にして、雅人は立ち上がった。
 自分の恐怖より何より、自分を護らせるために少女を戦わせるなどという事が、少年にはどうしても許し難いものだったからだ。
 どうせ血に染まるのなら自分だけの方がどんなにいいだろう。
 そう思いながら踵を返し、もといた部屋への道を辿ろうとしたその時、



 空気が、変わった。


 
「――――――――――――え?」

 驚愕に瞳を閉じて再び開くそのほんの一瞬の間に、左の目が黒に染まる。
 全てを塗りつぶすような無粋な黒は、痛みを伴いながら雅人の目を侵食していく。黒目から白目から水晶体から視神経から何から何まで目という目を犯していく。

「あ、あぁぁああああああ……!!!!!!」

 ぎし、ぎしりと目にはあるまじき軋みがあがる。万力で締め付けられるようなそれに、雅人は喉から擦れた叫びをあげるしか出来ない。
 無事な右の目からは涙が溢れ、頬を伝ったそれはぽたぽたとどこか間抜けな音を立てて廊下に落ちていく。
 雅人は痛みを、そして頭をかき回されるような眩暈に堪えながら、ふらつく足をどうにか柱に寄りかかることで支え、視界を確保する為に涙を腕で乱暴に拭った。このまま倒れてしまえばどんなに楽だろうと思っていても、けれど近づいてくるある種理不尽な死の気配の前では、生きたいという欲求の方に逆らう事の方がよほど難しいだろう。
 涙に滲む視界を何度も擦り、顔を上げたその瞬間。
 
 ――――――――――そこに、鬼がいた。

 ぼんやりとした黒い塊は廊下の果てに佇みながら、じっと雅人を見つめているようだった。
 鬼、というのは語弊があるかもしれない。何故ならそれは一般的に言うであろう鬼の姿は決してしていなかったからだ。
 だが、雅人はそれを鬼だと本能の奥底で感じ取る。あれはただ悪意が、そして殺意が身体から噴出しているだけだ。本体はその中にいる。そう、少年の左目は淡々と事実を雅人に見せ付けていた。

「……………!!!!」 

 じり、と塊が動き出す。
 廊下の奥から雅人へと真っ直ぐに向かってくる。

 どうする、どうする、どうすればいい。何を、どうすれば。繰り返される意味のない言葉の自問自答。
 混乱が導く回答など実りがあるものでは決してないというのを理性では知ってはいた。だがもうそれ以外の選択は考えられなくなり、雅人はその通りに身体を動かす。つまり、駆け出した。
 
 雅人が第一に考えたのは、自身の無事ではなく家人の無事だった。
 ここには叔父が、そしてあの少女がいる。鬼の狙いがたったひとりこの自分であるならば、離れれば他の者に被害は及ばない。
 離れなければ。速く、速く、出来るだけ遠くへ!!

「っ!!」

 裸足のまま庭を駆け、門をよじ登りアスファルトへと飛び降りる。着地点にあった割れた瓶の欠片で足の裏を傷つけたが、そんなものは左目の痛みに比べたらどうという程の事でもない。点々と血液をアスファルトに残しながら、雅人は駆ける。何処へなど考えてもいない、ただ駆けて駆けるだけ。

 転んだ。
 むき出しの腕を擦りむいた。
 急ぎすぎていて角を曲がり切れずに、塀に足を擦った。
 皮がむけた。
 
 駆けるその度に傷が増えていく。けれど足は止まらない。ただ逃げ続けている今もなお、振り切れていないのが分かっているからだ。
 背後から迫り来る黒い脅威。
 それの気配に首筋の毛を逆立てながら、血の滲む足のまま雅人は更にスピードを上げていく。




 
 緋羽は素早く顔を上げて立ち上がり、たん、と障子を全開にした。
 首を左右に回しても、少年の影も形もない。その代わりのように廊下から香るのは、鬼の匂い。緋羽が事態を把握するのは、これだけの痕跡で十分だった。

「……………!!」

 背中に翅を展開し瞳を朱に染めた緋羽が、目にも止まらぬ速さで地を蹴り夜空に舞い上がる。その様はさながら幻のように美しかったが、もし少女の近くに誰かがいたとしたならばすぐに気付いた事だろう。
 汗に塗れた、蒼白な面を。





「ぐぁっ――――――――――」 

 足がもつれて道路に無様に倒れ込むのも、もう何度目か分からなかった。しかし傷だらけになってしまった腕で身体を支えながら、それでもなお雅人は走る為だけに起き上がろうとする。
 急がなければ、来てしまう。何が? 鬼が。どうして? どうして、こんな。けれど疑問を投げかける暇など雅人には与えられてはいない。駆けなければ。見つかったら、いや、追いつかれたら、それこそ――――――――

「!!」

 両手をついて起き上がろうとした体勢のまま、雅人は固まった。 
 点滅する安っぽい街灯の橙色の光が自分を照らしている、それは知っている。影が落ちているのも分かる。
 だというのに、どうして影が自分を覆いつくすばかりに大きいのだろうか?

「――――――――…………」

 鼓動が爆発しそうな勢いで跳ねているのを感じ、今度こそ雅人は指一本動かせなくなった。振り向くなどもってのほかだ。
 そうした瞬間に、自分の生は間違いなく終わりを告げる。


『振り向いたら、殺される』

 だが、同時に 

『このままでいたとしても、殺される』


 どちらにしろ最悪な結果を予測し、雅人は震える全身を止められない。
 ぶうん、と機械のような重低音が背中の向こうから響くのを聴き、どうしようもなく目を閉じたその時。



 がつ。



 響いたのは呆気ない程、鈍い、おと。
 
「――――――――――――――――?」

 次に響いたのは、どさり、という何かが落ちるおと。
 雅人の鼓動が、今までとは違うように跳ねる。
 恐れも何もかも忘れて、へたり込んだままただ後ろを振り向けば、
 
 そこには、少女が転がっていた。

「あ――――――」

 少年を護るかのように広げられた両手のまま、少女は仰のいて倒れている。
 白い額からは、どくどくと赤い血が溢れていた。その血は着物に、艶やかな髪に、そして未だ背中に広げられたままの蝶の翅に流れ落ちていく。
 淡々とした、絵画のような光景。
 だが、これが紛れもない現実である事は、伸ばした指が感じた少女の血の生温い温度が教えた。

「あげ、は……―――――――――――」

 主の契約などしていないというのに。
 断ろうとさえ思っていたというのに。
 何故。
 どうして、こんな。 

 再びぶうんと音が鳴り、雅人は顔を上げた。鬼は本体を現し、異形の口は何事かわけの分からない事をまくしたてながら、再びその手にした巨大な棍を雅人へと振り下ろそうとしている。
 だがそれがどうだというのだろう。ひどく凪いだ心で、雅人は思う。
 そう、それが何だというのか。

 こんな少女さえ傷つけて、血を流させて、そんな事などあってはならないというのに、こいつはそれをした。
 ……自分にしていたのなら、まだ良かった。許すも許さないも、なかったのだから。
 だが、これは違う。
 こんなのは、


 決して認めてはならない。


 鬼が何かを叫びながら棍を打ち下ろしてくる音が聞こえたが、雅人はそれにもかかわらず顔を上げた。
 自ら打たれようとするようなその仕草に一瞬鬼は笑ったが、しかしすぐに表情は驚愕のそれに取って代わられる。
 
 少年の左目に送り込んでいた筈の瘴気が、いつのまにか消え去っている。いや、それだけではなく、瞳の奥底から何かがやってくる。白色のそれはまるで少年の瞳が世界そのものであるかのように眼球の中をうねり、徐々に大きさを増していく。
 鬼は振り下ろそうとした棍を、いつのまにか取り落としていた。しかし鬼はそれにすら気付かないまま、巨体を震わせて少年の瞳に捕らえられている。

 瞳の中で歯車が噛み合い、瞳そのものがひとつの大時計のように複雑な歯車で結ばれ、組まれた。
 雅人の頭の中に、工場が広がる。幾重にも組まれた歯車を前にして、けれど少年は全く動じずにその工程を現した。


 ――――――――ガコン。

  
「……なんてこと、したんだ」

 力有る瞳に怒りという名の熱をたぎらせ、少年は呟く。
 瞳の光はもはや色など識別できない程に輝き、けれど鬼はそれから目を離す事が出来ずに苦悶の声を夜闇に響かせた。人ならざる者の恐慌の叫び。それは人の魂など簡単に恐怖へと陥れるだけの力があるというのに、けれど雅人はそれを耳にしてもなおきつく、きつく鬼を見つめていた。
 
「この子は関係ないじゃないか。……なのに、お前は」

 鬼の恐慌が激しくなる。
 比例するように、瞳の光も増していく。歯車がぎしぎしと動き、力への道、門を塞ぐ閂を引き抜いていく。


 ――――――――ガコン。


 全てが噛み合った完全な歯車は、少年の心のままに力への道を繋いだ。



「お前はああぁあああァァ――――――――――――――――っっっ!!!!!!!!!!」



 完全な『白』。
 何もかも、街灯もアスファルトも家々も木々もそこにある全てのものがただ白く染められる。鬼は何も言わない。いや、口すら開けはしなかった。苦悶の叫びをあげる間もなく、その命は紙のように握り潰されていたのだから。
 全てを飲み込んだ輝きは風を起こし空へと舞う。それは煌々と光る月へと昇り、吸い込まれるようにして輝きを消した。
 




 「あ……」

 溜め息のような声が、知らず知らずのうちに雅人の口から漏れる。月の下、アスファルトにへたり込んで緋羽をその腕に抱えながら、少年は光が消えた空を見上げてあえぐように呼吸をした。
 助かったというその事実はあまりに唐突で、少年はただ呆然とする。悪夢のような光景だったが、そんな考えなどすぐに消えた。後に残ったこの腕の中に倒れ伏す少女と、今更ながらに疼くこの身体に刻まれた傷の痛みだけが、全てが紛れもない現実だったのだと声高に叫んでいたからだ。
 雅人は弾かれたように視線を下へと向け、頭から未だに血を流し続ける少女を見つめながら痛い程に唇を噛みしめる。

「あげ、は……、緋羽!! どうしてこんな事したんだ!! 君が僕を護る事なんてないのに、契約なんてしてもいないのに……!!」

 微かに身じろいだ緋羽がゆらり、と血に濡れた黒髪が揺らしながら瞳を開き、雅人をその視界いっぱいに映す。
 黒く大きな瞳の脇に、流れる血を清めるような透明の雫がひとつ、ふたつと落ちた。
 零れ落ちるそれに何を思ったのか、緋羽は止め処なく雫を溢れさせる少年の瞳へと白い手のひらを伸ばし、そっと頬を包み込んで呟く。
 
「緋羽は、護る、から」
「…………え?」
「護る。主たる、ひとを。ずっと、探してた。然し、緋羽はいま、力足りず。故に――――」

 故にこの身を、盾にした。

 雅人は呆然と、少女が淡々と、けれど苦しげに語るのを聞いていた。
 そして少年は思う。何としてもこの少女を、緋羽を、助けるべきなのだと。それがこの命を救ってくれた少女に対して、自分が出来るただひとつの事だった。
 少年は涙を無理矢理飲み込んで、緋羽へと問いかける。 

「力が足りないって……どうして」
「緋羽は、主よりちから授かりしもの。けれど、永きに渡りこの身に主なく、残りし精もまた僅か。それ故に、此処まで飛ぶことしか、出来ず」

 雅人は『主』という単語を聞き、僅かに身を竦ませた。

「『主』…………」
「吾が身は主、在りて、初めて意味を持つもの。だから」
「……あ」
 
 彼女は自分が『主』の資格があると言っていた。
 だがここで自分が決断してしまえば、この少女は『主』の為にと、もし先程のような怪物が襲ってきた時には何の躊躇いもせずに前に立って、自分を護ろうとするだろう。
 そんな事は出来ない。
 けれど、緋羽は『主』がいなければこのまま死んでしまうだろう。一体、どうしたら――――

「――――っ、考えてる場合かっ!!」

 頭を一振りして、雅人はごちゃごちゃとする思考をまっさらにした。
 先の事など考えてもしょうがない。自分が最も望むべき事、それだけを考えなければ。
 そして雅人自身が今、望むのはたったひとつの事だった。

「緋羽」

 しっかりと瞳に力を込めて、迷いのない顔で雅人は言う。

「僕が『主』になる。それで君を助けられるのなら、僕はそうしたい」

 ひゅう、ひゅうと細い呼吸を繰り返していた緋羽は、黙って雅人の瞳を見た。そこにはたったひとつのもの以外は何も存在してはいない。
 ただそこに在ったのは、決意。
 緋羽はほんの少しだけ柔らかく瞳を細めると、自分の手をすっぽり包み込めそうな雅人の手を取って額を指し示す。

「其の血で、緋羽の額に『令』と。其れこそが、吾と、君を、繋ぐ橋」

 雅人は深く頷き、自身と緋羽の血に汚れた指先をそっと少女の額へと伸ばすと、白いそこに鮮血の文字を描いた。
 文字の最後。指が真っ直ぐに線を引き降ろせば、まるで血液が熱を持つかのように薄く輝きを発し始める。それは雅人が初めて緋羽を見た時の赤に似ていた。透き通るような赤は血の色にも炎のそれにも当てはまらず、ただ緋羽の色として、この世界にたったひとつだけ存在しているかのようだった。
 
「血の誓いは、いま此処に」

 緋羽の唇が、高らかに告げる。




『緋令の契約を以て守護の誓いと為す‥‥主の名と命のもとに吾が身を捧げん』



 
 誰も歩く者のいない沈黙のアスファルトの上で、今、ひとつの契約が交わされた。
 
 身体の、いや心の先に何かが繋がった感覚に思わず瞬きをすれば、雅人の腕の中で緋羽の傷が徐々に塞がっていくのが見える。
 これからまだ先に何があるかは分からない。もしかしたら、この選択を悔やむ事もあるかもしれない。だが雅人の心はそれでもどこか晴れやかだった。

 自分を見つめる少女の瞳が安らいでいるのを、この目が確かに感じていたから。 





END.