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『桜の咲く頃』
------<オープニング>----
「ちょっと、さんした君!」
と碇麗香の声に呼ばれて、デスクへと向う。彼女がこの口調で自分を呼ぶ時には、無理難題を吹っかけられる時と決まっている。
「これ、読んで頂戴」
と言って渡された手紙の文面だけを見て、三下は絶句した。
「Hello my name is jakoburefu」
何だ、これは?
「へ、ヘロウ……。いや、ハロウ。まいねーむいずじゃこぶれす?」
目を白黒させて汗を流しながら、流暢とは程遠い発音で三下は最初の一文を読み上げる。 「ヤコブレフでしょ? 何、読めないの?」
鋭い視線が突き刺さる。三下忠雄は汗を拭きながら、恐る恐る頷いた。
「む、無理です。英語なんて読めませんよ。勘弁してください」
「まったく、何やらせても役に立たない奴ね」
碇麗香本人は呟いたつもりであろうが、どうひいき目に見ても聞こえないように言っている風には思えない。
すがる様な目つきで上目遣いに自分を見る部下に、碇麗香は溜息をついた。
「いいわ。誰か英語の出来る人間を連れて行きなさい」
「へ?」
と三下忠雄は鳩が豆鉄砲を食らったような間抜けな顔をした。
「だから、チャンスを上げるからこの依頼をきちんとこなして見せろと言ってるの。誰でもいいわ、さんした君、あなたがアシストするの。分かっているわね?」
「……はい」
という事は、やはりこき使われるのだろうか?
「もう、アポイントメントは取ってあるから、時間通りにその場所に行きなさい
分かったわね?」
情けない表情のままの三下忠雄は、恐る恐る、聞く。
「あの……怖い事は起きませんよね?」
碇編集長はにっこりと笑った。
「ええ。この依頼を失敗させたりしたら、保証の限りじゃないけれどね」
彼女の笑顔は、間違いなく女神の贈り物だった。ただし機嫌を損ねたら最後、悪魔とは比較にならない罰を受ける羽目になるだろう。
三下忠雄は冷汗を拭いながら、同行者を探す為に碇編集長の前を後にした。
手紙の内容です。
「こんにちわ。私の名前はヤコブレフといいます。ロシア人ですが、今はアメリカに住んでいます。突然ですいませんが、どうか私の願いを聞き届けては頂けないでしょうか?
私は以前、日本にいた事があります。捕虜として。ずっと昔の話です。もう誰も覚えていない昔、戦争があった頃の話です。
最近、夢を見ます。当時の夢です。恨みやつらみの夢ではありません。ただ、たった一つの場所が繰り返し繰り返し夢の中に現れてくるのです。大きな樹のある場所です。見事な花を咲かせる、あれは桜の花でしょうか……。どうかその場所を探して頂きたいのです。私も老い先短い身。最後になってこんな夢を見させるのは何なのか、何故こんな夢を見たのか。それを知りたいのです。よろしくお願いします」
<ライターより>
この手紙の依頼主と共に、夢の中に出てきた場所を探して下さい。そして何故こんな夢を見たのかを依頼主より聞き出して、哀れな三下君に教えてあげて下さい。彼が良い記事を書けるように。
英語を話せるか話せないか、書いていただけると助かります。
どのようにして場所を探すか。(聞き込み、何処で調べるか、誰に尋ねて回るか、例えば市役所など)を書いてもらえると、探しやすくなるはずです。
よろしくお願いします。
<天下御免の元気印>
「さ、行きましょう! 三下さん」
事務所の建物を出るなり、八木さつきは天から降り注ぐ陽光に決して劣らない明るい笑顔を振り撒いて、三下を振り向いた。片手は微妙にガッツポーズ。
「……あの、」
そんな元気一杯の彼女とはまるで正反対に、三下は浮かない暗い表情でしかもやや上目遣いにさつきを見る。
「どうしたの三下さん。元気ないよ?」
「あの、ですね。私、ミノシタなんですけど……」
さつきは一瞬気まずい顔をした。碇麗香がそう呼ぶものだからてっきり「さんした」だとばかり思っていたのだ。
「で、でも、何となく格好いいですよ。ほら、悪者の手下みたいで──」
言ってしまってから、自分が失敗した事を自覚したがもう遅い。口から出た言葉というものは引っ込まないものだ。ここで失敗を笑い飛ばしてしまえばいいようなものなのだが、どうもその辺りの駆け引きがさつきは苦手だった。完全に引き攣ってしまった笑顔に三下の悲しげな視線が突き刺さる。
言葉に困って「あは、あはは」と、とりあえず笑ってみるさつきの目にふと時計の時間が映った。
「あ、三下さん! ほら、急がないとヤコブレフさん着いちゃいますよ!」
かなり強引に話を転換させて、さつきは三下の手を引っ張った。近くのタクシーを呼び止める。結局呼び方は変わらずじまいであった。
<ナイストゥ ミーチュ?>
「な、ナイス トウ ミート ユウ?」
緊張のあまり語尾が上がってしまい、意図したものとは違う挨拶になってしまった事に気がつくはずもなく、さつきは老紳士にぎこちなく手を差し出した。通じるかどうかもわからないたどたどしい英語であったが、グレーのスーツに身を包んだ老紳士は緩やかに頬の皺を緩ませ、優しげに微笑んだ。
差し出された右手を必要以上に固く握り締め、さつきは嬉しさを隠そうともせずに喜びを笑顔で表現した。
その時になって、三下はふと一つの疑問に思い当たってさつきの肩をつつく。
「あの、さつきさん。もしかして、英語話せないんじゃ?」
恐る恐る訊ねる三下を振り向いて、さつきは胸を張った。
「学校の先生とは何度か挨拶した事がありますよ! アーシェラ先生っていう美人の先生で──」
「という事は、その先生以外では……」
「はい。初めて外国の人と話しました! ちゃんと通じたのがもう、嬉しくて嬉しくて!」
テンションとボルテージが上がりっぱなしのさつきに反比例するようにして、三下は先行きの不安に気が重くなった。言葉も通じない外国人を相手に、どうやって取材をするというのか。
いや、仮に何とかなったとして。どうやってそれを記事にするのだろう。碇麗香の姿が一瞬脳裏に浮かんで消えた。後に残るは闇ばかり。
さすがのさつきも、明らかにどんよりとしてしまった三下の雰囲気に気がついて、その肩をばんばんと叩く。
「嫌ですよ、三下さん! もう、大丈夫ですってば! 元気出していきましょうよ。ほら、これだってあるんです!」
といってさつきが出したのは、英語の辞書だった。せめて英会話の本なら良かったかもしれないが、そんな物を片手にどうしようというのか。元気が出るどころか益々暗くなってしまう。晴れ渡った青空がやけに白々しく見えた。
どうにか飛行機に乗り、目的地であるI県へと向ったまではいいが、何せ最大の問題は言葉が通じないという事だった。身振り手振りで通じ合えるのにも限界がある。ましてや、何かを探さなくてはならなくて、しかもそれがどこにあって、今はあるのかどうかもわからなくて、しかも当時あった場所すらもわからないというないない尽くしの状態では、決して展望は明るくなかった。
より正確にいうのなら、絶望的だと言っていい。
にもかかわらず、妙に元気一杯で明るいさつきの姿はどう見ても何も考えていないようにしか三下には見えなかった。再び碇編集長の憤怒の表情が脳裏に浮かんで、消える。
空港に降り立ち、そこからタクシーでK市の市内へと向う。国道を避け、敢えて白山連峰の山々を望む広域産業道路を走ってもらったのには理由がある。
当然といえば当然だが、この国が四十年という間に激変してしまったように、街の中の風景も時間の流れに見合った劇的な変化を遂げてしまっている。
ヤコブレフ氏がかつて見た光景はその一片すらも残っているはずもなく、飛行機を降りるなり、老紳士は落胆の色を隠せなかった。
それで少しでも「昔のままの風景が残っている場所を通ろう」とさつきが提案したからだった。
「ドゥ、ユー、リメンバー、サムシング?」
窓の外を眺める老紳士に、さつきは一度となくそう聞いたが、一度も首を縦に振る事はなかった。
確かに、この光景は懐かしいものがある。しかしそれは当時の懐かしさではなく、街中を離れた田舎の光景の懐かしさ、つまりは郷愁ゆえの懐かしさだった。
それでもこの山々は見たような気がする。遠い昔、護送されていく最中に盗み見た光景に似ているような気がしないでもない。
サツキと三下に先立って、編集長の碇麗香はある程度の事を調べてくれていた。
かつてこのI件のK市には軍港があり、そこには何かしらの収容所があった事は間違いがない。しかし、公式な記録も正確な記憶も残ってはいないのだ。
飛行機のチケットを取り、大体の案内をした他は現地組に任せるしかない。
「あっ、そうだ!」
両手をポンと打ち合わせて、さつきが素っ頓狂な声を上げた。思わずヤコブレフ氏も窓の外を見るのを止めて彼女を振り向く。
「実はこれを持ってきたんですよ」
ジャーン。と口で効果音をつけながら、さつきは数枚の写真を取り出して目の前に掲げた。ヤコブレフ氏がそれを覗き込むように見る。
「チェリー・ブラッサムズ」
老紳士の目元の皺が少しだけ深くなった。
さつきが持ってきたのは、数枚の桜の樹の写真だった。
「夢でよく見るって聞いてたから、これを見たら何か思い出せるんじゃないかと思って」
とさつきはにっこりと微笑んだが、直ぐに「あっ……」という顔になる。日本語で言っても通じるはずもないと気がついたからだった。
「え、えっと。ゆ、ユー、ウォッチ、サム、ピクチャーズ。えっと、ホワット、リメンバー、エニシング? あれ、サムシングだっけ──」と慌てて辞書を開く。
恐ろしく片言の英語で言いながら、さつきは目まぐるしく表情を変化させた。
その慌てるさつきを見ながらも、老紳士は写真を見、静かに首を振る。
「イッツ、ビューティフル。バット、アイム、ノー、アイデア」
ヤコブレフ氏の言う事は理解できなかったが、写真が役に立たなかった事ぐらいは理解できた。
さつき自身、この場所に明るいわけではない。それがより一層調べるのを困難にさせてしまっている。何かいい手はないものだろうか?
碇麗香から聞いた話では、ヤコブレフ氏は収容所の中で桜の樹を見たという。となれば、まずはその場所を調べるに限る!
「ねぇ、運転手さん。この辺りに、収容所ってありませんか?」
「しゅ、収容所?」
と驚いた顔をして、声を裏返りさせつつタクシーの運転手は思わず振り向いた。それから、慌てて自分が運転中だったことを思い出して前を向く。
とんでもない事を唐突に聞かれるものだから、泡を食ってしまったのだった。
これは聞いた方も悪い。半世紀も前ならともかく現代にそんな物が堂々とある方がおかしいというものだ。
「あ、ごめんなさい。えっとその、もともと収容所があった場所って知りませんか?」
自分がとんでもない質問をしてしまった事に気がついて、直ぐに質問を訂正する。
それから事情を説明して運転手に理解を得ると、「何の事かと驚いたよ」と苦笑された。
「すいません。あたし考えたら頭の中で整理する前に口に出しちゃう癖があって……」 ぺろっと舌を出しながら、さつきは自分の頭をグーで上から小突いてみせる。
「しかし、収容所跡ねぇ」と運転手は首を捻った。
それらしき場所は聞いた事はないが、外国人の慰霊碑がある場所なら知っているという事で、市内をそのまま横切り山一つが丸ごと墓地になっているという野田山に向う。
その野田山の中腹に車を止めて向った先、そこに巨大な石碑が建立されていた。
「ロシア人戦没者慰霊碑」と銘打たれた石碑を前に、ヤコブレフ氏が表情を曇らせる。
広大な墓地の一角に聳える慰霊碑。しかし、周りには桜の樹など見当たらない。辺りをグルリと見回す氏の表情にも、明らかにここではないという意味合いの色が浮かんでいた。
<記憶と記録に残るもの>
言葉の通じないヤコブレフ氏に何とかコミュニケーションを取ろうと努力してみたものの、やはりジェスチャーだけでは無理があるようで中々に会話ははかどらない。言葉の伝わらないもどかしさを感じながら、それでもと図書館に足を向ける。とにかく当時の資料か何かがあれば、少なくとも場所ぐらいは何とかなるだろう。
「……わからないんですか?」
落胆の響を隠そうともせずに、さつきは窓口に座る図書館員にそう言った。
正確に言えばわからないわけではなかった。ただ資料の多くは閉架書庫の中にあり、それも今さつきたちがいる市立の図書館ではなく県の図書館にしかないとのことだった。しかも閲覧には事前の許可が要るという。
事情を説明したところでわかってもらえるはずもなく、さすがのさつきの表情も暗くなってしまう。けれど、自分が落ち込むよりもっと辛い人物がいるのだと言う事に思い立って、さつきは振り向いて無理に笑顔を作った。
待たせてあったタクシーの所に戻り、わからなかった事を告げると運転手も怪訝な表情をした。
「その場所というのは、その外人さんにとって大事な場所なら、何か理由があるんじゃないのかね?」
そうだ。それはわかる。けれど、それをどう聞いて善いのかがわからなのだ。さつきはヤコブレフ氏を見て、自分の手の中にある辞書を握り締めた。どうしようもなく悔しい思いが湧きあがってくる。何とかしてあげたいのに、言葉一つ通じない。かけてあげたい言葉すらも自分にはわからない。
考えれば考えるほどに考えが頭の中をグルグルと巡ってどうしようもなくなってしまう。ちょうどあの時と同じだった。お父さんが死んでしまった時と。自分がとても無力で小さく感じてしまった。何もできない事がとても悔しかった。だから今、こうやって誰かの為に出来ることを探している自分がいる。
一人項垂れるさつきに、三下も言葉がない。
「なるほどね。そういう事か。だとしたなら、あそこしかないが……」
「ドゥ、ユー、ノウ、エニシング?」
「アイ、ハブ、グッド、アイデア。レッツゴー、トゥギャザー」
少しだけ離れた所で交わされるそんな会話を耳にして、さつきは目を丸くした。思わず駆け寄って、運転手の腕を掴む。
「あ、あの。今、何を?」
「ああ、。今この方に、何か場所を特定するような事を知っていないか聞いてみたんだよ」
「え? ……え?」
意味のない音だけの言葉を口から漏らして、さつきは運転手とヤコブレフ氏との間で視線を行き来させた。
「もしかして、英語話せます?」
と聞いたのは三下忠雄の方が先だった。表情に期待の色がはっきりと出ている。それを見て運転手は苦笑気味に答えた。
「いやいや、口に出しているだけだよ。仕事柄、必要な事もあるんでね」
と言いながらも、「英会話MOVA」と書かれたパンフレットを出して見せる辺り、かなりお茶目な運転手だった。
「た、助かったぁ〜」
と口に出したのは、三下ばかりではない。さつきも一緒になって半ば涙目で二人して手を握り、うんうんと頷き合う。
移動する場所は街中から少しだけ離れた所にある自衛隊の駐屯地だった。意外な場所にさつきは目を丸くする。
「あの、どうしてこんな所に?」
その質問は、どうやらヤコブレフ氏も同じようだった。
「いやね。以前、調べてみた事がありまして。ほら、仕事柄いろんなお客さんを乗せるでしょう。その時に移動の際の話題にと思いまして」
確信があるわけではないと前置きがあった後で教えてもらったのは、この場所に以前何かしらの施設があったという事だけだった。詳しい事は不思議な事にどの資料にも載っていないのだそうだ。その事から、あまり公にして利益のあるものではないと推測していたらしい。
「収容所ってそんなに悪い所なんですか?」
さつきもその名前に該当する物の名前ぐらいは知っているものもある。確かドイツにあったとかなかったとか。とにかくそれほど詳しくもないし、知っていなくてはならない事でもなかったからさして気にした事もなかった。
「まあ私も実際には見たこともないし、もちろん経験した事もないから、本当は分からないよ。けれどね、人間が正当な理由もなしに酷い目にあわされたり、殺されたりする場所の事だから。観光地のこの場所には良くない場所なんだろうね」
だからといって、ない事にしてしまっていいわけがない。そんな酷い事なら尚更だ。それなのに。
その言葉にさつきは言葉もない。自分の知っている現実とはかけ離れた世界での話の様に聞こえる。実感としても、想像としても今一つ、理解できないのだった。
しかし問題はこの事実をどう確認するかと言う事だ。
いくらなんでも突然中には入れてくれないだろうし。
難しい状況である事はわかっているがせっかくここまでたどり着いたのだから、何とかして中に入りたいものだ。小難しい表情て一人腕を組むさつきはふと、直ぐ横にいるヤコブレフ氏の表情のおかしい事に気がついた。ずっと温和な表情をしていた老紳士の視線が厳しいものになっている。視線は険しく、口元がわなわなと震えているようにも見える。
「エクスキューズミー?」
恐る恐る訊ねるさつきに向って、老紳士は過敏に反応して振り向いた。そのあまりの表情の険しさに、さつきは無意識に身を引いてしまう。
『ここです。ここに違いない。私は夢で見た。あの樹が呼んでいるんです。そうだ、ずっと呼んでいたんだ。私達が苦しむのを見続けていたあの樹が!』
早口の英語はとても理解できず、さつきはただただ突然のことに驚いて戸惑うばかりだった。思わず運転手の顔を見る。しかし「よくわからなかった」と言われただけだった。
突然、さつきはヤコブレフ氏に両方の肩を掴まれた。
『お願いです。中へ入れるようにして下さい。あの樹が呼んでいる。彼は怒っている。悲しんでいる。私に、助けを求めているんです。私は行かなくてはならない!』
まったく理由もわからないままに、ただ老紳士の剣幕に気圧されてさつきは「え? え?」と繰り返した。
老紳士が何かを望んでいるのはわかるのだが、何を言っているのかがさっぱりわからない。
「プリーズ!」
その懇願の叫びでさえも混乱のあまりにわからなくなって、さつきは悔しさのあまりに目尻に涙を浮かべた。せっかくここまで来たのに、何も出来ない自分が情けない。
「ごめんなさい。ごめんなさい。でも、わからないの。何を言っているか、わからない。私何も出来ないよ。……ゴメン」
掴まれた両肩に強い力を感じながら、さつきはぎゅっと目を閉じた。滲んだ涙が頬を伝い、顎の先から雫となって胸のペンダントに落ちた。父親から最後に貰ったプレゼントだった。濡れたペンダントが陽光を浴びてキラリと光る。
不意に拍子に胸のポケットに入れていたメモ帳が落ちて、ぱらぱらと白いページがめくれた。するとそこに、誰が書いたわけでもないのに魔法陣が浮かび上がってくる。
さつきは不意に握り締めた掌に固い感触を感じて目を開いた。いつの間にか手に父親の形見である日本刀が召還してもいないのに握られている。その刀身が小刻みに震えてカタカタと音を立てた。
「え? 何」
ようやくそこで地面に落ちた自分のメモ帳に気がついた。突然泣き出してしまったさつきに驚いて手を離したヤコブレフ氏の前で、メモ帳を拾う。
「私、何も……」
呟くさつきの声に反応するように、魔法陣が光る。すると声が聞こえた。それはヤコブレフ氏の声だった。さっきの言葉、その言葉の意味が今度はちゃんとわかる。
「守護霊が、教えてくれるの?」
聞いた事がある。言葉の壁は霊体になってしまえば取り除かれると。心を伝え合う会話では言語の違いは超越される。それが例え、人間でなくとも。
「分ったわ! 行きましょう、ヤコブレフさん!」
魔法陣が光る。言葉は、老紳士にも通じただろう。
「ちょっ、ちょっと待ってください。どうやって中に?」
二人の後を、慌てて三下が追う。その様子を見ながら、一人残された運転手が「どうなっているんだ?」と首を傾げた。
物騒な物を片手に捧げ、さつきは老紳士の手を引いて自衛隊の地駐屯地へと向っていく。ややこしい事態になるのは目に見えていた。
泡を食った三下がどたどたと追いかけるその先で、それは起こった。
さつきの肩に、いつの間にか二羽の小鳥が止まっていて、門に近付くと小鳥はそれぞれ歩哨の元へと飛んでいって彼らの肩に止まる。
「ご苦労様です」
さつきが通るのに合わせて二人は敬礼をし、三下が同じようにして通ろうとすると「誰だ?」と無情にも止められてしまう。何が何だかわからない内に、二人と逸れてしまった三下は、悲しげな顔でさつきの後姿を見送った。
それは式神が織り成す人払いの結界だった。むろんさつきはこんな事が出来るはずもない。式神を召還する事は出来ても、ここまでの使役にはまだ到達していなかった。
「これは一体?」
驚くヤコブレフ氏に、さつきは困ったように笑って見せた。
「あたしにも良く分らないんです。でも、お父さんがこうすればいいって教えてくれたから」
言いながらさつきは手にした刀に視線を落す。
「お父さんの形見ですか?」
さつきは頷く。それ以上は必要なかった。言葉はもう必要はない。さつきには老紳士の心が痛いほどわかる。理解できるというのではない。ただ、わかる。
この場所で過去、何があったのか。
ヤコブレフ氏を護る大いなる力が教えてくれた。
戦争で捕虜となり、この場所で死ぬ事の方が楽だと思える酷い仕打ちを受けていた事。そしてその苦しみを乗り越えさせてくれた、偉大なる存在の事を。
一年に一度だけ素晴らしい花を咲かせる桜の樹。
一年を耐え忍び、一瞬だけの美を繰り返す。
その姿は、囚人達をどれだけ励ましたか。
それは言葉では到底表す事はできないだろう。
唯一つだけ、その偉大さを表す言葉があるとするならば。
「主よ」
ヤコブレフ氏は、その桜の樹を前にしてそう呟いた。そのまま枯れかかった桜の樹の前へと跪く。
駐屯地の隅の方。ほとんど目立ちもしない場所に、在る桜の樹は枯れかかっていた。確かに老木ではあるが、ここまで枯れてしまうほどではないはずだった。見るも無残な姿になってしまっているその理由は、一つだけだ。
「この樹は私達の苦しみを代わりに受けてくれたんです。そうしていつかこの苦しみが癒される日を待ってくれていた。それなのに……」
そう。それなのに、ここの人達は過去を忘れ、隠し、苦しみは癒されないままに積み重なって──
項垂れるヤコブレフ氏の横に立って、さつきは父親の形見である刀を抜刀した。
「私、戦争は知りません。どこかの国で起こった争いはテレビで見て知っているけれど、戦争の理由までは全然考えもしませんでした」
いつもは愛らしい表情は引き締められて、凛とした緊張感を漂わせている。何も考えなくても、何もしなくても、世界は動いている。毎日は過ぎている。自分は父親の事ばかりを考えてずっと、その死の理由を考えてきた。けれども、それは間違っていたのかもしれないと思う。もしかすると、もっと広い視点で、もっと違う見方をしないと本当の理由は見えてこないのではないかと思う。
人が争い、傷つけあう。
その理由。
たった一人の小さな想いだけではきっと抱えきれないその理由は、もっと多くの人間が理解してあげようとする事できっと理解していけるはず。
さつきは胸元に手をやってペンダントに触れる。
きっとこれはお父さんからのメッセージなんだ。
「誰がやったのかはわからないけど、この場所には結界が張られているみたいです。このせいで、真実が外へ伝わらない」
みんなにもっと知ってもらわないといけない。過去にあった過ちは、それを知る事でのみ購われる。知らない事は罪を上塗りするだけ。
「あたしが、断ちます!」
さつきは両手で刀を握り締め、桜の樹の前に立った。
この樹は無念を晴らす為に、ヤコブレフ氏を呼んだのだろう。彼らの苦しみを助けた代わりに、今度は自分の無念を伝える為に自らの意思を継いで生き延びた子供達を呼び寄せた。
今は枯れかかってしまっている桜の樹に、さつきは父親の事を重ね合わせていた。突然いなくなってしまったお父さん。けれどその想いと意思が、ちゃんと自分には伝わっているだろうかと。
「えいっ!」
という気合の声と共に、さつきは上段に構えた刀を振り下ろす。何かを寸断する手応えが確かに在った。
「ああッ!」
瞬間、さつきは目を疑った。
目の前に立派な桜の樹が突如として姿を現したからだった。
蒼穹の空に枝葉を張り出し、薄紅色の衣を纏った姿で。
風に舞い散る花弁が麗しく、芳しい花の香りを振りまいている。
「嘘……」
あまりの事に呆然と佇んで、さつきはヤコブレフ氏を見た。老紳士もまた突然の出来事に言葉を失っている。だがさつきと目が合うと驚いた顔に満足げな笑みを浮かべて、ただ一言「ガッデス、ビューティフル(女神のような美しさだ)」と呟いた。
さつきは跪いたままのヤコブレフ氏に手を差し出す。老紳士はその手を固く握り締め、ゆっくりと立ち上がった。
「主は言われた。全てを許しなさいと。私は再び彼に出会えた。ありがとう、お嬢さん。私は、今日の事は死ぬまで忘れない」
桜の樹を見上げ、老紳士は満足げに二度頷いた。
まるでそれが終わるのを見計らったようにして、桜の樹は消え失せてしまう。後には枯れた古木だけが残った。
「あっ……」とさつきが寂しげな声を上げる。しかし、老紳士は微笑を消さずに一度だけ大きく首を横に振った。
「命は死して何かを残す。大切な事を伝える事が、生きていると言う事なんですよ。あなたにもいずれわかる時が来る」
ヤコブレフ氏の言うように、さつきにはまだ分らない。老紳士の言葉の意味はまだ難しかった。
その時どこからか声が聞こえたような気がして、それでさつきはひとつの事に気がついた。思わず口から「あ゛──」という奇妙な音が漏れる。
「ヤコブレフさん」
もう老紳士の心の声は聞こえない。
しかし、これだけは伝えなくてはならない。
遠くから聞こえるのは、決して好意的なものではない事は間違いない。
なぜなら、結界が消えてしまっているからだった。
「逃げましょう!」
言うなり、さつきはヤコブレフ氏の手を引っつかんで走り出す。
「オー、ノー!」
という老紳士の声が響いた。
<一難去って……>
報告書ならぬ記事を見て、碇麗香は片方の柳眉を器用に上げて見せた。
記事の後半はいかに自分達がこっ酷く自衛隊員に絞られたかが連ねてある。前半はそこへたどり着くまでの紀行文形式だ。風景が綺麗でどうのこうのと無駄な文が多い。
「それで、肝心の部分はどうしたの、三下くん?」
肝心の部分とはつまり、さつきとヤコブレフ氏が駐屯地の中で目にした光景の事であるわけだが、当然締め出しを食らった三下忠雄が見ているわけもなく……。
「ホォ〜。中には入れなかったから見られなかったと、そういうわけね」
優しげに笑みを浮かべる碇麗香を前に三下忠雄は半歩、更に半歩と後ろへとにじり下がった。
「そんな言い訳が通用するか! 根性見せて突入せんかいッ!」
「ヒィィィィィィッッ、お許しを〜〜〜〜ッッ!」
碇麗香の足元に踏みつけられつつ、三下忠雄は情けない悲鳴を上げて蹲った。
アトラス編集部のいつも通りの、平和な午後の光景であった。
〜了〜
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【3413 / 八木 さつき / 女 / 17歳 /学生 】
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■ ライター通信 ■
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八木さつき様。はじめましてライターのとらむです。
今回はご依頼頂きありがとうございます。
仕上がりが遅くなってしまいまして申し訳ございませんでした。
初のご依頼という事で、緊張しつつ書かせて頂きました。
果たして魅力を十分に引き出せましたでしょうか?
愉しんで頂けたなら幸いです。
またのご依頼をお待ちしております!
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