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<東京怪談ノベル(シングル)>




 何処かで、音楽が鳴っているような気がした。
 そして、その音のほんの僅かな隙間に、何処かで時計が時を刻んでいる音が聞こえた。
「…………」
 それまで意識を自分の裡深くに沈め、文字通り死んだように眠り込んでいた俺は、無言のまま双眸を開いてから、またゆっくりと、その眸を閉ざす。
 それ以外の身動きをするのが、酷く億劫だった。指先一本すら、動かしたくはない。冬の寒さの中、室内とはいえ暖房もつけずにじっとしていたから、かじかんでいるのかもしれない。
 しかし……一体自分は、どれくらいここにこうしているのだろう。
 ぼんやりと、少しまともに働き出した頭を動かし、机の上にある置時計を見ようとした。が、その途中、自分が何かを抱えている事に気づき、視線をそのまま腕の中へと落とす。
 硬い、箱。
 硬く、冷たい、箱。
 ……独特の緩やかなカーブを描く、その箱は――。
 師が残していった、名の知られたモダンヴァイオリン――ジュゼッペ・アントニオ・ロッカ。
 それが収められている、ヴァイオリンケース。
「……っ!」
 認識すると同時に、酷くそれが恐ろしいもののように思え、思わず投げ出しそうになったが、随分長い間それを抱きしめていたのだろうか……腕が強張り、思う通りに動けなかった。
 まるで、腕がそれを放り出す事を拒絶しているかのようだ。

 ――どうして?

 また、自分を置いて行った人が残した物なのに?
 また、置いて行かれたのに。
 また、棄てられたのに。

 まだ、縋るつもりか?
 何度裏切られれば分かるんだ?
 期待するから、裏切られるのに。
 期待したから、裏切られたと感じるのに。
 期待しなければ、裏切られる事もないと分かっていたはずなのに。

 ホントウハ、ダレモオレノコトナンカイラナイト、ワカッテイルノニ。

「――……っ!」
 防音壁に守られ、何の音も聞こえないはずの室内に響くその声に、思わず両手で耳を塞ぐ。そして、身を縮めた膝の上に冷たい箱を抱えたまま強く目を閉じ、両足を抱え込むように身を縮めて左肩を右手で掴んだ。
 ……そうだ。
 俺は、分かっているのだ。
 期待してはいけないこと。必要以上に人に接しないように、心を閉ざして来たのは、何者にも期待しない為。

 独りその場に取り残される怖さを、もう二度と知りたくなかったから。

 赤子の頃に親に捨てられた事など、俺は覚えてはいない。
 捨てられていた俺を拾って面倒を見てくださった神父様からその事実を聞かされた時にも、まだ幼児だった俺はただ「そうなのか」と思っただけだった。
 が、やがて日が経ち、その言葉の意味を理解し――自分は要らないものなのかもしれない、と思うようになったのは、小学校に上がる前。
 それでも、自分には今こうしてヴァイオリンを教えてくれる人がいるのだから、と俺が2歳の時からヴァイオリンを教えてくれていた10歳年上の師を無意識の内に支えにし始めてから……間もなく、その人が突然俺の目の前から姿を消して。
 やっぱり、俺は要らない存在なんだ、と……そんな意識を深めた。
 それからは、何者にも何の期待も抱かず、他人に興味も抱かず、生きてきた。
 ただ一度、8つの時に拾ったこねこにのみ僅かにその扉を開けて――俺はまた、その命にも置いて行かれた。

 閉ざした扉を開くたびに、得る心の安らぎ。
 けれどもその安らぎが大きければ大きいほど、喪失した時に受ける揺り返しも大きくて。
 楽しさも愛しさも哀しみも苦しみも、もう全て、何一つ要らないと思った。
 誰も彼もが、俺の事など要らないと、無言の内に態度でそう言うのと同じように。

 ただ一つ、望む事があるとすれば、それは。
 この命の源流を知りたい、という事。
 その為に、自分には金だけがあればよかった。
 捨てられた時に持たされていたお守りに入れられていた写真に写されていた、青年ヴァイオリニスト「Kazui-Kousaka」が持つのと同じグァルネリ・デル・ジェスだけを手に入れられれば、それでいいと。
 貸与では駄目だ。インパクトが弱い。
 彼と同じ「こうさか」という名を持つ者が、デル・ジェスを「購入した」という事実が欲しかった。
 そしたら――もしかしたら。
 その、父親かもしれないヴァイオリニストは俺を見てくれるかもしれないから。
 こちらから逢いに行くのは怖いけれど、上手くすれば向こうが俺の存在に気づいてくれるかもしれないから。

 でも……結局。
 そう思ったけれど、現実は思い通りに進むものではないらしく。
 数ヶ月前に逢ったばかりである一卵性双生児の兄の代役として立たされた舞台で、俺は夢見続けていたデル・ジェスを奏で――直後、そのデル・ジェスの持ち主である父親と出逢い。
 事態を飲み込めず混乱した俺は無我夢中でその場から逃げ出し、帰りついた自宅で、既に再会を果たしていた師が再度俺を置いて消えてしまった事実を知った。

 残されたのは、ただ、彼のヴァイオリンと、手紙のみ。

「……ヴァイオリン……」
 呟き、俺は膝の上にあるヴァイオリンケースを見た。
 ……こんなもの、置いて行かなくてもよかったのに。
 指導の必要ない奏者になれ、だなんてそんな勝手な事を言って。
 去る方はいい。
 残された方は、その押し付けをどうすればいい?
 忠実に守ればいいというのか?
 残された者に、それを守る義務があるのか?

 去り際に残して行かれる「信頼」なんかよりも、俺はただ、貴方に傍にいて欲しかったのに。

「…………」
 ふと俺は、何となく見やったソファの足元に落ちている携帯電話を拾い上げ、手の中でフリップを開いた。
 今更気づくが、何だか、音が鳴っているような気がする。けれどぼんやりして靄がかかったような意識にはその音が上手く認識されない。左耳も、微妙に聞こえにくい気がする。
 何だろう、と無駄に考え込んでいる間に、発されていた音が止まった。
 もともと認識されていなかったそれにさして気を取られるでもなく、俺は画面に表示された日付のみに意識を向けた。
 表示された日付は、兄の代役を勤めたコンサートの日から既に3日が過ぎている。
 3日間……。よくもそんなに長い時間ぼんやりとしていられたものだと他人事のように思ってから、携帯電話を手の中で閉じる。途端、上手く力が入らない指先から零れるように、乾いた音を立て、携帯電話がフローリングの上に落ちた。
「…………」
 そのまま、空になったその手でそっとヴァイオリンケースの表面に触れ――ゆっくりと立ち上がり、抱えたままだったそれをソファの上に乗せ、開けた。
 中に収められている弓を、すっと自然に手を伸ばして取り上げて張り、自分の物ではない琥珀色の柔らかな煌きを有するヴァイオリンも取り出して曲を紡ぐ為に構え――ようとして、そのまま、動きを止めた。
「……っ」
 左腕が、かたかたと小刻みに震えている。
 止めようと思っても、やはり止まらない。
 危うくネックから手が離れてしまいそうになり、俺は慌てて構えを解いて右腕でヴァイオリンを抱きしめた。
 それでも、左手の震えは止まらない。
「どうして……っ」
 零れる、掠れた声。
 ……もう、どうしていいのかわからなかった。
 弾かなければ、俺は生きている価値なんてないのに。
 ヴァイオリンしか、「俺」というものが今此処に存在している意味を俺に教えてくれる物はないのに。

 誰かを過度に思いさえしなければ、捨てられようがどうしようが痛くはない。
 誰かに過度な期待を抱かなければ、裏切られる事はない。
 ……なのに。
 自分は、戻ってきた師に対し、期待していないつもりで――期待、していたのだ。
 もう、どこにも行かないだろうと。
 きっと、ずっと傍にいてくれるだろうと。
 師は、神父様と同様、俺にとっては親と同じような存在である。物心ついた時には傍に居て彼の指導を受けていたし、自分の心を形成する物や演奏技術の大半が、彼から教えられ、叩き込まれたものだから。
 だから、安心して傍にいられた。たとえ、どれだけ手酷く殴られても。
 安心、していられたのだ。
 けれども結局、またしても、自分は置いて行かれた。
 ……どうせ去り行くのなら、最後まで優しい言葉なんてかけてくれなくてもよかったのに。

 ふと、目を上げる。
 足元から微妙な振動と、覚えのある音色が耳に入ったせいだ。
 グレゴリオ・アレグリの、ミゼレーレ。
 携帯電話の着信メロディだ。
 さっきから鳴っていたのは、この音だ。
「…………」
 本当は、無視しようかと思った。
 けれど……もしかしたら便利屋をやっている自分へ仕事を依頼する電話かもしれないと思った。
 実父に逢い、自分というものの存在を分かってもらえた以上、もうデル・ジェスを求める理由も失くした。同時に金を貯め込む必要もなくなったというのに、どうしてだろう……「仕事かもしれない」と思ったら急に電話に出る気になった。
 もしかしたら、危険な仕事かもしれない。
 しくじったら命を落とすようなものかもしれない。
 だが……そう思うと、余計「取らなくては」と思った。

 誰が傍に居ても、自分には意味がない。
 金を儲ける意味もない。このままヴァイオリンを弾こうとする度に腕が震えて、もう演奏も出来ないかもしれない。
 何をすればいいのかも分からない。
 きっとそんな状態で生きているのは、死んでいるのと変わらない。

 なら、もう……いい。
 自分はきっと、前から感じていた通り――この世には必要のない人間だから。

「…………」
 右腕にヴァイオリンとボウを抱き、震えが鎮まった左手を伸ばして床上に落ちた携帯電話を拾う。
 相手を確認せず、そのまま通話ボタンを押した。
「……はい……」
『――あ……香坂君?』
 聞こえてきたのは――……

          *

「これで終わり……、と」
 ぼんやりといつかの出来事を脳裏で辿りながら、少し寝坊した為に遅くなってしまったがようやく干し終えた洗濯物を見て、俺は微かに笑った。
 微かに、のつもりだが、きっとこの上もなく満足げな笑みを、俺は浮かべたはず。鏡を見ていないから本当のところはよく分からないが、何となくそうだと思う。
 最近、表情が優しくなったとか、雰囲気が柔らかくなったとか……そういう事も、周囲からよく言われるようになった。
 俺自身、最近よく笑うようになったと思っている。
 笑うだけではなく……泣く事も、多々で。
 それはまるで、幼い頃から今まで押さえ込んでいた感情を少しずつ解き放っていっているかのような感覚だ。
 時々、その感情の昂りや揺らぎに戸惑い、混乱する事もあるのだが。
「…………」
 ふと、俺は視線を、夏の熱い風に揺れる洗濯物から近くにある建物の窓へと向けた。その、閉ざされた窓硝子の向こうにいる人へと。
 その人は白衣を纏い、机に向かって何やら書類を纏めているようだ。俺の視線になど気づく筈はないが……。
「……あ、……」
 そういう考えも、何故かあの人は簡単に覆してしまう。
 俺の思いに気づいた訳ではないだろうが、何かに呼ばれたかのようにふと書類から此方へと顔を向けて、優しく笑ってみせる。
 綺麗な鳶色の双眸を細めて。
 それに答えるように、俺も笑ってみせる。
 ――あの日。
 冬の最中。1月下旬の、兄代理で立った舞台で突然起きた父親との邂逅に混乱して逃げ出した俺を、再度の師との別離という事実が襲い……現実から意識を切り離した、3日間。
 その、3日目の昼頃にかかって来た、一本の電話。
 あの時は自分の命を落とせるような仕事をと望んだのだが、結局それは叶わず、電話をかけてきたのは――今、そこで白衣を纏って仕事しながら俺に笑顔を向けている人だった。どうやらあの日、何度も電話をかけてきていたらしいのだが……意識を閉ざしていた俺には認識されなかったらしく。
 そしてそうまでして彼がかけてきた電話の内容は、当時の俺にとってはどうでもいいような、くだらない事だった。
『もし暇なら、今から少し僕の話し相手をしに来てくれないかな』
 ……もしかしたら、本当は何か妙な出来事の調査等の仕事を任せたい、とかいう内容でかけてきたのかもしれない。12月の末頃、兄と出逢ったのと同じ日に出逢ったその人とは、それ以来あまり連絡は取っていなかったが、出逢ったその日の別れ際に連絡先だけは教えておいた。
 仕事があるのなら、いつでも声をかけてくれ、と。
 だからその言葉に沿う内容の電話をかけてきたのだろうと思う。
 けれど、あの時電話を取った俺の声の調子があまりにもおかしかったから、思わず「僕の話し相手を」などを言ってしまったのかも……と、今では思う。
 相手は、精神科医ではないにしても、医者だ。
 しかも医学云々を別にしても、人を見る眼には非常に長けている人である。
 電話越しの声だけでも、何か感じ取ったのだろう。
 とりあえず、話し相手などしたくない、などと反論するのも面倒で、何となく適当に了承の意を伝えてから3日間何も食べないままの身でふらふらと彼がいる場所――雲切病院の特別室に辿り着き、それから数度、彼の元に訪れて、他愛ない、どうでもいい話を繰り返して。
 ……気がつけば、また、莫迦みたいな期待を抱いていた。
 ある理由で、特別室なる部屋から一歩も外に出る事ができないその人。
 ここへ来れば必ず逢えるという彼の言葉は嘘ではなく、実際、いつふらりと訪れても、彼はそこにいた。
 ……もしかしたら。
 もしかしたら、彼なら、自分を置いて何処へも行かないのではないか?
 何処へも行けないのだから、何処へも行かないだろう。
 俺が置いて行かない限りは。視界から消えていなくなる事は、きっとない。
 ――そう思った時は、何か……気づいてはならない事に気づいた気分だった。
 期待するのは駄目だ、と思うも、既に遅く。
 長きに亘り凝り固まっていた俺の「心」というものに優しく触れ、解きほぐしてくれたその人に、思いは傾いていた。

 傍に居てくれ。
 傍に居るよ。
 俺より先に死なないで。
 君を置いては死なないよ。

 一緒に、いて。
 一緒に、いるよ。

 嫌いにならないでくれ。
 嫌いになるなんて、無理だ。

 約束、してほしい。
 約束する。もう何も心配しなくていいから。

「……かなり無茶言った筈なのに」
 交わした言葉を思い出すと、自然と苦笑が零れた。
 普通は、多少なりとも困ったりするものではないのだろうか。
 なのに、彼は。
 ごくあっさりと、自然にその言葉の全てを受け入れ、「約束」という形の契約をしてくれた。
 ……結局、後になって俺は、ようやく自分が彼に抱いた想いが「恋心」というものだったという事に、彼に指摘されて気づくのだが……それも、今となっては懐かしい出来事。

 これで、最後。
 誰かに期待するのは、最後にするから。
 本当に、最後の――希望。

「蓮」
 空になった洗濯籠を抱えて部屋に戻るなり名を呼ばれ、俺ははっと、歩きながらどこか遠ざけていた意識を現実に引き戻した。
 自然と俯けていた顔を声の方へと向けると、師に授けられたヴァイオリン「G・A・ロッカ」と楽弓「E・サルトリー」を手に此方を見ているあの人がいる。その背後にある窓は大きく開け放たれ、レースのカーテンが熱い風に大きく揺らされていた。
「ほら、今日は風もいいから。お昼時に一曲」
 言いながら、俺に向けてヴァイオリンとボウを差し出す。柔らかな笑みを浮かべて細められた双眸は、その手に持っているヴァイオリンと同じ、枯れた綺麗な金茶色。
 俺が好きな、色。
 足許に洗濯籠を置いてから、彼に歩み寄ってヴァイオリンと弓を受け取り、窓の前で構えながら答えるように笑ってみせる。すでに弓は張られているし、ヴァイオリンの方も調弦は済まされているのだろう。その辺は先日、彼にしっかりと教え込んだから。
「何かリクエストがあれば聞くが」
「じゃあ、患者さんにも聴こえるかもしれないから、音楽療法的な効果を期待して」
「モーツァルト、か?」
「ご名答。確か循環器系用に作られた音楽療法のCDで使われていたのがヴァイオリン協奏曲、第4番ニ長調の第3楽章だったんだけど」
 言われて、俺は思案するように視線を斜めに落とした。暫し、脳裏に刻まれた譜面を呼び起こし、ざっとさらってから顔を上げる。
「伴奏がなくてもいいのなら」
「クロイツェルも、蓮のはピアノがなくても十分なくらいに聴けるから問題ない」
「言い切ってくれるのか。有難いことだ」
 言うと、俺はヴァイオリンを構え、ボウを弦の上へと滑らせた。

 室内から、夏の熱風に乗り、窓外へと拡がっていく音色。
 白い病棟の壁に反射され、音が幾重にも連なり、響き渡る。
 強い日差しの、下へと。

 ――先日、再会した師に、俺はもう彼が望んでいたような「世界」という舞台に立ちヴァイオリンを弾くような奏者を目指すつもりはないと告げた。
 師がG・A・ロッカを残して消えて以来不調だった、精神的なものから来る左耳の具合は良くなったし、同じく精神性の左手の震えもなくなったのだが、封じ込んでいた感情を呼び起こした事で紡げるようになった「情感を乗せた曲」を、最初に、自分にその感情を思い出させてくれた人に聴かせたくて……一時期は、彼が部屋を出られるまではソリストとしての活動は一切しないと言っていた。
 が、結局、その気持ちを知った彼に背中を押されて、一度は舞台に戻った。
 けれど、それももう、終わり。
 この夏の熱が残る間に――俺は、舞台を降りようと思う。
 世界云々ではなく、「ヴァイオリニスト」として、一切の舞台から。
 彼も、今度はその決断を受け入れてくれたから。
 受け入れて――傍に居ろと、言ってくれたから。
 だから。
 俺はもう二度と、この夏を境にして……あの光と闇に満ちた場所で、独り、音を紡ぐことはない。

 これからは、貴方の傍で。
 ヴァイオリニストではなく、一人の人間として。
 他の誰でもなく、「香坂蓮」として。
 貴方の傍で、貴方の為だけに、音を紡いでいこうと思う。
 ヴァイオリニストの代わりなら、他に幾らでもいる。
 でも、貴方の傍にいる「香坂蓮」という人間には、きっと代わりはいないから。
 いないと、信じているから。

「――――………」
 最後の一音を弾ききってゆっくりと弓を下ろすと、彼が拍手を送ってくれた。それに、ヴァイオリンも肩から下ろし、俺は丁寧に頭を下げる。
 聴いてくれた人に、最大限の感謝を込めて。
 そして頭を上げて再度見た彼のその琥珀色の双眸には俺が映っている。
 今の俺の愛器と同じ色の瞳の中に。

 もう、ヴァイオリンがなくても。
 俺には、俺という存在が今ここにある意味を教えてくれる人がいるから。
 命の意味を、知る事が出来るから。
 貴方に逢うまでの日々も、今となれば此処に至るまでに必要な楽章。
 貴方に逢うまで幾度もの危険の中を疾駆して来た日々の代わりに、これからはただ緩やかで平穏な日々を、過ごしていきたい。

 何があっても、貴方の傍を離れたりしない。
 貴方の傍に在る事が、今、俺がここに存在する「意味」だから。


 これから貴方と共に紡ぎ奏でる楽章に刻まれている音色はきっと――

 至上の、「幸せ」。